「そろそろ、帰らないとな……」

 俺の隣の席に、あいつの変わりに花瓶が陣取るようになった日から一週間経つ。珍しくあいつが欠席した。それだけの筈だった日。担任が入ってきて日直の「起立、礼」を待たずに喋り始めた時、その日は「それだけ」では済まされない日になった。

 その日から俺は、「誰よりも早く来て花瓶の水を替え、誰よりも遅くまで残って花瓶を眺める係」になった。

 発案・命名 俺。

 クラスメイトが心配してか帰りがけに声をかけてくれる事もあったが、その度に自分がしている事がおかしい事を思い知らされる。

 以前、爺ちゃんの葬式の前夜に親父がこんな事を言っていた。

『葬式なんてのはな、死んだ奴のためにするもんじゃねえ。残された奴が踏ん切りつけるためにやるもんだ』

 俺だって解ってるよ。あいつはもう死んだんだ。こんなこと続けてたってあいつは帰ってなんか来やしない。ましてや俺の想いが伝わるなんてこと……

 お笑いだよな。踏ん切りつけるための行為に固執してるんだから。意味ねーっつーの。

 だから、これが最後だ。

 最後は豪華に、お供え物付き。そのお供え物とは、手紙だ。自分でも恥ずかしいが。

 この手紙には、昔っから顔を合わせればケンカばっかりしてたこと。そんな俺らが同じクラス、しかも隣同士の席になって先行き不安になったこと。その不安が的中したこと。口ではいつも負けてたけど、成績でちょっと勝ってたからドローであること。

 あと、俺が随分前からあいつの事を好きだったこと。

 ……等々が俺特有の汚い字でびっしり綴ってある。一見呪いの手紙に見えてしまうのはアレだが、とにかくこの手紙を「お供え」して、明日の朝回収する。それが俺なりの踏ん切りのつけかただ。

 花瓶の下に手紙を挟んで、帰宅――おっと、窓閉めとかないとな。では、改めて帰宅。


 翌日。いつも通り一番に教室に到着した俺は手紙の無事を確認した。正直誰かに読まれたらと思いヒヤヒヤしていたが、どうやらその心配は無さそうだ。

 早速回収、と俺は右手を手紙に伸ばす。その時、風が吹いた。

 ―――と、思った。しかし俺はまだ窓を開けていない。

 何か、空気の塊のようなものが俺の体の前面に触れている。手紙に伸ばした右腕の脇と左肩から、細い塊が背中まで回っている。右肩の上にも塊が乗っかっている。それが何かをはっきりと理解するよりも早く、俺は涙を流していた。

 俺は、姿勢をその塊と同じであろう形にした。

「ずっと、ここにいたのか?」

 肩の上の塊が、縦に動く。

「そうか。……毎日みっともないとこ見せちまったな」

 肩の上の塊が、横に動く。

「手紙、読んだのか?」

 肩の上の塊が、縦に動く。

「伝えたい事はあれで全部だけど……またと無い機会みたいだから、ちゃんと言っとくよ。俺、おまえが好きだ」

 肩の上の塊が、離れた。そして、俺の口に何かが重なる。

「俺、もう大丈夫だから。みっともないマネは二度としない。忘れるって意味じゃないぞ? くよくよしないって事」

 多分、あの肩の上の塊は縦に動いたと思う。その頼りなくも揺るがない「と思う」を残して、俺に触れていたものはフッと消えてしまった。


 いつものように教室へと人が集まってきて、それぞれが自分の席につく。そうして自分の周りがだんだん窮屈さを増していくが、あいつが居なくなって広くなった空間だけは昨日までより更に広くなっている気がした。

「ほんとにずっと、居てくれてたんだな」


 朝の花瓶の水替えは今でも続けている。けど、放課後にそれを眺めるのは止めにした。

 それがあいつとの約束だから。

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