第三章
「らくあればくあり、だって」「らくあれ? ばくあり? ってなに?」「わかんない」



「いーィィイイイイらっっっっシャーい!」
 高い、それでいてやや音程の外れた大声が、緑川一行を出迎える。そしてその女声の主は現れた順番で言えば出迎えの二人目であり、
「まあ、入れ。当然の如く暇をしていたところだ」
 二人目の前に立ち、その体の殆どを後ろに隠してしまっている出迎え一人目の巨漢。彼は野太く低い声を静かに放ち、自らが開いた空き家のドアを開け放ったまま身体を反転させる。
 するとその男、金剛鎧が持つ筋肉の壁のような黒々とした肉体の向こうで振り上げた両腕だけを覗かせていた二人目の姿が、緑川達の前に現れた。
「鎧もアレで喜んでるからネ! 来てクレてありがとー!」
 肌が黒いだけの日本人である金剛とは違い、彼女は黒色人種。質の違う黒さを銀色ショートな頭髪と青い瞳を除いた全身に乗せ、今日も元気一杯天真爛漫。それが金剛の夜行という仕事においての、そして人生のパートナーである、シルヴィア・シルヴァーマンである。
『こんにちは、シルヴィアお姉ちゃん』
 挨拶をする暇もなく引っ込んでしまった金剛はひとまず後回しにし、今目の前にいる彼女へ微笑みかける赤と青。二人は未だ、黄芽と白井の肩の上である。
「はーイこんニチはー!」
 肩の上の彼等と同じ高さの目線で、二人に負けないあどけなさの笑顔と八重歯を覗かせるシルヴィア。いつも共に行動している金剛が縦にも横にも大き過ぎてあまり目立たないが、彼女もまたかなりの長身なのである。
 控えめの身長を誇る緑川からすれば、背伸びしても届くかどうか怪しい赤と青の頭へ悠々と、その平と甲で綺麗に色が分かれている手をぽすっと乗せるシルヴィア。それに対して赤と青は『えへへ』と歓び、更にそれに対してシルヴィアは、その白い歯を「ニカッ」という擬音がつく勢いで見せ付けた。
「じゃ、入っテ入っテ。なんニモ無いけどサ」

「ほう、修羅か」
 本当に何もない、だがそれでも金剛とシルヴィアの住居である空き家の居間で、緑川一行は適当に腰を落ち着けていた。ここにある物を上げるとするなら、押入れの中の布団が二組、であろうか。
 白井が先程の仕事の話を金剛に告げると、彼は角張った顎にその指一本一本からして太い手をあてがい、興味を持ったように呟く。
「確定ではないですがね。しかし、その可能性は高いかと」
「……何だったら、手を貸すぞ」
 眼鏡の位置を直す白井に、顎にあてがった手を降ろして一層静かに言い放つ金剛。だがそこへ、あぐらをかいた黄芽が自身の膝へポンと手を当てた。
「はっ。旦那、そりゃあ実際にそいつ等と手合わせしてから決めるさ。仕事なんざ少ないほうがいいのはお互い様だろ?」
「ふ、確かにな」
 僅かに表情を緩ませた金剛の視線が、部屋の反対側で双識姉弟とじゃれ合うシルヴィアに向けられる。
「だから俺等にもやたらめったら仕事持ってくんなって話。灰ノ原達に会ったら言っといてくれよ」
「いいだろう。留めておく」
 金剛はその厳つさに不似合いなくらいの優しく柔らかな表情で、黄芽の話を了承した。
 あの世からこの世に送り込まれる鬼――つまり夜行と隠は、配属地域の広さに応じてその数が定められている。この町は比較的狭いので、夜行は二人一組が三ペア。隠に至っては(もちろん紫村の鬼道もあって)一人のみである。
 夜行は週毎に三つのグループに別れ、一つは通常通りの業務を行う担当組。一つは基本的に休暇扱いであるが、担当組から要請があればすぐに応援に掛け付けられるよう、配属地域からの外出を禁止とされる待機組。一つは完全な休暇で、行動制限も一切無い休日組。この三つに夜行のペアが三等分されるのだが、この地域ではそもそもペアの数が三つなので、それぞれの組に一ペアずつが割り当てられる事になる。
 今週は、と言っても土曜日なので明日からまた変更になるのだが、黄芽・白井ペアが担当組、金剛・シルヴィアペアが待機組、そして残るもう一ペアが休日組となっている。そして明日から黄芽と白井は、晴れて休日組となるのだ。
「だがそもそも、あの二人がみすみす獲物を渡すような真似はしないと思うがな」
「ま、一応だ一応」
 今ここにいない、残る一つの二人組。緑川の自宅を見下ろす山の中腹、突然木々が開かれる場所に建っている廃病院に住み着く、灰ノ原はいのはらがく桃園ももぞのかなえ。その二人を指して金剛が太い腕を重ね合わせ、黄芽がニッと笑んでみせる。

 鬼である以上、病院の二人が悪人という事はないのだが、しかし彼等はやや「ズレて」いるのである。普通なら、悪人と関わり合いになるこの仕事を好む者は先程の黄芽と金剛の会話よろしく、あまりいない。だが、灰ノ原と桃園の二人はむしろそれを待ち望んでいるきらいがあるのだ。
 ――と、あちらの会話を耳にした緑川は、シルヴィアの人形とじゃれ合う赤と青を眺めながら思うのだった。
「シルヴィアお姉ちゃん、カメレオン出してー」
「あ、じゃあ赤はウサギさんがいいな」
 現在取り出されている二頭身で眼帯をした侍人形と、同じく二頭身でメットを被った兵士人形。それらと暫らく戯れた双識姉弟は、シルヴィアに別の人形をおねだりした。
「いいヨー。じゃあマスター、その通リにお願いネ」
 こくりと頷いたシルヴィアが、傍らに置いた紐口のサックに語りかける。すると、
「了解した」
 そのサックが返事をした。流暢な日本語で。
 もちろんそのサックに生物的な口などは付いておらず、そこにあるのは紐で締められた袋の口だけである。が、その場の誰もその事に驚きを見せない。シルヴィアを知る人物であるなら、この現象もまた理解の範疇にあるからだ。
 ――そして返事をしたサックの口が独りでに開くと、侍人形と兵士人形がふわりと浮かび上がり、その口の中へ吸い込まれるようにしてサックの中に収まる。その後、喋るサックがもぞもぞと蠢き、先程の二体の人形と入れ替わりに、赤と青が注文したカメレオンとウサギの人形が「すぽーん」と音を立てるような勢いで飛び出した。
「べろー」
「わーい!」
 二頭身で二本足なデフォルメされたカメレオンは青の膝に。
「もきゅ」
「えへへー」
 同じく二頭身で二本足なデフォルメされたウサギは赤の膝に。
 まるで生きているかのように自分の足で華麗に着地を決めた二体の人形は、侍・兵士の人形と同じく自分の体で動き始める。そのサイズは、どれもが五十センチ前後である。
「喜んで頂けたようで何よりだ」
 喋るサックのそんな台詞は、大人の雰囲気を漂わせる。声がする以外に全く動きはないが。
 この「動く人形達と喋るサック」という現象は、シルヴィアの鬼道である「FRIENDS」によるものであり、その鬼道によって、シルヴィアは自分で作り上げた人形とその統括者である物言うサックこと「マスター」に、意思を与える事が可能なのである。
 とは言っても具体的に物を喋れるのはマスターのみであり、他の人形は所謂「鳴き声」程度にしか声を発せないのだが。
「んー、ヤッぱり元気な子どもは可愛イねー。そう思わナい? 千秋」
「はい。なんせ赤ちゃんと青くんは、ボク達のマスコット的存在ですから」
 独りでに動く人形と戯れる双識姉弟を前に、シルヴィアと緑川はゆったりのんびり。だがしかし、
「君だってしばしば可愛いと言われているだろう、緑川君」
「……それはまた別問題ですう」
 マスターに釘を刺され、一気に機嫌を損ねる緑川。一方シルヴィアは、そんな彼を見て大興奮。
「ヤんもう! そんな顔されたらギュッてしタくなっチャうよ!」
 言うが早いか、膨れた緑川に抱き付いた。
「うわあっ!?」
 いくら可愛いと言われても、緑川は年頃の男の子。そしてシルヴィアはスリムな長身とは言え大人の女性で、黄芽ほどではないにしろ出るところはそれなりに。しかも彼女の服装は白いシャツ一枚にハーフパンツという季節を鑑みない軽装なので、
「あわ、あ、あああのシルヴィアさん、こここれはちょっとその無理です、駄目ですボク」
 小さな子ども二人を前にこれはいいのだろうか、と考える暇も無いほどにしどろもどろになってしまう緑川なのであった。
「んー、柔らかイねー。鎧ってどコもカチコチだカラ、新鮮だネー」
「はひぃいいいいっ」
 こんなノリでも、彼女は夜行。逃がさないように抱き付かれれば、常人にそれを振りほどく事などほぼ不可能である。そしてその力強くかつ柔らかい抱擁の上、更に首筋から肩に掛けて顔を擦り付けられた緑川は、突然背中を指でなぞられたような細かく震えた声を上げる。
「うーむ、こういう状況を何と言ったか……確か、花の名前が……」
「おぉお、女の子じゃないですぅうぅうう」
 恐らくは「そんな感じの状況を表す言葉」を発しようとしたマスターを、振動する声のまま諌める緑川。そう、彼は男の子である。
 するとそこへ、部屋の反対側から低くかつ呆れた声が。
「おいシルヴィア、あまり困らせてやるな。緑川はそれでも男だぞ」
「エへへ、はーイ」
 金剛に注意されたシルヴィアは、素直に緑川の背中へ回した両の細腕を解いた。「それでも」とわざわざ付け加えられたのは正直腑に落ちないが、とにかく緑川は安堵の溜息をつく。
「千秋は駄目みタイだからこっチだー!」
『きゃー!』
 赤と青が膝に抱える二体の人形もろとも、その二人へ先程と同じように抱き付くシルヴィア。しかし今の緑川に、そんな様子を見て和む余裕は無かった。「あの二人には朝にも黄芽さんが抱き付いてたっけ」だとか、「今あの二人はボクが味わった感触を――」だとか。そんなどうでもいい事とどうでもよくない事が、頭脳内部における場所取り合戦を開催してしまっていたのだ。
 もっとも緑川本人以外にはまるで与り知らぬ闘争であり、何ら影響を及ぼさない事象なのであるが。

「紫村の索敵から一瞬で消えた、か。確かにそれは妙な話だ」
「ええ。しかし取り逃がしはしましたが、幸い顔は見ています。紫村さんからの連絡無しにでも、どこかで出くわせば追えますね」
 嬉し恥ずかしの緑川を他所に、黄芽・白井・金剛組は至って真面目に仕事の話。
「でもよ、ちょっと引っ掛かってんだが」
 傍らに寝かせた八角の金棒を「がどん」と一転がしさせ、黄芽が不信感を表す。白井も金剛も、彼女へとその冷えた視線を向けた。
「結局あいつ等、何がしたかったんだ? 悪巧みだけして消えるか普通? しかも俺のこれを見ておいて、だ」
 そう言って、金棒をもう一度転がす。
「あいつ等の悪意は、誰に向けられてたんだ?」
「それは……」
「十中八九、お前だろう」
 黄芽の問い掛けに白井が答えようとして一瞬躊躇し、間をおかずに金剛が言葉を繋げる。その太い指は、迷う事無く黄芽を指した。
「だよな、やっぱ」
 あの男性と女性が幽霊だという事は、黄芽の金棒を見ているのである。常識的に考えて人が担げる物ではないそれを、女性が軽々と肩に担いでいるのを見ているのである。そんな印象に残る事必死なものを見ておいて、その直後に悪意を発生させる。これはもう、悪意の対象が誰なのかは自明も同然である。
「ったく、見ただけで黙らせるためにこんなゴツいもん使ってんのによ。逆に喧嘩売られてちゃ世話ねえぜ」
「それも紫村さんの探索器に引っ掛かるほどのものですからね。ただチンピラが因縁付けるのとはレベルが違いますよ」
「一度消えたのはよく分からんが――」
 黄芽が愚痴るように言い、白井が溜息混じりに言い、金剛がそれに続こうとして、一度人形と遊ぶ双識姉弟のほうへと目を遣る。そしてその興味がこちらへ全く向けられていないことを確認し、それでもなお、やや声を落として言う。
「――もう一度来るとすれば、殺す気でかかってくるかもしれんな」
「けっ。幽霊はどんな頑張ったって死なねえってのに、暇人が」
 金剛に合わせて声を落とす黄芽であったが、口調を抑えるつもりはまるで無いらしい。赤と青が見ればそれこそ怖がってしまうような、不良的過ぎる物言いであった。
「わあ!」
「すごいねー!」
 もちろん、当の二人は人形に夢中。伸ばした舌を天井に貼り付けてそのままぶら下がるカメレオンと、それに両手両足でしがみ付くウサギを下から見上げて、大はしゃぎなのだった。
 ――そんな彼等の後ろでは、緑川とシルヴィアが黄芽たちのほうへ心配そうな顔を向けていたが。


 結局、どれくらいここにいたのだろうか。
 黄芽たちが所持しているような物ではない、所謂一般的な携帯を確認した緑川が目にしたデジタル数字は、三時五十七分を表していた。
「じゃあネ! バイバイみんナ!」
 シルヴィアが大袈裟に両手を振り、
「今日いっぱいでそっちの担当は終わりだな。ご苦労様」
 金剛が腕を組んだまま一週間の労をねぎらい、
「赤ちゃんに青くん。気が向いたらまた私達と遊んでやってくれ」
 シルヴィアに担がれたマスターが二人に再会を乞う。
『うん!』という二つ重なった元気な返事を筆頭に残る三人もそれぞれ返事をし、世間一般的には空き家である金剛とシルヴィアの家を後にする。
 皆がぐんぐんとその家から離れる中、シルヴィアはしつこいくらいに手を振り続けていた。なので緑川は、暫らく後ろを見ながら歩く羽目となった。当然、自転車を手で押しながら。

「あー、明日っからやっと休みだー。長かったなあ一週間」
「と言っても殆ど休みみたいなものですけどね。昨日と今日だけじゃないですか、今週仕事に遭遇したのは」
「馬っ鹿おめー、『仕事があるかもしれねえ』って思いながら過ごすのと『休みだー』って思って過ごすのとじゃあ全然違うっつの」
 行きと同じく黄芽は赤を、白井は青をその肩に乗せ、てくてくと歩きながら気分は既に仕事終わり。彼等の仕事は本日正午零時までなので、実際の勤務時間はまだ八時間ほど残っているのだが。
「あの、千尋さん」
「お? んだぁ、千秋」
 緑川が気にしたのも、仕事の残りについてだった。だがそれは時間の話ではなく、言葉の通り「残っている仕事」についてである。
「修羅のあの人達は、その」
 どうにも、言い辛かった。その言葉が場に僅かながらにも緊張をもたらしてしまう事は分かっていたし、何より、言い出す前から自分がそうだったからだ。故に、口がもたつく。
「あっちの都合なんざ知らねえっての」
 呆れたような溜息とともにそう漏らした黄芽は、「また夜中に来なけりゃいいんだけどなあ」と寒々しいくらいに快晴な空を見上げた。そしてそんな彼女を横目に、白井がこれまた呆れた口調で返す。
「だからと言って今来られたら大変ですよ。――という事なので千秋くん、今日はこのまま帰った方が良いと思いますよ。狙われているのは僕達でしょうし、一緒にいるのは危な過ぎます」
 気だるそうな表情を途中から引き締まらせ、その口調は言葉の実際の意味とは裏腹な「命令」の意思を緑川に感じさせた。
 もちろん。どうしてそういう口調になるのかが充分に分かっているため、機嫌を損ねるといった事はない。それどころか、そんな事を気にしている場合ではないのだ。
「だな。赤と青も、先にうちに送るぞ」
「う、うん」
「怪我しないでね、千尋お姉ちゃん」
「ああ。そんで白井、お前は十二時まで俺と居ろ。もし何も無しに十二時んなったら、旦那の家に引継ぎに行くぞ。修羅が出たって聞いてまさか寝てるこたねえだろうしな」
「了解しました」
 黄芽は、双識姉弟と共に今朝全員が集まった廃工場に住んでいる。
 一方白井は、生前からの自宅に住んでいる。そこにはまだ彼の家族が変わらず暮らしているが、その誰もが彼の存在に気付かない。それは白井が、夜に睡眠を摂る時ぐらいしか家に帰らないのもある。しかしその最大の要因は、家族の誰一人として幽霊を感知できないという事だ。家の中で暴れ回りでもしない限り、白井の家族にとって彼の私室は「空」のままなのである。
 もっとも、家族に気付いてもらえないというのは黄芽や双識姉弟も同様であるが。
「気をつけて下さいね、千尋さん。修治くんも」
 言うと、緑川は手早く自転車に跨り、挨拶の返事も待たず、友人達から逃げるようにしてその場から去った。待たなかった返事はそれでも返ってきたようだったが、聞き取れるほどハッキリとは、伝わってこなかった。

 ――急いでるわけじゃない。ただ、居辛い。千尋さんと修治くんが危ない目に遭いそうなのに、ただこうして遠ざかる事しかできないのが、悔しい。ボクはこういう時なんにもできなくて、千尋さんと修治くんが無事に仕事を終わらせられるのを祈る事ぐらいしかできない。いつも。
 やや急ぎがちに自転車のペダルに円を描かせる緑川は、最短距離で自宅へと向かいつつ、ぶつける相手のいない愚痴を頭の中に響かせた。
 その途中、赤信号にぶつかって仕方なく足と自転車を止める。「動いていないとイライラが増す。早く青になれ、信号」と、やはり口には出さず苛立っていた、その時。
「おや、またもあっさり見つかったな」
 声がした。すぐ背後から。
「周りに人もいませんし、不幸な少年――信じられませんけど、まさしくその通りですね」
 振り返ると、そこに立っていたのは見覚えのある二人組。
「あの鬼どもはいないようだな。これは好都合」
 そう言って、スーツ姿にだらしなくネクタイをぶら下げたオールバックの男性は口の端を持ち上げた。
「少し、拍子抜けでもありますけどね」
 そう言って、リュックを片方の肩に掛けた長身長髪長袖長スカートの女性はふっと息を漏らした。
「くくく。――さあ、一緒に来てもらおうか。緑川千秋くん」
 そんな彼女を見て笑ってみせた男性は、その笑った表情のまま、緑川の肩へ手を伸ばす。
「うわ、うわああああああああ!」
 叫ぶ。そして漕ぐ。反射的に。力強く。信号は赤のまま。
 だが、相手は修羅。黄芽達と同等の力を持つ者。ただの人間が振り絞った力など意にも介さず、肩に掛けただけの片手のみを以って緑川を持ち上げ、自転車から引き剥がし、そのまま後方へ投げた。何の力を込める動作もせず、ただ手を振るかの如くに。
「がっ、ふぅっ!」
 浮き上がった自転車が元の位置へ騒々しく着地したコンマ数秒後、そこから数メートル離れた場所へ背中から叩き付けられる。衝撃を受けて圧迫された肺から強制的に空気が排出され、歪んだ声となって緑川の口から飛び出した。
「もう少しだけ鬼どもと一緒にいれば、助かったのかもしれないな」
 かつかつと靴底でコンクリートの地面を叩きながら、男と女が近付いてくる。仰向けになった体をなんとか反転させる緑川であったが――立ち上がれなかった。身体へのダメージはもちろんの事、恐怖と、そして絶望によって。
「あ、あっ、ああ……」
 口から漏れる声は、もはや悲鳴ですらなかった。


 その事態から、遡る事数分。
「んだと!? そっちは千秋が!」
「行きましょう黄芽さん! ――赤ちゃん青くん! ここから自分達だけで帰れるね!?」
「う、うん。でも……」
「千秋お兄ちゃん、どうしたの?」
 もうあと二分も歩けば廃工場という所で紫村からの連絡を受け、それにより一気に慌ただしさを見せる黄芽達。
 連絡の内容は、反応が二つ現れた事。恐らくそれは今日のあの二人であろう事。そして、その二人が現れた場所。この三つであった。――その現れた場所というのが、緑川の帰宅コースと重なっていたのである。
 肩から地面へ降ろした双識姉弟に心配そうな目で見上げられ、黄芽は一つ、深呼吸をした。そしてその場にしゃがみ込み、赤と青に目線の高さを合わせ、二人の小さな肩へ手を置いた。
「大丈夫だ。だけど時間がねえ。だから急ぐ。ウチまでは送ってやれねえ」
 焦りを伺わせる短い文章の羅列を、それでもしっかりと赤と青に伝える。そして二人が無言ながらもしっかりと頷いたのを確認し、その頭を強い力で撫でると、黄芽は立ち上がった。
「行くぞ白井」
「はい」
 その声はどちらもが低く、またこれから向かうべき方角を向いていたので、この場にいない「相手」に啖呵を切っているようであった。
 そして、場の緊張に飲まれたのか声を出せない双識姉弟を一度振り返ってから、黄芽と白井は駆け出した。
 朝に行った競走の時よりも、更に速く。
 ――あの修羅どもの狙いが俺等だとしても、千秋は俺等と一緒にいるところを見られてるからな。……クソが! よりにもよってこんなタイミングで!


「ん? 私の狙いは初めからきみだよ、緑川千秋くん」
 地面に伏したまま立ち上がる事すら忘れ、震える口でなんとか搾り出した「どうして?」という様々な成分が足りない疑問文に、オールバックの男がそう答えた。
「それから、質問は内容を明確にしたほうがいいな。この状況だから判断がついたものの」
 更にそう言って、不敵に微笑んだ。
 緑川はもう一度言った。「どうして」と。男の忠告はまるで頭に入っていなかった。
 それを聞いた男は、やれやれと額に手を当てる。
「そうか、やはり覚えていないか。まあしかし、こんな所でのんびり説明している暇も無いからな。向こうに着いたらゆっくり詳しく教えて差し上げよう」
 何の事を言っているのかはまるで分からない。分からないが、
「いや………!」
 震えるばかりの手足は、伸ばされた手から逃げようとしてくれない。震えるばかりの口は、碌な叫び声すら上げてくれない。今、緑川の身体でまともに動いているのは、男を視界の中心に、女を視界の端に捉え、涙を浮かべるその両の瞳のみであった。
「……ごめんなさい。でも、仕方が無いの」
 声がしたほうへ緑川の目線が移動し、視界の中心に映っていたものと端に映っていたものが逆転する。そして中心に来たそれは、言葉だけではなく本当に申し訳無さそうな、いっそ悲しそうな顔をしていた。
 今にも胃の内容物が逆流しそうなほどの緊張の中、そんな表情を見せ付けられて、緑川は困惑した。
「ああ、あ」
 そしてその纏まりのつかない思考は、外部へ出る頃には意味を成さない呻きとなっていた。
「さ、立ってもらおうか。できないのなら引きずってでも運ぶが、そちらのほうがいいかな?」
 女とは対照的に、男は一切の躊躇も気が咎める様子もない。緑川の細い手首を鷲掴みにすると、そのまま腕を引っ張り上げ、強引に緑川の身体を直立させた。
 ――そこでようやく緑川の頭に「あの二人」の顔が浮かび、無駄と分かっていてもその名を呼ぼうと息を飲んだ、その時。
「てんめえぇ等あああああ!」
 遠くからのドスが効いた大声と、段々近付いてくる足音。その音源を確認した緑川は叫ぼうとした言葉をいったん飲み込み、それから改めて、吐き出した。
「千尋さん! 修治くん!」
 長いポニーテールを振り乱し、肩に巨大な鉄の塊を抱える女性と、いつもは懐に仕舞っている金鎚を右手に取り出した眼鏡の男性の名を。
「おや、さすがに早いな」
 緑川に続いてそうこぼした男は、何の感慨も無さそうに。
「もう少しだったのに……!」
 それに続いてそうこぼした女は、あからさまな不満を湛えて。
 ――そんな彼等に、と言うよりも緑川を拘束する男性一人を目掛け、黄芽と白井は止まる事無く突っ込んだ。
「離せやコラァアアアア!」
「千秋くん!」
 黄芽がその金棒を男目掛けて大振りに振り下ろし、同時に白井が緑川の胸部に腕を掛けるようにして男から彼を引き離す。
 黄芽の金棒は大振りだった事もあってあっさりと避けられ、そのために男は数歩だけ身を引いた――いや。男は、隣の女に手首を掴まれ、引っ張られていた。結果として全力で振り抜かれた黄芽の得物はアスファルトの地面に激突し、工事現場にでも行かない限り聞く事のないような音とともに、周辺三十センチほどの範囲で地面を陥没させた。
 轟音の後に聞こえてくるのは、カラカラという砕けたアスファルトが転がる音。その中でにやけたまま身を女に引かれた男――と言うより「わざと大振りにして引かせた男」を睨み付けた黄芽は、振り下ろした金棒を持ち上げて再び肩に担ぐと、白井の隣まで一足飛びに身を引く。

 そうして、二人と二人はついに対峙した。今度は通りすがりの赤の他人ではなく、明確な敵同士として。

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