第四章
「鬼に金棒……それも、ありなのでしょうね」



 眼前に立つのは、口の端を僅かに持ち上げたオールバックの男と黄芽に劣らない眼力でこちらを睨み付ける女。
 男はともかく、女のほうは今にもこちらへ飛び掛ってきてもおかしくなかったが、
「怪我してねえか千秋」
 正面二人から視線を外さないまま、黄芽が緑川へ声を掛けた。
「……………」
「おい」
 横目で緑川を見る。
「ご……ごめんなさい。腰が、抜けちゃって」
 白井に寄りかかるようにしてやっと立っているといった様子の緑川は、まだ震えの残る声でそう返した。
「怪我は?」
 安堵か呆れか黄芽が溜息をつくと、代わるようにして白井が同じ質問を。この状況にして、緑川には眼鏡の向こうのその表情は微笑んでいるように見えた。
「大、丈夫」
「そうですか、なら良かった。ではここは僕達に任せてこのまま家へ。自転車は――」
 白井はそう言って、「敵」二人の傍に横たわっている籠の無い自転車へ気難しい目線を向けた。そして一秒そこらの逡巡の後、再び緑川へ微笑んでみせる。
「全部終わってから家に届けてあげますよ」
「ありがとう、修治くん」
 若干の引きつりを残しながらも、緑川の顔に笑顔が戻る。それに合わせて足腰にも力が入り始め、ようやく白井に頼らなくとも自分の足だけで立てるように。
「かっ。ラブラブだなお二人さんよ」
 視線を外し、耳だけで緑川と白井のそんな遣り取りを堪能した黄芽は、とてつもなく嫌味ったらしい口調と表情でそう言った。
「ボクは男ですう!」
「僕にその手の趣味はありませんよ」
 一方は顔を赤くし(もちろんそれは、怒りによってであるが)、一方は呆れる。
 そんな二人へ黄芽が「へいへい」と投げ遣りな返事を返すと、ここまでの流れをニヤニヤしたまま眺めていたオールバックの男は、「そろそろいいかな?」と緊張感のない声で問い掛けてきた。
「先に言っておくが、私の狙いはそこの可愛らしい男の子だ」
 緑川を指差す男のその言葉に、黄芽と白井は揃って眉をひそめる。しかし男は構わず、
「だから鬼、お前達がその子を逃がすと言うのなら、私達はお前達を無視してでもその子を追う。『逃がさない』というのは無理だ。お前達は一度、私達を見失っているだろう?」
 全て言い切った後、男はくくく、と肩を揺らした。同時に、隣の女が肩に掛けていたリュックを地面へ下ろし、中の物を取り出し始めた。
 もちろんそんな女の動きに対する注意は怠らないが、黄芽と白井の困惑は収まらない。二人揃ってちらりと緑川へ目を遣り、そして男へ向き直った。
「こいつが狙いって、どういうこった?」
「言って不利益が出るわけでもないが、長くなるので言わないでおこう。こちらには生憎、制限時間があるのでね」
 黄芽の質門に飄々と答えた男はしかし、一歩後ろへ下がる。――実際の行動としてはそうなのだが、それが持つ意味としては、女を前へ押し出した、という事になるのだろうか。
 緑川は制限時間という言葉が気にはなったが、そしてそれは言うまでも無く黄芽と白井もそうなのであろうが、女がリュックから取り出したものを見て、そんな質問をしている状況ではなくなった事をはっきりと理解した。
「というわけよ。緑川くんを逃がすつもりも無いし、こちらが逃げるつもりも無い。――始めましょうか」
 それは、あからさまに金属製であると主張せんばかりに銀一色な一対の篭手ガントレット。前腕部から指の先までをすっぽりと覆い尽くすその防具――いや凶器を、左手、右手と順に嵌め、具合を確かめるようにそれぞれ五本の指を蠢かせる。そしてそれが終わると、その女性は空になった自らのリュックを拾い上げ、後ろの男へ手渡した。
「すまないね、冷香れいかくん」
「いえ。これが私達の務めですから」
 女は戦闘の準備を終えたようだが男にその気配はまるでなく、この状況ではただの荷物持ちである。女の後ろへ下がった男と同じように、黄芽と白井の後ろへ下がりつつ緑川はそう思ったが、
「『達』っつーのは何の話だ? 冷香さんとやら」
 黄芽が気にしたのはその点であった。そしてそれに答えたのは冷香という名らしい女性ではなく、後ろの男であった。
「いくら冷香くんでも二対一では無理があるからな。基本二人一組であるお前達鬼に合わせて、戦闘に入る可能性がある場合はもう一人呼ぶのだよ。……少し遅刻のようだが」
 そう言って、男はまたもくくく、と肩を揺らす。――緑川にはどうしても、彼のそんな気楽な態度が解せなかった。
「で、でも黄芽さん、あの男の人も多分修羅ですよ? ボクの事、片手で投げ飛ばしましたし」
「……つってっけど、どうなんだ? オッサン」
「時間が無いと言った筈だが……まあ、由也よしやくんが到着するまでの時間稼ぎという事にしておくか」
 言いながら、にやけ顔をひそめる男。しかしそうして平坦になった口は、言い終えると再び片方の端が持ち上げられた。
「確かに私はお前達の言うところの修羅というやつだ。緑川くんはその上で、私がどうして闘いに参加しないのか、と訊きたいわけだろう?」
 緑川は、無言で首を縦に振った。
「簡単な話だ。私が戦闘に向いていない、とそれだけの話だな」
 緑川は、目をぱちくりとさせた。
「いくら力が付いたところで、反射神経の無さはどうにもならん。無理をして加わったところで残念ながら足手纏いにしかならないのは、目に見えているのだよ」
 そこまで言って、男はやはりくくく、と笑った。――丁度その瞬間。
「姉さん! 求道くどうさん!」
 声を上げながらその場に――緑川達と男達の間に、一人の青年が猛烈な勢いで滑り込んできた。殺し切れないその勢いに若干行き過ぎながらも、肩まではありそうな後ろ髪を束ねて上向きに固定したその先端を揺らしながらも、至る所にぶら下がった様々なアクセサリーをじゃらじゃらと揺らしながらも、彼は男と女の元へ歩み寄る。
「なんとか間に合ったわね」
「悪い、姉さん。ちょっと道に迷っちまった」
 上下ともの白い服に、様々な形状の銀色がぶら下がる。首から下げられたアクセサリーに、ベルト代わりのチェーン。更にそのベルトからぶら下がるものもあれば、胸ポケットやズボンのポケットから飛び出すものもある。袖に隠れてやや見え辛いが、どうやら両の手首にもブレスレットらしき銀色が。
「ガキくせえ」
 彼を一目見た黄芽の感想は、その一言のみであった。
 そして白井は、無言で眼鏡の位置を直した。小さく溜息をついたようだった。
 が、緑川だけは、そんな二人とは見る箇所からして違っていた。恐らくは自分と同年代であろうその男が肩に担いでいる黄芽の金棒に負けず劣らずな巨大さの金鎚に、否応無く目を奪われた。
 白井が所有する武器も金鎚だが、それを何十倍にも膨れ上がらせたようなその金鎚のくすんだ黒色は、ただでさえ重苦しいその重量感を更に引き出している。
 ただの人間である緑川が恐怖を覚えるのには、その外観だけで充分であった。
「で、こいつ等だよな姉さん。どっからどう見ても」
 金鎚に掛かっていないほうの手で緑川達、正確には黄芽と白井を指差し、乱入してきた男が言う。
「ええ」
 それに、篭手の女は短く答えた。
「頼むよ、由也くん」
 オールバックの男が更に続くと、巨大な金鎚の――由也と呼ばれた男が、一歩前へ踏み出す。そして足元に横たわっている緑川の自転車を、邪魔だと言わんばかりに思い切り蹴り飛ばした。
「あっ」
 緑川は、小さく悲鳴を上げた。が、あくまでそれは小さくでしかなかった。蹴り飛ばした人物に届いたかどうかすら怪しいくらいに。
 ――怖い。あの人は、あの三人の中で一番怖い。
 そう考えたところで宙に舞い上がった自転車はようやく、緑川から見て右側に十メートルは離れた場所へ騒々しく着陸した。その滞空時間は、一秒半といったところだろうか。
「殺す」
 邪魔な自転車を排除し、そしてそちらには目もくれないその男は、黄芽と白井のどちらへともなくそう吐き捨てた。
「煽り文句までガキくせえな」
「全くで」
 受けて、黄芽と白井が言う。あまりにもストレートな敵意の表現に、呆れてすらいた。
「うっせえ! 殺すっつったら殺す! つーか死ね!」
「ひぃっ」
 激昂した男に緑川が身を竦ませるが、
「もう死んでるっつの」
「いくら殺されても殺せませんよ」
 なおも二人は気の抜けた様子だった。
 そう、既に死んでいる幽霊同士の諍いで、死ねだ殺すだは勘違いも甚だしいのである。
 ――もっとも、この場の中で緑川に限ってはそんな常識を持ち出す余裕など無く、煽りや脅しと言った方面での効果は遺憾無く発揮されているのだが。
 そしてその時、黄芽と白井双方の懐から、携帯の着信音が。二人同時に掛かってきた事と今の状況を考えれば、その相手も内容もすぐに分かる。紫村が、新たな悪意の感知を知らせてきたのだ。
 二人は携帯をぱかんと開いて耳に当て、もう分かり切っている紫村の報告を、目の前の新たな悪意を見詰めながら聞いた。最後まで聞いた。そしてその締めに、二人揃って『了解』とだけ口を開いた。
「てめえ等……!」
 余裕しゃくしゃくに携帯を懐へ仕舞う夜行二人を前に、男は肩を、もっと言えば体全体を震わせ、多数ぶら下がったアクセサリーがチャリチャリと音を立てる。すると、後ろの――怒り心頭の彼によれば求道という名の、オールバックの男性がまたもくくく、と肩を上下させる。
「ようやく始まりそうだが、その前に効いておこう。鬼、お前とお前では、どちらが強い?」
 黄芽と白井を順に指差し、妙な事を尋ねる求道。
「ああ?」
 先程から続く呆れた面持ちのまま、それに見合った声で黄芽が返す。
「鬼道が絡むとややこしくなるから、単純な殴り合いで考えてくれて結構だ。強いほうには強いほうをぶつけないと、早々に二対一になられても困るからな。そっちにとっても、こちらの穂村ほむら 姉弟にとっても、だ。そうだろう?」
 その理屈に、黄芽と白井は顔を見合わせる。そして白井が溜息をつきながら顎で求道への返事を促すと、黄芽はあっさりと言い放った。
「ただの殴り合いなら俺じゃねえか? 多分」
「そうか。では相手も決まったところで、冷香くん、由也くん、ようやく戦闘開始だ」
 そうして黄芽と白井の前にその「相手」が向かい合ってみれば、
「ま、そんな気はしてたけどな」
「やれやれ」
 とは、黄芽・白井組の言葉。
「女同士とはね……」
「スカしてんじゃねえぞ眼鏡コラ。ムカつくんだよ気色わりい」
 とは、穂村姉弟の言葉。
 傍観者の立場でありながら今にも腰が砕けてその場に崩れ落ちそうな緑川と、この状況を楽しんでいるかのようににやついたままの求道の間で、強い女同士とそれに比べてやや弱い男同士の戦闘がついにその火蓋を切った。

「無駄な争いは好きじゃないけど、この争いは無駄じゃない。――最初から全力で行くわよ鬼さん」
「良い子ぶってんじゃねえよ誘拐の現行犯」
 女性二人が睨み合う。直立ではあるが篭手という小回りの効く武器である以上、どんな姿勢からでも襲いかかれるであろう穂村姉はもちろん、軽い口調で返す黄芽も金棒を肩に担いだまま片足を引いた前傾の姿勢をとり、いつでも踏み込める体勢であった。
 ――しかし、「それでは」という返事を聞いた黄芽が次に見たものは、殴り掛かってくる穂村姉の姿ではなかった。
「全力、ね。なるほど」
 その異様に囲まれつつも、ぐるりとそれを見渡した黄芽は、構えを解かないまま冷静に呟いた。

「なな、何あれ……?」
 緑川は、突如出現した蒼く巨大な火柱に、その場で尻餅を突いた。
 実際には「あれ」と言うほど距離は離れていなかったが、黄芽と穂村姉をすっぽり飲み込んでしまったその幅に、そしてそれよりも四、五階建ての学校程度ならゆうに超えているであろうその高さに、つい距離感が麻痺してしまったのである。
「これが冷香くんの鬼道だ緑川くん。蒼炎陣そうえんじん 、という名のな」
 音を立てないその炎の壁の向こうから、にやついた声が聞こえてきた。
「自身には影響を及ぼさない炎のリングを作り上げ、相手だけに不利な状況を作り上げる。もちろんそこから出ようとすれば相手の服やら髪やらに火が付き、余計に不利になる――どうだ、えげつないだろう? くくく、本人は極めて優しい女性なのだがな」
 最後の一言に対して「どこがだ」と緑川は頭の片隅に思ったが、口にはできなかった。目の前の状況はあまりにも現実離れしていて、しかもそれが紛れも無い現実であり、更には自分の友人がその現実によって危機に陥っているのである。とても無駄口を叩く気にはなれなかったのだ。
「千尋さん……」
 それが、その一言が、至って普通の人間である緑川の精一杯であった。

「おお、いきなりかよ姉さん」
「こっちはまだなんですかねえ」
「うっせえぞ黙れ眼鏡!」
「やれやれ……眼鏡ってそんなに印象悪いですかね……」
 この蒼く巨大な火柱の発生を見越してか、穂村姉から遠ざかるように距離をおいていた穂村弟は、どうあっても白井の態度、もしくは眼鏡が気に食わないようであった。
「そのスカした面と眼鏡の組み合わせ見てっとなあ! 思い出したくもねえ糞親父の顔が浮かぶんだよ! ――あー分かった! はいそうですか! だったらさっさと殺してやんよ!」
「だから殺せませんってば。それにその糞親父さんとやらは僕に何の関係も無いですし、何が分かったのかも何が『だったら』なのかも全然分かりませんし」
 相も変わらぬ調子で返す白井であったが、次に眼鏡の位置を直す頃には、その口調は一変していた。
「……しかしまあ、やる気になったのならそれは結構です。あなたは僕の大事な友達の自転車を蹴っ飛ばしましたからね。こっちも加減はしませんよ」
「細けえんだよ眼鏡!」
 白井がただの金鎚を右手で強く握ると、とてつもない大きさの金鎚を腹の前で横に構える穂村弟は、姉と同じく鬼道を発動させる。
紅蓮炎神ぐれんえんじん !」
「名前を叫んじゃう辺りがまたガキくせ……おほん」
 黄芽の言葉が移り掛けて咳払いをする白井の眼前では、穂村弟とほぼ同じ背格好の人型をした炎の塊が、穂村弟のすぐ隣、地面から数センチほど浮いた所に現れていた。

 長い髪は振り乱され、長いスカートははためかされ、
「ふっ!」
 吐かれる息と同時に、鋼鉄の拳が黄芽を襲う。そしてそれは単発ではなく、正に息つく暇も無いほどの回転速度、そして様々な角度で、黄芽の体へ向かってくる。
「ちぃっ!」
 それら多数の拳をあるものは避け、あるものは金棒で受ける。しかし幾つかは身体をかすめ、場合によっては服を裂く。直撃こそ避けてはいるものの、黄芽はその武器の身軽さの差から防戦一方であった。そしてその体には、尋常でない量の汗が流れている。
「暑っちいなクソったれ!」
 僅かにではあるものの、周囲の蒼い炎によるその熱気は、確実に黄芽の動きを鈍らせていた。
「それが狙いですもの」
 繰り出す拳に合わせていた自らの呼吸のリズムを乱してまでそう言った穂村姉の顔には、「勝てる」という簡潔な感情が隠される事無く滲み出ていた。そしてその間も、間断無く拳は繰り出されてくる。

 無論、穂村姉に油断は無い。「勝てる」と思ったところでまだ「勝った」訳ではなく、事実、黄芽にはまだ有効打の一つも入れていないのだ。だからこそ手数を減らす事無くひたすら攻め続ける。
 ―-が、ある瞬間。
「んだらあああああ!」
 変わらず攻め続けていた筈であったが、黄芽が雄叫びとともに突然、金棒を横薙ぎに振ってくる。防御を捨てたとしか思えず、実際にそうである黄芽に対して、穂村姉の繰り出した右拳は避けられる事も受けられる事も無く、その腹部へめり込んだ。しかし、
「がっ!」
 代わりに黄芽の金棒に左の二の腕を捉えられ、受け止めようと縦に構えた左の篭手、そして全身ごと、子どもがオモチャの山を手で払うかの如くにあっさりと吹き飛ばされた。

「ゲッヘッ! ……っかぁ、喰らってみりゃあ大層な威力だな畜生が」
 上品とはとても言えない咳を一つし、少量ながらも血を吐き捨てた黄芽は、炎のリングの反対側で横たわっている穂村姉を眺めながらそう悪態をついた。
「……それは、どうも。こっちはそれ以上よ」
 応じて、左肩を抑えて更にふらつきながらも、穂村姉が立ち上がった。
「ところでよぉ、一つ訊いていいか?」
「何かしら?」
 距離が離れ、いったん戦闘行動に間が空くと、黄芽がとてつもなく普通の調子で穂村姉に話し掛けた。対する穂村姉も、同じようにその質問を受ける。
 黄芽は辺りを見回しながら、そして上着の胸元をぱたぱたと動かしてその内部へ風を送り込みながら、言った。
「これ、一般人に影響出すか?」
 胸元から入ってくる風は既にかなり温まっており、あまり涼しさは得られなかった。
 対して穂村姉は、左腕をぐるぐると回して異常がない事を確認しながら答えた。
「いいえ、鬼道の産物ですもの。緑川くんみたいな人でなければ、熱さを感じるどころか見えてすらいないわ」
「ふーん、そりゃ良かった」
 あっけらかんとそんな事を言い放つ黄芽に、穂村姉は微笑んでみせた。
「あら。あなた、『そういう人』には見えないけど?」
「なめんじゃねえ。これでも一応正義の味方様だ」
 その遣り取りだけを切り取って見てみれば、それは他愛の無い会話である。
 が、次の瞬間には既に。
「はああっ!」
「どらあああああああ!」

「こりゃなんとも、熱いですねえ」
 巨大な金鎚と人の形をした炎の塊の体術に追い回されながら、白井は率直な感想を口にした。
「逃げんな死ね! 死ねや糞眼鏡えええええええ!」
 彼がその得物を豪快に横へ振る度、全身のアクセサリーがじゃらじゃらと音を立てる。一方の炎の人型は、炎であるが故の「ごおっ」という音だけを腕や足を振る度に発し、叫びながら音を立てる穂村弟に比べれば静かなものであった。
「『死ね』は何度も言っているように無理ですが――『逃げんな』はそろそろ聞き入れてあげましょうか」
 ぽつりとそう言うと、背中を見せて逃走を続けていた白井は一転、その勢いのまま小さく小さく飛び上がり、空中でその向きを百八十度転換させた。そして次の着地と同時に、慣性など無視した速度で穂村弟に突っ込んだ。
「ぐっほぁっ!」
 小さな金鎚による「突き」を腹部に直撃させられた穂村弟は、息を詰まらせながら数十センチほど後方へ飛ばされる。
 が、炎の人型は止まらない。
「ぐっ!」
 敢え無く炎の人型の打ち降ろし気味な右ストレートを左頬に喰らい、仰け反り、そして素早く後方へ飛び退く白井。眼鏡はなんとか無事であった。
「炎なのに硬いだなんて、反則じゃないですか?」
 飛び退いた先で白井は呟いた。その左頬は、表面が焦げて黒ずんでいる。
「しかもちゃんと熱いですし。――ああもう、口開いたらほっぺが痛いじゃないですか」
 これまでの気の抜けるような口調とは違い、少しだけ不満そうだった。その相手をおちょくるような発言内容は別として、であるが。
「うっぜぇ……!」

 あれは、あの人じゃなくても怒る気がする。
 蒼い炎の内側に消えた黄芽から、見える範囲で戦っている白井に目を移していた緑川は、白井の愚痴を聞いてそう思ってしまった。本気で戦ってはいるのだろうが、その口調がいちいち相手のカンに障りそうなものなのだ。普段と同じようでどこかが違う白井の喋り方に、場をわきまえず脱力してしまう緑川であった。
「くくく。中々やるようだな、鬼――いや、きみの友人二人は」
 蒼い炎の中からは黄芽と穂村姉の声、そして時折お互いの武器がぶつかり合う歯切れのいい音が上がってくるので、緑川はその向こう側から来る求道の声を聞き漏らしそうになった。しかし実際には聞き漏らさなかったので、
「求道……さん、は、ボクが狙いなんですよね? 何でだかは知りませんけど」
 思い切って尋ねてみた。すると求道は「『さん』、か」と笑い、
「ああそうだ。その理由が聞きたいのかな?」
 そう続けてくる。それを聞いた緑川は、目から鱗が落ちた。
「あ、そ、それも言われてみれば、気になるんですけど……」
 言われてみればと言うか、普通は一番にそこを気にするべきだ。しかし緑川の質問は、それを全く想定していなかった。訊きたかったのは別の事なのである。
「どうして今のうちに、ボクを捕まえに来ないんですか?」
「何言ってんだ千秋てめえこのボケエエエエッ!」
 言うや否や、炎の壁の中から黄芽の罵声。瞬時に反応、いや反射し、緑川は身体をびくつかせた。
「くくく、怒られてしまったな緑川くん。だが安心しろ。戦いが終わるまで、私はここを動かん。と言うか、動けんさ」
「な、なんでですか?」
「考えてもみろ。私が今きみを捕まえに動けば、きみの友人二人は冷香くんと由也くんをほっぽってでもきみを守ろうとするだろう? すると私が戦闘に加わってしまう。先にも言ったが、私はそうなれば足手纏いでしかないのだよ」
「はあ……で、でも」
「ん?」
「その、冷香……さんの鬼道がこの蒼い火なんだから、昼に千尋さん達の前から消えた鬼道は、求道さんのものなんですよね?」
「千尋? ああ、鬼のどちらかの名か。ご名答だ。それで?」
「その『消えられる鬼道』を使ったら、ボクをサッと捕まえてパッと消えちゃえばいいような……」
「千秋ーっ! 後でぶん殴んぞコラァ!」
「くくく。実にいいアイディアだが、私の鬼道はそんなに便利なものではない。何分、使用に制限が多過ぎてな」
「そ、そうですか。良かったぁ……」
 質疑応答が終了し、緑川は大きく息を吐いた。色々と考えてみれば自分を捕まえに動いてもおかしくない求道が、どうしてだか動かずに眼前で行われる二つの闘いを見物するだけ。動かないのか動けないのかという疑問が、緑川にとっては凄まじい恐怖となっていた。
 つまり彼の目的は、この「疑問の解消」という安心を得る事だったのである。多分に危ない賭け、しかもリターンの小さい馬鹿げたものであり、更にはこれが恐怖の全てを払拭するものでもないと言うのに、であるが。
 そして次の瞬間、緑川の中の恐怖はまたも増大する事になる。
「あの馬鹿、何のんびり会話してやがんだ!」
「人の事は言えないでしょう」
 炎の中からそんな遣り取りが聞こえ、黄芽が「ぬおっ!?」と驚嘆の声を上げた。「こちらを気にした隙を突かれたらしい」事は、素人の緑川でも容易に想像でき、同時に鈍い金属音。
「千尋さん!」
 緊張が背筋を走り、声を張り上げる緑川。当然炎の壁内部の様子は窺えないが、次に緑川の目に飛び込んだのは、その意味を考えたくなくなるような物だった。
 ぼふ、とベッドに思い切り飛び込んだ時のような音がし、炎の壁に穴を空けて勢い良く飛び出してきたそれはぶんぶんと音を立てて回転しており、緑川の数センチ横をかすめて、彼の後方へ重い重い音を立てながら着地した。そちらを振り返ると、
「こ、れ……」
 黄芽の、金棒だった。

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