緑川の家は近くの山のふもと、民家の間を縫うようにしていくつにも枝分かれした小川が流れる地域にある。その川を流れる水は極めて澄んでおり、水中でゆらゆらと流れに身を任せる梅花藻ばいかもは、夏になると水面へ小さな白い花を出す。最盛期には梅花藻の白に加えて川沿いから落花した百日紅さるすべりの桃色が加わり、その清らかな小川、その鮮やかな花の色、そしてのどかな町並が組み合わさった景観の優雅さたるや、遠方からはるばる観光客が訪れるほどである。
 現在、季節は冬。二色の花は咲いていないが、だからと言ってその美しさが損なわれているかと問われれば、そうではない。川の流れと町並は、季節に左右されないのだから。
 ――そんな、少しでも風景というものに関心を寄せられる人間なら溜息すらついてしまいそうな程の穏やかさと美麗さの中。
「一番乗りぃいい!」
 場にそぐわぬはしゃぎっぷりと勢いで、アスファルト舗装の上に靴底をザリザリと滑らせ停止する女性が一人。
「いちばーん!」
 そして彼女の肩の上に、「女性」と称するには違和感を禁じえない幼い女の子が一人。
 次いで、
「にばーん!」
「まあ、いつも通りの結果ですね」
 男の子と男性。こちらは立ち止まる直前からスピードを落とし始め、一番の組と比べれば大人しく停止した。
 そして彼等からやや遅れて、
「もう、足が、お腹がぁ……」
 自転車に乗った、傍目には女性な男性が一人。サドルから腰を浮かせてすらノロノロとしたスピードしか出せていない辺り、疲労困憊もいいとこである。
「初めから勝てっこないんですから、ゆっくり来ればいいんじゃないですか?」
「男だってんならもうちょっと体力付けようぜ千秋ちゃんよ」
「無茶、言わないでくださ……んぐっ」
 息が詰まり、それによって返事が詰まる。
 この二人は、全力でペダルを漕いでいる自転車に平気な顔をして並走してくるのだ。確かに自分はあまり体力に自身のあるほうではない。だが、これはそれ以前の問題なのではないか?
 詰まった返事の先にはそのような話を続けるつもりだったのだが、こちらを見てニヤニヤしている黄芽を見ると、それよりも優先して言いたい事が浮かび上がる。
「『ちゃん』は、やめて下さい……」
 崩れ落ちるかのように自転車を降りながらそう言ってはみたものの、赤を肩から降ろしながら、黄芽はニヤニヤしたままだった。
 何はともあれ、自宅前に到着である。

 緑川の自宅と道路の間には、そこかしこを流れているのと同じように小川が通っている。
「ただいまー」
『お邪魔しまーす』
 その川を跨ぐ縦幅二メートルほどの小さな橋を渡るとそこで初めて緑川家の玄関口、という事になる。
「あらお帰りなさい。……千秋ちゃん、今朝はご飯食べないで出て行っちゃったでしょう? お母さん、二人前食べちゃったわ。朝ご飯」
 玄関の引き戸を開けるとすぐそこにいたのは、本人がそう名乗った通りに緑川の母である。その眉を寄せた表情からして、緑川の今朝の行動が気に障っているらしい。
「あ、ごめんお母さん。朝、寝坊しちゃったから……」
 その後、「目覚ましはちゃんと掛けておきなさい」だとか「掛けたけど、電池が切れちゃってて」という会話になると、緑川の背後からくすくすと複数の小さな声が。
 寝坊に付いて笑われているのか、それとも母親の「ちゃん」付けを笑われているのか。そのどちらにせよ、笑い声に背中から指を差されるような心境の緑川であったが――
 後ろの黄芽達の声はどの道、緑川母には届かない。何故ならば、緑川の母が見ている世界に幽霊というものが存在していないからだ。つまり、笑い声どころか黄芽達の姿すらも、彼女にとっては「存在していない」のである。
「台所に焼き飯作ってあるから、食べてらっしゃい。お母さん、ちょっとお買い物に行ってくるから」
「うん、分かった」
 仕方のない息子だ、と思っているのを如実に表す含み笑いを見せながら、緑川の母は緑川と入れ違いに出て行った。黄芽と白井を、そしてその足元にいる赤と青をも避けようとせずに、彼等の体を文字通り貫通しながら。
「というわけなんで、ボクの部屋に上がっててください。ご飯食べてきますから」
 しかし緑川にとって、そんな光景は最早見慣れたものであった。
 黄芽達と知り合って一年、次の春になれば二年になる。それだけの付き合いがあれば、幽霊という存在の性質については今更驚くような事もない。幽霊がなんでもすり抜けて行動できる事も、その犯罪者を捕まえるという仕事内容から鬼は幽霊をすり抜けられず、また幽霊の側からもすり抜けられないようにされているという事も、そして幽霊が食事を必要としない事も。
「んじゃま、夜中に叩き起こされた分のんびりすっかな」
「どうぞ。――あ、そうだ。黄芽さん、みかんがありますけど」
「マジか!? なら是非とも持ってきてくれ!」
 必要としないからと言って食べる楽しみが無くなったわけではないという事もまた、当たり前のように知っている。
「あはは。あとで持って上がりますね」
「赤も欲しい!」
「青もー!」
「あ、じゃあ僕の分もお願いします」
 むしろ驚くべきは、付き合えば付き合う程に普通の人間と変わりのない彼等の在り方なのかもしれない。今こうして、学校の友人を家に招くのと全く同じ要領で事を進めているのがそうであるように。
「うん」

「持ってきたよー。誰か開けてー」
 やや急いで昼食を済ませた緑川は、五つのコップと容器に入った麦茶、それに加えて五つのみかんを乗せたお盆を持ち、二階の自室の前で声を上げた。両手が塞がっていて自分では開けられないのである。
 すると部屋の中から『はーい』という二つの返事が聞こえ、次いで短い足音がこれまた二つ。反応してくれたのが誰なのかは、すぐに分かった。
「開けるよー」
「ドアの前にいたら危ないよー」
 そんな可愛らしい気遣いの後、ゆっくりゆっくりと慎重に開けられるドア。
 やや時間が掛かって完全に開き切り、ドアの向こうの人物が現れてみれば、そのノブは二人掛かりでしっかりと握られていた。
「ありがとう、赤ちゃん青くん」
 そんな二人に「いつもながら愛くるしいなあ」とほっこりする緑川であった。
「おっ、飲みもんも一緒か。気が利くな、酒のほうが良かったけど」
「最後の一言は余計ですよ、黄芽さん」
 それに比べてベッドを椅子代わりにして座り込んでいるポニーテールの女性には、可愛げなど欠片もなく。
 そのグラビアアイドル顔負けのプロポーションもあって「美女」で表せるような人物だというのに、口を開けばこれだ。実にもったいない。
 ――と緑川は時々、黄芽を見てそんな事を考えていた。自身は口を開いてすら「美少女」と表せてしまうのだが、それでも年頃の男の子である。出る所が出ている上に一見して美人な大人の女性が傍にいればそこに異性を意識してしまうのも、その後に現実を直視して溜息をつくのも、無理からぬ事なのであった。
「それに、今は勤務中なんですから」
「はいはい。あー、さっすが眼鏡キャラだな。口うるせー」
「視力と口うるささには何の因果関係もありませんよ」
 もう一方。黄芽のすぐ傍、しかしベッドで隣り合うのではなく足元の床に正座している白井は、女らしさ云々以前にまず黄芽を女性として見ていないようであった。
 このグループに緑川が組み込まれてから一年経つが、少なくとも彼には白井が「そういう素振り」をしたという記憶がない。白井が黄芽について口や素振りで語る事と言えば、今のような黄芽本人に言わせると「口うるさい」呆れ話と、何かを命令された時に適当に返す相槌が主。そして時々仕事仲間、相棒としての信頼を。
 最後の一つは具体的に言葉では表されない。だが、そう感じられる瞬間がままあるのだ。例えば今日のように全員で散歩をしていて、急に仕事の連絡、つまり工場前で会った紫村からの連絡が入った際。そうなれば当然緑川と双識姉弟は置いていかれるのだが、そうして黄芽とともに走り去る白井は、緑川から見て彼女と対等であった。
 具体的に何が違うのかは分からない。だが普段の黄芽に連れ回される白井とは、決定的に何かが違っていた。
 分からないなりに何としてでもそれを言葉で表すとするならば――
 その時の白井は格好良い、のである。黄芽と同列になり、後ろから横へ進み出て、共に掛けてゆくその後ろ姿が。
 ――なんでボク、いつの間にか思考が下世話な話から真面目な話にシフトしてるんだろう。ただ下世話な話だけ考えるよりよっぽど恥ずかしいよこれじゃ。
「やっぱうめえな!」
 考えている間に、緑川を含む部屋内の全員は揃ってみかんを食べ始めていた。するとそれを大の好物とする黄芽が喜ばしそうな声を上げ、
「うめー!」
「うめー!」
 小さなコタツに並んで足を突っ込んでいる双識姉弟が、それを反復する。
「あっ。真似しやがったなこいつ等ぁ」
「真似しやがったなー」
「真似しやがったなー」
 そうしてにこやかな警告すらも無視する赤と青に、黄芽がベッドからすっと立ち上がる。そして嬉しそうに微笑み続けるその二人へ、
「憎たらしい奴等めー!」
 と姉弟纏めて抱き付いた。
『きゃあー!』
 勢い余って食べ掛けのみかんを握り潰さないでくださいね、と心配する緑川であったが、双識姉弟は大はしゃぎ。黄芽の豊満な胸に顔をうずめられながら楽しそうな悲鳴を上げ、押さえつけてくる腕から逃れようと暴れ回る。
 緑川からすればなんとも羨ましい、もとい微笑ましい光景であったが、もし自分がああなったとしたら抱き付くどころか背骨がメリメリ音を立てるまで締め付けられそうな気がしたので、あまり想像しないでおく事にした。
 一方、白井は相変わらず。
「赤ちゃんも青くんも、黄芽さんの言葉遣いはあんまり真似しちゃ駄目だよ」
『はーい!』
 元気良く返事をする赤と青に黄芽が苦い顔をし、白井が不敵な笑みを浮かべる。恐らくは双識姉弟にそんなつもりはなく、ただ白井の注意に「いつもの返事」を返しただけなのだろう。だが、この二人をとてつもなく可愛がっている黄芽からすれば、それはとても痛い点を突かれたも同義なのであった。
「そんな顔するなら言葉遣いを直せばいいのに」と思った緑川であったが、もちろん口に出せる筈もなく。
 すると、興が冷めたのか赤と青を腕と胸から解放する黄芽。そして残り半分程のみかんを纏めて口に放り込むと、その顔に幸せそうな色をじんわりと染み出させてくるのであった。


「じゃ、そろそろ行くか」
「鎧おじちゃんのお家ー!」
「シルヴィアお姉ちゃんのお家ー!」
 小一時間程度を緑川の自室でまったりと過ごすと、不意に時計を見上げた黄芽が再出発を提案。すると双識姉弟が、次の目的地を確認するかのように威勢良く声を上げた。
「もちろんそのつもりだぞ。家にいてくれりゃいいんだけどな」
 黄芽はそうして何でもないように返事をしつつ、まるで寝かせるかのようにベッドの上に横倒しされていた金棒をひょいと持ち上げた。
 すると鉄のパイプで構成された組み立て式のベッドが、重りを除かれた事によって唸るような軋み音を立てる。それを聞いた緑川は、以前その金棒を壁に立てかけた際、気が付くと壁と床の両方へめり込んでいたことを思い出した。
 ――ベッドの足も、床にめり込んでないかなあ。あの金棒、とんでもない重さだし。前、試しに持ち上げさせてもらったら、持つ所を浮かせるだけで精一杯だったしなあ。

「あら、またお出掛け? 急がしいわねえ」
「あはは、全くだよ。――行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 玄関を出た所で丁度すれ違いに帰ってきた母親と言葉を交わし、緑川は再び自転車に跨る。
『お邪魔しました』
 幽霊一同も、伝わらないと分かっていながら母親に軽く頭を下げる。一方通行でも礼儀は礼儀、という事なのであろう。そして緑川が自転車に跨るのと同じく、赤と青がそれぞれ黄芽と白井に跨った。
「走るにしても、今度は抑え目にしてくださいね?」
 母親が家の中へは行ったのを後ろ目に確認し、緑川が黄芽へ釘を刺す。ここへ向かっていた時のような競争をもう一度始められたとしたら、足がご臨終してしまうのはほぼ確定だったのだ。
「んん? どーすっかなー?」
 しかしやはりと言うか、そのまま受け入れてはもらえない。むしろ逆効果ですらあったようで、黄芽は明らかに悩んでいない意地の悪そうな笑みを湛え始めた。
「千秋お兄ちゃん、疲れちゃったの?」
「うん、もうヘトヘト」
「そっかぁ。千尋お姉ちゃんと修治お兄ちゃん、すっごく速いもんねー」
 赤の質問、そしてそれへの返事に対する青の感想を聞き、緑川は「しめた」と内心ほくそ笑む。こうなれば優しい二人の事だ、
「ねえねえ千尋お姉ちゃん、ゆっくりしてあげようよ」
「千秋お兄ちゃん、疲れちゃったって。かわいそうだよ」
 これこの通り。そしてこの二人の頼みなら、
「そうか? じゃあ仕方ねえな。ゆっくりめにしてやるよ、千秋」
 これこの通り。
「いやあ、よかったよかった。僕もあんまり乗り気ではなかったんですよね」
 喜びとともに双識姉弟への感謝の念を膨らませていると、白井が無駄に眼鏡の位置を直しながら呟いた。「だったら修治くんからも頼んでくれればよかったのに」といったんは思った緑川であったが、それに何の意味もない事を思うと白井を責め切れないのであった。
 そしてそんな緑川の心情とは無関係に、白井の肩に跨る青が一言。
「修治お兄ちゃんも嫌だったの? どうして?」
「だって、一番が黄芽さんで二番が僕で、最後が千秋君なのは決まってるからね。負けると分かってて勝負するのは嫌だよ」
「そっかー。やっぱり、勝つかどうか分からないほうが楽しいもんね。赤とオセロしてても、最初からどっちが勝つか分かってたらおもしろくなさそう」
「そうそう」
 中々の理解力を見せる青に、満足そうな笑みの白井。だがしかし、満足できない者もいた。その「結果が見えている勝負」を仕掛けた張本人、黄芽である。
「そりゃ確かにそうだけどな、青。そもそも勝ち負けが分かってるってのは白井が勝手に決めた事だろ? 勝負の前から『負けるに決まってるー』なんて言ってたらそりゃ負けるってもんだ。千秋はともかく」
「ああっ! ともかくってそんな、そりゃそうですけど何かムカツク!」
 さらっと流すように馬鹿にされ、激高の緑川。しかし本人も言う通り「そりゃそう」なのである。その事は、競争を避けようとした自分が一番よく思い知っていた。
「だからな青、勝てそうになくてもまずは勝てるように頑張ってみ? それで負けたとしても面白くねえなんて事は絶対にねえからよ」
「スルーだ!」
 半ば涙目の緑川であったが、誰もそれを気にかけることはなく。
「うん。赤に負けちゃいそうになってもあきらめちゃだめって事だよね?」
「ま、そういうこったな。もちろん赤もだぞ?」
「うん!」
 この中で一番「勝ち」というものに近い人物が言う内容としては、ちょっとなあ。悔し紛れにそう毒づく緑川であった。
 が、何はともあれ出発である。移動速度に合わせて厳しくなるであろう冬の冷たい空気への心構えを完了させ、緑川は自転車のペダルに力を込めた。せめて出だしだけでも一番になるために。
「あ゛ぁっ! フライングかてめえ!」
 即、抜き返された。
「って、競争じゃねえんだったっけ?」
「だったですよう……」
 脱力の極みであった。

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