「あー、やっぱり分かるわけないわよね。……ごめんなさい、いきなり出てきて意味不明な話しちゃって」
 チューズデーさんが言い掛けたことが何だったのかは、分からないままでした。
 が、それはともかく、僕と栞さんは口を噤んだチューズデーさんの隣で「ほぼ百パーセントの確率で信じてもらえないのなら、無理に話して混乱させることもないか」と話を進め、再びまみえたおで子さんには「待たせるだけ待たせてすいませんが、結局見当もつかないです」と嘘を付いておいたのでした。
 チューズデーさんに食い下がった栞さんの気持ちを考えると気後れもしましたけど、そこは「結局信じてもらえなくてがっかりするよりはこっちのほうが良かった筈だ」ということで。
 栞さんもそう思ったのか、「チューズデーさんの言う通り、言わないほうが良いかもしれないですね」と僕が意見を出した時には割とあっさり首を縦に振ってくれましたし。
「すまんかったの。こんなことのために追い掛け回したりして」
 追い掛け回すというほど激しいものでもなかったような気がしますけど、ジャージさんがぺこりと頭を下げました。プリン頭さんほどじゃないので、こちらとしては全く問題無しです。
「それでえーと、今更じゃが名前は……」
 続けて名前を尋ねられますが、まあ悪い人達でもなさそうだから答えても大丈夫でしょう。その判断のハードルをあのプリン頭さんが随分と下げたのは否めないですけど。
「あ、日向孝一っていいます」
「ワシは同森どうもり哲郎てつろうじゃ。シャーペンの時のように大学で会うこともあるかもしれんが、その時はよろしくの」
 おで子さんの友人だからそうかも知れないとは薄々思ってましたが、やっぱり同じ大学の人だったようです。
「あ、あたしは異原いはら由依ゆえっていいます。……今日は本当、ごめんなさいでした!」
 ジャージさん――同森さんに続いて名乗りを上げたおで子さんは、急に上半身に掛かる引力だけが数倍になったかのような勢いで頭を下げ、その姿勢で一旦停止すると、
「――って言うか、恥ずかしい!」
 これまたかなりの速度で腰をビンッと伸ばします。
 その大きなアクションがこれまた恥ずかしいんじゃないだろうかと思ってしまう僕は恐らく、引っ込み思案の恥ずかしがりやなんでしょう。
「ああそれでな、ワシと異原とここにおらんもう一人は二回生なんじゃ。で、こっちだけは一回生」
 異原さんをまるで無視し、真っ黒さんを顎で指す同森さん。
 へえ、同い年は真っ黒さんだけか。
 ……ん、待てよ? それじゃあ異原さん――。
「あの……わたしは、音無おとなし静音しずねといいます……」
「へ!?」
 異原さんが二回生ということについて少々思うところはあったものの、ついに明らかになった真っ黒さんのその名前に、恐らくは異原さんのお辞儀と同程度の速度で振り向きました。無論そんな勢いで睨まれた真っ黒さんはたじろぎ、半歩後ずさりさえするのですが。
 ――おお、焦ってるせいか全然羞恥心が沸いてこないよ不思議なもんだね人の心ってさっき恥ずかしい動きだなあって思ったばっかりなのに自分が同じようなことして全然全く何も感じてないんだもんねところで真っ黒さんそれマジですかオトナシシズネってもしかして音って漢字が二つ入ってるあれですかだって一回生だってことは僕と同い年だしでもそんなこんな所でその名前を聞くことになるなんて誰が予想し得ただろうかってこれ全部僕が考えてるだけの話なんだから僕しか予想なんかできやしないじゃないか何言ってるんだよ本当にってもうちょっと正確に言うなら言ってるじゃなくて考えてるだねだって口に出してないし音無静音えええええええええ!?
「え……あの、どうかしましたか……?」
「い、いえ大丈夫ですご心配なくどうもありがとうございます」
「はあ……」
 右の掌で両目を覆って自分の視界を黒に染めつつ、左の掌の指をそろえて真っ黒さんに突き出します。大丈夫じゃないのは自分で分かってますから大丈夫です。だから少し落ち着く時間をください。
 ふう。
「えーとですね、僕も音無さんと同じ一回生で――」
 言うか?……言わなきゃ仕方ないよね? 向こうだって三人とも名乗ったんだし、僕だけ名前を出さないのは失礼にあたるだろうし……ああ、気付いて欲しいような欲しくないような。
 悩みつつも結局は名を名乗り、そしてその後。
「覚えて……ない、ですか? 以前、よく顔を合わせてたんですけど」
「日向孝一……さん? あれ、その名前……確かに聞き覚えがあるような気が……」
 音無さん、考え込みます。
 気付くか気付かないか半々ってところでしたか。……確かに、そんなものでしょうね。
「なんじゃ? 音無、知っとる人なんかの?」
「えー? でも静音、そんな素振りなかったじゃないの」
「うーん……」
 音無さん、唇を歪めて更に深く考え込んでしまいます。が、なかなか答えが出ないようで、
「あの……えっと……すいません……」
 結局は、とても申し訳無さそうにされてしまいました。少し寂しい、と同時に、自分がそれだけ薄い存在であったことに安堵も覚えました。まあ、薄くて当然なんですよそりゃ。
 ――だって僕は、あなたに何もしなかったんですから。声さえ掛けなかったんですから。
「高校一年の時の、クラスメートですよ。席が並んだこともあったんですけどね」
 ――だってあなたは、僕に何もしなかったんですから。声さえ掛けなかったんですから。
「高校……一年……ああ! 思い出しました……! そうだったんですか……まさか、同じ大学だったなんて……」

 去り際、異原さんが「ここにはいないもう一人」さんの話をしてくれました。そしてまた勢い良く頭を下げました。
 僕と栞さんはその「ここにいないもう一人」の正体が口宮くちみや優治ゆうじなるプリン頭さんであるということに驚いたのですが、チューズデーさんは予期していたとでも言わんばかりの落ち着きようでした。しかも驚く僕達を見上げて「くくくく」と笑いさえ。

「あの……口宮さん……」
「ん? おうおう、ようやくお帰りかよ。おかげ様で鼻血もすっかり止まっちまいましたよ女王様」
「あら良かったじゃない怪我の功名じゃない。じゃ、帰るわよ」
「待てやコラ。あのな、あの兄ちゃんがいきなり自転車買ってそのまま突っ走った時に、俺達がどんだけ頑張ったか知ってるか? 俺と哲郎はダッシュで後ろ追いかけて、音無は音無で自転車取りに家までダッシュしたんだっつの。あと怪我の功名の意味、知ってて使ってるか?」
「あんたが怪我してちょっとは大人しくなってくれたおかげで、こっちは話が平和に進んだわ。それでいいでしょ?」
「普通、良い思いをするのが怪我した本人である場合に使う言葉じゃの」
「突っ込まないでよ哲郎くん。……それで? お礼でも言えばいいのかしら?」
「あっちにアイスクリーム屋があったろ。ってことはだ。つまるところ俺達三人全員に奢ればいいんじゃねーの?」
「別にいいわよ問題ないわよ? 財布もあるし、それくらいなら」
「お、太っ腹じゃの。じゃあ遠慮無くあやかるとするかの」
「いいんですか……?」
「いいっていいって。迷惑掛けたのは本当なんだし」
「おーっと! 三人全員とは言ったが一人一本とは言ってねえぞ! 俺三本な!」
「あ、一人一本じゃないの? じゃあ二分の一本でもオッケーよね問題無いわよね。と言ってもアイスは半分に割れないから、あんた半額寄越しなさい」
「感謝の念が足りねーぞおい!」
「あんたへの感謝なんて普通の半分でも充分よ多過ぎるわよ。グダグダ言ってないでさっさと出しなさい」

 大学を出る時から続いていたらしい追跡もようやく終わって適当に歩いているうち、またも公園外側の並木道へ。
 物差しで計ったような直線では無いとはいえ、そこは三角な公園の外側一辺。前を見れば、視界は随分遠くまで伸びます。そしてその視界内には、そろそろ人が増え始める時間なのだろうか、ぽつぽつと人影が。
「ねえ孝一くん。さっきの音無さんの話なんだけどさ、大学通うのにわざわざ引っ越してくるぐらいだし、孝一くん達が通ってた高校って遠くなんでしょ?」
「まあ、そうですねぇ」
 少なくとも自転車で帰ろうとは思えない距離ですし。
「凄いよねー、それがたまたま同じ大学になるだなんて」
「全くですよ、まさかこんな所でまたあの人に会うなんて。外見が凄いことになってたから、名前聞くまで全然気付きませんでしたけど」
 なんせ顔の構成物が口しか見えてないんですから。
「ん? じゃあ、高校の時は今みたいな感じじゃなかったの?」
「高校であんな髪型してたら校則とか無しでも注意されますって」
 だから、そんなことはありませんでした。あの時の音無さんは普通の格好だったし、顔だって普通に見えてたし、だから僕は――。
「あー、そっか。やっぱり駄目だよね、格好良いけど」
「え? そうですか?」
「……あれ?」
 想定外だと言わんばかりに、苦笑いを浮かべつつ首を傾げる。そんな栞さんに僕は笑い掛けますが――。
 栞さんは気付いて無いかもしれないけど、今、僕の頬の筋肉は硬いのです。
 自然に笑いながら話をする場面の筈なのに、頬の筋肉は笑ってはくれません。だから、自動的にではなく自分で意識して顔の筋肉を笑わせます。作り笑いというやつですね。
 もちろん笑うべきところだと認識しているからには、この会話が楽しいものなのだということは理解しています。実際、楽しいですし。だけど、気まずさがそれに勝ってしまっているのです。

 さて、それから暫く。そろそろ帰ろうかという話になりまして、駐輪場へ戻っているその最中のことでした。
「あんまりデートっぽくなくなっちゃったけど、楽しかったね、孝一くん」
 栞さん、本当に楽しそうにそう言いました。その笑顔自体はそりゃあ、惚れた男の弱みと言うか何と言うか、頬が緩みそうなものだったんですけどね。でも栞さん、分かっちゃいましたけど言っちゃいますか、デートっぽくないって。
「あれ? なんだか落ち込んじゃってる感じ?」
 小さい子どもの遣り取りを眺めたり同じ大学の人と知り合ったりで楽しかったのはもちろんですけどね、楽しみ方が想定と違ったと言いますか。
「落ち込むか。まあ、落ち込むだろうね。――ふむ。無理を言ってついて来たわたしにも、責任の一旦はある。償いと言うほど大袈裟なものでもないが、暫らく姿を消すことにしよう」
 そう言うとチューズデーさんは、こちらの返事を待たずに背を向けました。
「適当に歩き回った後、自転車の所で待っているよ。わたしのことは気にせず、どうぞごゆっくり」
 そうしてチューズデーさんの姿があっという間に植え込みの向こうへと消えてしまうと、
「もしかして……」
 恐る恐るといった様子で、呟くように話しかけてくる栞さん。
「栞のせいかな。孝一くんががっかりしてるのって」
 そして最後に、「あはは」と苦笑するのでした。
「まあ、いいじゃないですか。チューズデーさんのせっかくのご厚意ですし、ゆっくりのんびりしましょうよ」
 栞さんが言っていることは、残念ながら間違いではありません。が、栞さんがそう思った原因、つまり今回のデートがデートっぽくなくなってしまったのは、栞さんのせいではないのです。
 なので、ここでくよくようにゃうにゃしてるのは栞さんに対する八つ当たりに近いものがあるんじゃないかと思うに至り、
「うーんっ」
 気分一新、伸びをしてみました。無論、寝起きでもなんでもないんですけどね。
「で、どうしましょうか? まっすぐ自転車置き場に向かうのも味気無いですし」
「え……え、えっと、えっと――」
 なんてこと無い質問だとは思ったのですが、明らかに動揺を見せる栞さん。その質問に対する答えを探すようにきょろきょろと辺りを見回し、でも答えが見つからないようで、はらはらと僕に視線を合わせてきます。
「どうかしましたか?」
「あ、あの……深く考えたら、デートって何したらデートになるんだろうって、分からなくなっちゃって。さっきまでだって楽しかったけど、それはデートになってなくて……ごめんね、こういう話に疎くて」
 言葉を繋げるにしたがってずるずると。そして最終的には、伸びをする以前の僕以上に意気消沈してしまいました。
 そんな栞さんを見て聞いて、頭の中で議題に挙がったのは、栞さんが「こういう話に疎い」という、その理由。
 答えは簡単。経験が無いからです。しかしそれだけなら僕だって条件は同じで、栞さんが始めて付き合った女性である以上、それは必然的なことなんですけど――栞さんは、事情が違います。異性と付き合うどころか他人と知り合う機会自体が少なかった、と容易に想像できるのです。
 なんせ、ずっとずっと病院に閉じ込められていたんですから。
 ……もしこの話を続ければ、いずれ話題はそこに辿り着いてしまうでしょう。気にし過ぎなのかもしれませんが、それはできるだけ避けたいところです。なので、
「うーん、何でもいいんじゃないですかね? 楽しければ。ただし、二人きりという条件は必須でしょうけど」
 栞さんが謝ってきた部分には触れず、「デートとは何か」という疑問にだけ答えました。
 正直僕にも「どこからがデートでどこまでがそうじゃないか」なんてのは分かりませんが、分からなくても答えようはあるのです。
 適当でいいんだよね? だってこっちの目的は正確な答えを提供することじゃなくて、話題を病院のほうに持っていかないことなんだし。それに、今と同じようにチューズデーさんが僕と栞さんを置いて先に行った時。あの時はただ二人で話しながら歩いていただけだったけど、いい雰囲気になってたんだし。
「楽しいこと、かぁ。二人きりで……本当に何でもいいの?」
「楽しいことなんですから、嫌がるってことは無いでしょう?」
「あ、そっか」
 栞さん、意表を突かれたような口調。軽口ではなく本気で納得しているその様子に噴き出しそうになるも、それは失礼にあたりそうなので、なんとか口の端を緩ませるに留めておきました。
 こんな会話のキャッチボールの時点で楽しい気がするんだから、多分何をやっても楽しいんでしょう。その時点でさっき僕が適当にでっち上げた条件に当て嵌まるので、ならばそれはデートである、ということに。
 ……あ。条件に「外出先で」というのも入ったかもしれない。自宅に来てもらってもデートとは言えなさそうだし、しかも家、隣同士だし――ま、いっか。どうせ今いるここは既に「外出先」なんだし。
「何か思い付きますか?」
 自分で具体的に「これだ!」という案が浮かばなかったこともありますが、栞さんの口から意見を聞いてみたかったので、尋ねてみました。
「うーん……」
 すると人差し指であごを軽く押し上げたような形を作り、暫らく周辺の木々を見上げながら考える栞さん。
「あ、そうだ」
「何でしょう?」
「孝一くんが高校生だった時の話が聞きたいな。音無さんとクラスメートだったんだよね?」
「それは……あんまり楽しくないかもしれませんよ?」
 音無さんという言葉が出てくるということは、高校時代の話の中でも音無さん関連の話をご所望なんでしょう、やっぱり。
「大丈夫だよ。孝一くんの話って大体面白いもん」
 そんなにボキャブラリー溢れる話をした覚えは、正直言ってありませんでした。料理関連ということでしたらまだ分かりますけども。――と思うもののしかし、屈託の無い微笑みを向けられては、頼み事を無下にするわけにも行きません。それにもともと、言うか言うまいか迷ってたわけだし。
 ではご期待に応え、参りましょう高校時代の僕の話。
「手、繋いでいい?」
「あ、どうぞどうぞ」
 きゅ。
 ほくほく。
 ……いやいや。
「確か言ったと思うんですけど、音無さんとは隣の席になったことがあるんですよ。一年の時に」
「うん、言ってた言ってた」
 やっぱり音無さんの話が聞きたかったらしく、それで? と先を促さんばかりに楽しそうな栞さん。続きを楽しみにしてもらえるのは実に気分がよろしいのですが、こういう話って、聞いた側はどう思うものなんだろうか。気分を悪くしたりしてしまわないだろうか?
 そう思うと一瞬ためらいが生まれ、ならば必然的に言葉が詰まります。が、話し出しておいて今更止めるのも体裁が悪い気が。
 ということで。
「あのですね、栞さん」
「ん?」
「僕は――あの人のことが、好きだったんです」
 告げ終えると、栞さんは半ば放心状態で瞬きを一つ。それと同時に、繋がれた手が僅かに緩みました。
 そしてそのまま、数秒の間。考えてみれば大した時間じゃないんですけど、今の僕には何倍にも感じられるのでした。
 何か言って欲しい。けど、言われるのは怖い。そんな我侭が心臓の鼓動を増幅させ、栞さんにも聞こえてしまうんじゃないかと思えるくらい派手な音を叩き出してしまいます。
「へ、へぇ――あー、びっくりした……でも、そうだよね。なんとなくいい人そうだったし、それに格好良いもんね。あの服とか」
 どうやら気分を害されてはいないようで、栞さんの手に緩やかな握力が戻りました。ならばそれは良かった、ということで。
 だけど、その感想自体はあまりよろしくありません。僕としてはあの格好はどうかと思うし、それに。
「いえ、いい人かどうかなんて全然分からなかったんです。隣の席になった時だって、喋ったことなんて一度もなかったんですから」
 音無さんが友達と会話している声を聞いていただけなのです。しかもそれだって、会話の内容まで覚えてるわけじゃないのです。そう。僕は音無さんがどんな人なのか、全く知りませんでした。――いや、今だってよく分かっていません。と言うか、あんな格好で登場したもんだから、余計混乱していると言っても差し支えないでしょう。
 そもそも今回だってそんなに喋ってないのに、栞さんの「良い人」は基準が甘過ぎると思います。まあでも、そういうなだらかなところが……あ、そうそう。格好と言えば。
「あと、高校は制服ですからあの格好じゃないですよ」
「ああ、そっか。高校って制服なんだよね。一回は着てみたかったなあ、制服」
 僕はあまり制服というものに魅力を感じない人間でして――とかそういう話はぐしゃぐしゃに丸めた上で投げ捨てておきまして。
 またも危うい話に差し掛かりました。そうか、栞さんが入院したのは確か小学生の時からだから――。
「えーっと、あ、またベンチがありますよ。座ります?」
 話を逸らそうとして椅子を指差すと、栞さんは一度僕を見、それからベンチに目をやり、それからもう一度僕を見て、「うん」とにっこり。危ない危ない。
 そうしてまたしても背もたれの無い丸太ベンチに二人で腰掛けると、早速と言わんばかりに栞さんが尋ねてきます。
「話したことが全然無かったって言うけど、じゃあどうして音無さんのこと、好きになったの? その時は格好も普通だったみたいだし」
 栞さんの中ではどうしても、音無さんの真っ黒加減はプラスイメージになるようです。そこは理解しがたいけど、話もしたことがないのになぜ彼女を好きになってしまったかと言われれば、
「まあその……栞さんを前にしてこんなこと言うのもあれですけど、一目惚れってやつですよ」
 あの時の至ってノーマルだった前髪から覗く音無さんの顔は、とても可愛かった――と、そこまではさすがに口にできませんが。しかし口にしようがしまいが一目惚れってことはそういうことでしょう。
 栞さん、言わなくても分かっていただけますか?
「じゃあ、綺麗な人なんだね。もったいないなあ、それなら好きですって正直に言っちゃえば良かったのに」
「それは――言いっこ無しってことにしてもらえませんか。僕は……」
 それ以上は恥ずかしくて、そして「今の立場で言えた義理か」と自分から批判を受けたので、言えませんでした。代わりに相手の手を握る力を、痛くない程度に強くします。
「えへへ。ごめんね、ちょっと意地悪だったかな」
「あの、こういう話って、聞いてて嫌じゃないですか? こっちは罪悪感バリバリなんですけど……」
 そういえば程度を表す「バリバリ」って最近あんまり聞かないなあとかそういうのはどうでもいいとして。
 ゆるぅく微笑む栞さんと向き合って、そんなに笑える余裕があるものなのだろうかと不思議になりました。僕が栞さんの立場だったらどう思うんだろう? こんなふうに笑う? それとも、嫉妬する?
「ん? 全然嫌じゃないよ。……だってさ、昨日聞いちゃったもん」
 意見が嫉妬に傾きかけて、意味も無く自分に落胆しかけていると、栞さんが答えを返してきました。
「何をですか?」
「『前にも好きな人はいたけど、告白するほど好きになったのは初めてだ』って」
 ――ああ、言いましたね。お恥ずかしい。
「これが無かったらちょっとくらいは嫌に思ったかもしれないけど、そう言ってもらえたからなんとも思わないよ。むしろ『一目惚れしちゃうくらい綺麗な人よりも好きでいてくれてるんだ』って、ちょっと天狗になれるし」
 そう言ってえへんと胸を張る栞さん。僕とはどうもことの捉え方が違うみたいだけど、
「変かな?」
 変かもしれませんけど、
「最高です」
 空いているほうの手を前に出し、親指を立てました。
「よかった」
 返された笑顔は、それこそ最高なのでした。

 それから暫らくは――まあ、なんだ、他人から見たら恐らく「いちゃいちゃしてる」な状態になってたと思います。他人から見えるのは僕だけなので無気味さアップですが。
 とは言ってももちろん、他人が前を通る時はお喋りがストップするわけです。恥ずかしいからという意味ではなくて(もちろんそれだって全く無いわけじゃないですけど)、生きている人が自分一人だけだからです。つまり、これまで通りってことですね。
 もし生きている人が二人以上いれば、幽霊さんが誰か生きている人と喋ってても、生きている人同士で喋っているように見えるわけです。つまり、大学で栞さんと明くんが普通に会話してる状況ですね。
「………………」
「どうしたの? 孝一くん」
 おさらいを終えたところで、改めて浮かぶ問題。それは、「二人きりだと会話に制限がかかる」ということ。あまり人が寄り付かないあまくに荘の中ならともかく、こうして二人っきりになる度に人通りを気にしなければならないのは非常に面倒なことこの上ないのです。
「栞さん、僕は」
「あ、人が来たよ」
「決めました。それはもういいです。人が通ることはもう、気にしません」
 面倒なだけじゃなく、そのくらいの覚悟も無しに幽霊を好きになっていいのかって話なのです。
「え、あの……」
 ただの自己満足でしかないのかもしれません。格好良いこと言ったつもりで自分に酔ってるだけなのかもしれません。でも。そして、だから。
「変ですか?」
 訊いてみました。
「………………最高、だよ。凄く嬉しいよ」
 栞さんは親指を立て、目を潤ませるのでした。さすがに流れる程ではなかったものの、自己満足だけで済まなかったと分かり胸がスッとします。
「でもさ、孝一くんがこれ言ってくれるのって二度目なんだよね」
 溜まった涙を拭い、恥ずかしさを紛らわせるように「えへへ」と肩を上下させる栞さん。
「……あれ? そうでしたっけ?」
 そんな栞さんが発した言葉に、背筋がさっと冷たくなります。なんと、二番煎じだったらしい。しかも一番煎じがこれまた自分で。
 おおう、恥ずかしい。
「うん。ちゃんと覚えてるよ。孝一くんが引っ越してきて初めてお買い物に行った時――あの時は成美ちゃんもいたから、三人だったよね」
 言われてうっすら思い出し始めます。あまくに荘からちょっと離れただけでまさに右も左も分からない状況になったことと、栞さんが今言った――
「その時にね、『周りからどう思われても構わないから目を見て話します』って。覚えてる?」
「覚えてる……と言うか、思い出しました。言いましたねぇ、そんなこと」
 言った割にはすっかり忘れ、人目を思いっきり気にしている今の自分は、多分かなり格好悪いでしょう。しかし栞さんはそんな僕を笑うような素振りを見せず、
「あれね、本っ当に嬉しかったんだよ? 成美ちゃんは『それが当たり前』みたいなこと言ってたけど、それでもちょっとくらいは感心したと思うな」
「いや、それはちょっと褒め過ぎだと……」
 結局実現できてなかったことを考えれば、むしろ「できないことを自信満々に言うな」と怒られそうな気さえするんですが、どうでしょう。
「でも、なんでだろうね? 同じこと言われただけなのに、ちょっと泣いちゃった」
 こちらの照れ隠しを無視し、首を横に傾け、そう続ける栞さん。が、僕に聞かれても分からないですごめんなさい。なんせ以前も同じ台詞を言ってたこと、今の今まで忘れてたものですから。
 無言で首を横に振る僕に、栞さんが笑い掛けます。
「多分だけどね、あの時の孝一くんと今の孝一くんが違うからだと思う」
「ん? 何か変わりましたっけ?」
 台詞以外にまだ何か忘れているのだろうか? と不安になるものの、
「あの時はまだ『隣に引っ越してきた人』だったけど、今は……ね。こうだから」
 腰をずらせ、肩を寄せてきた栞さんのその答えは、とても分かりやすいものでした。
 ――分かりやすいものだった。のに、
「……ごめん、孝一くん」
 謝られました。突然に。
「もうちょっと泣いちゃうかも」
 体を寄せてきた栞さんは、そのまま僕の肩へと自らの顔を押し付けました。空いていた手を僕の手の甲へと重ね合わせ、元から繋いでいた手とで挟むようにしながら。
「栞さん、あの、もしかして」
「違う……違うの。さっき泣いちゃったのは本当に嬉しかったから……でも、でもぉ…………う、うあ、ああああ……」
 涙に釣られてしまったのだろうか。それとも最初から、この意味での涙だったのだろうか。――栞さんが悲しむといえば、思い当たる原因は一つしかありません。
 それは、僕が栞さんにとって毒だということ。

 そう長くもなく、しかし長く感じられる時間が経過し、意識して抑えられた嗚咽が止むと。
「もう、大丈夫。ごめんね、雰囲気台無しだよね」
 栞さんは僕の肩から顔を離し、下を向いたまま、そう溢すのでした。
「いや、泣きついてもらえるっていうのは結構嬉しかったりするんですよ? 男としては」
「そうなの?」
「そうです」
「そうなんだ」
「そうなんです」
 軽い調子でしつこく返すと目論み通りに少しだけ笑ってもらえ、それを確認した僕は、栞さんの手を引いたまま立ち上がりました。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。チューズデーさんも待ってるでしょうし」
 追いかけられたり、相談を持ちかけられたり、笑いかけられたり、泣きつかれたり。そんなデートになってたんだかなってなかったんだか微妙なお出掛けも、そろそろお開きの時間です。
「そうだね。庭のお掃除も結局ほったらかしっ放しだし。……泣いたすぐ後に言うのも変だけど、今日は本当に楽しかったよ」
 立ち上がった僕を見上げる栞さんの両のまぶたは、少し赤みを帯びていました。それでも、そんな状態でも、いつもと変わらない笑みを見せてくれる栞さんは、結構凄い人なのかもしれません。
 そして僕は、そんな栞さんが好きだ。
「僕もです。よければ、またいつかデートしてもらえますか?」
「うん、喜んで」
 それは良かった、とこちらも微笑み返すと、栞さんがゆっくり立ち上がります。
 さあ帰りましょうか、と足を進めると、
『あれ?』
 綱引きの綱のように、繋いだままだったお互いの腕がぴんと張りました。
「そっちじゃないよ、孝一くん」
「あ、ああ、そうでしたっけ?……すいません」
 何が起こったかと言うと、僕と栞さんがそれぞれ逆の方向へ進もうとしてしまっていたのです。いや、最後の最後でお恥ずかしい。
「一回、孝一くんに道を任せてみようかな? デート。面白そうだけど」
「いや、それだけは勘弁してください。野宿とかする羽目になりそうですから」
「あはは」
「ふふふ」
 冗談で済まなそうなのがまた……ま、それは置いといて。
 さあさあ我が家へ向かいましょう。デートが終わっても、一緒にいられる時間はまだまだ続くんですから。なんたって、お隣さんですからね。
 ――ん? 我が家、お隣……って、あ。
「しまったーっ!」
「え? な、何?」
「あのジャージの人! 成美さんに会ってもらわないとって話だったの忘れてました!」
「成美ちゃんに……え!? あの人のことだったの!?」
 声を張り上げた後になって、「ああ、雰囲気ぶち壊しだ」なんて思ってしまったりもするのですが、だからといって回避できる事態ではありません。こちらの事情で成美さんとの約束を反故になんて、できるわけがなく。
 もう、あの人達と別れてからそこそこ時間も経ってるしなあ。今から探すにしても、まだ公園の中にいるかどうかすら……。
「孝一くん、自転車置き場!」
「え? あ、はい!」
 走り始めた栞さんについて行く、というよりは引っ張られるような格好になってしまうのですが、とにかくこちらも走り始めます。少なくとも自転車でここへ来ていた音無さんは確実にそこへ向かう、と気付いたのは返事からもう一瞬後のことでしたけど。
 そして、走っているうちにもう一つ気付きます。状況に急かされて走っているというのに、栞さんが楽しそうな顔をしていることに。
 結局、最後の最後までデートっぽくなくなってしまったけど。でもこの人とだったら、それでもいいのかもしれない。
 僕と一緒に走っていることに対し、笑顔になる栞さん。
 僕はその笑顔に対し、笑顔になる。
 その直前に泣かせてしまったりもしたけれど、初めてのデートは、こんな感じで幕引きなのでした。

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