第一章
「可愛い子には旅をさせよ、だぁ? 無理に決まってんだろ危なっかしい」



 夜。見渡す限りの民家の明かりが、全て消え去る丑三つ時。
 住宅と住宅の間を一直線、息を切らせて走り抜ける男が一人と、息を切らさず足音も控えめにそれを追う男女が一組。
 定間隔に設置された街灯と雲から半身を乗り出す満の月だけが、彼等を周囲の闇に溶け込ませまいとしていた。
「ぜぇっ、ぜぇっ、ぜぇっ、ぜぇっ、ぜぇっ――」
 逃げる男から漏れる苦の吐息は僅かばかりの範囲で空気を振動させ、後ろの二人の耳へ届く。しかし二人の側から逃げる男に届く空気の振動は、変わらず抑えられた足音のみ。
「て、てっ、てめえ等! なぁっ、なんで俺が見える!? ぜはぁっ、なんで俺を追う!?」
 この逃走と追跡が開始されてから五分が経過していた。その間絶えず全速力で走り続け、ついに逃げ切れないと判断した男は、後ろの二人を振り返りつつ絶えがちな声を張り上げる。
「追われて逃げるような理由があるからじゃないですかね?」
「ついでに一つ目の質問の答えは、俺等がてめえと同じだからだよ」
 平然と返される二つの回答。その意味を、男は瞬時に理解した。
「くそっ! くそったれ! ――はぁっ、終わったんじゃねえのかよ!」
 理解し、怒鳴る。吐き捨てる。
 しかしそうしたところで、状況は何一つ変わらない。体力を無駄に消耗しただけで、後ろの二人には何一つ変化をもたらさない。
「終わる訳ねえだろが。……おい白井、もういい。やっちまえ」
「了解。でも黄芽さん、わざわざ長引かせる事もないと思うんですけどねえ?」
 それぞれ対象を異にして放たれた、呆れ声二つ。とは言え、白井と呼ばれた人物は、自らが黄芽と呼んだ人物からの指令を受けて行動を開始する。走る足を止めないまま、右手に握った工具、何の変哲もない金鎚を、振り被った。
「な!? おい、止め」
 その金鎚がこの後どうなるか。振り被られる軌跡を最初から見ていた逃走中の男には、いとも容易く想定できた。
 自分に向かって、飛んでくる。
「ぎあぁあっ!」
 想定内容を確認するとほぼ同時。骨が砕ける嫌な音とともに、男の悲痛な叫びが深夜の住宅街に響き渡った。
 ただし。その声を聞き届けた人間は、いたとしてもほんの一握りだけだろう。例え今が、活動の盛んな昼間だったとしても。
「が、あぁ……! 腕、腕が……!」
 回転しながら顔面目掛けて猛スピードで接近する金槌を、すんでのところながらもなんとか腕で受け止めた男はしかし、その激痛に足を止めてうずくまってしまう。すると当然、追っていた男女がすぐ側へ。
「上手い具合に叩く所が当たっちゃったんですね。ま、すぐ治りますから我慢してください」
 投げ付けた本人は悪びれる様子もなく傍に落ちていた金鎚を拾い上げ、眼鏡の位置を直しながら、冷静にそう言った。
「ぐぅっ……頭に、当てるつもりだったな? お前等、俺を殺す気なのか……?」
「まさか。あなたとは違う」
 金鎚で顔を狙った張本人は、苦痛に顔をゆがめる男の恨み節に、肩を竦めてそう返す。そして可笑しそうにくすりと息を漏らすと、
「それに、自分でも分かってるでしょう? あなたはもう殺しても死なないし、その折れた腕だってすぐに――なんせ、既に死んでるんですから」
 腕を押さえる男は返事を返さず、ぎりり、と歯軋りを立てるだけだった。
 その様子を冷たく見下ろし、彼を追っていたもう一人の人物が口を開く。
「追っかけられて殺される気分は味わえたか? 人殺しさんよ。てめえが死んだくれえで終わったとかほざいてんじゃねえぞボケが」
 男は、その人物が肩に担ぐ柱のような物体を見上げ、呪詛を吐くかのようにこう言った。
「化物が……」
 すると、男に引けを取らない程の憎々しさを込め、「化物」と呼ばれた人物が返す。
「てめえ等みてえな碌でもねえ人でなしが相手の仕事だからな。化けもんでもなきゃやってらんねえんだよ」
 そしてその化物たる由縁、肩に担いだ八角の大金棒をおもむろに地面に下ろすと、その重量を表すかのような低く鈍く重い音とともに少量のアスファルトが抉れ、弾け飛んだ。
「俺は、これからどうなる」
 飛び散ったアスファルトの一欠片が頬に当たり、急に声が老け込んだ男が、見下ろす二人のどちらともなく質問を投げ掛ける。
 答えたのは、自身が化物と呼んだ側。つまり男女二人組の、女性の側だった。
「ガキでも知ってんだろ。悪い奴は死んだら地獄に落ちんだよ。俺等『鬼』がせっせと働いた結果としてな」
 男は返事を返さない。いや、返せないと言ったほうが正しいか。折れた片腕はともかくとして、もう片側の腕が震えていた。
 男のそんな様子を目に収めると、大金棒を地面に立てたまま、女が言葉を繋げる。
「でもまあ安心しろ。大人しくしてりゃこれ以上手出しせずに送ってやるよ」
 後ろで一束に纏められた彼女の長い黒髪が、不意の夜風に揺らめいた。
「逃げようとしたら頭カチ割るけどな」


 そんな出来事があってから、日付の変わらない土曜日の朝。緑川みどりかわ千秋ちあき は、全速力で目的地に向けて疾走していた。
「あぁもう、なんで目覚ましの電池切れちゃうんだよお! 寝る前はちゃんと動いてたのにい!」
 風にさらさらと揺らめくショートヘア。見るからに人懐っこそうな、丸く、大きな瞳。高校二年にして幼さを残しながらも、整った顔立ち。やや小柄で華奢な体躯。この容姿を指して「美少女」と位置付けても、物言いが付く事はあまりないだろう。
「千尋さんに怒られちゃうぅー!」
 しかし現在の緑川はそれどころではなく、待ち合わせの場所に遅れまいと、必死で自転車のペダルを漕ぎ続ける。
 休日で、その上寝坊して普段と時間が若干ずれているせいか、いつもならぽつぽつと見かけられる筈の人通りはまるでない。がらんと空いた道は、急ぐには都合が良かった。急ぐような時間故に空いている事を考えれば、なんとも本末転倒ではあったが。
 そのうち交差点に差し掛かり、ここで曲がる予定のない緑川は、もちろんそのまま直進し続ける。しかしその時、正面から来ていた車が緑川をその進路上に重ねるようにして左折してきた。
「うわあっ!?」
 カーブという事で減速はしていたのだろう。あわや接触というところで車は急停止し、それはなんとか免れた。が、突然の事態にバランスを崩した緑川はそのまま転倒し、全身で勢いを殺す羽目になってしまった。
「あた、たたたぁ」
 鈍い音を立てながら数メートル転がり、あちこち痛む体に手を当てながら立ち上がると、既に車はない。
「轢き逃げ未遂だ……」
 腕や足を動かしてみて骨に異常がない事を確認し、次いで自転車も奇跡的に無事な事を確かめると、適当に思いついた罪名を声に出してみる緑川。だがなんとも、的を射ていないような罪名だった。
「あの車、ウインカー出してなかったよね?」
 答える者は、誰もいない。
「はぁ、またか……」
 ひとりごちて、緑川は再び自転車に跨る。だがもう、急ぐ気にはなれなかった。全身に渡る鈍痛と、それがなくともうんざりするような事件のおかげで。

 待ち合わせの場所である、既に打ち捨てられた無人の小さな工場。律儀にも駐輪スペースとして使われていた場所へ自転車を止め、工場内に進入し、
「遅くなりました」
 ソファとテーブルが残ったままな応接室らしき部屋のドアを開く。
「おせえぞ千秋」
「はあ。ちょっと、また車に轢かれそうになっちゃって……」
 そこで緑川へ念押しするかのように「遅い」と言い放つのは、ポニーテールに平均を大幅に越えているであろう豊かな胸部という極めて女性らしい出で立ち、それでいて高圧的な眼差しと粗雑な口調が女性らしさを損なわせている、黄芽こが千尋ちひろ その人であった。長袖のワイシャツはボタンが全て解放されており、その下のシャツには、わざと強調しているのかと疑いたくなるほどの盛り上がりが横並びに二つ。
 緑川の言葉にジーンズへ通した足を組み、ソファの中央でふんぞり返っていた黄芽が怪訝な表情を浮かべる。するとその隣に立っていた男性が、彼女と同じような表情を見せた。
「またですか? 相変わらずの不幸体質ですね」
 その彼の右脇腹、ジーンズの裾には、一番上のものを除いてきっちりとボタンが留められた上着に隠れて外からは見えないが、金鎚が差してある。
 彼の名は白井しろい修治しゅうじ 。昨晩黄芽とともに深夜の追跡劇を展開した細身で眼鏡の、どちらかと言えばハンサムな男性である。
 黄芽も白井も体格からして成人であり、実際にその通りである。緑川も高校二年生という年齢からすれば成人とさして変わらないはずなのだが、実年齢より多少幼いその外見・身長、そして黄芽と白井が並ぶ事により、とてもそうは見えないのだった。
「轢かれそうで毎回轢かれないのが、幸運と言えば幸運なんだけどね……」
 と言うか、そうでも思わないととても割り切れたものではない。この前向きな理論は最早、緑川の常套句である。
 十二回。
 これは、もう残り一月を切った今年度においての緑川が車に轢かれそうになった回数である。
 ――回数というものの多い少ないという基準は、何の回数であるかによって大きく変動する。こと「車に轢かれそうになる」という事例で考えるならば、多い部類に入るだろう。
 少なくとも、緑川本人はそう思っている。
 本日のものに加えて過去の事件も思い返し、朝一番から気分がどんよりと重くなる緑川。背中を丸め、首を垂らし、正面の二人に頭の先を向ける。
「でも、怪我とかしてないー?」
 現れたのは、二つのおさげの女の子。
「大丈夫ー?」
 現れたのは、短髪の男の子。
 ソファの裏側から黄芽を挟むようにして、緑川の幼い友人が二人揃ってぴょこりと心配そうな顔を覗かせた。
「あはは、大丈夫だよ。血は出てないみたいだし、ついでに自転車も無事だったから」
 十二月。外の気温に合わせて緑川の服装は袖が長く、もし血が出ていたら服に付いて面倒だったろうな、と心労混じりの溜息をつく。
「良かったー」
「良かったねー」
 そんな緑川とは対照的に、とても嬉しそうにお互い微笑み合う彼等は、双識ふたしきせき双識ふたしきせい 。赤が姉で青が弟の、双子の姉弟である。
 ただし、彼等の時間は小学二年生、つまり九歳から先へ進む事はない。何故ならばこの双識姉弟も黄芽・白井と同じく、既に死んでしまっている「幽霊」という存在だからである。
 今この部屋に、生きている人間は緑川ただ一人だけ。そしてそれは、緑川も含めたこの場の全員が了解している事項であった。
「怒鳴りつけてやろうかとも思ったが、事故りかけてたんじゃしゃーねえな。遅刻は大目に見てやんよ」
 どこかしら気だるそうにそう言い放った黄芽は、その後ろに「くあぁあ」と大あくびを付け加えた。
 無条件に許された事(普段の黄芽なら、遅刻に至った理由など条件には入らないであろう)が意外だった緑川は、その恥じらいもなしに大きく開かれた口を見て、悟る。
「もしかして昨日の夜、お仕事が入ったんですか?」
 怒るのが億劫になるほど疲れているんだな、と。
「んあ。ああ、まあな。おかげで寝不足だっつの」
 じわりと染み出してきた涙を指で払いつつ、黄芽はさも忌々しげに言い捨てる。
 すると、一方で疲れた様子など微塵も見せずに直立し続ける白井が、やれやれと額に指を押し当てながら続いた。
「深夜でしたからね。鬼である以上、たまに入ってくる仕事自体に文句は言いません。が、せめて昼間にしてもらいたいものです」
「けっ。犯罪者なんてもんが他人様の都合なんか考えるかって」
「……全くもってその通りなんですよね」
 黄芽とのそんなやりとりからして、表には出さないながら白井も疲れているらしい。
 そこは理解できた緑川であったが、気になる点が一つ。
「あの、昨日捕まえた人って?」

「仕事の話だぞー。外行こうなー」
『はーい』
 そうして黄芽が双識姉弟を部屋の外に連れ出し、ソファとテーブルだけの部屋に残ったのは、緑川と白井の二人だけ。他人から見れば、可憐な美少女とハンサムな男性であるこの二人の組み合わせは友人以上の関係を想像してしまうものなのかもしれない。
 とは言っても、当の二人にそのような意識はまるでないのだが。
 仕事の話。そう、鬼とはつまり職業名なのであり、その実体を簡潔に表そうと試みてみるならば、死後の世界――つまり、「あの世」における警察官である。
 鬼庁きちょうと呼ばれるその組織の中でも「この世」で活動するのは黄芽・白井のように死後の悪人を捕まえて地獄に送る夜行やこうと、「起こった事件に死後の者が関わっているか、そしてその死後の者とは誰か」を調査し、夜行に報告するいん の二種である。
 黄芽と三人で何をしているのか、廊下側からきゃっきゃとはしゃぐ双識姉弟の声が響いてくる中、対照的に息の詰まりそうな雰囲気を作り出す白井と緑川。
 緑川が、改めて尋ねた。
「昨日捕まえた人って、どんな人だったの?」
 白井が、眼鏡の位置を直した。
「数日前、ニュースにもなっていましたよね。『通り魔殺人の容疑者、逃走中に飛び降り自殺』と。その男ですよ」
「……そう。死んじゃう前の悪い事でも動くんだね、鬼って」
「やるだけやって死んだら全部終わり、で済ませられる筈もないですしね。たまにはありますよ? こういう事も」
「ふーん……怪我とか、しなかった?」
「幽霊に――特に、僕に対してその質問はジョークのレベルですよ。気持ちだけありがたく受け取っておきます。黄芽さんなんかそれ以前に、誰があの人に怪我させられるんだって話ですから」
「あはは、そうだよね」
 軽く笑いが混じったところで、いったん会話に間が生じる。それはどちらが意識してそうなったというものでもなかったが、話題を変えるには充分の効力を秘めていた。
「僕達よりそっちですよ。車に轢かれかけたって、本当に怪我はしてないんですか?」
 睨むという程ではないにしろやや目付きを細めた白井が、その目付きを真っ直ぐに緑川へ向けてくる。
「う、うん。それは大丈夫」
「ならいいんですが……本当に、どうしてそう危ない目にばっかり遭うんです?」
「いやあ、自分でもなんでなんだか。車もそうだし、知らないおじさんに連れて行かれそうになったり、海に泳ぎに行ったら大きな波が来たりクラゲが大発生してたり」
「人も自然もみな敵ってですか。山に行ったらすぐ傍で崖崩れ、でしたっけ?」
「うんそう」
 さも当たり前のように頷く緑川に脱力した白井は、かくりと頭を垂れた。
 しかし周囲のそんな反応はいつもの事であり、それ故緑川は気にも留めずに語りだす。
「一番怖かったのはやっぱり、知らないおじさんに連れて行かれそうになった事かなあ。十年も前でまだ小さかったし」
 そしてここからは、不幸体質以上に気掛かりな自身についての悩み。白井と同じように頭を垂らし、うんざりだと言わんばかりに呟いた。
「やっぱりあの時も、女の子と間違われたのかなあ」
 緑川千秋、十七歳。花も恥じらう程の乙女と見せかけて、正真正銘の男子である。

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