結局、「競争でもねえのに走んのだりい」という誰発かは言うまでもない暴論によって集団は歩く事になり、当然緑川も自転車を手で押す事に。
「歩くんだったらみかん余分にもらっときゃよかったなー」
「片手じゃあ皮剥けませんよ」
 赤の足を掴んでいる手はともかく、金棒を離す事はできない。白井の指摘はもっともだったが、
「赤に剥いてもらって食べさせてもらう」
 黄芽は頭を真上に向け、さらりと言い放った。それを上から覗き込む赤は、「あ、それやってみたかったなあ」と残念そうに口を歪める。
 ――「歩くんだったら」って、そもそも歩き始めたのは千尋さんが言い出したんじゃないですか。それでもってみかんどうこうって、ボクへの当て付けみたいな……
 というのは流石に被害妄想であるが、現在の緑川は黄芽に入れられた茶々のおかげで少々ご機嫌斜めである。可哀想な事に、それはありきたりないつもの光景なので誰も気に留めようとしないのだが。
「にしても、今日は本当になんにもねえなあ」
 緑川の苛立ちを知ってか知らずか完全放置の黄芽が、チリチリと自転車のギアが空回りする音だけが辺りに響く中、さもつまらなそうに吐き捨てた。
「このままなんも無しに旦那んちに着いちまうんじゃねえのか?」
「ちょっと出掛けるだけでそんな事気にしなきゃならないほうの身にもなってくださいよう」
「嫌だね」
「……………」
 ここで緑川はようやく、これ以上話をしても自分の苛立ちが収まる事は無いと気付く。そしてそれは顔にも表れ、もちろんそこに各人の好みはあるだろうが、ただでさえ可愛らしい顔が膨れてさらに可愛らしく。すると、
「そんな顔をしていると余計に女の子っぽいですよ、千秋くん」
 集団の中で最も男性らしい容姿を持つハンサム眼鏡男が、緑川を振り返っていつも通りの呆れた声を発した。
「千秋お兄ちゃん、可愛いよねー」
 白井が振り向くという事は、その肩の上にいる青も振り向くという事。本人の意識としては白井と違って純粋に褒めているのだろうが、そしてそれは緑川も理解しているところであるが、やはり気持ちはいたたまれず。


 緑川の家がある、その間を小川が縫うように流れている住宅街。そこを抜けて朝に集まった廃工場がある地域。特に都市化が進んでいるわけでも、逆に田舎という印象を受けるわけでもない、ごく一般的な街並の中。
「本っ当、なんにもねーな今日は」
 数分前の台詞であった。そして、数分前のそれより不機嫌さが上昇していた。
「仕事が入るよりはマシってもんですよ。いいじゃないですかこれから金剛さんの家に行くんですから」
 黄芽のイライラ増加に合わせ、白井の呆れ加減も上昇。肩に乗せた青が「わっ」と声を上げてしまう程、急激に肩を落としてそう言った。
「何も仕事入れって言ってるわけじゃ――お?」
 反論しようとした黄芽であったが、前方に何かを発見。それにより、白井への関心は一瞬で消え去った。
 黄芽に釣られて、一団全員そちらへ視線を移す。そして「それ」を見た緑川は、
「ん? あの人達? が、どうかしたんですか?」
 その正体が何の変哲もない人間二人組だった事へ疑問を抱く。
 一方は髪型がオールバックでスーツ姿の男性。ただし上はカッターシャツのみで、ネクタイは「それならいっそ外せばいいのに」と言いたくなるほどに緩められている――と言うより、最早外れる寸前である。もう一人の人物と会話している様子はないが、その口元はどこか嬉しそうに両の端が持ち上げられていた。
 もう一方は私服の女性。三十代前半だろうかという隣の男性に比べれば随分と若く見え、恐らくは二十歳前後といったところ。上は白い長袖のブラウス、下は蒼いロングスカート、そして黄芽と同程度の長身に、黄芽とは違って纏めていない長髪。外見的特徴が全て「長い」彼女は、一方の肩にリュックを掛けている。隣で微笑む男性とは違いその口元は平坦であり、切れ長の目が相まって、どこか冷たい印象を放っていた。
「こんな真っ昼間に仕事着のオッサンと若い姉ちゃんが並んで歩いてんだぜ? 怪しさ満点じゃねえか」
 歩み、だんだんとこちらへ近付いてきているその二人への遠慮などまるで無しに、思った事をそのまま言い散らかす黄芽。そしてそれは、とても楽しげであった。
「もしかして『痴情のもつれ』とかそういう事が言いたいんですか? まあ在り得ないでしょうが、もしそうだとしても僕達には関わりのない事ですね」
 白井もまた、二人への配慮などない。それは彼等が幽霊であり、一般人にその声が届く事がないからである。緑川のような珍しい例を除いて、だが。
 それにしてもまあ突拍子もない妄想だ、と緑川は内心黄芽をこき下ろすが、口にはしない。それは黄芽にどんな反撃をされるか分かったものではないから――というのももちろんあるのだが、あちらの男女からすればここには「緑川一人しかいない」のである。他人の目の前で空中と会話するさまを披露するわけにもいかないので、周囲に人がいる場合、緑川は黄芽達と話ができないのだ。
 そうして黙りこくる緑川とその仲間達の隣を、件の男女二人組がついにすれ違う。その時、女性が肩に掛けるリュックからは丈夫な金属が擦れ合うような、重苦しくかつ耳障りな音が漏れ出していた。
 黄芽が言うようなその二人組への違和感も全く無いという訳ではなかったが、どちらかと言えばその音のほうが気になって、緑川は後方の二人を振り返った。が、もちろんそれでリュックの中身が分かる訳でもなく。そして大した間もなくそれを理解した緑川はその二人への興味を完全に失い、視線を前方へと戻すのだった。
「女の人、美人でしたねえ」
「ああ? んだぁ白井、ああいうシケた面の女が好みか?」
 しかし隣の二人はまだ興味が残り続けているようで、まあどちらの言い分も分からないではないそんな話を。
「そういうわけでもないですが、やたらにメンチ切ってくる女性よりはマシですね。格段に」
「ほー。それが誰の事か訊いていいか?」
「訊いてよくないです」
 肩に掛けた大金棒の角度をやや急にしてみせる黄芽に、神経を逆撫でしようとしているとしか思えない緊張感の無さであっさりと返す白井。その答えは、「やたらにメンチ切ってくる女性」が黄芽であると言っているようなものである。
 しかし他方、そんな下々の会話とはまた違ったトーンで、彼等の上に位置している赤と青が言葉を交わす。
「女の人、きれいだったけどちょっと怖かった」
「うん、青もそう思った。でもおじちゃんのほうは優しそうだったよね?」
「うん、優しそうだった」
 それは単純に彼等の表情だけを見て出された感想なのだろう。
 実際のところその見た目通りな人物なのかどうかは実際に接してみなければ分からないのだが、「わざわざそんな指摘をするのも野暮ったいかな」と緑川は開きかけた口を噤んだ。
 そんな緑川の代わりのように、黄芽と白井が再び話し始める。
「ほれ見ろ眼鏡。ああいう面した奴に碌なのなんかいねーっつの」
「眼鏡関係無いですって」
 言いながら中指で眼鏡のブリッジを押し上げ、位置を直す白井。それが済むと、それまでの呆れ顔に若干のにやけを含ませた。
「それに、『ああいう面』の人なら知り合いにもいるじゃないですか。ほら、廃病院の辺りに」
「既に知り合ってる奴は含まねえよアホ」
「……やれやれ」
 一蹴され、その顔のにやついた色はあっさりとなりを潜めるのだった。
 ――勝った、と思ったんだろうなあ。確かにあの人もあんな感じの顔でしかも美人だけど、相手が黄芽さんじゃあそれは通じないよ修治くん。と言うより、何も通じないよ多分。
 そう考えるうちに白井と似たような気分に陥った緑川であったが、そんな時。
「げ。こんな時にかよ」
「特に『こんな時』と言うような事も起こってないですけどね」
 黄芽と白井のズボンのポケットから、携帯電話という物を知っている者にとってはお馴染みの「ピリリリリ」という電子音。どちらか一方だけが鳴っているのなら、それはただの知り合いからの呼び出しという事になる。だが二人同時だった場合――
「紫村さんですか?」
 着信音に合わせて足を止めた二人に倣い、自転車を押す手を止めて不安げに尋ねる緑川。その彼からの質問に、黄芽は険しい口調で返す。
「だろうな」
 二人同時だった場合、それはほぼ確実と言っていい割合で「隠」である紫村から「夜行」へと寄越された、仕事の連絡である。
「悪いな赤、一回降りてくれ」
「うん」
「青くんも。ごめんね」
「はーい」
 双識姉弟がそれぞれ黄芽と白井の背中を滑り下りる。仕事となれば、この二人を背負ったままという訳にはいかないのだ。
 黄芽と白井が、ポケットから取り出した携帯電話「らしきもの」を耳に当てる。
 それは普段「携帯」と呼ばれており、機能も現世のそれとほぼ同じなのだが、仕事関係の連絡がある場合はいわゆる無線のような役目をする。つまり、個人から複数人へ一度に声を伝える事が可能なのである。無線なのに着信音というのは、まあ「携帯」であるが所以だろうか。
「――おいおい」
「これはまた……」
 紫村からの連絡を受けた黄芽と白井が、何を伝えられたか驚嘆の声を漏らした。しかし今は無線の状態なので、特定のボタンを押さずに呟いたその声は紫村に伝わらない。
「ど、どうしたんですか?」
 連絡の最中に声を掛けるべきではない、と思ったのは言った直後。黄芽と白井の緊迫した様子に、緑川はつい、口を開いてしまった。
「今の二人だ。あのオッサンと姉ちゃん、幽霊でやんの。ついでに悪人だってよ」
 携帯を耳に当てたまま、そして余裕の無い口調のまま、黄芽が自嘲するように毒づいた。そして同じく携帯を耳に当てたまま、白井がさっきまであの男女がいた背後を振り返る。
「……しかも、もう見えなくなってますし」
 どこかで曲がり、建物の陰にでも隠れてしまったのだろう。例の二人の姿は、もうそこには認められなかった。
「行くんですよね、やっぱり」
「たりめーだ。それが俺等の仕事だからな」
 不安がっても仕方がないのだが、それでもやはり不安を隠しきれない緑川が、意味の無い質問を黄芽にぶつける。それに対する黄芽の返事によって生まれた平静は、「なら仕方がないよね」というネガティブな思考の産物であった。
「三人とも、ここで待っててください、できるだけすぐ戻りますから。――行きましょう、黄芽さん」
「おうよ」


 黄芽と白井。鬼であるあの二人が常人より格段に優れた身体能力を有しているのは、緑川もよく知っている。自転車を用いてすら全力疾走の二人に追いつけないのは、自身の体力の無さも要因であるとは言え、その表れの一つなのだ。
 しかしそれでも彼等の仕事の相手は悪人。いかに彼等が鬼であるとは言え、心配が全てなくなる訳ではない。
「大丈夫かなあ……」
 ふと口から漏れてしまうそんな言葉は、当然すぐ傍にいる幼い二人の耳へ届いた。それに対して、赤が言う。
「大丈夫だよ千秋お兄ちゃん。千尋お姉ちゃんも修治お兄ちゃんも、いっつも大丈夫だもん」
 それに対して、青が言う。
「だもんねー。もし怪我しちゃっても、修治お兄ちゃんがすぐに治してくれるもんね」
 それらは、言ってしまえば子どもじみた、鬼という力を過信した考えであった。だが、その力がそういった過信に足るものである事もまた事実。だから緑川はそんな二人へ、「そうだね」と精一杯に笑みを作って返すのだった。
 すると、丁度その時。
「あっ、帰ってきた!」
「おかえりなさーい!」
 走り去り、その姿が見えなくなった曲がり角から、黄芽と白井が現れた。どうやら今回も無事なようで、悠々と歩いてご帰還なのだが――いやに、早い。
 紫村から連絡を受けた二人が走り去ってから、まだ十分も経っていない。これまでも度々仕事の開始に居合わせた事はあるが、ここまで短い時間で帰って来たのは、緑川にとって初めてであった。
「おう。ただいま」
「また肩車、する?」
『うんっ!』
 疑問だった。だが、赤と青が再び黄芽と白井の肩に跨ってしまった今、それを再度下ろしてここから離れさせてまで、仕事の事を尋ねるのもどうかと思う。
「消えた」
 再び歩き始め、気にはなるが訊けはしない、と黄芽へちらちら視線を送っていると、それを察したのかこちらからは何も言っていないのにも関わらず、黄芽が短くそう言った。
「え、何が? 何か無くし物しちゃったの?」
 それだけ訊かされても何の話だか分からないのは当然で、黄芽の頭部を包み込むように背を丸め、その顔を覗き込む赤。するとその説明は、黄芽に代わって白井の口からなされた。
「僕と黄芽さんが追いかけてた悪い人、いなくなっちゃったんだよ」
 その説明に赤がむう、と口をへの字にすると、その代弁のように今度は青。
「椿おばちゃんなら悪い人がいる所、分かるんじゃないの?」
 椿おばちゃん。つまりそれは、黄芽と白井に仕事の連絡を入れてきた紫村の事である。
 彼女の役職は隠。それは本来、担当地区で起こった事件や事故に死後の人間が関わっていないかを調査し、関わりがあるとすればその人物を特定し、夜行にその確保を依頼するという任務を持つ。
 その直接容疑者と接しない任務内容のため、隠は夜行と違い超越的な身体能力及び個人の特殊能力である鬼道は付与されないのだが、こと紫村においてはそうではない。彼女は元々夜行に属する筈だったのだが、発現した鬼道が「犯罪者が発する悪意、そしてその大小、発した人物の生死を感知し、その場所をリアルタイムに特定し続ける」という隠の任務に適したものであったため、夜行ではなく隠としてこの世に送り出されたのである。
 そのため、本来なら地区毎に複数人が送り込まれる隠であるが、この地区には紫村一人だけである。幽霊が関わっているかどうか等、調べるまでも無く全ての検案を彼女が「感知」してしまうため、人数が増えたところで意味が無いのだ。
「それが、紫村さん本人も驚いてたんだよ。『こんなのは初めてだ』って。いきなりパッと消えちゃったんだって」
「一応暫らくはその辺探してみたけど、紫村さんに見つけられねえもんが俺等に見つけられるわきゃねえわな。どっこにもいやしねえ」
 白井は肩の上の青に、黄芽は緑川に対して、それぞれ状況説明をする。
 それに双識姉弟は「ふーん」と素直に納得するが、緑川はそうではなかった。
「紫村さんに見つけられないって事は、探索器の範囲から消えちゃったって事ですよね? 瞬間移動でもしたんでしょうか?」
 探索器とは紫村の鬼道である「世知辛さ探索器」の略称であるが、それはともかく。緑川の話の後半は、彼自身にとって冗談半分のつもりであった。
 ――が、しかし。緑川の思惑とは裏腹に、白井と黄芽は冗談の通じなさそうな表情で顔を見合わせる。
「あ、あの……?」
 そんな二人に緑川は困惑し、それに準じた声色で問い掛ける。同様のあまり、問い掛けの文章としては不完全なものとなってしまったが。
「やっぱ、それっきゃねえよな」
「でしょうね。他に考えられるのは『悪意の発生を抑える事ができる』という可能性ですが、それができるなら最初からそうしているでしょうし」
「そもそも俺等が悪意なんてもんを頼りに探し回ってるなんて、誰が思うんだっつの」
「ですよね。となると……」
「ああ」
 どうにも浮き足立った緑川をよそに、いたって真面目な会話を繰り広げる黄芽と白井。そしてそれは、「もうここに戻ってこなきゃいいんだがな、あのオッサンと姉ちゃん」と自分達が戻ってきた道を振り返る、黄芽の忌々しそうな言葉で締め括りを迎えるのだった。
 それから数秒の間を置いて、話が終わった事を確実なものと判断してから、再度緑川が口を開く。
「あの、どういう事ですか?」
「修羅だ。もしかしたら、久々にドンパチやる羽目になるかもしれねえな」
「……………!」
 その言葉を聞き、絶句する緑川。修羅というものが何を指すのか知っているのだ。とは言っても、実際に出くわした事はないのだが。
 一般に、ただの幽霊と鬼には抗いようもない力の差がある。それはまがりなりにも女性である黄芽が肩に担ぐ、とてつもない大きさの金棒を見れば、誰にでも瞬時に理解できる事であろう。
 だが中にはそうでない、鬼と同等の力を持つ幽霊がおり、そういった者達をその善悪に関わらず「修羅」と呼ぶ。鬼と同等であるが故に彼等もまた鬼道を持ち、緑川が言った「瞬間移動をしたのではないか」という可能性が当て嵌まるのならば、今回紫村の世知辛さ探索器に掛かったあの二人のうちどちらか、もしくはどちらともが、その修羅だという事になるのだ。――善悪によらないとは言え、その「力を与える技術」が鬼庁以外で広まっているのはそもそも悪人の闊歩する社会内なので、修羅である時点でほぼ、善悪の内の悪であるのだが。
「そんな顔しなくても大丈夫ですよ、千秋くん。あの二人はどこかへ行ってしまったんですから」
「赤と青もな。もしあいつらが戻ってきたとしても、俺と白井は負けたりしねえよ」
 暗雲立ち込める表情の三人へ、鬼である二人はさも問題の無さそうな明るい表情を向けた。
 先程までの険しい表情はどこへ行ってしまったのか、と言いたくなる緑川だったが、言ってどうなるという訳でもない。ここは、二人の優しさを甘受しておく事に。

 もちろんこの時、緑川は自分が「不幸に遭遇しやすい体質」であることなどまるで頭にないのだった。

<<前 

次>>