気が付くと、そこにはいつもの風景。もう見納めだと思っていた、いつもの風景。
「この世に未練なんて……ないと思ってたんだけどな」
私は死んだ。それははっきりと分かる。なんせ――
じゃあ、それなら、これからどうしようか? どうしたらいいのだろうか?
――なんとなく想像していた通り、やはり私は、人からは見えないようだ。
駅前。今の時間は通勤や通学でかなり人が多い。その人の流れに逆らう私を、誰一人避けようとしないのだ。そしてそれでも、私の体が「避けようとしない人々」をすり抜けてしまうので、誰一人として私に気付く人はいない。
その人混みの中で、ベンチに座っている男の子に目が留まる。私はなぜだかすぐに理解した。この子も私と同じだという事を。そしてどうやらあちらも私に気付いているらしく、その視線は、明らかに私のほうへと向けられていた。
状況が状況だ。私は、その子どもへと近付いた。
……助けを求めるかのごとく。
「おはようございます。あなた、成りたての方ですね?」
少し、戸惑う。いきなり話し掛けられた事もそうだが、それよりも、見た目に似つかわしくないそのしっかりした話し方に。
「どうして、私が成りたてだと?」
驚き、萎縮し、ついついこちらの口調もそれ相応になる。
「以前お見受けした時は、まだ生きておられたようなので。」
確かにこの道は私も通学路として利用していた。この時間、ここにいるなら、私を見ていても不思議はない。
「……おっと、口調についてはお気になさらず。ぼくは見た目よりも高齢ですので」
その言葉が意味することは、すぐに分かった。分かってしまった。
「失礼かもしれませんが、どのくらい?」
「三十年……に、なりますかね。正に未練がましい、というやつですか」
彼はそう言うと、少し笑って見せた。
未練。その言葉を聞いた私は、どうしても言いたくなってしまう。
「私、どうしてまだここにいるんでしょうか? 未練なんか、無い筈なのに」
この年で「未練が無い」なんて言ってしまえば彼は、いや、誰でもすぐに気付くだろう。そう、私は、自分で――
「それは、あなたが自分で探すしかありません。ただ、これだけは知っておいて下さい。未練が無い人など、存在しません。たとえどんなに満たされた人生を送ったとしても、です。人間っていうのは中々欲深い生き物ですからね。それに、もし欲のない人が居たとしても……結構耳にしますよね? 人は独りでは生きられないと。それが未練になります。他者との繋がり。それが良い繋がりにしろ、悪い繋がりにしろ、心に残るものなのです」
私は、その質問については何も答えられなかった。だから苦し紛れに一つ、質問を返す。「あなたの未練は何なんですか?」と。訊いてばかりなのは、悪い気もしたが。
彼は、少し困った顔をした。そして僅かに間をおいて、答えた。
「もっと、生きていたかったんです」
――ここから今すぐ、逃げ出したくなった。しかしそれは叶わなかった。足が、いや、身動き一つできない。
私はどうしてあんなことをしてしまったのだろう。生きていたいなんて、当たり前の事ではないか。他者との関わりから目を逸らし、生きていたいという最低限の望みすら無視し、何もかもから自分を騙して、私は私を殺してしまった。
「後悔しているのですね?」
私は頷く。
「それが分かれば、まずは一歩前進です。なに、あせらなくても時間はいくらでもありますよ。なんたっておよそ三十年めのぼくが言うんですから」
「そうですね。……ありがとうございました。まだ何が未練なのかはっきりとは分からないですけど、絶対に、見つけ出してみせますから」
「ええ、頑張ってください。それでは、またいつか」
「はい」
私は彼に背を向け、あてもなく歩みだす。
――あて、か。そうだな。取り敢えずはこの通学路を、遡ってみようかな。