第四章
夕食の後



『ごちそうさまでした〜』
 入学祝いに季節外れのプールで遊び、同じく入学祝いに豆腐の肉乗せを頂いて、夕食が済んでみれば時刻は夜の九時。今晩は。204号室住人、日向孝一です。
「もう九時かぁ。やっぱりみんなで遊んだ日は、時間が経つの早いなぁ」
 使い終わった食器が重ねられる音の中、不意に時計を見上げた栞さんがぽつりと漏らす。すると、食器を重ねていた三人の内、一人が手を止める。
 家守さんだ。
「…………あぁっ!」
 手を止めてからやや間をおいて声を上げると、「しぃちゃん! 悪いけど、お皿一緒に片付けといて!」と慌てた様子で立ち上がる。
 もちろんそんな急な要求に「はい分かりました」と応えられる訳も無く、栞さんはチワワのように目を丸くした。
「ど、どうしたんですか? 楓さん」
「九時から見たいテレビがあって! じゃ、お願いね! こーちゃん、お邪魔しました!」


 家守さんがドタドタと足音を鳴らして騒々しく出て行き、残るは僕と栞さんの二人。
「どうせ台所通るんだから、栞が持っていくのも楓さんが自分で持っていくのもそんなに変わらないと思うんだけど……?」
 食器を押し付けられた事に対する嫌味ではなく、純粋なクエスチョンマークを伴って、的確な指摘をする栞さん。そう、この部屋、もといこのアパートの全部屋が、玄関へ向かう際には必ず台所を通る構造になっているのです。隣の部屋と左右対称になってるだけで、部屋割り自体はどの部屋も同じですからね。
 ――しかし彼女がそう言う頃には、僕はもう感付いていた。
 またですか、家守さん。またなのですか。また僕と栞さんにちょっかい出してきますか。
「そもそもテレビ自体、ここで見ていけばいいんですけどね。まあそこまで気が回らなかったのかもしれませんけど」
 その手には乗るものですかよ、という事で、家守さんが意図したであろうものとは違った趣で話を進める事にする。
 別に栞さんが嫌いなわけじゃなくて、むしろ……………し、しかし。とにもかくにも、誰かの思惑通りに事が運ぶのはなんとなく嫌なんですよ。なんとなく。
「あんなに慌てるなんて、よっぽど気になる番組なんだろうねー。なんだろう、特別番組でもやってるのかな? ねえ孝一くん、テレビ借りてもいい?」
「構いませんよ。えーと、リモコンは……あ、テレビの上にありますね」
 僕よりテレビに近かった栞さんがテレビに近付き、リモコンを手に取る。
 それを見て「遠距離で操作するための装置をその操作対象の上に置くのはどうなんだ」とも一瞬思ったけど、まあいい。問題にすべきは、
「どれかなー。何の番組かなー」
 栞さんが暫らくここに留まる事になったという点だ。もちろん帰って欲しいってわけじゃないけど、ねえ。
 家守さん、栞さんがこうなる事まで予期はしてなかったんでしょうけど、やってくれましたね。
「あっ、これかな。特別番組っぽいし」
 ドラマ、お笑い番組、歌番組、とチャンネルを移り変わらせた栞さんの指は、四つ目のチャンネルをブラウン管に表示させた時点でストップ。そこに写っていたのは、
『あっちぃー!』
 今まさに温泉へと入ろうかという――この人は、お笑い芸人だったかな? 多分そうだろう。うん。
 この人物の正体はかなりどうでもいいとして、目についたのは画面右上のテロップ。「春の天然温泉ベスト50!」だそうです。天然だと、春とか関係ないような気がするんだけどなあ。まあ施設側の都合とかもあるんだろうけど。
「温泉かぁ。いいなあ、行ってみたいなあ」
 お笑い芸人(恐らく)さんが大袈裟に実況するのを見て、ほうと溜息を漏らす栞さん。
「こういう所、行った事ないんですか?」
「ん? うん。孝一くんは?」
「いえ、僕もないんですけどね」
「行ってみたいよねー」
「そうですねえ」
 ここのメンバーで行くとなればさぞ賑やかな事だろう。普段は温泉とかに興味があるわけじゃないけど、それなら行ってみたい気もする。……男湯女湯分かれちゃうと人数的にもお色気的にも魅力激減だし、できれば混浴というオプションも希望したいところではありますが。
 今日プールで女性陣の水着姿を堪能したにも拘らず、いやむしろそれがあってか、みんなで混浴の温泉に出かけた、という体の薄ピンクなシミュレーションを展開していると、
「あ、ここ凄いね。温泉のプールだって」
 新しく映し出された温泉施設に関心を見せる栞さん。頭を切り替え、改めてそちらを見てみれば、「温泉プールって言うか、まんまプールですやん」と言いたくなるくらいプール然とした施設が。しかし、温泉なんだそうで。
 温泉汲み上げるのとただの水を温めるのって、どっちがお金掛かるのかな? ――なんて、お湯が温泉である事にまるで価値を見出してないのが丸分かりな疑問も浮かんじゃったりしますが、
「今日行ったばっかりなのに、よっぽど好きなんですね。プールが」
「うん。……変かな?」
「いえいえそんな事は。泳いでる時、格好良かったですし」って言うか、綺麗でしたし。「好きでもないとあそこまでは、ね」
「かかっ、かっこ――え、えへへ。お褒めに預かり光栄、だね」
 驚き、そして照れる栞さん。テレビでは相変わらずお笑い芸人さんが大はしゃぎだったけど、それよりも栞さんを眺めているほうが楽しい気もする。
 ――そう思ってしまえば「もっと話がしたい」と思うのも、間違った感情ではないと思う。言葉にするとそれ以外の意味も含んでそうな趣きになっちゃうけど。……でもそれ以外の意味っていうのも、あながち見当違いでもない。気がする。
「泳ぎは清さんに教えてもらったんですよね?
「うん、そうだよ」
「弟子は師を越えるって言うか、そんな感じなんですかねぇ。清さんと競争してた時、正直見惚れてましたよ僕。フォームとか、本当に綺麗でしたし」
 フォームではなく、フォーム「とか」。我ながら奥手にも程があるんじゃないだろうか? そりゃあ家守さんの思惑通りになりたくないっていうお題目はあるけど、何も「とか」で誤魔化した気持ちが嘘ってわけじゃないんだし。
 ――栞さん、本当に綺麗だったし。
「そそ、そんなまたまたぁ〜。褒めても何も出ないよ? ……嬉しいけど、さあ」
 そう思うと、目の前にいるいつもの穏やかな栞さんが、なんて言うか、とても……
「あ、あぁあぁでもあれですよね。いくら何でも綺麗過ぎましたし、実は学校とかで水泳部でも入ってたんじゃないですか?」
 自分自身に慌てさせられ、無理に口を動かす。慌てている理由は分かってるけど分かりたくない。分かりたくない理由は分からない。どうして僕は、浮かんだ感情を誤魔化そうとしてるんだろう? 家守さんの思惑通り云々では――既に、ないと思う。それだけは分かる。
 と、自分一人で勝手に葛藤している間、栞さんは何も言わなかった。その間が気になり、目を合わせたくないような気もする栞さんの顔を見る。
「…………」
 ―――栞さんは、何かを堪えるように口を噤んでいた。目は合ってしまったが、そのせいで振り払いたくなるような感情は湧いてこなかった。
 ………どうしたんですか? 栞さん。
「がっ……」
 栞さん、何かを言おうとしてすぐに言葉を詰まらせる。次いで、俯く。
 やや、間。そして顔が再びこちらを向くと、
「学校はね、殆ど行ってなかったんだー。あはは。実は栞、生きてる頃は身体が弱くて」
 頭に手を当て、明るく笑いながらそう言った。その、栞さんが明るく口にした文章の一部分が、僕の頭の中で何度も繰り返し再生される。生きてる頃は身体が弱くて。生きてる頃は身体が弱くて。生きてる頃は身体が弱くて。生きてる頃は身体が弱くて。生きてる頃は……
「ご、ごめんなさい!」
 頭を下げる。実に無神経な質問だった。栞さんは、幽霊だ。つまり、既に死んでしまっている。学校の話となれば、それは必然的に生きている頃の話になる。そんな話を、栞さんにしてしまうなんて。
「なんで謝るの? あの、栞はなんとも思ってないよ?」
 嘘ですよ。だって、今辛そうな顔したじゃないですか。それがなかったら僕は、自分が頭を下げなきゃならない事に気付かなかったかもしれないのに。
「顔、上げて欲しいな、孝一くん」
 どうしてそんなに穏やかな声が出せるんですか? 僕は、とても酷い事をしてしまったのに。
「……本当に、すいませんでした」
 言われた通りに顔を上げつつ、もう一度謝罪する。
「いいっていいって」
 栞さんは、変わらずに笑ってくれていた。
 テレビの中で騒いでる芸人が、鬱陶しい事この上ない。だったらリモコンでテレビの電源を落とせばいいんだけど、僕は、身動きすることができなかった。しないんじゃなくて、できなかったのだ。
「本当、孝一くんっていい人だよね。いい人過ぎてちょっと困っちゃうくらい」
「そう……ですか、ね」
 下を向いて、少し笑ってみる。――けど、ちっとも嬉しくはなかった。そうして下を向いていたので見えなかったけど、前方から「ふふっ」と控えめに笑う声が。
「成美ちゃんと三人でお買い物に行った時――覚えてるかな? 栞達が死んじゃってるって事は、あんまり気にしないで欲しいって言ったの」
「あー……あぁ、はい。そう、でしたね」
 確かに言っていた。どうしてこんな、どう考えてもここのみんなと付き合っていく上で大事な事を忘れていたんだろうか? いや、言われてなくたってちょっと考えれば自力で思いつきそうなものだ。謝るんじゃなくて、話を変える事だってできたじゃないか。
 自分の浅はかさに頭を抱えたくなってくる。――そう思っていると、胸の前で両手の指を交互に組み合わせた栞さんが、遠慮がちに話を続け始めた。
「それでね、今考えたんだけど………やっぱり気になっちゃうよね? どうしても。今みたいに中途半端に話しちゃうと、ね。だから……」
 そこまで言うと、栞さんはまたも笑顔になる。
「こうなったらいっそ全部教えちゃおうかなって。どうかな?」
 なぜ。
「全部ってあの、もしかして……今の、身体が弱くて学校に行ってなかったっていう?」
 なぜそんな事が笑って言えるんですか?
「うん。大丈夫だよ、本当に今更なんとも思ってないから。さっきのはちょっとその、この話したら孝一くんビックリしちゃうかなって、そう思っちゃっただけだから」
 僕がどの時点で申し訳なく思ったのかは、見事に見抜かれていた。そして僕は、その言葉がフォローなのか真実なのか、分からなかった。ただ一つ分かるのは、今の時点で栞さんが笑顔だという事だけ。
「――分かりました。聞かせてください」
 あまりに情けなさ過ぎて、栞さんと目を合わせているのが恐れ多くて、下を向く。
 そうして栞さんが視界から外れると、また視界外から「ふふっ」と笑い声。
「優しいね、孝一くん」
 今の僕の何をどう判断してそう思ったのかは、全然分からなかった。


 ――小学三年生の時に倒れた事。それからずっと、以前買い物帰りに見かけた病院にいた事。病室の窓から見下ろす駐車場に、時々子どもが遊びに来ていた事。それを羨ましく思った事。でも次第になんとも思わなくなっていった事。入院したまま進級し、会った事もないクラスメート達から学級の行事として手紙が届いた事。それを読みもせず、「手間取らせてごめんなさい」とだけ思った事。見舞いに来た両親が返ってしまうと、酷い時には寂しさから泣いてしまっていた事。十六歳の時、自分が後どれだけ生きられるか教えられた事。そして、
「その言葉通り、十七歳で死んじゃった」
 という事。
 それらを、僕は黙って……いや、言葉を失って聞いていた。場面の想像は、できる。だけど、心情の想像は、できない。できたとしても、したくない。そんなレベルの話だったのだ。
「いつものように夜眠たくなったから寝て、起きたら幽霊だったの。体を起こしたらまだ下に自分が寝てるんだよ? びっくりして大声出しちゃった。でも、誰もその声に気付いてくれなかったんだよね。体も今までにないくらい軽いし、それでなんとなく気付いたの。ああ、死んじゃったんだなって。そっちでは驚かなかったなあ。随分前から分かってたし。――それで、今はここに住んでるってわけだよ」
 相槌の入らない栞さんの話は、そこでようやく終わりを迎えた。まるで耳に入ってこない温泉特番は、コマーシャルに入っていた。
「どう? ちょっとは気にならなく――って、あはは。どう見ても逆効果っぽいね。ごめんね、孝一くん」
「い、いえ、栞さんが謝る場面じゃないじゃないですか」
 栞さんの表情が曇ってようやく、口に縫い付けられた糸がほぐれる。
 一体どこまで情けなくなってしまうんだろう、僕は。今の話だって平然と喋ってたけど、本当のところは辛い筈だ。そんな話をさせておいて、しかも口を閉ざして相手を不安にさせ、謝ってきたところでようやく弁解するだなんて。
「栞さんは、僕の、その……僕のために、今の話をしてくれたんですから。いい人過ぎて困るって言うなら、栞さんこそそうですよ。今この場でひっぱたかれたって文句言えそうにない立場なのに、謝られちゃったら……困ります」
「孝一くん、でも――あっ」
 何かを言い返そうとした栞さんはしかし、それにかぶさる形で何かを思いついたらしい。曇った表情は、栞さんの頭の上に電球マークが現れてもなんの違和感も抱きそうにないくらい、突然パッと明るくなった。
「読めたよ、この後の展開」
 ――急に何を?
「きっとね、お互いに『そっちのほうがいい人だ。いやいやそっちのほうが』って言い合いになっちゃうと思うな。栞は今、本当にそう返そうと思ったんだけど……どうかな?」
 もし今栞さんに、僕のほうがいい人だって言われてたら、か。
 何パターンか考えてみる。
 そんな事ないですよ、だって僕は――。いやいや、栞さんは――。どうしてそう思うんですか? だって僕は――。栞さんにそう言われると、余計に立場が――。
 ……見事に、その通りだった。栞さんが言う通り、僕は自分がいい人であるだなどと言われて「はいそうです」と納得したりはしないだろう。だって僕は――
 ……ほら、やっぱり。
「そう、ですね」
「じゃあもういいじゃない。『どっちかだけがいい人』とかじゃなくて、どっちもいい人か、どっちも悪い人って事で。そんなの、適当でもいいよ」
 場の雰囲気を良くしようと。ヒネた僕の機嫌を叩き直そうと。
「栞はね、ただ孝一くんと仲良くしたいだけなの。こんなふうにじゃなくて、ただ普通に、いつもみたいにお話がしたいだけなの」
 栞さんは、また頭を下げてしまいそうなくらい優しい言葉をかけてくれる。
「だからね、死んじゃったとか、生きてた頃とか――そういうのは気にしないで、話したい事があったら遠慮無く言って欲しいな。絶対、笑って返事してみせるから」
 言いたい事があったら、遠慮無く。だったら、今僕が言いたい事は――
「肝に銘じます。もう、絶対に忘れません。だから……これからも、どうぞ仲良くしてやってください」
 まだ、早いか。本当に言いたい事はまだ保留にしておこう。今の僕は、そこまでの器じゃない。
「うん。改めて宜しくね、日向孝一くん」
 栞さんが握手を求めてきたので、僕はそれに快く応じた。
 幽霊の手は、冷たくなんてなかった。暖かくて、優しくて――
 いつか、言おう。本当に言いたい事を。栞さんに言われた事を守って、その事を自分でも納得できるような日が来たら――
 栞さんに、好きだと。


「じゃあまた明日ね、孝一くん。お休みなさい」
「はい。お休みなさい栞さん。また明日」
 栞さんが隣の203号室に戻り、204号室は、未だに続く温泉特番の音がテレビから響くだけになった。しかし、その音はもう不快ではなくなっていた。お笑い芸人さんのネタに笑い、まだ出てくる温泉を気持ち良さそうだと思ったり。それなりに楽しめるようになれていた。誰のおかげかは言うまでもない。
 栞さんは、いい人だ。もちろん、他のみんなもいい人だ。人じゃない住人でさえ、いい人だ。だから、いつかは僕も。
 周りに住んでいる人からしたら、ここは不気味な、近寄りがたい場所なのだろう。だけど僕は、だんだんここが好きになりつつある。今の段階でも結構な好きさ加減だけど、それはこれからも、ぐいぐい増加していくだろう。

 なんせ僕は、まだまだ新入りなのだから。

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