第二章
再会



 こんにちは。204号室住人、日向孝一です。と言っても、今はその204号室とまるで関係ない場所にいるわけですけど。
 どこかと言えば、栞さんとのデート目的で訪れた公園。更に言うなら、その駐輪場。ついさっき会った四人組の一人、やたら筋肉質で何故かジャージ姿な同森哲郎さんに用がったことを思い出し、同じく四人組の一人である上から下まで真っ黒な服装の音無静音さんをここで待ち伏せ、呼び出してもらうことにしたのです。
 で、今はその同森さんがここに現れるのを待っているところなのですが、
「あの……さっきは、すいませんでした……」
「いや、こちらこそお役に立てませんで」
 不意に謝られてしまったので、謝り返しておきました。何を謝られたのかと言えば、大学からこんな所まで僕の後をつけていたことなのでしょう。
 これでもしも僕がデート中だったということを知られでもしたら、これぐらいでは済まないのかもしれません。……いや、その前に幽霊の存在について大ごとになりそうですけど。
 で、逆に僕は何を謝ったのかと言うと、大学からこんな所まで後をつけられた理由である異原由依さんの悩みに、大した返事をしてあげられなかったことです。しかも、本当のところはほぼ間違いないであろう答えを思い付いたのに、です。……言えませんよね。あなたが感じているのは幽霊の存在です、なんて。
「それでその……えっと……」
「何ですか?」
 幽霊についての問題はこの際ですから横に置いときまして、音無さんが何かを言おうとします。ゆったりというか穏やかというか、はたまた無闇に自信なさげというか。音無さんはそんな喋り方なので、ついつい急かすようなことを言ってしまったりも。
 しかしながら僕は、音無さんと高校の頃に同じクラス、しかも隣同士の席になったことがありまして――悲しいことに音無さんはおぼろげ程度にしか覚えてなかったようですが――実はその頃、音無さんのことが好きだったりもしたのです。
 まあ、いろんな意味で今更な話ですけど。
「哲郎さんに用があるっていうのは……どんな人なんですか……?」
「あーっと、同じアパートに住んでる女の人――えー、女の子です。どういう用かっていうのは、ちょっと聞けてないんですけど」
 女の人だったり女の子だったり、ということで、それはもちろん成美さんのことです。本当はどういう用なのかも知ってるんですけど、成美さんは「自分の命を救ってくれた礼が言いたい」というのをそのまま伝えはしないでしょうし、僕だってそうするわけにはいかないでしょう。なんせその時、成美さんは猫だったんですし。
 ――と、そんなことを考えていたら、音無さんが何やら体全体を強張らせます。
「女の子……。あ、あの、もしかしてその……」
 なんとなくですが、音無さんが何を想像したのかは分かったような気がします。外れてたらかなり恥ずかしいので、自分から口にはしませんけど。
「あの、その……」
 しかし音無さん、次の句が告げられない様子。顔のパーツを口以外全て隠してしまっている長い前髪の向こうでは、恐らく頬を赤くしてしまっているのでしょう。
 なんだかこっちが虐めているようで気の毒になってきますが、しかし正直に言うと、とてつもなく可愛らしく思ってしまったりも。なんせ以前に好きだった女性ですし――と、今現在の彼女の手前、あまり考えないようにしておきましょう。
「多分、そういうアレではないと思いますよ」
 彼女の手前だとかそういうことを抜きにしても、今の状況で音無さんを放っておくというのはかなり意地が悪く見えるでしょうし、実際に意地が悪い行動なのでしょう。というわけで、大事な部分をぼかしつつも、否定だけはしておきました。
「そ、そうですか……」
 表情が見えないながら、明らかにホッとした声色な音無さん。これはどう考えても同森さんのことを――いや、止めておきましょう。
「それであの、じゃあ……呼ぶのは、哲郎さんだけでいいんですね……?」
「ああ、はい」
「分かりました……」
 言って、音無さんは取り出した携帯電話をパチリと開きました。

 で。
「す、すいません……。哲郎さんだけのはずが……」
「いやまあ、さっきのことを考えれば仕方ないというか」
 異原さんからのお悩み相談を受けた直後、そのお友達の一人「だけ」を呼び出すという展開。そりゃまあ呼ばれなかった人も気になりましょうということで、
「不都合があるんだったら退散するけど、そうじゃないなら……」
「無理に押し掛けといて何しおらしくしてんだよお前」
「う、うっさいわね! だからってアンタまで来ることないでしょう必要ないでしょう!? 文句あんならまず自分がどっか行きなさいよ!」
「……まあこの通りじゃ。何の用かは知らんが、ワシからも謝ろう。すまんの、日向くん」
「いえいえ、そんな」
 結局は再度全員が揃ってしまったのでした。口を閉じてはいますが栞さんと、あと僕達より先にこの自転車置き場で待っていたチューズデーさんも、です。
「それで、要件を聞かせてもらっても大丈夫かの。こんな状況じゃが」
「あ、はい」
 他に人がいるというのは特に問題にならないのですが、それ以前にそもそもこの話題自体が、幽霊関連ということで話し出し辛かったりします。けれど、だからと言ってそこで引っ込むわけにはいきません。
「ええとですね、僕の知り合いの女の子が、同森さんを連れて来て欲しいってことでして。それでその、すいませんけどどういう要件なのかは僕も聞いてないんです」
「……女の子?」
「はい」
「ううむ、年下の女で知り合いなんて静音くらいのもんなんじゃがなあ。人違いとかでは――まあ、ないんじゃな? 名前まで分かったうえで、なんじゃし」
「あ、いえ、名前は知らなくて」
「知らんのか? ってことは顔だけ知られてると……ううむ、どういう経緯なんじゃろうか」
「名前抜きにしたって他の誰かと間違えられるほど無個性じゃねえだろお前。ガタイも格好も喋り方も」
「否定はできんがうっさいわい」
 ……まあ、間違えようがないですもんね。当時もジャージ姿だったのかはともかくとしても、尚。
 さて、口宮さんの冷やかしに救われた形、ということになるのでしょうか? 下手をすると同森さんに不振がられてしまいそうな話は逸れ、そしてそれが修正される前に、次の話題が出てきてくれたのでした。
「それであの、その女の子が住んでるのが、僕が住んでるのと同じアパートなんですけど……来てもらって大丈夫ですか?」
「そりゃまあ構わんが、歩きじゃからちょっと時間が掛かるぞ。日向くんは自転車じゃろう? というかそうじゃ、こんな時間じゃが、今から行って大丈夫なんかの」」
 しまった、そりゃそうだ。
「あ、理由は聞いてないですけど、なんか今日は午前中だけだったとかで。あと自転車は押していきます」
 前半はもちろん今思い付いたでっちあげなのですが、それはともかく後半部分。「それくらいはさせて頂きますとも」と思ったのですが、
「いやいや、場所は分かっとるから先に帰ってもらって大丈夫じゃぞ」
 どうやら方向音痴故の発想だったようです。そうですよね、大学からあまくに荘経由でこの公園までずっと追いかけてきたわけですし。
「じゃから部屋の番号を教えてもらえれば、あとはワシ一人でも――」
 とそう言った同森さんでしたが、すると急に周囲の皆さんを気にし始める素振り。
 で、気にされた周囲の皆さんは各々こんな反応。
「お、女の子の部屋に男一人で行かせるってのもねえ?」
「つーか気になるしな、どういう要件か」
「あ、あの……私も、迷惑じゃなければ……」
 とのことでした。ええ、まあそりゃそうなりましょうともね。同森さんだけ呼んだのに全員集合しちゃってる現状から考えても。
「じゃあ皆さんご一緒にってことで。多分、その女の子も問題ないと思いますし」
「ならええんじゃがな。それでその『女の子』さん、名前はなんていうんじゃ?」
「ああ、哀沢さんです。哀沢成美さん」
 と答えてから、しまった年齢的にさん付けは変だ、なんて思ったのですが、しかし同森さんは「分かった」と素直な反応。成美さんのあの外見をイメージして女の子という表現をしたもんだから一瞬困惑しましたが、しかしまあ年下でさえあれば、女の子という表現の範疇ではあるのかもしれません。ふむ、なら同い年とかは……。
「……あの、何か……?」
「あ、いえいえ」
 少なくとも僕はしないなあ、と音無さんを見て思うのでした。
 思っていましたら、
「孝一くん?」
 栞さんから声を掛けられました。もちろんこの場でそうするわけにはいきませんが謝りたいという衝動に駆られたものの、
「表札掛かってないよ? 名前教えても」
「あっ」
 そういう問題ではないのでした。本当にそういうこと全然気にしないよなあ、栞さん。素敵です、なんて褒めてしまうと自分の軽率な行動を棚上げしているみたいなのでそうはしませんが。
「なんじゃ、どうかしたかの?」
 声を上げてしまったので同森さんがそれに反応。今栞さんから、ではなくて、音無さんを見詰めちゃってすいません、でもなくて、
「ええとですね、その哀沢さんの部屋、表札掛かってないんですよ。201号室なんですけど……じゃあまあ、来てくれたらその時に僕が案内します」
「そうか、そういうことならよろしくの。とは言っても、201号室ってことなら行けば分かりそうなもんじゃがな」
「あはは、まあ階段上がってすぐの部屋ってことですしねそりゃ」
 大きなホテルとかだったら階段が複数あったりエレベーターもあったりで一概にそうとも言い切れないんでしょうけど、我等があまくに荘はスマートなアパートなので、一概にそうだと言い切れてしまうのです。
 スマート……うん、ちょっと前向きな言い方に過ぎるんでしょうけど。そして皆までは言いませんけど。
「静音はどうするんじゃ? 自転車じゃが、日向くんと一緒に行くか?」
「あ……いえ、私はみんなと……」
「あたしも自転車だけど、大学からここまで走らせたの、あたしだしねえ。ここでまたサーっと行っちゃうってのもなんか後ろめたいし、あたしも一緒に歩こうかしら」
「人前だからって変に律義ぶんなよな」
「そんなんじゃないわようっさいわねやかましいわね!」
 ……それはともかくちょっと待って下さいませんか。
 と口を挟もうとしたところ、同森さんが僕の考えと同じことを言ってくれました。
「いや口宮も異原もちょっと待て。二台あるなら二人乗りすりゃええじゃろうが」
『あ』
 二台の自転車それぞれが二人乗りをすることで、自転車で移動できる人数は四人に。つまり異原さん口宮さん同森さん音無さんの全員が自転車に乗ることができるのです。
 という解説をするまでもない簡単な事実に、口喧嘩を始めたお二人は気が付けなかったようなのでした。
「ええと、じゃあ行きましょうか」
「すまんの日向くん、うちの馬鹿二人が」
 馬鹿と呼ばれたお二人は苦々しい顔で俯きながら睨み合い、そして音無さんはあわあわと二人の間で視線を行ったり来たりさせているのでした。
 多分いつもこんな感じなんだろうなあ、という予想は、不当な言い掛かりということになってしまうのでしょうか?
「面白い人達だねえ」
 栞さんはお優しいですねえ。

 二人乗りが二組に見えるようで実際は三組、しかし前籠の黒猫さんを含めれば三人乗りが一組だったりもする僕達一行は、来た時と同じ道を通ってあまくに荘へ。なんせ僕が先頭だったので、同じ道じゃないと迷うのです。また。
「普通男が前じゃねえ? こういう時って」
「あんたの後ろとか冗談じゃないわよ! それにこれあたしの自転車だし!」
 ――あちらはあちらで問題が発生しているようですが、だったら音無さん同森さんと入れ替わって男同士女同士で乗れば良かったんじゃないですかねえ。
「騒ぐなお前ら。静音が驚いて落ちかねん」
「そ……そんなこと言われたら、余計怖いような……」
 ちゃんと、と言うようなことなのかどうかは僕の預かり知らぬところではありますが、こちらはちゃんと同森さんが前なのでした。そうしたらそうしたでまた問題が発生しているようですけどね。
 驚いて落ちそうだ、なんて、普通に考えれば過保護もいいところなのでしょう。
 しかしそこは音無さん。気になって後ろを見てみれば、本当に少々ふらついているのでした。

「ううむ、いざとなると緊張してくるのう」
 普段はすっからかんな駐輪場に三台の自転車が並んだところで、同森さんが二階を見上げながら呟きました。
 というわけでここはあまくに荘。ついに、というほど時間が掛かったわけでもありませんが、ともかく到着したのでした。
「ちなみにじゃが日向くん」
「あ、はい」
「そのワシに用がある人っていうのは、年はどれくらいなんじゃ? 女の子としか聞いてなかったが」
 緊張から、ということなのでしょうか。聞かれないならそのままのほうがいいなあ、と答える身としては思っていたのですが、今になってその質問を投げ掛けられたのでした。
「あー、えっと、本当に小さい女の子で……これくらいの……」
 年齢となるとどう表現していいのか分からなかったので、手でその身長を表してみます。
 となればやはり、返ってくるのはこんな反応。
「そ、そんなに小さい子なんかの? 小学生くらいじゃろ、それ」
「まあ、はい」
 実年齢を訊かれると困ってしまいますが、外見の年齢で言うならそれくらいが適当でしょう。
「むうう、ますます覚えがないのう……」
 相当な深刻さで考え込んでしまう同森さん。同じ状況であれば、まあここまでではないにせよ、少なくとも気楽にことに臨むような人はそう多くないのでしょう。なんせ自分を呼び付けた人物にまるで覚えがないうえ、代わりに呼びに来た人物についても、今日初めて会ったばかりなのですから。
「人違いだったとしてもこっちが悪いわけじゃねえんだからさっさと行こうぜ。ブツブツ言っててもなんも変わんねえぞ」
「あんたねえ、ちょっとは当人の気持ちになりなさいってのよ!」
 何やらまたしても場外乱闘が発生してしまったようですが、
「いや、異原。その馬鹿の言う通りじゃ」
 という「当人」の言葉一つで、その場は収まるのでした。
「そ、そう? 哲郎くんがそう言うならそれでいいけど」
「言った通りなのに馬鹿ってどういうことだコラ」
 収まったってことでいいですよね、もう。

 201号室前。チャイムを鳴らして暫くすると、ドアが開き、頭から猫の耳を生やしたその部屋の主が姿を現しました。
「君は――そうだ、確かに……」
 その服装・肌・髪の全てが白い小さな女性は唯一黒い目で同森さんを見上げ、唯一赤い唇を小さく開閉させて、そう小さく弱々しく呟くのでした。いつもの「お前」ではなく「君」なのには多少違和感があるものの、自分が呼び出した客であるならそれも当然なんでしょう。
 一方の同森さんは、当たり前ですが成美さんのその様子に困惑気味。いくら事前に説明があったとはいえ本当に小学生程度の女子を前にして、しかもそんな人から「君」なんて呼ばれたりしたら、誰だって目を丸くすることでしょう。
「この子……で、いいんかの」
 本人ではなく、僕に確認を求めてくる同森さん。そういう反応も、成美さんを見たのが初めてなのなら仕方ないのでしょう。だからと言って僕が信用のおける人物かというのは、これまた今日初めて会ったばかりなのでそうとも言い切れないのでしょうが。
「わたしが哀沢成美だよ。君をここに呼んだ、な」
 そんな僕の考えを見透かしたかのように微笑みながら、成美さんは僕より先にそう告げたのでした。
「さあ、遠慮無く上がってくれ」
 白いワンピースのスカート部分をふわりとはためかせながら振り返ってそう続けると、その小さな背中へ異原さんがためらいがちに言葉を掛けます。
「あ、あたし達も上がらせてもらっていいのかしら?」
 言葉そのものは年下へ向けたそれでしたが、気勢は完全に目上の人へ向けるものでした。なんというか、やっぱりそうさせるところはあるんですよね成美さんって。
 そしてその成美さん、その問い掛けに体を捻ってこちらを向きます。その際、ワンピースが再度ふわりと。
「ああ。つまらない部屋だが、よければ上がってやってくれ」

 中に入ってみれば、前に入った時と同じく何もない部屋。……いや、テーブルすら片付けられているのでそれ以上でしょうか。
 けれど、今回は人数が違います。
 僕達より先に部屋にいたのが大吾、チュ―ズデーさんの二名。そして今部屋に入ったのが、成美さん、僕、栞さん、異原さん、口宮さん、音無さん、そして同森さんの七名。
 計九名にもなるのですが、この広い部屋であるおかげかそこまで窮屈という事もないのでした。まあそれ以前に、同森さんご一行からすれば成美さん以外の幽霊さん達は除外されるわけですが。
「なあおい、何の話かは知らねえけど、わざわざ全員の前でするこたねーんじゃねえか? 邪魔なら外出てるぞ?」
 部屋に入ってすぐの壁へともたれかかって座っていた大吾が、部屋内に足を踏み入れた成美さんに声を掛けます。けれど成美さんは、無言で首を横に振りました。そして部屋内の全員と向き合えるようにという事なのか、部屋の奥までそのまま足を進め、ベランダへの窓の前でこちらを振り返り座り込みました。ならばということで、僕達は気持ち程度ながら入り口側に寄って適当に座り込みます。
「君」
「ん? あ、ワシじゃろうか?」
「うむ。呼び付けておいて失礼極まりない話なのは承知しているが、名前を、教えてもらえないだろうか」
 僕達の中ではすっかり当たり前のことになっていますが、しかしやはり小さな女の子がこの口調というのは奇異に映るものなのでしょう。同森さん、笑っているような困っているような表情を僕へ向けるのでした。
 けれど僕は何も言いません。その反応を見て、同森さんも動きました。
「同森哲郎じゃ。ええと、何か用があるっていうのは、ワシのことで間違いないんかの?」
「うむ、間違いなく君だ。見間違えよう筈もない」
 成美さんがどういう意味でその言葉を言ったのかはともかく、小さな声で「そりゃコイツじゃなあ」と呟きながら笑った口宮さんは、異原さんからしこたまに頭をはたかれていました。
 その遣り取りを見て成美さんも笑うのですが、しかしそれは優しさや穏やかさに溢れたような笑みでした。具体的にどういう想いがあったのかまでは、僕には分かりませんでしたが。
「三年前のことになるのだが、車に轢かれかけた白い猫を助けた憶えはないだろうか?」
 それがどういう意味なのか、あまくに荘の面々は即座に気付いたことでしょう。同森さん達も気付くことはあったのでしょうが、しかしそちらについては確実に間違っていると言ってしまって問題はないのでしょう。
「三年前……確かにそんな事もあったかのう。ということはもしかして――ええと、名前」
「ああ、わたしは哀沢成美という。重ね重ね申し訳ない、緊張の余りというか、感激のあまりというか」
「あの時の猫は、哀沢ちゃんが飼ってた猫ってことかの」
 そう、そんなふうに考えるしかないのです。その猫が目の前の哀沢成美さんそのものだなんて、普通の人には絶対に思い付けるわけがないのですから。
 哀沢ちゃん、なんて普段なら絶対に拒否するであろう呼び方をされた成美さんはしかし、何も言わずにこくりと頷くのでした。飼っていた猫。そういうことで話を進めるつもりのようでした。
「そう、あれはわたしが飼っていた猫だ」
 強調するかのように、成美さんは同森さんの言葉を復唱しました。自分が飼っていた猫だ、と。
「だからわたしはずっと、君に礼が言いたかった。あの時は……なんだ、怖くて動けなくなってしまってな」
 辻褄合わせの嘘を交えつつそう言った成美さんは、額を床に擦り付けんばかりの勢いで深々と頭を下げました。
「あの時は、本当にありがとう。その猫はもう死んでしまっているし、命を助けてもらった事に、死んでから礼を言うのも可笑しな話なのだが……本当に、本当にありがとう」
 成美さんの声は、後半から震えが混じり始めていました。その事に部屋のみんなが狼狽し――特に大吾は、立ち上がろうとさえしました。だけどそれも振りだけに留まり、持ち上がりかけた腰は、本人の舌打ちを合図に再び下降します。
 本当の事情を知らない同森さんすら表情が沈みがちになり、そしてその表情のまま、呟くようにこう言います。
「……そうか、もう死んでしまっていたか」
「ああ。だが、おかげであいつは天寿を全うできたよ。そっちは怪我しなかったか?」
「はは、あの頃も見てくれはこんな感じじゃったしな。……そうか、寿命か」
 どちらも死んでしまったことには変わりないわけですが、しかしそれでも、同森さんの表情は明るさを取り戻し始めていました。

 それからほんの少し後、201号室の玄関先にて。
「すまない、呼びつけておいて大したもてなしもできなくて」
「そんなことを気にするなんて、随分しっかりした子じゃのう」
「どっかの馬鹿はこの子の爪の垢を煎じて飲むべきね」
「それ、どっかの馬鹿ってのが誰かは確認したほうがいいのか?」
「あ、あの……なにもこんな時まで……」
 音無さんのその言い方からして、異原さんと口宮さんは普段からこんな感じなのでしょう。まあ公園で会ってからこれまでの間だけでも何となく察せられますし、下手したらこの一件だけですら、なのかもしれません。
 というわけで成美さんも特に慌てるような素振りはなく、むしろ面白いものをみているかのように、にこにことしているのでした。
「こいつらのことももてなしのことも、気にしなくていいからの。話、聞かせてくれてありがとうな、成美ちゃん」
「そう言ってもらえると有難い。うむ、気が向いたときにでも、また寄ってくれ。その時は刺身くらい出そう」
「刺身? はは、そうか成美ちゃんは刺身が好きなのか。小さい子にしては珍しい――いやそんなこともないのか? 分かった、またいつか。その時はこいつらも……」
「ああ、是非また一緒に来てくれ。見ていて面白いし、歓迎するぞ」
「ほらもう、面白がられてるじゃないのあんた!」
「喜んでもらえてるならいいだろ別に……」

「で、結局なんでわざわざ全員集合だったんだ? 本当にあのゴツイのとオマエだけの話だったじゃねえか」
 同森さん達の見送りが済み、残った人員がぞろぞろと居間に戻ったところ、大吾が床に座り込みながらややぶっきらぼうに言い放ちました。
 ――大吾といえば、同森さん達が帰ろうとして立ち上がった時のこと。
「おい孝一。……ええと、同森だったか。そのゴツイのに後で成美からのとは別に礼を言っといてくれねえか? オレからの礼ってわけにはいかねえけど――まあその、大事な女(ひと)を助けてくれた訳だし」
 その場で返事をすると同森さん達からすれば「誰と話してるんだ?」ということになるので黙っていましたが、そのお願いは別れ際にきっちり遂行させていただきました。
 大事な人、なんて言われちゃったらねえ。恥ずかしかったろうに、それを圧してまで。


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