第一章
始めましては大混乱



 途切れてしまった意識がじわじわと活動を再開し、それに合わせて、まぶたの向こうから差し込む光をこれまたじわじわと両の目が感知し始める。
 脳の回転速度とは、案外速いものらしい。
 まぶた越しに差し込んでくる光を認識し、目を開け、輪っか状な蛍光灯の光り加減を「まぶしい」と判断し、折角開いた目をしかめさせるまで。この時間にして恐らく一秒掛かるか掛からないかという僅かな間を経て、僕は自分がどうして今のような状況に陥っているのかを、少しずつ少しずつ、だんだんだんだん、思い出していた。
 ――僕はただ、管理人さんに挨拶しに来ただけ。その筈だったのに。


 日も沈みかけた夕方と夜の中間。暫らく住宅地をさまよった僕はようやく、目的の二階建て安アパートに到着し、そのアパートの庭掃除をしている女性を遠巻きに見詰め、そしてしばし考える。
 あの女の人は――違うよね。若すぎるし。僕と同い年くらいかな? でも掃除してるし……いいや、取り敢えず訊いてみよう。
「すいませーん」
 僕はその場から動かずに、こちらに気付いてない様子のその女性へ声を掛けた。すると彼女は竹箒を持った手を止め、一度こちらを見て、それから声を掛けられたのが自分かどうかを確かめるためか、いったん周りを見渡す。そして周りに誰もいない事を確認すると親切そうな笑みを浮かべ、茶色のサンダルで土を踏みしめながら、こちらに近付いてきた。
「何か御用ですか? もしかして、今日からここに住むっていう日向さん?」
 何か御用ですかと訊かれた割に、用件を先に言われてしまった。
「あ、はい、そうです。日向孝一です」
 って事はやっぱりこの人が?
 多分違うだろうなーとは思いつつも、恐る恐る尋ねてみる。
「あの、ここの管理人さんですか?」
 案の定、そうではなかったようで、彼女は笑顔のまま「違いますよ」と首を傾ける。
 その時、彼女の鮮やかな茶色いショートヘアーが、首の傾きに合わせて僅かに揺れた。そして髪とともに目につく赤色のカチューシャ。そろそろ空が薄暗くなって来ているというのに、髪もカチューシャもはっきりとその色を主張していた。
「管理人さんはあっちの一番奥の部屋です。あの玄関の明かりが点いてる部屋。分かります?」
 彼女が振り返って指を指す先、一階部分の一番奥の部屋。どうやらあそこに管理人さんがいるらしい。
「あ、はい。分かりました。ありがとうございます。えっと、ここに住んでらっしゃる方なんですよね? これから宜しくお願いします。後でまたちゃんとしたご挨拶に伺わせてもらいます」
 軽く頭を下げてご挨拶のご挨拶をするも、もう暗くなってきたし日を改めたほうがいいかな? なんて、少し考える。なんせ初めての一人暮らしだし、こういう時の応対には慣れていない。となると慣れない頭であれこれ考えるよりは、相手方の反応次第でどうするか決めたほうがいいかな、と判断。
 で、その相手方の反応や如何に。
「挨拶は……あはは、多分わざわざしてもらう必要もなくなると思います」
 どういう事だろう? いらないお節介は不要って事なんだろうか? もしかして、早くも拒絶されてるとか?
 想定外の反応に、軽くパニックを起こしながらぐるぐるぐるぐると考えを巡らせる。しかしパニックであるが故にたいした考えは浮かばず、たいした考えが浮かばないが故に事態に対処できず、事態に対処できないが故に、僕は身動きが取れなくなってしまう。
「まあまずは管理人さんに会ってみてください。怖い人じゃないから、そんなに固くならなくても大丈夫ですよ」
 この人は多分、僕が停止している理由を勘違いしている。が、それはともかく。
 まずは管理人さんに会う? 荷物もあるし、自分の部屋に行こうと思ってたんだけど……何か用事があるのかな? まあ行って損する事もないだろうし、管理人さんの部屋に向かう事にしよう。
「あの、ありがとうございました」
「どう致しまして」
 お互いにぺこりと頭を下げてすれ違う。
 結局、挨拶をする必要が無くなるってどういう意味なんだろう?
 数歩踏み出すとまたそれが気になって、さっきの女性を振り返る。すると彼女は、ポケットから携帯を取り出しているところだった。そのなんでもない光景に「あんまり気にしても仕方がないか」と思わされ、僕は再び歩き出した。

「来ましたよ楓さん! 日向孝一さん!」
「あ、ホントに? で、どうだった?」
「いい人そうですよ。ちゃんと挨拶してくれたし」
「マジで!? ……くっくっく、これは面白そうだねぇ」
「そうですねー。えへへへ」
「よし、じゃあだいちゃんとなっちゃんに戻るように――あ、来た。んじゃしぃちゃん、みんな集めといてね」
「了解です!」

 管理人さんの部屋のチャイムを鳴らして十数秒後。部屋の中からどたどたと足音が聞こえ、はてさてどんな人が飛び出してくるのかと思っていたら、ドアが凄い勢いで開かれる。ついでにそのまま限界まで開き切り、壁に衝突。その途中でドアが鼻先をかすった気もするけど、取り敢えず問題は無いみたいだ。それで、壁に叩き付けられたドアは無事なんだろうか?
「お待ちどー! ようこそあまくに荘へ!」
 その声に、ドアから目の前に立っている人物へと視線を移す。するとそこに立っていたのは、管理人というイメージからかけ離れた若いお姉さんだった。イメージではパーマを当ててくるくるしていた髪は背中に回るほど長く、それでいて思わず手を滑らせてみたくなるほどに綺麗なストレートヘア。イメージでは紫色だったその髪の色は、見惚れてしまうくらいに自然で綺麗な黒。そして服装はと言うと、髪の色に合わせたかのような黒いシャツに、自らの若さを見せ付けるかのような太もも丸出しのホットパンツ。
 もう、何から何まで僕の中の管理人さん像には当てはまらなかった。
「日向孝一くんだね? さあ上がって上がって!」
「え!? え!?」
 イメージ中の管理人とのギャップに動揺していると、腕をつかまれて部屋の中に引きずり込まれ始める僕。抵抗する余裕なんてありません。
 ――ここでする事なんてせいぜい玄関口で挨拶するくらいだと思ってたのに、これはいったいどういう展開ですか?


 連れ込まれた部屋の中、ちゃぶ台を挟んで管理人さんと向かい合って座う。もちろん僕はガッチガチの正座で。対する管理人さんはあぐらをかき、タバコに火を付け始めた。そして口から白い煙を吐き出すと、僕の顔をまっすぐ見て―――なぜか驚いたような顔をして固まる。
「ど、どうかしましたか?」
 わけが分からない状況で驚かれても、こっちだって驚くしかない。なんせ管理人さんの動作ひとつひとつにビクビクしている状況なもんで。
「あ、あぁいやいやなんでもないなんでもない」
 管理人さんは薄笑いを浮かべ、手をヘラヘラと上下に振った。
「そんでさ、入口で女の子に会ったよね? ピンクのノースリーブで、膝ちょい上くらいのスカート履いてる女の子」
 と言うと、あの掃除してた人か。……ん? なんでこの人が知ってるんだろう? 外では会ってないよね?
「会いました……けど?」
 何故それを知っているのか、そしてこの質問の意図がなんなのかが分からず、ただ会ったか会ってないかだけを答えた。
「ちょっとお喋りしたんだよね?」
「は、はい」
 タバコから立ち昇る煙とお互いの口以外、動くものは無い。声はするものの、静かだ。そして怖い。
 もしかして、あの女の人と喋ったのは何か悪い事だったとか? でも何が? なんで?
 痺れてきた足の嫌な感覚が気にならないほどの緊張で、なんだか頭がふらついてきた、その時。
「オッッケェイ! 全員入って来ぉーい!」
 管理人さんがだんっと足を鳴らして急に立ち上がり、誰かに向かって大声を発した。僕はその大声に驚きつつも、管理人さんがその楽しげな視線を向けている方向――すなわち、この部屋のドアの方を振り返る。
「お邪魔しまーす」
「へ?」
 緊張しているところに気の抜けた声を聞かされたのももちろんながら、現れた人物に僕の全身の緊張は一気にほぐれてしまう。
 開いたドアから覗いているのは、庭で掃除をしていた女の人だった。彼女は僕を確認すると、靴を脱ぎながらまた優しそうな笑みを浮かべる。そして視線を僅かに動かし、立ち上がったままタバコを吸っている管理人さんの方を向くと、
「清さん、もうちょっとかかるんだそうです」
 それを聞いた管理人さんは、タバコを口から離して苦笑する。
「あー、やっぱり? まあ部屋にいるだけマシって事にしとこうか」
 その苦笑に釣られるように、庭先で僕に見せたのと同じ仕草で首を傾け苦笑する、掃除をしていた女の人。もちろんその清さんという人の事は知らない。なので僕は、頭の上で往復する言葉を黙って聞いている事しかできなかった。
「あはは、そうですねー。でも、もうすぐ来ると思いますから……」
 靴を脱ぎ終わって部屋に一歩入った所で管理人さんを相手に、その清さんなる人の話をする赤カチューシャの人。しかしその時、彼女の後ろから男性の声が低く響いた。
「早く入れよ。後がつかえてんだけど」
 不機嫌さを隠さないその声が単純に怖くて、僕は電気ショックでもされたかのように体を震わせしまう。――しかし、文句を言われた本人は特に驚く様子も無い様子。
「あ、ごめんごめん」
 後ろを向いてそう謝った後、すたすたとこちらにやって来て、僕の隣に腰を落ち着ける。そして思い出したように、
「あ、楓さん。はい携帯」
「ん、あぁあぁ忘れてた」
 どうやら彼女の携帯は管理人さんから借りていた物らしい。って事はこの人、自分のは持ってないのかな?
 そして彼女がこちらにやってきた事で、彼女の後ろに隠れて不機嫌そうな声を発した人物が僕の視界に納まる。
 その人物は赤いタンクトップにツンツン頭、いかにも不機嫌ですと言わんばかりのいかつい目つきにガッチリ体型の、怖そうな男だった。赤カチューシャの人と同じく、僕と同じ年くらいに見える。僕より一回りくらい身長高いけど。
 そして彼の両肩には、ちょこんと見える指先。脇からは何も履いてない素足。肩の向こうからこちらを見詰める目。どうやら誰かをおぶっているらしい。
「着いたぞホラ。とっとと降りろよ」
 背負っている誰かにも不機嫌そうにそう言うと、彼は身をよじらせて背中の誰かを床に降ろす。現れたその背中の誰かの正体は、小学生ぐらいの女の子だった。
 管理人さん以上に長く、背中を遥かに通り過ぎて床にまで届きそうな長い白髪は、くせっ毛な上に長さが揃っていないのか所々でぴょんぴょんと飛び跳ねている。そして服装は何の飾り付けも無い真っ白なワンピース。最後に、まるでそれら白い髪と白い服に合わせたかのような真っ白な肌。何より見た目の年齢に相応しくない鋭い目つき。
 その目付きのせいか、どこか大人びた雰囲気を醸し出す上から下まで真っ白なその女の子は、「すまんな」と一言男に礼――もしくは謝罪をして、ペタペタと足音を鳴らしながらこちらにやって来た。男もその後に続いてどかどかと入室。
 入ってきた三人と僕と管理人さんの五人でちゃぶ台を囲むと、管理人さんが膝を叩いて切り出す。
「おし、じゃあせーさんまだ来てないけど始めちゃおうか」
 で、一体何が始まるんでしょうか?
「まずは日向くん。幽霊って信じる?」
「はい?」
 管理人さんのあまりに突飛な質問に、頭で考えるよりも早く口が答えてしまった。
 幽霊? そんなの信じるわけがないでしょう。と、後になって答えが思いつく。なので改めて口に出して答えた。
「いえ、テレビとかでは見た事ありますけど実際には見た事ないですし、信じてるか信じてないかと言われたら信じてませんが……」
 頭で思いついた答えほどキッパリとは言えなかった。こういう時は言葉からトゲやらカドやらをできる限り取り除いて丸めるに限る。
 その丸まれた僕の回答に管理人さんと赤カチューシャさんは笑みを浮かべ、タンクトップの男の人は「けっ」とそっぽを向き、ワンピースの女の子はこちらを見るも反応無し。
 与太話かと思ったらみなさん結構マジな感じじゃないですか? 幽霊って、何ですかそれ? 何かの怪しい宗教の勧誘ですか? そんな、新しい入居者を一人一人捕まえるなんて性質の悪いやり方があるんですか? ……………回避不可能ですよこんなの! どうしたら!?
 庭掃除をしていた女性が登場した事でほぐれた緊張がそれ以上の恐怖となって蘇り、僕の身に降りかかる。
 しかし「緊張→安心→恐怖」と言うムチ・アメ・ムチ連携に、もともとそんなに打たれ強いとは言えそうもない僕の心臓は疲れ始めてきた。そう感じてその細っちい心の臓がポッキリと折れそうになった時、管理人さんがまた口を開いた。咥えたタバコが落ちない程度に。
「今ここにいるアタシと日向くん以外の三人が実は幽霊だって言ったら、どうする?」
 何の冗談だろう? と三人を改めて見てみるも、別になんて事ない普通の人達だ。幽霊だって言われても、そんなの信じられるわけがない。
「あの、何の話をしてるんですか?」
 最早恐怖よりも疲労が勝ってしまい、不信に思っている事が丸出しの口調でつい、尋ねてしまった。でも管理人さんは特に動じる様子も無く、タバコの煙を吐き出して続ける。
「ん? そのまんまだよ。じゃあみんな、証拠披露ー」
 管理人さんのその合図で他の三人が……と思ったら、赤カチューシャさんだけがちゃぶ台を手で叩いた。
 叩い……あれ? 音がしない? って言うか、手が――ちゃぶ台をすり抜けてる!?
「大吾くんも成美ちゃんも、一緒にやらなきゃダメだよお」
 そこにちゃぶ台が存在しないかのように腕を貫通させ手をひらひらさせながら、あとの二人に文句を言う赤カチューシャさん。
「んなの一人やりゃあ充分だろ? オレはやだぜ。バカみてえだし」
 赤タンクトップの男が面倒臭そうに頬杖をつきながらそう言うと、ワンピースの女の子もそれに続いた。
「悪いが、右に同じだな」
 二人ともにはっきりと協力を断られた赤カチューシャさんは、溜息をつきながら手の平をちゃぶ台から引っこ抜いた。ついでに管理人さんも溜息をつく。
「で、でもこれで分かってもらえましたか? ここにいる三人は、幽霊なんです」
 赤カチューシャさんにそう問い掛けられて、僕はふと自分を取り戻す。その瞬間まで目の前で何が起こってるか理解できず、ただぼけーっと三人のやりとりを眺めていただけだったのだ。
「え、えー……っと……」
 何をどうすればいいのか分からず、取り敢えず目の前のちゃぶ台を手で叩いてみる。
 ぺん。
 これが結果。当たり前だけど、僕の手はちゃぶ台に衝突してしょぼくれた音を立てただけだった。つまり、この人達は本当に?
「うわ、うわあああぁぁぁ!」
 僕の頭が三人の正体を悟った瞬間、僕の体は立ち上がって逃げ出していた。
 ――そりゃ逃げたくもなるよ! いきなり目の前の三人が幽霊だなんて分かっちゃったら! 何ここ!? お化け屋敷!? 僕はなんでこんな所に!? 住むの!? 住めるの!? こんな所!
「あっちゃー……」
「あ、待って!」
「そりゃ普通はそうなるっつの」
「まあ仕方ないな」
 背中にそんな声を受けながら、僕はドアを目指して走る。
 ――大した距離じゃない! 靴履かずに飛び出せばあと三秒もかからないさ! ほらもうドアノブに手が届く! あとはドアを開けて外へ!
 しかし掴んだドアノブは、明らかに僕とは別の力によって回りだす。
 ――誰か来た!? こんな時に!
「お願い、待って!」
 ドアが何者かによって開けられると同時に、後ろから誰かに手を掴まれた。振り向くとそこには赤カチューシャ! ……さん! 僕は恐怖で声も出せず、掴まれた手を振りほどこうと無茶苦茶に振り回す!
「遅れて申し訳な……おや? この状況は……握手ですか? それにしては大袈裟ですね。いやあ初日から好印象みたいですねえ。んっふっふっふ」
 背後からの声に振り返ると、温和なお父さんwith眼鏡といった感じの人が楽しそうに僕と赤カチューシャさんを眺めていた。
 ――いやいや、それどころじゃないですから!
「こっ、こっこの人達、みんな幽霊ですよ! あぶっ、あぶっ、あぶな……!」
 なおも掴まれた手を振りほどこうとしつつ、回らない舌でなんとか状況の説明を試みる。
しかし、楽しそうな笑みを浮かべ続ける男性の口から返された言葉の意味するところは、
「それならご心配なく。私も幽霊ですから」
 わあ楽しそう。
 僕は自分が置かれた状況が如何に絶望的であるかを理解すると、その状況から脱却する最後の手段をとることにした。
 意識のシャットダウン。簡単に言うなら、はい気絶。


 ――回想ここまで。そーゆーわけで僕は今、仰向けになって白い輪っか状の蛍光灯を見上げてるんですよこれが。あーもう、眩しいなあ。
「あっ! き、気がついた! 大丈夫!?」
 その声と共にたった今不快に感じた光を遮ってくれたのは、とっても見覚えのある茶髪と赤いカチューシャと、それを自身の一部とする女性の頭部。
「のわああぁぁぁ!?」
 いつの間にか寝かせられていた布団から後ずさりで脱出するも、すぐに何かにぶつかった。
 ……壁? にしちゃあ柔らかい――
「痛い」
 一言そう呟いた壁に不安を覚えつつ、首を後ろに反らして一体どんな壁なのか確認してみる。すると目に飛び込んできたのは、冷ややかな目で僕の顔を上から覗き込む幼い少女。
 先の女性と同じくとても見覚えのあるその童顔に心の底から恐怖がこみ上げ、恐怖が空気の振動となって口から放たれようとしたその瞬間、少女の手が僕の口を塞いだ。
 ……いや、塞ぐというよりは口に手の平を乗せたと言ったほうが正しいだろうか。とにかくその手には全く力が掛かっていないので、叫ぼうと思えば充分に叫べる。
「五月蝿い」
 しかし少女のその言葉に、口に乗せられた手を退かす気力、そしてそのまま叫ぶ気力すらも無くしてしまった僕は、視界をぼやけさせている溜まった涙をまぶたというワイパーでクリーンにする事しかできなかった。結果、温い塩水が頬を流れる。
 すると少女の手が僕の口から離れ、上から覗き込むように僅かに曲げられていた腰がまっすぐになった。それと同時に、なおも僕を見下ろすその表情が少し申し訳なさそうな感じになる。具体的に言うなら眉毛の角度が多少、浅くなった。
「驚かせてしまったな。すまなかった」
 その表情のまま少女は僕に、見た目に似つかわしくない口調で一言そう、謝罪した。
「え……?」
 何をされるのかとビクビクしていたのに、予想外な事にそのビクビクさせたことを謝られ、思わず口から情けない声が漏れてしまった。
「おい。目ぇ覚ましたんだったらとっとと済まそうぜ」
 少し離れた所からのその声の方を見てみると、開けられたふすまの向こうで赤タンクトップくんがあぐらをかき、見覚えのあるちゃぶ台に頬杖をついてこちらを覗いている。そこで僕は初めて、気絶している間に隣の部屋へ運ばれていた事に気が付いた。
「お前は黙ってろ」
 頭の上から少女の声がした。しかしやはり、その口調は少女の外見には似つかわしくない。あの怖そうな男に対しても、先程僕に謝罪した時と同様、上からものを言う感じ。
「へいへい」
 しかし男のほうはそれに文句もないらしく、頬杖をついたままぷいと横を向くだけ。
 そんなやりとりにちょっとだけ落ち着きを取り戻し、流れた涙を手で拭き取って改めて周りを見渡すと、赤タンクトップくん以外の四人がこちらの部屋に揃っていた。
「ごめんねー。もうちょっと上手く説明できたらよかったんだけどさ」
 部屋の隅で立ったまま壁にもたれながら、苦しい笑みを浮かべる管理人さん。その右手には、白い煙を立ち昇らせる小さな白い円筒形。
「本当にごめんなさい。 怖がらせるつもりはなかったんだけど……」
 僕が寝ていた布団の傍でへたれ込んだように座りこみ、その姿勢のまま頭を下げる赤カチューシャさん。そしてその頭が持ち上がると、座ったままこちらに近寄ってきた。
「あの、もう大丈夫?」
 僕の顔、と言うよりは目玉を覗き込んでるんじゃないかと思うくらいの至近距離で、あからさまに心配そうな顔で尋ねられた。僕はそれにちょっとだけ身を引いて答える。
「だ……大丈夫、です……」
 身を引いた際に後ろの女の子に軽くぶつかったけど、赤カチューシャさんのあまりの近さにそこまで気が回らない。そして女の子も、特に何も言わなかった。
「良かったぁ」
 これまたあからさまなほどの安堵の表情。そして溜息。
 悪い人ではない……かもしれない。
 なんて思った時、隣の部屋へと続くふすまの傍に立っていた温和なお父さんが、眼鏡の奥に見受けられる糸のような目をこちらに向け、さも楽しそうに微笑ませた口を開いた。
「では主役が大丈夫と仰ったところで、そろそろ始めましょうか? んっふっふ」
 彼はそれだけ言うと隣の部屋へと歩いていき、赤タンクトップの男と同じく、ちゃぶ台の前に座り込む。
 始めるって、何を?
「じゃあみんな、隣の部屋に移動ねー」
 管理人さんがそう言ってタバコを指で挟んだまま何度か手を叩く。灰、落ちませんか? ……なんて事は置いといて。
「はーい」
 その合図に、赤カチューシャさんが返事をして移動を始める。もう一人の女の子のほうも移動し始めるものの、赤カチューシャさんとは違って特に返事はしない。
 その後、管理人さんがタバコを咥えつつ近付いてきた。
「日向くん、悪いけどもうちょっと付き合ってね」
 後ずさりしたままの格好の僕に手を差し伸べる管理人さん。ちょっとためらいつつもその手を取り、立ち上がる。
「これから何があるんですか?」
 隣の部屋へと歩き出す前にその場で訊いてみた。ちょっとは落ち着いたけど、まだ完全に不安が無くなったわけじゃない。
「新しい入居者くんに、みんなから自己紹介」
 管理人さんはタバコを咥えたまま、口をニッと変形させるのでした。

 次>>