第二章
「犬も歩けば棒に当たる。僕の場合は、見るからに怪しげな黒い服の人に」



 緑川が本日受けるべき全ての授業が終了し、放課後。
「こりゃ積もるかねえ」
 ふにゃけた声が、すぐ隣から現在の状況を伝えてくる。
 いつものように二人並んで下足箱を抜け、いつものようにそのまま二人並んで帰ろうとして、そこに広がっていた光景。
「傘が欲しいくらいだね……」
 大雪。少々強めの風がこれに加われば、緑川の言う「傘が欲しい」は、「傘が必要」になっていたであろう。
 校舎の玄関を抜けた二人は、他の数名がそうしているように、ほんの少しだけ足を止めて空を見上げる。ゆっくりゆっくりふわふわと、そして次から次へと、大粒のぼた雪がアスファルトの地面を埋め尽くさんと集団降下を続けていた。
「まあまあ、そんな嫌そうな顔しなさんなあ。いつもと違う風景を楽しもうじゃないか千秋い」
「ここらじゃあんまり珍しくもないんだけどね」
 北国とまではいかなくとも、雪の多いこの地域。それが十二月ともなれば尚の事で、今冬に入ってから何度目の雪かは――わざわざ数えている者もいないであろう。
「あれえ? 千秋、雪って嫌いだったっけ?」
「そうじゃないけどさ」
「だあよねー。ほいじゃ、行こ行こ」
 そうじゃないけどさ、の続きをどうしようか一瞬だけ悩んだ緑川であったが、水野がまるで気にせず、むしろ先を言わせようとしなかったので、悩むのはすっぱりと取り止めた。
「うん」
 制服の襟から首筋へ雪が入り込むかもしれない、と考えると最初の一歩を踏み出すのにやや勇気が必要だったが、
 ――まあ、二日前のアレに比べりゃ、ねえ? こんなのと比べるのもおかしな話だけど。
「おや、急に楽しそうじゃん」
「あれ、そんな顔してる? 変だなあ、ボクとしては嫌ーな顔になってると思ったんだけど」
「どこがあ? ま、嫌ーな顔されるよりはいいんだけどねー」
 普通に考えて二日前のあの一件を、修羅三名と出合ったあの日を思い出せば、そこにあるのは恐怖でしかない筈だった。……いや、実際に緑川の胸中には恐怖しか湧かない。だが、緑川は微笑んでいた。思い出から沸き上がる感情は恐怖だけだったが、それ以外から湧いてくる感情もあったのだ。
「だよねえ。気にしない気にしない」
 それ以外とは、今現在のこの状況。昔から見知った幼馴染と、悪くない風景の中を談笑しながら歩くという登下校。穏やかな時間の中で恐怖を再起させたとして、それに支配さえされなければ、恐怖は現在の「安全」を相対的に強調するだけのものでしかなくなる。その安堵から、そしてあの経験を踏まえて安堵しているという可笑しな自分自身について、緑川は頬を緩めてしまうのだった。

「にしても面倒な事になったなあ、おい」
「そうですね」
 黄芽と双識姉弟が住む廃工場。緑川家から少し山を登った先にある廃病院から帰ってきた黄芽と白井は、ソファのある応接室に赤と青を通し、自分達はその正面の廊下に立っていた。黄芽は大金棒を床に突き立て、白井は気だるそうに目尻を垂れさせ――
 仕事の、話である。
「その台詞聞くの、もう五回目くらいになりますかね。昨日から数えて」
「んだってよ、面倒だろ実際」
「そりゃそうですけどね」
 五回目ともなると、最早「面倒」の内容をわざわざ口にする事もなくなっていた。それこそ面倒なのである。
 言うまでもない事を敢えて言うとするならば、「面倒」の内容は二日前の事件についてである。二日前の事件と言えば、日付が変わった直後に男性一人を苦もなく捕まえた件と、大いなる苦を以って挙句に修羅三名を取り逃がした四時から五時、一時間の件。そのどちらの事かと問われればそれは当然、後者である。
 そしてそれの何が今において面倒なのかと言うと、緑川という個人が狙われていたという事が、であった。
「次にいつ来るか分かんねーんだもんなあ」
「まあ、保護対象が身内なのはやり易いですけどね。……気分的には最悪ですけど」
「けっ」
 肩をすくめ、眉をひそめる白井。忌々しそうに吐き捨てる黄芽。
 常にニヤニヤして捻くれた余裕を見せ付けてきたあの男が言うには『これでもそこそこに忙しい身なもので、次がいつになるのかは分からないがな』との事であった。普通に考えて、それは暗に「次」が随分と先の話になるであろうという意味を含んでいるのだろう。だがはっきりとは明言されていない以上、いや、明言されていたとしても、緑川の警護を怠る事などできる筈もない。
 なんせ相手は悪人なのである。律儀に言葉通りの行動を執ってくれる保証など、どこにもありはしないのだ。
「……そろそろ行くか。学校終わってる頃だろ」
「ですね。まあ、あの時の様子じゃあ一般人を巻き込んでまでって事はないでしょうけど」
 右手中指で眼鏡の位置を直しながら、白井は思い返していた。あの日自分が戦った、アクセサリーを大量にぶら下げた大金鎚を振るう青年の行動。つまり、周囲への被害を抑えるために金鎚を横にしか振らなかった事を。もっとも、白井自身が行った挑発のおかげで怒り狂った青年は、それ以降縦に降り始めてしまったのだが。しかもその大金鎚を、アスファルトを安々と溶かすほどの高温にまで仕立て上げたうえで。
 当然横に振っていたのが周囲への被害を抑えるためだったというもただの推測でしかなく、彼の戦闘スタイルとしてそうであっただけかもしれないという可能性がある事は、白井自身も承知していたのだが。
「そりゃ学校終わりなんざ人は多いだろうけどなあ、そうも言ってらんねーだろ」
「もちろんです。――まずは千秋君の家に行って、帰っているかどうか確認してから、帰ってなかったら通学路を遡りましょうか。これならすれ違う事もないでしょうし」
「あ? あー、じゃあそれで。お前は千秋の家の前で留守番な」
「了解しました」
 もし何かがあったとしても、今週の担当組――夜行の仕事を行う組である金剛とシルヴィアのペアがすぐに駆けつけてくれるだろう。がしかし、用心に越した事はないだろうという事で、過剰にならない程度に緑川を警護する事にしたのである。
「千秋って確か、いっつもダチと一緒に帰ってんだっけか?」
「ええ。『見えない人』みたいですけどね。何て言うか、ぽやんぽやんした女の子です」
 過剰にならない程度というのは、緑川の対人関係に影響を及ぼさない範囲で、という意味である。
 幽霊という存在は姿形だけで言うなら一般の人間となんら変わりがないため、幽霊が見えていてもそれに気付かない人間が多いのだ。と言っても、その絶対数は極々僅かなものなのだが。
 そしてそれ故、生きているうえで自分達を見る事ができる人間が知り合いである幽霊は大抵の場合、その人間とともに人が多く集まる場所へ――今回の場合は、緑川が通う高等学校へ――行きたがりはしない。見える者見えない者の間で、擦れ違いが生まれてしまうかもしれないからである。
「おーい、赤に青ー。千秋んとこ行くぞー」
『はーい!』
 ドア越しに黄芽が部屋内の二人へ呼びかけると、オセロをしていたか窓から雪を眺めていたか、もしくはその両方だったであろう双識姉弟は、いつも通り元気良く返事を返してきた。その声のおかげか、黄芽と白井の両名とも、やや沈みがちだった表情に明るさを差し始める。そういう意味では、この幼い二人も黄芽や白井、そして緑川の、心強い味方という事になるのだろう。
「雪すごいよ、千尋お姉ちゃん!」
 やがて開いたドアから出てきた赤は窓を指して興奮気味に黄芽の袖を掴み、
「今日は青が勝ったよ、オセロ」
 青は青で嬉しそうに、二つに畳んだオセロ盤を掲げて勝利の報告。どうやらどちらも楽しんでいたらしい。
「もし積もったら外で雪投げでもしようなー」
『うん!』
 黄芽の提案にこれまた嬉しそうに頷く双識姉弟であったが、その隣で白井は苦々しく笑ってみせた。
 ――雪だるま大の球を投げ付けられそうだなあ。もしそうなったら、眼鏡は外しておいたほうがいいのかも。

「うええ」
 随分と離れた廃工場で白井が眼鏡の心配をしていた丁度その頃、水野と並んで雪の中を帰宅中だった緑川は、踏まれた蛙のようだとも思える奇妙な声を上げていた。
「ん? 千秋、どしたあ?」
 そんな声を出せば同行者から気に掛けられるのも当然で、水野の細い細い糸のような目が、若干傾けられた首とともに緑川へ疑問の意を向けてくる。しかしそれを前にして、緑川は事態の説明をためらった。どうしたも何も、水野が気付かない筈がない。
 こんな雪の降る寒さの中、黒いドレスを身に纏った人間が立っている事など、不審に思わない訳がないのだ。しかも往来の真ん中である。
「千秋い?」
 しかし、現に水野はそちらを見てすらいない。それどころか、自分達と同じく下校中の周囲の人間も誰一人として騒ぎ立てていない。他の下校者はともかく、いくら抜けたところのある水野とは言え、あれを目にしておいて全く気に掛けないという事はないだろう。ましてや彼女は視力が悪いわけでもなんでもない。だとするなら、思い当たる可能性は一つ。
 ――あの人、幽霊?
 もちろん、そうだと言い切れる程の材料は緑川のもとに無い。だが、先日修羅に襲われた事もあって、一度そう考えるとその黒ドレスの人物から意識を離せなくなってしまうのだった。ドレスと言うからにはその人物は女性で、しかし見たところあの日の修羅の女性、穂村冷香ではないようだったが。
「ちーあーきー?」
「ひあっ」
 本人は認めたくないのであろうが、誰から聞いても女子だとしか思えないような声色で小さな悲鳴を上げた緑川が呼びかけられた側を向くと、超至近距離に水野の糸目があった。この距離でもまだ開いているようには見えなかったが、そこは幼馴染である緑川。今更指摘するような事ではない。
 ただし、水野は女子で、緑川はこれでも男子である。
「……ご、ごめん何?」
 複数の意味で胸の鼓動を速めていると、目の前の糸目がこの距離だから分かるであろうという程度にだけ吊り上がる。
「何って、そりゃこっちが聞きたいよお。ぼーっとしちゃってえ」
 機嫌を損ねた口調でそう言いながら、近付けた顔を離す水野。そうなってしまえばやはり、僅かな糸目の吊り上がりはもう認識できなかった。もちろん口調がこうである以上、現在の彼女の心境は疑う余地がないのだが。
「なな、なんでもないよ」
 と答えるしかないものの、そうこうしている間にも一歩一歩着実に、黒ドレスの女性との距離が詰まっていく。
 恐怖、というレベルには達していない。十メートルあるかないかの距離まで近付いた現在に於いてそれは未だ、疑惑。
 容量満載で横に膨れ上がった花束を逆さまにしたかのような形の、巨大とも言えるスカート。その裾からは、ハイヒールを履いた足の脛から下辺りが見えている。そして、そのハイヒールもまた黒い。ドレスには白いヒラヒラのフリルが部分部分に一周しており、その出で立ちだけを見て緑川の頭に浮かんだのは、何故か「フランス貴族」という言葉だった。当然、ちらりとだけ見る分には、その女性は日本人の顔をしているのだが。
 そのちらりと見た女性の頭の上には、緑川の予想に反して、冠やら何やらの被り物は乗っていなかった。どうしてそういう予想を立ててしまったのかは緑川本人にも良く分からなかったが、とにかくその女性は、黒く長い後ろ髪を何で纏めるでもなく自然に後ろへ流していた。
 ――千尋さんのポニーテールを解いたらあんな感じになるのかなあ。あ、いや、この人ちょっとウェーブが掛かってるな。千尋さんはストレートだし……。
 等と思いもしたが、当然ながら思うだけである。黄芽本人がここに居て髪比べができる訳でもなく、だからと言って見知らぬ女性にポニーテールにするよう頼むなんて事も、一般的に考えてすべき事ではない。
 ちなみに。この天気の中で立ち止まっているのなら言うまでもない事なのだが、その女性には雪が積もりだしていた。頭にも、ドレスにも。
 そしてその隣を通るまで、あと五歩程度と言うところに差し掛かり――
「このまま降り続けてくれたらいいねえ」
 唐突に、水野。
 いや、あちらからすれば唐突でも何でもなく、普段通りに会話を始めただけなのだろう。ただそれが緑川にとっては唐突だったため、
「ふぁいっ!?」
 驚いてしまう。そして次に自分が声を上げてしまった事に驚き、焦り、反射的に黒ドレスの女性を見てしまう。後から考えてみれば今ここで彼女の顔色を窺う意味などまるでなかったのだが、何分緑川は一般人程度に気が小さい。気が小さいが故に頭が混乱すれば、続いて体が混乱してしまうのは誰にもどうしようもない事である。
「……………!」
 そして、目が合う。言い逃れが出来ない程にばっちりと、黒ドレスの女性と視線が交わる。緑川よりやや背が高いその女性は、身長的な話だけでなく緑川を見下すように目を細め、唇をほんの僅かにだけ「へ」の字へ近付けた。
 ――だが、それでも「ただ目が合っただけ」である。見知らぬ人間と目が合う事など、それほどまでには珍しい事態ではない。今回もただその事態を受け入れ、その上で何事もなかったかのようにすれ違ってしまえばいい。緑川はそう考えたが、
「お待ちなさい」
 相手はそう考えてくれなかった。

「千秋ーっ!」
『千秋お兄ちゃーん!』
 緑川の自宅前。殆ど誰の耳にも届かない大声が、雪景色の中にこだまする。
 流れを止めればたちまち凍る温度になっているであろう、そこかしこに枝分かれする小川は、降り掛かる雪を瞬時に溶かして自身の一部とする。逆に黄芽一行が足を立てている、緑川家と道路を繋ぐ小さな橋。そしてそこから繋がる地面一帯は、舞い降りる雪をその身に纏う薄い衣として順調に重ね集めていた。
「やっぱまだ帰ってねえか?」
「みたいですね」
 どこからか双識姉弟よりも更に幼いはしゃぎ声がきゃあきゃあと聞こえてくる中、赤を肩に乗せた黄芽と青を肩に乗せた白井が、空振りを確認する短い会話。と言って、それが悲観するような事かと言われれば、全くそんな事はないのだが。
「おっし、じゃあ予定通り学校行くぞ。お前はここで留守番な」
 赤を肩から降ろしつつ白井に向けてそう言うと、
「行ってらっしゃいませ」
 同じく青を肩から降ろしつつ、わざとらしい仰々しさで答える白井。
「行ってきます、修治お兄ちゃん」
「行ってきまーす。あ、オセロ持っててもらっていい?」
 降ろされた赤と青は早速と言わんばかりにお互いその小さな手を繋ぎ合わせ、青はその片手に抱えていたオセロ盤を白井に差し出した。頷き、それを受け取った白井は、その場に腰を屈めて二人と目の高さを合わせる。
「行ってらっしゃい、二人とも。転ばないようにね」
『はーい』
 こうして白井は緑川家前に残り、黄芽と赤、青の三名は下校中の緑川と顔をあわせるべく、彼が通学路として使っている道を遡り始める。
 三名の背を見送り終わった白井はおもむろに空を見上げ、灰色一色の空と、そこからやってくる大量の白い点を眼鏡の奥の目に納め、まんざらでもなさそうな顔をした。
 そして、溜息一つ。その溜息もまた、白かった。

「お友達の目があるにしても、強情なコだこと」
「千秋い、なんで速足なのさあ?」
 いつも通りの二人での帰宅は、いつも通りでない三人での帰宅に様変わりしていた。
 水野の目を気にして、という事も勿論。だがその他に、幽霊云々を一切抜きにしてもまだ怪しいその人物と関わりたくない、という理由もあって、いやむしろそちらのほうが決定的となって、緑川は黒ドレスの女性を無視していた。
 無視とは言ってもそれは、既に「気付いていない振りをする」という事を放棄したわざとらしいものだったのだが。
 女性の足元を見てみる。うっすらと積もり始めている雪の膜に、女性のハイヒールが突き刺さる。――だがそれは、いわゆる足跡として形を残さない。
 ――突き刺さってるんじゃなくて、すり抜けてるって事か。どうしてわざわざ? やっぱり、誰かが足跡見たら変に思うからかな。
 何はともあれ、女性が幽霊である事は確定した。
「そういう強気な態度に出られちゃうと、虐めたくなっちゃいますわねえ。うふふ」
 しかし、確定しても尚、この人物についての主要な問題は別のところにあるようだった。不幸の星の下に産まれた、と揶揄される事もあり、そしてその自覚がバッチリな緑川からしても、この不幸は流石に甘受できるものではなかった。
「ちーあーきっ!」
 そしてそちらの加虐性をたっぷりたっぷり含んだ微笑みに気を取られないようにと気を取られていると、これまでより語調を強めながら隣を歩いていた水野が緑川の前に回り込む。そうまでされれば気に留めない訳にもいかず、緑川は足を止めた。
 当然、黒ドレスの女性も。
「無視すんなよお」
「ご……ごめんね澄ちゃん。ちょっと考え事してて」
「あたくしの事を、ですわよね?」
 この外見、口調、そして「虐めたくなる」発言に加え、自身を「あたくし」と称する事まで判明。ますますもってこの女性、只者ではなさそうだった。
 ――嫌な意味で、だけどね。

「たくさん積もったらいいねー」
「ねー」
 薄く積もった雪にさくさくと音を立て、二つ並んだ小さな足跡が後ろへ後ろへと残ってゆく。その小さな足跡の持ち主、手を繋いだツインテールの女の子と短髪の男の子は、今より更に雪が積もってくれと口にしながらも今のままで充分に楽しそうであった。
「この分だとすぐには止みそうにねえからなあ。明日の朝んなったらできるかもな、雪合戦」
 その後ろから、前の二つよりもやや大きな足跡。長いポニーテールに目立つ胸部、そしてその胸部以上に目立つ八角形の鉄塊を肩に担いだそのやや大きな足跡の持ち主は、前方の幼子二人に期待を持たせようと言うより自分が楽しみにしているような口調でそう言う。そしてそう言いながら見上げる空は、目に収まる範囲の端から端まですっぽりと灰色一色なのだった。
「本当に? えへへ、楽しみ」
「あ、でも明日はお休みじゃないから、千秋お兄ちゃんは一緒にできないね」
「ああ、そっかあ」
 青が気付いた「明日は平日」という残念な事実に、赤も釣られて肩を落とす。
 幽霊である赤や青、そして黄芽と白井には、基本的に平日と休日の違いはない。より正確に言うならば、ほぼ毎日が休日なのである。例外と言えば黄芽と白井に紫村から仕事の連絡が入った場合であるが、担当組から外れている今週に於いてはそれもない。つまりは、何かをする際に都合が合わないのはいつも緑川なのである。
「明日の学校が終わった時に、まだ雪が残ってりゃいいんだけどなあ」
 そうすれば一緒に遊べる。――ではなく、そうすれば虐められる、である。
 であるのだが、
「いいんだけどねー」
「そうだといいねー」
 幼い双識姉弟にはそこまで推察できず、ただ純粋にそうなる事を、見上げた灰色の空に願うのだった。二人三脚のように左右対称で進める足とお互いしっかり繋いだ手の振りを、一層大きくしながら。

「まあいつまでもこうしてても何ですし、用件だけ言いますわね」
「この分なら雪だるまとか作っちゃえるかもねえ」
 話を聞こうとするだけで、疲れてしまいそうだった。二人の声が同時に聞き分けられないというこの場合、耳と脳が聖徳太子の何分の一のスペックになるのかは分からなかった。だが分かったところでどうにもならないのは分かり切っていたので、計算するのは止めておく緑川であった。
「ボクはかまくらのほうがいいかなあ」
「あはは、そりゃちょっと大層な話だあねえ。て言うかぶっちゃけ無理じゃない?」
「まだ無視なさる気?」
 二人の声を聞き分けられないなら、一人の声だけ聞けばいい。単純明快な解決法に、緑川は心の荷が下りるようだった。が、しかし、当然の事ながら黒ドレスの女性の荷は何一つとして落ちていない。
「……ま、いいですわ。仕方無いですものね」
 溜息混じりにそう言い、ここからは女性の独り言。
「そうですわねえ……『YES』なら一回、『NO』なら二回、腰の辺りでも叩いてくださいな。口で答えろとは言いませんわ」
「前に確か、腰辺りの高さまでは作ったよねえ。あの時は周りの雪がなくなっちゃったっけ。腰って言っても小さい頃だし、大した高さじゃなかったんだろうけどさ」
「あなた、幽霊が見えるのなら『鬼』ってご存知? 警察みたいなものなんですけど」
「あはは、あの時は大き過ぎたんだよ。もっと小さいやつなら雪も足りると思うよ?」
 水野に笑い掛けながら、ぽん、と腰ポケットの辺りを手で打つ。一度だけ。
「あら、それなら話は早いですわね」
 ――鬼に用があるって、この人何か困ってたりするのかな?
「それでも大分雪使うだろうし、近所のちびっこからひんしゅく買うかもねえ」
「ここには確か、三組六名でしたっけ。誰でもいいから会わせて欲しいのですけど」
「高校生が雪を独り占めとなると、ちびっこだけじゃ済まないかもね」
 少しだけ考え、ぽん、と再び一回。
「これはどうも。ところであなた、制服は男子のものみたいですけど……?」
 ばちん!
「あら、気を悪くしました? ごめんなさいね」
 と、それはともかく。鬼に会わせるというのは、水野と別れてからになる。そして水野の家は緑川の家の極々近所なので、「水野と別れてから」という条件は必然的に「帰宅してから」という条件とイコールになる。はいかいいえだけで伝えられる内容ではないので、そこについては伏せておくしかなかったのだが。
 ――まあ、困ってるって言うならね。澄ちゃんがいる事に気を遣ってくれてるんだから、見た目ほど悪い人でもなさそうだし。
 ただ、今にも口で返事するのと手で返事する相手が逆になっちゃいそうで怖いけどね。それからボクは男です。と内心二つの溜息を吐いて、緑川の帰路は続く。
 幸いにも黒ドレスの女性はそれ以降口を開かなかったので、そんな心配が現実のものになる事はなかった。そして、水野との雪遊び談義のみが楽しげに続く。

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