膨らませてみれば意外と大きかった浮き輪の上に仰向けになりながら、水面を浮き輪備え付けの紐で大吾に引っ張られていく成美さん。わー楽しそ……楽しいのかなあれ。
 そんなだんだん遠ざかる二人を眺めて僕達は何をしているのかと言うと、清さんの準備体操待ちです。
 幽霊でも心臓麻痺とかあるんでしょうか?
 終わってから眼鏡をプールサイドのテーブルに置いて入水してきた清さんにそう聞いてみたところ、「死にはしませんが一応、ですね。足がつったりもしますし、そうしたら溺れてしまいますからねえ。んっふっふっふ」だそうで。
 足がつって溺れる幽霊って、ギャグの領域じゃないですかそれ。足がつって溺れて幽霊になる、だったらシャレになりませんけど。
 ところで眼鏡はあんなに無防備に放置してて大丈夫なんでしょうか。
 流れるプールという事もあり、全力で泳ぐのではなく、水を掛け合ったり背後から水中に突然引き込まれたりウェンズデーを投げてみたり水を掛けるのが近距離過ぎてビンタされてみたり息止め合戦してみたりウェンズデーを投げてみたりしながら流れに任せてゆっくりゆっくり回遊。
 ビンタのあと大笑いしてましたけどもしかしてわざとですか家守さん。
 そうしてるうち、いつの間にか清さんの姿が見当たらない。さっきまで後ろのほうからのんびりついて来てたんだけど。
 付近の水中を見回してみてもそれらしき影は無い。泳いでどこか行っちゃったかな?
「家守さん、清さんは」
 どこへ行ったんですかね? と訊こうとして振り向いたところ、
「うりゃああああ!」
「あわーっ!」
 ざっぱーん。あらら。
 ペンギンが空中で弧を描き、頭から水面に叩き付けられた。いわゆるバックドロップってやつですか家守さん。
「あぁ〜、さっきからこんな扱いばっかりでありますぅ〜」
 僕に投げられたりね。
 水死体のように仰向けでぷっかり浮かび上がってくると、投げられたり叩き付けられたりな自分の境遇を嘆きだすウェンズデー。
 ん。水死体のようにって言うか水死体か。死んでるし。
 すると栞さん、そんなウェンズデーに手を合わせる。ぽくぽくちーん。……ではなくて、あの手は謝罪の意を示しているらしい。
「ごめんねウェンズデー。孝一くんと楓さん、言っても止めてくれなくて」
「自分の味方は栞殿だけであります……」
 ぷかーり。
「んでこーちゃん、なんか呼んだ?」
 一方家守さん、やり遂げた感の漂うさわやか顔で、水面にあらわになったウェンズデーのお腹をぽんぽんと軽く叩く。それがドンマイという意味なのか更なる悪ふざけなのかは置いといて、
「清さんが見当たらないんですけど」
「ん? あー、多分まだ息止め中だよ。そのまま泳いでどっか行っちゃったんじゃない?」
 息止め? って、さっきやった息止め合戦からずっとですか? もう数分経ってますけど。
 すると友情の印なのかウェンズデーに並んで仰向けに浮かんでいる栞さん、顔は天を仰ぎつつ目だけをこちらに向ける。
「あれから結構経ってるもんね。びっくりしたでしょ?」
 そして同じくウェンズデー。
「清一郎殿はすごく長く水に潜ってられるのであります。ちなみに泳ぐのも速いのであります」
「へえ、ってことはやっぱり水泳も趣味の一つだったりするのかな」
 すると今度は家守さん、僕の発言を可笑しそうに笑い飛ばす。
「あっはっは。せーさんにとっちゃ、一度やった事は全部趣味なんだよこーちゃん。だから『趣味なのか否か』なんて考えるだけ無駄〜」
 さすが清さん、人呼んで趣味の人。英名ホビーマださいから止めとこう。
 なんて一人で空気を読んでいると、家守さんが先を続ける。
「まあでも息止めの時間が長いったって、いくら止めても死にゃあしないんだからそりゃ普通の人よりは長くなるんだけどね。苦しいのさえ我慢できれば。あ、でもやり過ぎると酸欠で気絶はしちゃうけど」
「え、でも栞さんもウェンズデーもさっきそんなでもなかったような」
 栞さんは僕と同じくらいだったし、ウェンズデーも僕達よりちょっと長かった程度でしたけど?
 すると仰向けに浮かび続ける二人はそれぞれ、栞さんは苦い顔、ウェンズデーは余裕の表情で僕の疑問に答える。
「栞、苦しくなると我慢できなくてすぐ上がっちゃうんだよ。清さんどうやったらあんなに我慢できるんだろう?」
 ああなるほど、幽霊特権も使う人次第ってことですか。まあでも清さんだったらそれが無くても相当潜ってそうな気がしますけどね。なんとなく。
「自分はもともと競うつもりはないのであります。幽霊だとか以前にペンギンでありますので、本気を出したら二十分ほどみなさんを待たせることになるのであります。幽霊である事も加味すれば三十分はいけそうであります」
 こっちは幽霊どころか生物的に違うのでした。まあ当たり前なんですけどね。なんせ海の生き物ですし。
 で、忘れるところでしたけど清さんはいったいどこへ? まだどこかで息止めてらっしゃるんでしょうか?
 その時僕達のやや前方を位置取り続けていた浮き輪グループから水しぶきが上がる音と驚きの声が。
「のぅおっ!? せ、清サンいつからそこに!?」
「ひゃあっ!?」
「ん〜、そろそろ潜り始めて五分くらいになりますかね? んっふっふっふ」
 ちなみに成美さんが驚いたのは清さんが現れたためではなく、驚いた大吾が浮き輪を引っ張ったためです。その結果、成美さん浮き輪から滑るようにして転落。大吾も清さんも、そんな普通に受け答えしてる場合じゃないでしょう。成美さん落ちましたよ?
 大吾と清さんが成美さんの落下地点を見下げる事数秒。
「もがばぁっ!」
 といかにも必死さが伝わってくる再呼吸音を発しながら成美さん浮上。
「げほっ! げっほっ! ここ、殺す気か貴様等ぁ!」
 ちなみにここ、いくら成美さんの身長とは言え足つきます。どうやら出発前に言ってた水が苦手って話は本当みたいですね。
「いえ、私達死にませんし」
 その清さんの一言に、貴様等と言った割には大吾のほうを向いていた成美さんは勢い良く清さんのほうへ顔を向ける。ちょっと離れてて分からないけど、睨んでるんだろうなあ。高確率で。
 すると清さん、両の手の平を成美さんに向けて「まあまあ落ち着いてください」の構え。
「冗談ですよ。すいませんでした、まさかこうなるとは思わなかったもので」
「落ちてから立ち上がるまでにどんだけ時間掛かってんだよ。アホかオマエ」
 立ち上がるって言っても、肩まで水に使ってるけどね。
 すると成美さん、怒りからか恥ずかしさからか真っ赤になって水面をバシャバシャと叩く。
「どっちが上だか分からなくなったのだ! 文句あるか!」
 あぁ……成美さん……
「文句っつーか、呆れた」
「がーっ! 貴様もこの身長になってみれば良いのだ! そうなればわたしがこの手で沈めてやる!」
 がーっ! って、興奮し過ぎですよ。
 しかしそんな成美さんに清さんは、
「なるほど、もしそうなったらお似合い」
 ものすごく余計な一言を言おうとする。それに成美さんは再び清さんを睨みつけ、大吾はそれこそ呆れたように首をがっくりと垂らす。
 すると清さん、
「失礼しました」
 と睨まれたのが効いたのか逃げるようにこちらへと戻ってくる。
 それを確認した成美さんは、浮き輪に入って腕を引っ掛けた状態でぷかぷか。浮き輪の上に仰向けになるのは今ので懲りたらしい。
「いやあ、なんとも間の悪い所で息が続かなくなってしまいましたよ。あっはっはっは」
 戻ってきた清さんは、そう言って頭を掻くのだった。果たしてこちらは懲りたんでしょうか?
「潜ってる間、どこにいたんですか? もしかしてあの二人にずっと張り付いてたとか?」
 約五分も潜り続けて、その間の移動距離がここから前方の二人組までってのはいくら何でも短すぎますからね。となるともう、狙ってたとしか。
 しかし僕の予想は大きく外れて、
「いいえまさか。潜ってる間ずっと泳いでましたよ。それでプールを一周してあのお二方の所まで行った時に、ちょうど息が限界になりまして」
 いえ、そっちのほうが「まさか」ですって。ただ潜ってるだけじゃなくて泳ぎながら潜水五分ですか? まっさかぁ。
「じゃあ、泳がずにじっとしてたらもっと長く潜ってられるんじゃないですか?」
 清さん、腕を組んで当然とばかりに頷く。しかしその事にはあまり興味がないのか、頷いただけで話題変換。潜りは泳ぎとセットになって初めて意味があるって事でしょうか?
「あっちでお二人と話していた事なんですがね、怒橋君が成美さんと同じくらい小さくなったとしたらみなさんはどう思います?」
『うーん』
 改めて言われなくても充分向こうでの会話は聞こえていた。けどそう尋ねられて、僕と家守さんと仰向けウェンズデーは真面目にその小さい大吾のイメージを膨らませる。しかし残る一人、栞さんはバッシャバッシャと水音を立てて勢い良く仰向け状態から直立姿勢になると、
「可愛い!」
 とうっとり。一瞬でその図が浮かぶとは、妄想力抜群ですね。でも―――
 可愛いですかね? なんだかそうなったら小憎たらしいお子様って感じがしそうな気がしないでもないんですけど。それに、目線が一緒になったら成美さんとの言い合いが激しさを増しそうな気がしないでもないです。
 「気がしないでもないです」を二連発して自身への負担の軽減を図りつつ、他の人の意見を待つ。僕の意見は口に出すとちょいと失礼かもしれないので、ね。
 するとウェンズデ―、栞さんと同じく直立……すると足が届かないので、栞さんの腕にしがみつきつつ、
「大吾殿が小さくなったら、成美殿とももうちょっと仲良くできるようになるでありますかね?」
 僕とは逆の意見。
 すると今度は家守さん、薄笑いを浮かべながら、
「そりゃないでしょ。ガキだガキだって難癖つけられなくなるだけで、別の口実探して口喧嘩するだけだって。それに『もうちょっと仲良く』って言うか、あの二人なりに仲良くしようとした結果が今のあれなんじゃないの? 片方だけならともかくどっちもひねくれてるからさー」
「そういうものなのでありますかねぇ。自分には難しいであります」
 どこからどこまでがその部分にあたるのかよく分からないけど、首を捻るウェンズデー。しかし栞さんの腕にしがみついているというその体勢から、その仕草は悩んでいるというよりは、愛嬌を振りまいているように見えるのでした。少なくとも僕の目には。
「じゃあさじゃあさ、逆に成美ちゃんが大吾くんみたいに大きくなったら」
「お前達さっきから何の話をしているのだ!」
 栞さんから新たな議題が提案されたその時、遠くから成美さんの怒声が響いてきた。
 こっちから向こうの会話が聞こえるのなら向こうからもこっちの会話が聞こえてるって事ですね。まあ当たり前なんですけど。
「あわわ、きき、聞こえてたみたいであります」
 いやだからねウェンズデ―。……あー、まあいいか。
「あっちだ怒橋! 離れていたら何言われるか分かったもんじゃない!」
「へいへい」
 流れに逆らってざぶざぶとこっちにやってくる浮き輪組。その浮き輪に入る向きが悪かったのか、大吾に引っ張られる成美さんは進行方向に背を向けて。
 そのせいで怒ってる割に情けない感じになっちゃってますが、溺れかかってからこっち、ずっとご機嫌斜めなような。まあみんなでよってたかって斜めにしてる訳ですがね。
 謝ったら謝ったで今更過ぎて神経逆なでしそうなので、心の中だけで謝っとこう。
 ごめんなさい。
「さって、盗み聞きとお喋りの時間は終わりみたいだね。次どうする? あれ行っとく?」
 心の中ですら謝る気の無さそうな家守さんがにかにかしながら親指を向ける先には、生唾飲ませの巨大ウォータースライダー。
 特別高い所が苦手って訳じゃないですけど、あれはさすがにちょいと怖いですねえ。だからこそ面白そうでもあるんですけど。
「待ってましたー!」
「のぉーっ!」
 腕にウェンズデーがしがみついているのも忘れてバンザイな栞さん。そして振り落とされまいと必死にしがみつくあまり、空中で上下逆さまになってしまうペンギン。どっちも力持ちですねえ。
 直後、その事態に気付いた栞さんはやっとウェンズデーの重さを感じられるようになったのか、その重さに引っ張られるように勢い良く腕を振り下ろす。するとどうなるか?
 ああ可哀想に。
「ごご、ごめんねー。それでえっと、孝一くんってああいうの大丈夫?」
 水中からぐったりしたウェンズデーを抱き上げ苦笑を浮かべる栞さん。海の動物なのに一番酷い目にあってしまうのはなんでなんだろうねウェンズデー? ドンマイ。
「ええ。まあこの大きさじゃあ登ってから怖気付くって事がないとは言い切れませんがね」
 すごい高いしすごい曲がりくねってるし、滑り始めてから下に落ちるまでどのくらい掛かるんだろう? あれ。
 するとその時、こちらに到着した大吾が浮き輪の女の子を指差して、
「なあ、こっちはムリみてーだぞ」
 その指の先には、さっきまで真っ赤だった顔を青ざめさせて遠くの巨大建造物を見上げる成美さんが。
 よっぽど怖いのか、自分の話をされていると気付くまでに少々のタイムラグが。そして一拍ののち自身を指差してる本人を見上げて、
「むむむ無理なものか! ねね、猫は高い所は得意なのだぞ!」
 強がりです。もう誰がどう見てもそれは強がりですよ成美さん。
 しかし大吾はそこをあえて指摘せず、
「ほー。んじゃあ行くんだな? 途中でイヤっつっても降ろさせてやんねえかなら」
 わあいやらしい。
「ぐぅっ」
 堪らずそんなうめきがこぼれてしまう。が、最早逃げる術はない。何故なら成美さんの性格上、今更「やっぱり無理だ」なんて言えそうもないからだ。ましてや相手が大吾だし。
 わざわざそんな分かりやすい墓穴を掘らなくてもいいでしょうに。


 てな訳で、強がり一名を含む満場一致で次の行先はウォータースライダー。
 水からあがってプールサイドをてくてく歩いていると、浮き輪片手に例の如く成美さんをおんぶしている大吾がわざとらしい冷めた声で、
「おい、手に力入り過ぎだっての。爪がイテーんだけど」
 内心ではさぞ楽しいんだろうなあ。こんな弱り果てた成美さん、めったにお目にかかれないし。
「な、あ、すまん」
 言われて肩に掛けた手をぱっと離し、改めて肩を掴み直そうとして……ちょっとためらう。どうしたんでしょう?
 すると成美さん、いつもなら肩を掴んでいた手を大吾の前に回し、後ろから抱きつくような格好になった。
「こ、これなら爪も立たないだろう。我ながらいい考えだ」
 背中の様子がいつもと違う、と振り返った大吾が口を開くよりも早く、まるで言い訳のようにそう言う成美さん。それだけ言うと、あとはもう黙って大吾にしがみつくだけでした。
 大吾もそれだけ聞くと視線を前方に戻し、
「今度は首締められそうだな」
 と一言。いっそ絞められたらいいのに。
 もちろん僕だけでなくみんなその様子を見ていたんですが、雰囲気ぶち壊しは可哀想だと思ったのか誰も何も言いませんでした。珍しく自分から歩み寄った訳ですからね。いやまあ背負われ方を変えるくらい、この二人じゃなかったら何ともない事なんでしょうけど。
「成美さん、どうしたんですかね? 自分からあんな」
 二人に聞こえないように、すぐ隣を歩いていた栞さんに小声で聞いてみる。すると栞さん、にっこりと一笑いした後、顔を僕の耳へと近づけてきた。
「更衣室でちょっとね、楓さんが『もっと素直になったらいいのに』って成美ちゃんに言ったの。多分、それでだと思うよ」
 ほうほう。家守さん、お手柄ですね。
「それで素直になろうと努力した結果、おんぶの体勢がちょっと変わっただけでありますか」
 栞さんの胸元から手厳しい意見が。
 いやまあ、言ってみれば全くもってその通りなんだけどねウェンズデー。
「それでいいんだよぉ。こういうのはちょっとずつちょっとずつのほうがいいの。だってあんまり急に変わっちゃったら大吾くん、ビックリしちゃうでしょ?」
 なるほど確かにそりゃそうかもですね。
 しかし一方、ウェンズデーにはその様子が上手く想像できないらしく、腕ならぬ翼を組んで考え込む。
「うむー………例えばどんな感じでありますか?」
「例えば? そーだなあ」
 例を用いての説明求められて、栞さんも考える。
「すっごい分かりやすい例で言うとね」
「はい」
「人目もはばからずに『好き』って何回も何回も言っちゃうとか、人目もはばからずに無理矢理キスしちゃったりとか、人目もはばからずにその好きな人の事ばっかり喋ってるとか」
 急に変わるって言うよりはそれってただのちょっとアレな人ですよ栞さん。まあそういう人もそういう人が好みな人も、探せばいるのかもしれませんが。
 もしかして自分がそうだったりするんですか? 人目をはばからないのが趣味なんですか? というのはもちろん冗談ですけどね。
 て言うか、はばかるも何も人目には大概映りませんし。
「ななな、なんと………なな、成美殿がそうなったら確かにビックリするでありますね」
 やたらと「な」を連発し、はっきりと頷いて見せるウェンズデー。
 うーん、そこまで驚くと逆に成美さんに失礼な気もするなぁ。まあキスだなんだに反応して慌ててるだけかもしれないけど。
 ペンギン界にそういう行為がないにしても、今みたいな生活してればそれの意味するところくらいは知ってるだろうし。テレビとかで。
「ね? だから、あーやって少しずつ仲良くなっていくほうがいいんだよ。見てるほうとしてもそっちのほうが面白いしね」
 ああ、最後の一言がなければ格好良く決まったのに。
 ―――そんなひそひそ話が長くなってる間に、目的地前へ到着。
「寄る年波には勝てないといいますか、近頃こういうアトラクションを体が受け付けなくなりまして。嫌ですねえんっふっふっふ」との事で参加を辞退した清さんには、スライダーの下で待ってていただく手筈になりました。
 寄る年波―――そうだ、清さんは年を取るんでしたっけ。そうなるための条件……理由? は聞きそびれたまんまなんだけどね。清さん、機会があったら教えてくれるみたいな事言ってたんだけどなあ。


 さて、気にしても仕方がない事は気にしないことにしまして。我々は今、目的地への階段を一歩一歩上っている最中です。
 その階段も建物が大きい分高いわけでして、あーあとどれくらい続くんだろうこれ。
 二人並ぶのが精一杯の幅で隣を歩くのは、ウェンズデーを抱えたままの栞さん。まあウェンズデーが自力で階段上れないから仕方ないんだけど。
 一方僕と栞さんの前には、背負ったままで上るのはさすがに疲れるのか大吾と成美さん分離済み。まあ人を背負ったままで階段上るなんてもうトレーニングの粋だしね。小さいけど。
 という事で。
「代わりましょうか? ウェンズデー抱えるの」
 ペンギンだって重さが無い訳じゃないしね。成美さん以上に小さいけど。
「そう? ありがとう孝一くん。そろそろ腕が疲れてきちゃってたんだー」
 それはそれは。階段上る前からもずっと抱えてたんですもんね。
「も、申し訳ないであります」
 手から手へと受け渡されながらそう謝るウェンズデー。すると栞さん、
「いいっていいって。困った時はお互い様って言うでしょ?」
 と僕の胸に移ったウェンズデーの頭にそっと手を置く。するとウェンズデー、今までよりやや張り切りめに翼をぱたぱた。振り幅も若干大きい。
「で、では自分も栞殿が困った時はできる限り頑張らせてもらうであります」
 いつもと違う視点でそんな様子を眺めていると、思わず表情が緩んでしまうのであった。
 可愛いヤツだなあ。
「ふふ。ありがとっ」


「さー頑張ってここまで上ってきたのに一瞬で真っ逆さまだよー」
 もうちょっと違った表現方法はないもんでしょうか家守さん。
 はいそうです。てっぺん到着です。階段を上りきると同時に「ありがとう」と手を出す栞さんにウェンズデーを差し出しつつ改めて下を覗き込んでみると、下から見上げるよりも迫力満点。高い所苦手な人には辛い眺めだろうなあ。では訊いてみましょう。
「本当に大丈夫ですか? 成美さん」
「何がだ?」
 けろり。
 ………あれ?
「え、だって高い所が苦手なんじゃあ」
「言っただろう、猫は高い所は得意だ。まあそれ故に狭い所に入り込んで立ち往生してしまうやつも稀にいるが」
 確かにニュースとかでたまにお目にかかりますが、じゃあ最初のあの怖がりっぷりは一体なんだったんでしょうか?
 と僕が訊く前にその答えを教えてくれたのはもちろん大吾。
「コイツが駄目なのは落ちる先が水ってとこなんだろうよ。んなに深いわけでもねえのにな」
「言うな馬鹿者! せっかく落ち着いて――――あ、いや怖くなどないのだぞ断じてな!」
 そんなに水が駄目ですか。この高さが全く平気でその先の浅いプールが怖いっていうのも変な話だなあ。まあ怖がってる本人からしたら変とか言ってる場合じゃないんでしょうけど。
 あ、そうだ。こういう所でのお約束が一つ。
「成美さん」
「何だ」
「これって身長制限とかは……」
 もちろん、睨まれる。でも仕方ないじゃないですか安全管理上。死なないとは言え危ないものは危ないんですから。
 黙り込んでしまった成美さんの代わりに大吾が、
「あーあーそれなら大丈夫だったぜ。ギリギリだったけどな」
 と成美さんの頭をポンポン叩く。二言目をやたら強調して。それに対して成美さん、
「余計な事は付け足さんでいい!」
 普通にビンタするような勢いでその頭の上の手を払いのける。
 そうですかギリギリだったんですか。ならちょっと膝を曲げれば「身長が足りないから無理だ」って事にできたでしょうに。やっぱり今以上に小さいと偽るのには抵抗があったんでしょうか?
「んじゃ人数が人数だし、二手に分かれよっか。どう分かれる?」
 ゴムボートがスタンバイ済みなチューブの入口は二つ。という事で仕切り役の家守さんがグループ分けを提案するも、
「あー、まあ訊かなくてもだいたい決まってるか。じゃあそっちお二人はごゆっくり〜」
 と誰が何を言うでもなくグループ分け終了。
「ゆっくりも何も落ちるだけじゃねえか」
 そんな決定は想定内だといわんばかりにどうでも良さそうな一方と、
「に、人数が少ないほうが軽くなってゆっくりになったり………」
 それどころじゃなさそうにチューブの先を眺めてブツブツ言ってるもう一方。多分全然変わりませんよスピードは。希望的観測をぶち壊すみたいで悪いですけど。
「んじゃさっさと行こーぜ。ほれ、オマエ前行けよ」
「何故だ? お前が前でいいではないか」
 文句を言うというより助けを請うような普段よりちょっと高い声。そんな声を出しながら大吾のほうを振り返るのだが、視線はちらちらと水が流れるチューブへ引き寄せられる。
 だけど無情にもそのチューブは、僕がギリギリまで覗き込んでも先が見えないくらいにのっけから急角度なのでした。成美さんの身長で、しかもちらちら見てるだけじゃあ先なんて全く見える筈もなく、ぽっかりと空いた口は恐らく余計に恐怖心を煽るばかり。
 それゆえ少しでもその恐怖心を和らげるために前に座るのを嫌がる成美さんでしたが、
「普通小せえヤツが前だろが。倒れた拍子に下敷きになっても知らねーぞ」
 救いの手は差し伸べられず。
「うぅ〜……」
 これは大吾が正論だったか成美さん、文句は言わずにためらいつつそろりそろりと片足ずつゴムボートに乗り込む。それを見届けると彼女のゆっくりさとは対照的に、ぼすんぼすんとゴムボートを揺らしながら足を突っ込む。
「おっ、おい! もう少しそっと」
 その揺れにびくりと体を震わせて抗議しようとする成美さん。しかし大吾は最後まで言わせず、
「しゅっぱーつ」
「乗にゃああああぁぁぁぁ………!」
 行ってらっしゃーい。
 ってこんなタイミングで出発させちゃっていいもんなんですか係員さん!? 危ないですよ!?
「『にゃあ〜!』だって! あっはっはっは! なっちゃん可愛い〜!」
 振り返ってみれば何やらスイッチらしきものに指を突っ込んだまま大笑いする女性と、その傍らで気まずそうに佇むやけに男前な係員さんが一人。目つきが冷ややかと言いますか、ちょっと怖いですけど。……ん、一人だけ? まあ発進がスイッチでなら一人でもこなせますかね。とそれはともかく。
 なるほど貴女の仕業ですか家守さん。大吾もあのスイッチを家守さんが押さえてたって気付いてたんだろうな。
「今のはちょいと危なくないですか家守さん」
 正直成美さんの叫び声は面白かったけど、道徳心的にそれを言っちゃあおしめえよなので言わない。口元が緩むのもついでに抑えようとしたけど、多分抑えきれてなくてひくひくと筋肉が痙攣するのが自分でよーく分かった。
 ごめんなさい成美さん。
「だいじょぶだいじょぶ。だいちゃんがしっかりとなっちゃんの肩抑えてたから。アタシだってそのくらいは確認してスイッチ押したよいくらなんでも」
 悪びれる様子もなくへらへらと笑い続けるおっかない勤め先の花嫁に、係員さんの表情は更に気まずさを増すのだった。そして溜息を一つつくと、気まずさゆえに半開きだった口を開閉させる。
「勘弁してくださいませんか楓様。成美様がもし機嫌を損ねられましたら、ここが営業停止に陥るやもしれないのですから」
 おお、仮想世界の中だけのものだと思っていた様付け初視聴。ん? 成美さんも?
「あっははー。ゴメンゴメン今回だけ。いやまあなっちゃんもあれで楽しんでるだろうからヒトダマ三つはないって」
 ヒトダマ三つというとあれですか。自殺強要の青い火の玉の事ですか。なるほどここならロープはいらないですね。なんたって沈める水がたんまりありますから。あな恐ろしや。
「ならば良いのですがね。やれやれ」
 言葉使いの丁寧さとは裏腹に意外とフレンドリーに話し掛ける係員さん。大きい家って言うからなんというかもっとガチガチした上下関係っぽいものを想像してたけど、テレビとか漫画に影響され過ぎって事だったんだろうか? それとも家守さんが「そういう人」で通ってるだけ?
 ごく平凡な一般庶民としてはホッとするところもあるそんなやり取りの後、ついに僕達四人の番が。まあその内の一人は持ち物みたいな扱いだけど。
 僕を含む三人がチューブに近付くと、栞さんがゴムボートへの一歩を譲ってきた。
「じゃあ孝一くんが一番前でいいかな」
「え? はあ、構いませんけど」
 大吾的理論を用いたとしても三人の身長は殆ど一緒ですし、ウェンズデーはまあ誰かが抱えてればいいでしょうしね。しかしなぜ?
 すると栞さん、ウェンズデーを抱く腕にちょっと力がこもる。
「一番前はちょっと怖いかなって。えへへ」
 なるほどそれで僕が前ですか。家守さんが前という選択肢もあったでしょうに、二択にするまでもなく僕ですか。まあいいですけど。
 言われた通りに一番前へ座り、後ろに栞さん、家守さんと続いて準備完了。あとは係員さんがスイッチを押すのを待つだけとなり、否が応にも緊張が高まる。ジェットコースターで言うところの坂を登ってる状態ですかね。なんたって目の前にはいきなり急流ですから。
 足元を流れる水と一体になって落下するのは一秒後か三秒後か、とそわそわしていると、係員さんの声が聞こえてきた。しかしそれは期待していた発進の合図ではなく、さっきの会話の続きだったようで。
「あ、楓様。出発の前にですね」
「ん? どしたの?」
「今の時間はお客様が少ないので問題ないのですが、増えてきましたら幽霊の皆様方には生者同伴という事でお願い致します」
「そだね。無人のゴムボートが落ちてきたらどう見ても事故だもんね」
「そういう事です。では行きますよ」
「どんとこーい!」
 幽霊もいろいろ制限があって大変なんだなと思った途端の発信合図に、身を多少縮こませて体勢を整えると同時に心の準備も万端。すると背後から、
「しし、栞殿。絶対に離さないでくださいであります」
 くちばしパクパクによる空気の振動が背中を打つ。ん? 真後ろがウェンズデーって―――
「だいじょーぶだよ」
「では行ってらっしゃいませ」
 その声と同時にゴムボートがガクンと揺れ、前進開始。悲しい事に直前に思い浮かんだ不安を解消できぬままで。
「ちょっと待っ、てぁあぁぁー!」
 待つ筈ないですよねえええぇぇぇぇー!
 チューブの中へとまるで巨大なストローで吸い込まれたかのように落ち込んだ後、急加速したゴムボートは右へ左へグルングルン。
 その激しい揺れとスピードに、チューブの中には楽しげな悲鳴が響く。本気で恐怖している僕を除いては。
 そして揺られに揺られて体勢を崩したその時、
「っだっぎゃあああああ!!」
 僕の悲鳴は最高潮へと達したのでした。

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