第四章
「糠に釘、だ。今更どこの誰にどう思われようと、俺の考え方は変わらん」



「しかし解せんな」
「俺も解せねえな」
 フライパンとナイフが数回切り結び、火花が舞って鈍い金属音が響く。
 場所は高校、正門から昇降口に掛けての通路上。しかし緑川以外、誰一人として男二人の存在にも火花にも金属音にも、気が付かない。彼等が発するありとあらゆる音の中で一般人が知覚できるものはその足音と体が空を切る音だけであるが、その音も周囲の部活動による喧騒や声によってまるで目立たなかったのである。
 幽霊の声が一般人の耳に届かないように、幽体が発する音もまた人の耳には届かない。幽霊が足を踏み鳴らせば打たれた地面の音は聞こえるものの、幽霊の足が立てた音は聞こえないのである。また、その性質のため幽体同士の衝突音は人の耳には聞こえず、そのため鬼や修羅が使う武器――今この場で言うならフライパンとナイフは――金属の幽体で出来ているのである。
「何だ?」
「お前こそ何だよ」
 再び火花と金属音。やはり誰も気付かない。
 様子見の段階なのか、神主衣装のフライパン使いもダッフルコートのナイフ使いも、互いの武器を交差させながらまだまだ余裕を感じさせる表情である。
「先に言ってもいいぞ」
「お前が先に言え」
 短い会話の遣り取りながらも、譲り合って……いや、意地を張り合っても埒があかない相手なのは、見当が付いた。なので金剛はあっさりと折れ、どこぞの眼鏡がよくそうするような溜息をつきながら後方へ跳ね、距離を取る。もちろん緑川ががら空きにならないよう、後方というのは彼への方向でもあるのだが。
 緑川の目と鼻の先に殆ど音もなくその巨体を着地させた金剛は、フライパンを降ろして元の位置に残った響を見遣る。
「まず一つ」
「えぇ、何個もあんのかよ面倒臭え」
「……まず一つ、何故俺達の住居を知っていた」
「組織の誰かが調べたからだろ? ちなみに俺じゃねえぞ」
 まるでさらっと答える響であったが、誘導したつもりでもないのに聞き出せた「組織」という単語に金剛の表情が僅かに動く。
「あんだけ頭数動かしたんだ。俺が言わなくたって見当は付いてたんだろ? それとも俺の名前聞き出した時、一緒にその話も出たか?」
「……二つ目だ」
 ――どうにも腹の立つ相手だな。殴り倒す相手である以上、問題は無いが。
「ちゃっちゃとどうぞ」
「俺達の所に来た黒服達だが、あれは情けなさ過ぎるだろう。負けると分かっていて仲間を敵の下に送り込むなど、上役のやるべき仕事ではないな」
「ああ、あれな。お前らってさ、俺ら捕まえたら地獄に送らなきゃなんだろ? だから『ヤバくなったら二手に分かれて鬼を分断しろ』っつっといたんだけど――ここに居るのがお前一人だけって事は成功だな。まあ、本当なら誰も来ねえってのが一番なんだけどよ」
 廃病院では、分断する暇もなくその場で全員戦闘不能になった。
 廃工場では、結果として分断はしたものの、それは恐怖に駆られて逃げ出しただけ。
 空き家では、むしろ金剛を取り逃がしてしまう。
 報告を受けておらずそれらの経緯を知らない響は、現状だけを捉えて満足している様子であった。しかし経過がどうあれ、結果が同じならば現状も同じである。今ここに居るのは、あくまでも金剛ただ一人だけなのだ。
「それは分かっている。俺は、仲間を使い捨てにするようなやり方の事を言ってるんだが」
「『悪人』に道徳説いてどうするつもりだ? 『正義の味方』さんよ」
「……それもそうだな。俺からは以上だ」
 言ってどうなるものでもないのは分かっているし、そもそもどうにかするつもりもない。要は「言いたくなった事を言っただけ」であり、最初から結果など求めていない金剛は、あっさりと引き下がった。
「じゃ、次俺な」
 入れ替わりに話を始めるのか、と思われた響は――。
「うわわわっ!」
 緑川が声を上げる。彼は突然、金剛へ目掛けて手にしていたナイフを投げ付けたのである。
 まるでダーツのように刃の先端を前へ向けたまま飛来するナイフはしかし、フライパンの底面であっさりと弾かれた。
「不意打ちのつもりか? しかし自分から武器を捨てるなど」
「本気出せって言ってんだよ俺は」
 やや鋭さを増した口調でそう言いながら、響はコートの裏に手を突っ込む。そこから取り出されたのは、今まで手にしていたのとまるで同じ型のナイフであった。
「それはお互い様だろう。お前だって本気ではないだろうが」
「俺が本気出すかどうかはお前の本気を見てから決める。いいからホレ、使えって鬼道」
 挑発するように、立てた人差し指をくいくいと自分へ向ける響。
「もしかして、鬼道持ってねえとか?」
 それを受けて金剛は、すぐ背後の緑川をちらりと見、不安そうなその表情を確認すると、響へ答えを返し始めた。
「……分かった、いいだろう。鬼道は使う。ただし全力は出さん」
「あ? 何でだよ?」
「俺が全力で人間を殴ると、とても一般人に見せられないような惨状が出来上がってしまうからだ」
「ああなるほど、文字通り一撃必殺って事か。見た目そのまんま」
 相当に物騒な話を、しかもその矛先が自分に向いている事も分かっているであろうに、軽口でも叩くかのような口調の響。
「さすがは筋肉ダルマな正義の味方様だな。おっかねえうえにお優しいこって」
「……………どうだかな」

 緑川の耳に、どこか自嘲しているかのような金剛の声が届く。すると直後、金剛は右手に持ったフライパンの底を左手でぱん、と軽く叩いた。するとどうなるのか――鬼道を使うと金剛が宣言し、その宣言通りにするとなるとどうなるのか、緑川は知っていた。こうして実戦の場で目にするのは初めてであったが、与太話のついでに見せてもらった事があったのだ。
「へーえ」
 バキバキと音を立てて現れるその鬼道による変化に、響は手品でも見せられたかのように面白そうな笑みを浮かべる。金剛の背中越しにその表情を見て取った緑川は、彼に対する恐怖、そして響という人間の理解のし難さを、更に募らせるのだった。
 なんせ、自分を打ちのめすために発現された異能を前に、笑っているのである。
 ――あの人、喧嘩……いや、それどころじゃなくてもう「闘い」か。なんであんな、笑ってられるの? 何されても死なないって言っても、死なないだけなのに。
「一気に物騒になったな、フライパン」
「物騒なのがお好みなら棘を生やしたりもできるぞ」
 それまでは極一般的なそれであったフライパンは、その皿の部分を金剛の鬼道である「鬼氷」により角を丸められた立方体の氷に包まれ、涼やかに透き通る棍棒へとその形状、そして用途を、変化させられたのだった。
「ああ、要するに触ったモンに氷を張らせるって話だな?」
 後ろから見ているだけではあるものの、緑川から見て金剛は返事をせず、頷きもしなかった。しかし、だからと言って隠そうとしている訳ではないのだろう。フライパンの底を叩いて見せ、その直後に鬼道を発動させたところからして。金剛の「鬼氷」は、一言で纏めれば響の言う通りの鬼道なのである。
 もっとも、その氷の硬度にある程度自由が利き、相手を殴るための氷ならば鉄にも匹敵する硬さにできるというところまで響が知り得たとは、考え難かったが。
「生やせるんなら生やせばいいだろ、棘」
「断わる。俺はお前を痛めつけるためでなく、捕らえるために闘うのだからな」
「へっ、お優しいこって。甘々だなてめえは」
 響のその言葉に反応するように、金剛はこれまでの手緩い手合わせでは見せなかった「構え」の姿勢を取る。やや腰を落とし、左足を引き、いつでも踏み込める姿勢を作ると、フライパンでは在り得なくなった元フライパンが、少しだけ持ち上がる。取っ手を握る手に力が込められたのだろう。
「買い被ってくれるな。俺が甘いのはまだまだ模倣にすぎん」
「はあ? なんだそりゃ、どういう意味だよ?」
 響が怪訝な表情になる。
 同じく緑川も、そんな話を聞いたのはこれが初めてだった。しかし、まるで分からないという事でもない。はっきりそうだとは断言できないが、ある程度の想像はついたのである。
 甘い。好意的に言い換えればそれは、優しいという事。金剛が優しい誰かの真似をして自身も優しくなっていると言うのなら、真似をされているのが誰かという問題の答えは、ほぼ一択も同然だ。
 ――でも金剛さんが優しいのは、誰かの真似だとか、そういったものじゃないと思うんだけどなあ。
 金剛よりも更に深く黒い肌、ショートカットの銀髪、青い目、そしていつも金剛と一緒に居て、その隣で屈託のない陽気な笑みを浮かべ続けている。そんな女性を思い描きながら、緑川は響とはまた違った種類の怪訝な視線を、金剛の背中へ送るのだった。
「……そこまでお前に語る道理は無い。そろそろ再開させてもらうぞ」
「おっ、待ってました」
 途端に響は機嫌を良くし、充血した眼を楽しそうに細め、ナイフを前方に構える。まるで戦闘さえ行えれば他の細事はどうでもいいと言わんばかりの切り替えぶりであった。
 競技ではなく訓練としての手合わせでもない、本物の戦闘。故に合図など無く、端から見ているだけの緑川からすれば、初動は突然のものであった。また、突然であった事とそれに加えて金剛と響の踏み込みが速過ぎて、先に動いたのがどちらなのか、緑川には判断が付かなかった。
 こちらからあちらへ駆けてゆく金剛と、あちらからこちらへ駆けてくる響。あっと言う間すらなく金剛の氷の鈍器が振り上げられ、それが背後に位置する緑川からでも視認できた直後、頭を直接揺さぶられるような短く激しい衝突音。その音は両者の武器が高速でぶつかり合い、また両者が最接近したという事の現れであった。
 が、
「おお怖い怖い」
 緑川の耳を突き抜けた音の余韻が抜ける頃、響は金剛から五歩ほどの位置へと後退していた。
「……何故離れる? それ以外にも武器を持っているのか?」
 金剛が問う。緑川にはどうしてそういう話になるのかがすぐには推理できなかったが、響が「いや、持ってねえぞ。同じナイフならまだまだ数はあるけどな」と答えた後になって一つ、思い付いた。
 体格は金剛のほうが上。よって素手でのリーチも金剛のほうが上であり、加えて武器の長さでも金剛のほうが上である。という事はつまり、一度詰めた距離を自分から離してしまうというのは自分からチャンスを潰すようなものなのである。
「言っておくが、投げナイフくらいなら叩き落せる自信はあるぞ」
「ケハハ、分かってるよ。さっき見たからなそれ」
 緑川は、横方向の地面を見た。そこには、金剛が氷を張る前のフライパンで弾いた響のナイフが落ちている。
 確かに金剛は投げ付けられたナイフをいともあっさり、驚きすらせず弾いてみせた。あの時の響は本気ではなかったかもしれないが、今は金剛の武器も一周り、いや二周りは大きくなっている。叩き落せる自身があるというのは、虚勢でもなんでもないのだろう。
 緑川は安堵した。まだ戦闘が終了した訳ではないという事を考えればそれが時期尚早であるのは、彼本人も自覚してはいたが。
「だってお前、触ったもんに氷を張らせるんだろ? おっかなくて近くになんか長居できるかよ。氷漬けにされちゃたまんねえし」
「出来ん事はないな。触った瞬間に張り終わる訳じゃないんで、大抵は上手くいかんが」
 フライパンに氷を張らせる際がそうであったように、金剛が鬼氷を発動させてから対象が氷に覆われるまでには手で触る、手を放す、氷が現れ始める、氷が対象を覆い尽くす、とこれだけ掛かり、完了までにややタイムラグがある。しかも現れ始めた段階の氷を手で払われたりすれば、それだけで簡単に鬼氷の発現は止まってしまう。
 自分の手が諸共に氷漬けになるのを良しとするならば手を放すという行程を、そして対象に触れてから十分以内ならば触るという行程から省略する事もできるのだが、現れた氷を相手が払うという事だけは防ぎようがないのである。
「――そういう訳だ、思い切り掛かって来い。近付く度に一々遠ざかられても面倒なだけだからな」
「いや、いやいや、まあそれだけじゃなくてな」
 金剛の言葉に苦笑いを浮かべる響。緑川は彼が、ナイフを持つ自身の右手にちらりと視線を落とした事を見て取った。
「さすが筋肉まみれな事はあるなって話だよ。一発で手が痺れてやがる。……本気は出さねえっつってたのに、氷出す前の時より力入ってるんじゃねえか?」
「そうか? これまで通りに加減しているつもりだが」
 もしそうだとしてもそんな差は誤差でしかないと言わんばかりに、何でもないような物言いの金剛。受け取りようによっては傲慢とも取れない事はなく、緑川はそれを受け取る側である響の反応が気になる――いやそれ以上、怒り出しはしないかと心配になるのであったが、
「ケハッ、ケッハハハハハハ!」
 この反応は完全に予想外であった。
「面白え! 面白えぞお前! 手ぇ抜いてここまでだっつうんなら――!」
 笑い、喜び、血走った眼をこれまで以上に見開かせると、響は金剛へ向けて駆け出した。眼も口も異常とすら思えるほどに深く広くあからさまに明確な笑いの形を作ったまま、先程金剛の「鬼氷」を警戒して距離を取ったのは何だったのかと言いたくなるほど無防備に、ただただ勢いに任せて金剛の元へ。
「こっちは本気だこん畜生が!」
 対して金剛、出遅れたためかそれとも様子を見るつもりだったのか、鈍器を胸の前で構えて響のナイフを受ける体勢。
 そして再び金剛と響、互いの武器がぶつかり合って音を立てる――筈だったのだが、意識をその音への対抗へと集中させていた緑川の耳には、今までのような音は聞こえてこなかった。代わりに聞こえてきたのは小石を蹴ったような「かっ」という小さな音であり、その音の原因が何なのか、金剛と響の衝突がどうなったのか、金剛の真後ろからでは確認できない。
「何だと?」
 音の次に聞こえてきたのは金剛の声。何があったか分からないとは言え、その台詞は彼にとって不都合な事態が発生した事を意味するものであり、故に緑川の背筋に緊張が走る。
 しかし一方、戦っている本人には緊張している暇などなく、間髪入れずに氷の塊を横へ振るう。そうなれば響は当然一時後退するしかないのだが、
「あ……」
 その横へ振り抜かれた氷の鈍器を見て初めて、緑川は悟った。たった今、ぶつかり合った二人の間で何があったのか。
「……これがお前の鬼道か」
 鈍器を顔の前に持っていき、その変化を目に捉えながら尋ねる金剛。
「そーゆーこったな」
 鈍器には亀裂が、いや、穴と言っていいだろう。金剛の「鬼氷」によって発生した氷もその芯であるフライパンも、そのほぼ中心にぽっかりと縦長の穴を突き開かれていたのだ。
 穴の形状と先程の状況からして、そこを通り抜けて空洞にした物体は響のナイフなのだろう。ついさっきまでは、氷どころかフライパンにすらいとも容易く弾き返されていたというのに。
「お前の鬼道は触ったもんに氷を張らせっけど、俺のは触ったもんを振動させんだよ。おかげで御覧の切れ味ってわけだ。まあ、今のは切るっつーより突きだったんだけどな」
「……それだと、単に揺らすという次元のものではないな」
 超高速かつ超微振動。その両方を満たさなければ、刃物の切れ味が上がるなどという現象は起こらないだろう。と、特別な知識がある訳ではない緑川でもそのくらいの事は想像でき、大まかに言えばその通りなのだが、当然実際はそれ以上に複雑な話である。
「そこまでとなると高周波数がどうとか、そんなレベルの話なんじゃないのか?」
「俺も自分で調べてみた事あっけど、そうらしいな。すげえだろ? 正直全然意味分かんねえけど」
 ――自分の鬼道なのに……。
 金剛と響のその会話通り、「そんなレベルの話」なのである。当然、緑川にも分かりはしない領域であった。
「しかも色々大変なんだぞ? ただのナイフじゃあ振動に耐え切れずにぶっ壊れるから特注だよ、特注。何がどう特注なのか俺にも分かんねえんだけどな」
「それはご苦労様だな」
 ただ大きいだけではないらしいナイフをフラフラと、ヘラヘラしながら宙で揺らす響。対して金剛は、その武器に再び氷を発生させて穴を修復。一から塊を作り上げるならともかく、欠損を修復する程度ならそれに要するのは一瞬と言っていい程度の時間であった。
 氷の芯であるフライパン自体の穴はそのままであるが、外殻の氷が元通りならば武器の性能自体に問題は無い。そして問題が無いのなら。
「だがそれだけだ」
 修復した武器を構え、響へ向けて突進する金剛。問題が無いのなら戦闘は続行である。
「俺はなーんも苦労してねーけどな!」

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