第三章
「果報は寝て待つもんじゃねえんだよ。つまんねーだろ? そんなんじゃ」



 七人。
 四人はうつ伏せ仰向けそれぞれ半々に床へ伏し、
 一人は穴の空いたソファに座って虚ろな視線を宙に泳がせ、
 二人はその一人を正面から眺めている。
「いやはやお見事。相変わらずスマートな仕事ぶり、惚れ惚れするよ」
「どちらかと言うとこれからが本番なのですが」
 廃病院。戦闘が始まってから相手の五名全員が戦闘不能になるまでついに車椅子をぴたりとも動かさなかった灰ノ原は、戦闘行為を前座としか見ていなかった桃園に対し、普段から持ち上がっている口の両端を更に上向きにする。
 しかし桃園はそれを気にせず、それどころか見てすらおらず、目の前のソファで今にも横へ倒れそうなほどに朦朧としている黒服の一人をじっと眺めていた。そして、言う。
「貴方がたの目的は何ですか」
「う、あ……おぉ、鬼達の」
 ふらりふらりと首の方向を安定させない黒服は、混濁極まる押せばぐにゃりと曲がりそうな口調で、たどたどしく答え始めた。
「鬼達の、足止め」
 そして桃園は、矢継ぎ早に続ける。そこには容赦も加減も同情も、何も無い。
「何のために」
「響様の……邪魔を、あぁあ、させないように……」
「その響の目的は」
「男を一人、捕まえる……求道様の研究のため」
 求道という名前が挙がり、灰ノ原が「ほほう?」と眉を持ち上げる。しかし一方、桃園は口調も表情も、口にする言葉以外、何一つ変化が見られない。
「男とは誰ですか」
「知らない……知らされてない……」
「灰ノ原さん。全員に連絡してくだい」
 知らない、と男が口にした途端、桃園が動いた。灰ノ原へ指示を出しながら、右手に持っていた鉄製の棒――現在は最長まで伸ばされている伸縮性のナイトスティックを、黒服の頭上に振り上げる。
「あいあいさー」
 灰ノ原のふざけた口調と鈍く低い衝撃音が、廃病院のロビーに響く。
「あ、でもその前に……」
 全員へ連絡を入れる前に何かを思いついた灰ノ原はしかし、やはり携帯を弄り始めた。

 七人と二つ。
 二人は仰向けに地面へ倒れ、
 三人はそれぞれ疲労や苦痛に歪んだ顔をし、
 二人はそれらを前に拍子抜けとも言い表せるような佇まいを見せ、その足元に侍と兵士の人形二つが立って並んでいた。
「向こうカラ来た割ニ、やる気が無イみたいだネエ?」
「何にせよ、大した相手でなさそうなのが幸いだな。一応修羅ではあるようだが」
 自宅前。戦闘を仕掛けてきた割にはどうにも逃げ回ってばかりの黒服五名――これまでの戦闘の結果、残るは三名だが――から、一旦距離をとって仕切り直しを図った金剛とシルヴィアは、余裕を持ってそんな軽口を叩いていた。反撃がまるで無いとまではいかないものの、それらに量も質も伴っていない事は、殆ど無傷と言っていい状態の二人を見れば誰にでも察しがつくところである。
 逆に金剛とシルヴィアからの攻め手は、逃げ回られている事から少々てこずってはいるものの、開戦から五分そこらで二人仕留めている事を考えれば上々な結果を挙げていると言っていいであろう。だからこその余裕である。
 ――とそこへ、携帯電話からの呼び出し音が二人同時に。小休止中とは言えこの場に相応しくない電子音が、二つ重なって鳴り響く。
「あや? ――もシかしテ、別件発生かナ?」
 二人同時という事は、大抵が紫村からの仕事の案内である。シルヴィアは金剛へ向けて、困ったような笑顔を作ってみせた。金剛はそれに鼻を鳴らし、しかし目は黒服三人から離さないまま懐から携帯電話を取り出し、大きな手に似つかわしくない小さなボタンを一つ押す。隣ではシルヴィアも同じように。
「お、全員開通だね」
 耳を当てるまでもないボリュームで携帯電話から聞こえてきたのは、紫村ではなく灰ノ原の声だった。
「あー、金剛くんにシルヴィアくん? 一応今これ全員に繋いでるんだけど、今回の件で分かった事と二人にお願いしたい事があるから言うよ。そのまま聞いててね」
 全員、と言うからには金剛とシルヴィアだけではなく、金剛が画面表示を見てみると、通信相手は他に黄芽、白井、紫村。桃園は灰ノ原の傍に居るであろうという事を考えれば、つまり言葉のまま「全員」なのであった。
「今回の黒服……そっちも黒服だよね? そいつら、ぼく達の足止めに来たらしいよ。それで、響様とかいうのの邪魔をさせないようにしてるらしいね。で、金剛くんとシルヴィアくんに――今も仕事中ならどちらか一人だけでも、緑川くんの所に向かって欲しい」
 それまでリラックスしていた金剛とシルヴィアの身に、緊張が走る。それは言うまでもなく、緑川の名が挙がった事によるものであった。
「先に黄芽さんに訊いたところ緑川くんは今下校中で、もう家に着いてるかもしれないって言うから行ってみたのよ。それでぼく、今緑川くんの家の前にいるんだけど、赤ちゃんと青くんしか居なくてさ。訊いてみたら千秋くん、忘れ物取りに学校に戻ったって言うのよ。となると、きみ達が一番近いんだよね」
 灰ノ原の言う通り、現在地において緑川が通う高校に一番近いのは金剛とシルヴィアの組である。
 ――響様とやらが何者かは知らんが、「響様の邪魔」という事は、そいつは一人で行動しているんだろう。なら――
「ここを任せてもいいか、シルヴィア」
「お任せアレ!」
 どちらかと言うと一対一のほうが得意な金剛。対して、対集団戦もこなせるシルヴィア。役割分担は、どちらが何を言うまでも無く決定した。
 一瞬と言っていい打ち合わせを済ませ、金剛が場に背を向けて走り出そうとすると、当然それを阻止しようと黒服が動く。
 が、
「行かせないヨ! あんた達全員、たった今ワタシ達が引き受けタんダ!」
 シルヴィアとその左右に人形が一体ずつ並び、黒服に立ち塞がった。結果、金剛は妨害が入る事もなく場を去る。体格に似合わない俊敏さと、体格に似合わない抑えられた足音を引き連れて。
「引き下がるなら今のうちだぞ三下ども。相棒を行かせた以上、ここからはこちらも全力だ」
 遠ざかる金剛を背に、シルヴィアの肩に担がれた紐口のサックが啖呵を切る。
 そのサックことマスターはサックであるが故に直接戦闘には加わらないが、彼を除いても黒服三名に対してシルヴィア側も三名。この「数」こそ、シルヴィアが対集団戦をこなせる一つめにして最大の理由であった。
 黒服の三名が三名とも、顔色が変わったシルヴィアに対して動揺を隠せない。がしかし、だからと言って立ち竦んでいるばかりでもなく、その中の一人が慌てた手付きで懐から何かを取り出した。
 それはシルヴィアと同じく携帯電話――なのかどうかまでは判断できないが、どうやら何らかの通信機ではあるらしい。取り出したそれを、黒服は耳元へと近付ける。
「アーミー!」
 その動きに反応し、シルヴィアが足元の人形を呼ぶ。
 直後、乾いた破裂音と黒服の短い悲鳴とともに、黒服の手から通信機らしき物が吹き飛んだ。
「連絡は取ラせなイよ!」
 兵士人形がその小さい体で構えたアサルトライフル――M16A4の小型版、M16A4Sで狙撃したのである。
 降り続ける雪のカーテンの向こう側、どこか離れた所から吹き飛んだ通信機の着地音がカシャンと聞こえてきてから、シルヴィアはトーンを落として目の前の三名に語り掛ける。
「マスターも言っタけど、今抵抗を止めルって言うなラこれ以上手は出さナイ。このママ地獄に送ってアゲるけど、どうスル?」
 ここで言う「地獄に送る」とは喧嘩の売り言葉でも何でもなく、ただ文字通りに地獄へ送るという意味である。黒服もシルヴィアと金剛を鬼と分かって襲い掛かってきた以上、その事は充分に理解しているであろう。
 ――しかし、黒服の修羅三名はそれぞれに苦悶の表情を浮かべながらも、腰を落として再び戦闘に臨む姿勢を作り上げる。
 シルヴィアは、再び声を張り上げた。
「分かラず屋!」

 シルヴィアが再度戦闘を始めたその頃。黄芽達のいる廃工場、その中の様々な機械が点在していたであろう、しかし今はもぬけの殻な広い作業場は、耳を覆いたくなるような大音響で満たされていた。
「おーほほほほほ!」
 高笑いの黒淵。加えて、人のそれとは思えないような禍々しさを乗せかつ痛々しい、獣の咆哮に近いとすら思える悲鳴が三つ。その出所は、とてつもない苦痛に転げ回る事すらできず全身をびくびくと痙攣させながら、仰向けうつ伏せそれぞれに床へ伏す黒服三名。しかし黒服達は服どころか頭の先から爪先まで、全身が余す所無く黒に染め上げられていた。現在の彼等は傍目からするとシルエットでしかなく、目や鼻といった顔のパーツは判別すらできない。それがどんなに苦痛に歪んでいようとも。
「うふふ、あと二人ですわね。……うふふふふ、どこに隠れたのかしらぁ?」
 その残りの二人は戦意を完全に喪失しているらしく、
「反応、消失しました」
『了解』
 黄芽と白井の携帯に、紫村からそのような報が入った。
 位置を把握できないので手間は掛かるが、このような事は珍しい例でもないので黄芽と白井の応答も平静である。圧倒的な暴力による恐怖の前には、悪意など所詮煙の如く易々と払われてしまうものなのだ。
 黒服を片付ければ素敵にハンサムな眼鏡の男性、つまり白井を紹介してもらえると勝手に決め付けた黒淵は、相手が何者か不明であろうが明らかに戦闘慣れしていない格下であろうがそんな事には一切の興味を示さず、出会い頭から容赦無く蹂躙して回った。
 一人目を手早くその手に掛け、二人目に取り掛かっているところで、そのあまりの惨状に他三名は逃げ出した。しかし一人が逃げ切れずに捕まり、ここまでに計三名を一人だけで戦闘不能にしたのである。……いや、残りの二人も心的に戦闘不能ではあるのだろうが。
 相手を闇に染め上げ手も出さずに悶絶させるなど、誰がどう見ても不可思議現象。つまり鬼道の為せる業である。そして鬼道を所持している以上は言うまでもない事なのであるが、彼女も鬼――もしくは修羅という可能性もある――なのである。
「くそったれが!」
「……本当、くそったれですよ」
 まるで無防備に壁へ全力の拳を叩き付ける黄芽と、彼女の隣でその自傷に等しい行為を咎めもせずに眼鏡の位置を直す白井。現在この二人には黒淵の素性、いわんや響き渡る黒服三名の叫び声など、気にする余裕はなかったのだ。殴られた壁には、亀裂が走っていた。
 またしても緑川に危険が迫っている。しかも灰ノ原によれば、またしても求道という男が絡んでいる。求道は修羅だった。その時引き連れていた穂村姉弟も修羅だった。今そこで悲惨な事になっている黒服達も修羅だった。この分だと、響という人物も修羅なのだろう。
 いつか来ると分かっていた相手ではある。そのための警護も今日始めたばかりである。しかしいざ来られてみれば、憤りも動揺も隠し切れないどころか隠すという発想にすらならない。そして緑川は現在、比較的近くに廃病院があり安全圏とも言える自宅からわざわざ離れ、たった一人である。
 もはや何もかも、想定を遥かに上回る最悪さで事が運んでいるのであった。
「俺も千秋んとこ行くぞ。白井、お前は残ってあの女と残り二人の相手しとけ」
「是非そうさせてください。この状況で、残った二人の臆病者相手に二人つきっきりというのも馬鹿らしい話ですから。問題はあのドレスの女の人ですが――」
 白井が顔を向けた先には、もう黒淵はいなかった。そこにはただ、顔を醜く歪めたうえ涎と涙と鼻水を垂らして気絶している黒服が三名、横たわっているだけである。黒淵は逃げた二人を捜しているのだろう。そして鬼道の発動者である黒淵がこの場から離れたからか、黒服三名を覆っていた闇は消え去り、いつの間にか叫び声は止んでいた。
「少なくとも、悪い人ではないように思います」
 その予想が外れて彼女が悪人であった場合はどうするか。白井は、そこまで言及しなかった。言うまでもない事だからである。
「だといいんだけどな。……行ってくんぞ」
「気を付けてくださいよ」
 白井の言葉を聞き届け、しかし振り返る事無く、黄芽は駆け出した。
 ――しかし、当然ながら彼女はまだ知らない。逃げた黒服二人の行く先を。

 黄芽を見送った白井の背後から、影が一つ忍び寄る。
「あの」
「っ!?」
 呼び掛けられ、反応して距離を取りながら素早く振り返った白井は、懐の金鎚を抜きながらその人物を睨み付ける。が、
「……って、なんだあなたですか」
 その人物が黒ドレスの女性であると知るや、体全体の緊張を解き、表情を落ち着かせ、腕を金鎚もろともだらりと垂れ下げた。つまるところ戦闘態勢の解除である。ただし最低限の備えとして、金鎚は出したままであったが。
「ああ、すみません驚かせてしまって。あの……唐突ですけど、お名前を教えていただけませんか?」
「へ?」
 まだ(自分が勝手に取り付けた)黒服五名を痛めつけたら名前を教えるという約束は果たされておらず、そもそも白井はその約束自体を耳にしていない。つまり彼にとってそれは、まさしく唐突そのものな話なのであった。
「よく分かりませんけど……すいません、あちらで伸びてる三人についてはお礼を言いますが、まだあなたの事を完全には信用できませんので。できればまず、あなたが何者かを聞かせて欲しいのですが」
 黒服と戦ってくれたとは言え、鬼道まで持ちながら正体不明である彼女。当然、あっさりとこちらの情報を提供する訳にはいかない。
「あ、あら。それは失礼しました」
 女性は口に手を当て、自分の失態を恥じるかのような動作を見せる。
 ――どうやら、スパイだとかそういう類じゃなさそうかな。まあ、格好からしてそれっぽくはないけど。
 しかし次に女性が見せた表情は自信と自尊に満ちたような笑みであり、安心したばかりの白井は再び不安を覚える事になる。そして、
「わたくしは、黒淵芹といいます。ご存知ありませんか?」
「黒淵……………黒淵!? って言うと、まさかあの!?」
 その名をここでようやく知らされた白井は彼女を二度見したうえで眼鏡がずれんばかりに動揺し、自分の頭の中にあるその名前とそれが含む情報を処理速度の限界と言わんばかりの勢いで引き出した。
「いや、そんな筈は。あんな人がこんな所にいる訳が――」
 その結果、導き出された回答は「エラー」であった。彼女が今ここにいる事と、頭の中の情報が、どうしても結びつかなかったのである。
「うふふ、分かっていただけたようで嬉しいですわ」
 しかし黒淵はその回答に満足し、頬に手を当ててにこにこと微笑んでいた。
 一方白井の表情は、見る見る青ざめていくのだった。
「……えええ……」
 溜息すら出なかった。

 一方、黄芽。赤の他人の家を突っ切り、面する道路に出た所。
「ぐっ……!」
 緑川が使う通学路を目指して壁も民家もすり抜けてその最短距離を走り抜ける黄芽の前に、黒服が現れた。そして彼等を追っていた筈の黒淵は居ない。状況的に考えて、どうやら取り逃がしたらしい。
 どこにどういう不運が重なってこうなったのかは誰にも分からないが、既に廃工場からは随分とはなれた位置にいる。こんな所でただひたすらに逃げていただけの相手とばったり出くわすなど、確率的に考えれば極めて低いだろう。
「このボケナスどもがああっ!」
「ひいっ」
 激昂し怒号を上げ怒りに顔を歪めつつ走り寄る黄芽に、黒服二人のどちらか――あるいは両方が、大の男が出すとは思えないような弱々しい悲鳴を、その震え上がる体から搾り出す。
 目の前に居るのは明らかに先程の逃走者二名である。黒淵から早々に散らされ、個人個人として見ればまだ何も悪事を働いてはいないのだが、集団として何を為していたかはもう判明している。それは明らかに悪事であり、ならば鬼として、夜行として、そして知人を狙われた一個人として、彼等を見逃す訳にはいかない。
 ――しかし、
「てめえ等に構ってる暇なんかねえっつんだよ!」
 彼女は彼等などより、緑川の元へ向かう事を優先したかった。だがそれはあくまで「したかった」という願望であり、現実には確保対象を見逃す訳にはいかない。普段ならこういう時に代わりを頼む白井も、今は隣に居ないのだから。
 不幸中の幸いか、黒服二名は逃げる方向が同じであった。そこに仲間意識があるのか、それともいざという時は一方を囮として使うといった類の狡い考えがあるのか、はたまた何の考えもないのかは、黄芽には分からない。だが何にせよ、幸いは幸いである。
「戦る気ねえなら大人しく捕まれってんだボケが! ……おい白井、二人がいた! 逃げた二人だ! 駅のほうに向かってっからお前も一応こっち来い! ――はあ!? 今そんな話してる場合じゃねえっつの! 切んぞ!」
 白井に連絡を入れたものの、スタートが廃工場からでは恐らく追い付けはしないだろう。ならば、目の前の二人を二人でいる間に捕まえるのみである。
 ――あの黒淵とかいうやつが誰か分かったって、知るかよ今そんな事! ……って、しかもよく考えたらウチで伸びてる三人地獄に送ってねえじゃねえか! 白井来れねえじゃねえか! んあああああもう畜生!
 走ってさえいなければ髪がゆらゆらと立ち昇りそうなくらいに憤懣極まる黄芽であったが、その懐から、今切ったばかりの携帯が着信音をかき鳴らす。黄芽はそれを乱暴な手付きで胸元から取り出すと、画面表示すら確認せずに耳へ押し当てる。
「何だ! 誰だ!」
「あのー、僕ですけど、黒服三人の処理があるんでそっちには……」
「わぁってるっつのこのハゲ眼鏡!」
「……罵倒に事実と嘘を混ぜないで下さいよ。禿げてなんかないですって」

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