第一章
「笑う門にはって言うでしょ? 逆もまた真なら溜息はどうかと思うよ?」



「へえ、そんな事がねえ。いやそりゃなんとも、興味の沸く話だ。研究……もしジャンルが違ったとしても、やはり興味が沸くね。元研究者としては」
 椅子の上の男がその肘掛に体重を掛け、ぎい、と音がする。その肘の先の腕の先、手首の先の拳の先には、にやにやとした顎が乗せられている。その顎からやや上方、度のきつい丸眼鏡の向こうで男の目は、やはりにやにやとしていた。
「研究者? 医者でしたよね、あなたは」
 彼の眼前に立ち彼に対する男もまた、眼鏡を掛けていた。対面する男に比べれば度はそれほどでもなく、なので外から見た目の大きさも然程歪められておらず、ややハンサムなその顔はやはりややハンサムなのであった。
 椅子の男が返す。
「それは職業の名だよ。研究者という言葉とは、そもそも籍を置くグループが違うね。医者だろうが数学者だろうが、胡散臭い占い師だろうが同じく胡散臭い霊能者だろうが、果てはその日暮らしのフリーターだろうが無気力なニートだろうが、何かを研究しているのなら等しく研究者と呼んでいいだろう、とぼくは思うね。だから、ぼくの事も研究者――いや、元研究者と呼んでくれて結構だよ?」
「……いえ、普通に名前で呼びますよ」
「おやそうかい。少々残念だが、まあいいか。それでこの次にくる話としては、研究というものの定義についての話が妥当だと思うんだけど、それ」
「は、いいです。ややこしそうですし」
「うん、とても同感だね。ぼくもそう思う。だからこの話はパス。で、次に何を話そうか?」
 ややハンサムなほうの男は、溜息を吐いた。
「次と言いますか……僕は最初から、千秋くんが狙われた理由についての相談がしたいだけなのですが」
「だっけ?」
 椅子の男が拳から顎を持ち上げ、右斜め上方へ顔を向ける。そこには女性の顔があった。ややハンサムな男の立っている方向を見てはいるが、それでもどこを見ているのかはっきりしない、そんな真っ直ぐに過ぎる表情の女性。
「そう記憶しています」
 視線を、そして口周辺の筋肉をまるで動かさないまま、機械音声を思わせる平坦かつ冷ややかな声でその女性は答えた。
「だってさ」
 女性の返答を受けて、椅子の男がそんな言葉をややハンサムな男へ返す。ややハンサムな男は「はあ……」と、溜息だか返答だか判断の難しい声を口から漏らした。
 窓は尽く割れ、カーテンは酷い虫食いでただのぼろきれに成り果てており、蛍光灯は一切合切が外れ、入口のドアは蹴破られたような歪さで斜めにほぼ等分されている。しかし部屋自体はきちんと清掃され、割れたガラスの破片が散乱しているわけでも埃が積もっている訳でもない。そんな廃病院の一室には現在、二つのタイヤが装着された椅子――つまり車椅子に座っているぼろぼろの白衣で丸眼鏡の男、灰ノ原学と、その隣で置物のように佇む小奇麗な薄ピンクのナース服姿の女性、桃園叶と、その二人に対面して疲労感を露わにするややハンサムな男、白井修治の三人が集合していた。

 見た目は少女な不幸少年、緑川千秋が修羅に狙われたあの日から、二日後の月曜日。その緑川が高校で勉学に励んでいるであろう間に、白井と黄芽と双識姉弟は二日前の件について同僚の夜行に意見を求めるため、この廃病院を訪れていた。
 ちなみに黄芽と双識姉弟は、
「毎度ながら、よくこんな薄暗いとこに住めるよなあ」
「くらーい!」
「こわーい!」
 白井達のいる病室から出て廊下を直進した先――元々は待合室だった場所の穴だらけになったソファに三人並んで座っており、暗い怖いと声を上げる双識姉弟はしかし全く怖がっている様子はなく、非常に楽しそうに真ん中の黄芽にしがみ付くのだった。
 その周囲は病室と同じく窓は割れ、蛍光灯は残る残らないに関わらず全てが光を点していないが、これまた病室と同じく清掃だけはきちんと成されている。明度は彼女等が住んでいる廃工場と比べてもそれほど差があるようにも見えないのだが、話に乗ってはしゃいでいるだけの双識姉弟はともかく黄芽にとっては「薄暗い」、とそういう事らしい。

 ――「であるからして」なんて言葉、実際に使ってる人見た事ないなあ。
 黄芽が廃病院の暗さにぼやいている頃、数学の授業を受けながら、そして教師の「だから」で繋げられる説明を聞きながら、緑川はそんな事を考えていた。数学にまるで関係が無い疑問なのは言うまでもない事である。
「それじゃあこれを……水野」
「んへえ?」
 緑川のすぐ隣の席から気の籠らない声が上がり、薄く茶色が差した短髪が僅かに揺れる。教師から水野と呼ばれたその女子は、すぐ隣の緑川から見ても明らかに目が開いていないという、とても眠そうな顔をしていた。教師が呆れて「なんだ、寝てたのか?」と眉をひそめたところ、「寝てないっすよお。あたしはいっつもこんな感じなんでえ」と自らの顔を指差した。
 そんな耳にした者の体が数ミリ浮き上がってしまいそうなぽやんとした声での返事をしたのち、緑川の隣の席であり、そして幼馴染でもある水野みずのすみは、その机に付していた教科書を持ち直す。
「そりゃそうなんだけどなあ、水野……」
「あやあ?」
 教師が肩を竦めて更に呆れ、その様子を見た水野が首を傾げる。隣の席の緑川から見るに、と言うか誰から見ても、水野の教科書は上下逆さまであった。
「澄ちゃん、寝てたでしょ」
 緑川もまた教師と同じように、しかしそれよりはやや親しみを込めて、それでもやはり呆れていた。そして教室全体もまた、一部のくすくす笑いを除けば緑川と同じように。
「んへへ、ばれちったあ」
 水野はゆっくりとした動作で頭に手を当て、しかし教科書の上下を正そうとはしなかった。そして彼女の次の行動は、その開いているか開いていないか分からない両目で黒板の数列を凝視している。……の、だろう。突然瞑想を始めたのでもない限りは。
「ああ、まあ、黒板なのは合ってるけどな。でもいいよ水野、別の奴に当て直すから」
「そっすかあ? らっきー」
 そして教師の言う「別の奴」とは、
「じゃあ――隣の、緑川」
「うわ……」
 となったところで、水野が指名を受けるまで全く関係のない事を考えていた緑川がすんなり答えられる筈も無く。
「あらあ、ごめんね千秋い。んへへー」
 隣の水野は、尚も教科書の上下を直そうとしなかった。それがようやく直されるのは、緑川が五分ほどかけて指定の問題を解き終わった頃であった。
「あら。こりゃあ、ばれるわあ」とは、その瞬間の本人の言葉であり、当然、未だ授業中であった。教室中に再び呆れと押し殺した笑いが広がったのは、言うまでもない。

「『十年経った頃にまた様子を見に来る』、ねえ。ふーむ」
「情報が少な過ぎるとは思いますが……」
「うん。真剣に考えるのが馬鹿らしくなるくらいに、そうだね」
 白井は肩を落とした。初めからこれだけの材料で相談を持ちかけるのはどうかとも思っていたが、こうもあっさりニヤニヤしたまま頷かれると、脱力もひとしおである。
「しかしだね白井くん。しかししかし、その求道という研究者が緑川くんを十年間放置していたというのはこれ、ヒントだよ」
「どういう事ですか?」
「十年前、その研究者は緑川くんに会った。口ぶりからして、それが初顔合わせだと見て間違いないだろうね。――それからいきなり十年後だ。飛び過ぎているとは思わないかい?」
 灰ノ原の口調がやや早回しになった。どうやら興奮しているらしく、車椅子から身を乗り出して白井の顔を覗き込む。隣の桃園は動かない。
「そう……なるんですかね? 研究とかは僕、ちょっとばかし……」
 話への困惑と灰ノ原自身への困惑によって、白井の体が半歩分ほど後退する。しかし灰ノ原の関心はその返答のみにあるらしく、嫌な顔一つしないまま、腰を再び車椅子に落ち着けた。
「ま、うん。そう思ってくれていいと思うよ。で、だね。全く未知のものを観察するのにそのスパンが十年というのは、研究者としてこれ、大間違いだよ。いつ、何が、どうなるか。全く分からないんだよ? 朝顔の観察日記だったらとっくの昔に枯れちゃってるよ?」
「はあ、まあ、そうですね」
「つまり、その研究者は知っていたんだよ。最低十年は経たないと観察対象に自分の知らない変化は現れない、とね。そしてその『観察対象』は恐らく、緑川くん自身じゃあない」
「どうしてです? って言うか、どういう事ですか?」
「ああ、ちょっと回りくどい言い方になっちゃったかな? 生きている人間の変化は『常』だからだよ。年を取らないぼく達と違ってね。要するに、緑川千秋という人間そのものが目的なら、ずーっと傍にいて観察し続けなきゃならないわけ。それが無理でも、継続的に記録を取るなりなんなりはしないと」
「うーん。すいませんが、まだよく……」
「観察対象は緑川くんの一部。恐らくは、他の人間にあまり見られない彼の特徴って事だよ。具体的に言うなら、あの不幸体質が最有力候補ってとこかな? ――そうだ。幽霊が見える、というのもあるね。つい忘れがちになっちゃうけど」
「ああ、なるほど」
 緑川のあれらが特別なものだと言われるのなら、それは白井にも問題無く理解できた。幽霊が見えるのはもちろんの事、彼の不幸っぷりは「たまたま運が悪かった」のレベルで済ませられるものではないのだ。白井に限らず、誰がどう見ても。
 が、しかし。
「……もしくは……」
 そうして話に一段落がついたと思ったところで、灰ノ原が顎に手を当て、呟く。
「もしくは?」
「その研究者が、十年前の初接触の日に緑川くんに手を加えた。実験段階の薬物とか、まあそんな感じのものを緑川くんの身体に突っ込んだって事だね。そして研究者は、それについて十年経った頃のデータが欲しかった、と。他でも同じ事やって、十年までのデータは揃ってたとかでさ」
「……………」
 あまり、的中して欲しくなさそうな説であった。

「さっきはごめんねえ、千秋い」
「いや、別にあれくらいいいけど」
「だあよねえ。んははー」
「……………」
 脱力感溢れる声で笑い飛ばされる。
 数学の授業を何とか切り抜け、休み時間に突入すると、いつものように二人は語らい始めた。それは授業内容を面白おかしく振り返るものだったり、まるで関係の無い談話だったり、つまりは極一般的な友人としての時間の共有であった。
「いやあ、涎垂れてなくて良かったよー。寝るつもり無くて寝ちゃった時って、たまあにたらーってなっちゃうんだよねえ」
「澄ちゃんの場合、寝てるかどうか全然分からないんだけどね」
「少なくとも涎出てたら寝てるから、その時は宜しくねえ」
「宜しくって、ボクはその時どうしたらいいの?」
「あたしの健やかな寝顔を、その可愛い顔で見守っててくれたらいいよー」
「可愛いとか言わないでよお。……って言うか、そこは起こしてって頼むところじゃないの? 普通は」
「んー? ああ、それもそうだねえ。間違えた間違えたあ」
 水野澄。ほぼずっとこんな調子で普段を過ごしており、緑川を含むクラスメートや教師から持たれる印象もそれと然程変わらない、高校二年の女の子。そのちょっと抜けた印象通りお世辞にも頭は良いとは言えず、しかしそのちょっと抜けた印象に反して家庭科の各種実習や体育などのいわゆる実技が大の得意。だがクラブには所属していない。両親とは離れて暮らしており、彼女の家で共に暮らしているのは祖父と祖母。
 ――と、ここまでが彼女を知る者の、彼女についての一般的な了解である。しかし、家が近所である事と年が同じという事で小さい頃から仲が良かった緑川は、彼女についてもう少しだけ深く知っている。

 彼女が大財閥の令嬢であり、
 そしてその肩書きに「元」が付くという事を。
 どうして「元」になってしまったのかまでは了解していないが、
 彼女が両親から絶縁されているという事を。

「んー? よく分かんないけど、そんな難しい顔も可愛いよ千秋い」
 それは誰にも言えない話であるが、その事を知っていても尚、緑川にとって彼女はかけがえのない友人であった。
「悩み事かい? それならほれほれ、お姉さんの膝を貸してやろう。座って何でも打ち明けるといいよー」
 ぽんぽんと膝を叩きながら提案してくるその友人に、緑川は応える。
「座らないよ……」

「それにしても、白井くんはともかく黄芽さんが負傷ねえ。よっぽど強かったんだね、その修羅の女性」
「『僕はともかく』って、酷いですね」
 白井は溜息をつく。それがこの病室に入って何度目になるのかは、わざわざ数えていなかった。
「ん? だって白井くん、いくら怪我しても平気じゃないさ」
「ああ、そっちの意味でですか」
「……ンヒヒ、そういう事か。なるほどなるほど失礼失礼、ごめんよ白井くん」
「まあ自覚はしてますから、別にいいですけどね」
 それは、拗ねた訳でも開き直った訳でもない。ただ事実として、黄芽と白井では白井のほうが弱いのだ。「単純な殴り合いでは」という縛りを付けての話、ではあるが。
「うーん、真顔でそういう事が言えるのは……やっぱり、信頼ってやつかい?」
「どうでしょうね。普段から色々と下になってますから、負け犬根性が張り付いてるだけなのかもしれませんよ?」
「服従も立派な信頼関係の一つさ」
 いつも通りのニヤニヤ笑顔を崩さないままそんな事を言い放つ灰ノ原に、白井はまたも溜息。言い出したのは自分だが、服従とまで言われるとさすがに気が滅入るらしい。なので白井は溜息以上に抗議の声を上げず、さっさと話を進めておく事にした。
「灰ノ原さんと桃園さんはどうなんですか? 信頼関係」
「んー?」
 問われ、隣に佇む桃園を見上げる灰ノ原。それに交差するように、桃園も灰ノ原を見下げていた。
「そうですね」
 先に口を開いたのは、白井の予想に反して桃園であった。
「信頼はもちろんあります。ただそれは、貴方がたのそれとは形が違うように思われます。どこまでも対等、と言いましょうか、優劣を付けるものが存在しない、と言いましょうか」
「簡単に言えば『仕事仲間』の究極だね。平社員同士の」
 あからさまに平坦な口調に、あからさまに平坦でない口調が続く。男声である事、女声である事も含め、まるっきり真逆な二つの声はしかし、同じ内容を言っているらしかった。白井にはいまいちピンとこなかったが。
「仕事仲間、ですか。なんだか寂しい響きですね」
「そうでもないさ。ぼく達にとって仕事ってのは、『全て』だからね。それに伴う信頼関係という事は白井くん、これまた『全て』を相手に捧げちゃってるも同然なんだよ」
「はあ」
 ちなみにこれは溜息ではなく、生返事である。
「分かり辛いかな? ならそうだね、ここで恋人同士の真似事でもしてみようか。なに、ぼくも叶くんも元医療関係者だ。同性異性に限らず人間の裸など見飽きて」
「お断りします」
「――ンヒヒ、冗談だよ冗談」
 視線を動かしすらせず口だけを動かした桃園の対応は素早く、裸という単語に白井が驚きの声を上げる暇すらない。そして出せなかった驚きの声の代わりに、やはり溜息をつく白井であった。
「はあ……」
 そして溜息ついでにその気だるさに準じた、今までは控えていた質問を。
「ところで灰ノ原さん、これは今までの話に全く関係無い上に非常にどうでもいい疑問なのですが」
「ん? なんだい?」
「研究者っていうのはみんなそうやってニヤニヤしてるものなんでしょうか」
 灰ノ原が、桃園を見上げた。桃園も、灰ノ原を見下げ返した。
「どういう意味だと思う? 叶くん」
「件の研究者、つまり求道という修羅が、灰ノ原さんのように常に顔を緩ませている、という事ではないでしょうか」
「やっぱり?」
「些かデータ数の不足した推測だとは思いますが」
「だよねえ」
 そんな話題の中でも灰ノ原はそれまで通りにニヤニヤし、桃園は逆に無表情。その二人のうち主に桃園の佇まいについて、白井は居心地を悪くした。
「いやあの、冗談ですよ?」
 そして、溜息をついた。


 ――同時刻、某所。誰も居らず、誰も見ておらず、誰も口にしておらず、少なくとも現在は誰の意識にも存在していない、完膚なきまでの「某所」。人どころかあらゆる生物の気配がせず、取り壊しの予定を立てる事さえも忘れられている、世間の流れと隔絶された廃ビル。
 何の音もしない筈のそんな場所に、ドアをノックする音が。
「どうぞ」
「失礼します」
 誰も認識していない筈の場所に、二人の男。正確には、元々この部屋に居た男がドアをノックした男を迎え入れたという形になる。
「おや。――くくく、君が直接私の部屋を訪ねてくるとは珍しいな」
 とある廃病院の、とある元医者と同じくニヤニヤした顔と口調で――と言っても、あそこまであからさまな笑みでもないのだが――部屋に居た男が回転椅子の背もたれを軋ませながら軽口を言う。
 対して、訪ねてきた男が不快感をちらつかせる調子で返す。
「俺、一応あんた直属の部下なんですけど」
「君の口からそんな言葉が出てくるのもまた珍しい」
「……用件言っていいですか求道さん」
 訪ねてきた男、あまり気の長いほうではないらしい。
 つい先日、黄芽達と戦闘を繰り広げた穂村姉弟。彼等を引き連れていた「件の研究者」求道を前に、彼の軽口と戯れる事をあっさり拒否し、自分が持ち込もうとしている話題を押し通そうとする。
「どうぞ」
 求道が尚も笑みを絶やさずそう返すとその男は、背中まである長髪に黒のダッフルコート、そして目がやや血走っている求道の部下は、どっかりとドア横の壁に背をもたれて話し出す。
「二日前、また勝手に出かけたそうですね。しかもまたあの二人と」
「ああ。あれは組織と関係の無い、私個人の研究だったからね。いつも通り報告はしていない。お供が冷香くんと由也くんというのも、いつも通りというわけだ」
 壁にもたれた男はその血走った目をやや細め、腕を組んだ。
「俺はいつも通りそれに文句があるんです」
「だろうね。くくく」
「まず一つ、動くなら事前報告くらい入れてください。仮にもあんたは、この組織の一研究員なんですから。それともう一つ、俺はあの二人が嫌いです」
 あまり穏やかとは言えないそんな話を聞いても、求道は表情を変えない。話に先があると踏んでいるのか、返事すらしない。そんな求道に暫し睨むような視線を送るような部下の男だったが、やはり気が長くはないらしく、返答待ちという行動をあっさり見限る。
「あんた個人の研究とやらで、不幸少年とやらをとっ捕まえようとしたそうですね。このあいだは」
「ああ、そうだが」
 薄く微笑んでいた求道の表情が、少しだけ平常に戻る。そして今度の返答は早かった。
「それであの二人を使って、失敗した」
「ああ」
 部下と求道の表情が逆転する。求道は足を組み、部下は壁から背を離した。部屋内には他に誰も居ないものの、もし誰かがこの状況を目にしたとして、彼等二人の関係を「上司と部下」だとは思わないであろう。尤も、部下の男の態度はあんた呼ばわり等、その大元からして部下らしからぬものなのだが。
 そして、部下の男が続ける。
「俺が行ってきましょうか。その不幸少年捕まえに」
「そう安々とはいかないと思うがね」
「要は鬼どもにぶつからなきゃいいんですよ。鬼とその不幸少年がつるんでるったって、四六時中一緒に居る訳じゃねえんでしょ? もし一緒に居るならそれはそれで、こっちから分かれさせりゃいい。万が一ぶつかったら――その時は、俺が勝てばいい」
 そんな事を言いながら楽しげですらある部下を前に、求道は頬杖を突く。やや傾いたその顔は、自分の部下へ冷めた視線を送っていた。
「また下の者を使うのかね?」
「そりゃあ、下っ端なんてのは使ってなんぼですから。そこの鬼は三組でしたっけ? じゃあ一組五人で計十五人ってとこですかね」
「……まあ、止めはしないがね」
 不機嫌とも取れる上司の態度に、しかし部下はニイッと歯を剥き出しにして笑んでみせ、早速と言わんばかりにすぐ横のドアを開け放った。
「それじゃ、失礼しました」
「止めはしないが、勧めもしないよ。ひびきくん」
 部下の身を案じると言うよりは、「面倒だから行ってくれるな」とでも言いたげな求道。しかし響と呼ばれたその部下は、背後の求道に横顔で再び歯を見せ付け、その表情のみを返答とした。
「ふう」
 再び部屋に一人となった求道は、独り静かに溜息をついた。

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