第五章
「笑う門にはって言うでしょお? だから笑え笑えー、笑っといちゃえー」



 相変わらず雪は降り続けており、いい加減さくさくと足音が聞こえる程度の量が地面に積もり始めていた。
「じゃあねー」
「また明日―」
 見知らぬ女生徒二人が、校門を出た所で別れの挨拶を交わしている。
 帰宅部が家へ直行するには遅い時間。しかし部活動に勤しむ生徒達が帰るには早い時間。そんな中途半端な時間でもやはり、外へ出て行く人影はちらほらと。
 平和であった。
 首から左肩に掛けてとその周囲――肋骨や肩甲骨などなど――の骨を纏めて粉砕され、内臓にもダメージがあるのだろう、口から血を溢れさせている黒コートの男が地面に仰向けになっているというその事実、そして彼と対面する腕が血まみれの男の存在以外、実に平和な光景であった。
 黒コートの男は、口の中に溜まった血を面倒臭そうに顔のすぐ隣へ吐き捨てた。積もった雪が赤く染まり、その血液の温かみで溶けてゆく。吐き捨てた血の一部は倒れた拍子に横へ広がった自身の長髪にも掛かったが、まるで気にした様子はない。
「あー、死ねねえってきっついな。無茶苦茶痛えわ。痛過ぎて動けねえ」
 本当にその言葉通りなのか、それとも立ち上がったところでこんな状態ではどうしようもないと諦めての発言なのか、ここまで酷い外傷を負った事がない緑川には分からなかった。
 酷いと言っても、外から見る限りではコートの左肩辺りが血濡れになっているだけではあるのだが。
「避けずに大人しく頭を潰されていれば、少なくとも痛みは感じずに済んだんだぞ」
「はっ。馬鹿言うなよな」
 あの瞬間、「ここまでか」と諦めの言葉を口にした響はしかし、振り下ろされる金剛の右腕を首の動きだけで避けた。頭を狙った腕を首だけで避けるという事はつまり、腕は肩へ直撃する事になる。その一撃によって今こうして戦闘不能になっているのだから、あまり意味のない悪あがきではあったのかもしれないが――
「そのおかげで一矢報いれたんじゃねえか」
 自身の鬼道、「鬼氷」に覆われているとは言え、その透き通った氷の中で腕の形を保っているとは言え、金剛の右腕は完膚なきまでに破壊され尽くしている。そして手首から先を切り飛ばされた左腕もまた、同じように。
「最後の最後で無駄に怪我だけ増やされるとはな。忌々しい」
 響は金剛の最後の一撃を首だけで回避しようとしたあの時、その直前に金剛の左手首を切り飛ばした右手のナイフを離し、その空いた右手で金剛の左腕に掴み掛かっていた。そこから彼が何をしたのかは、言うまでもないだろう。そしてその最後の一撃は腕狙いであったが故に勝敗を左右するものではなく、金剛の言葉を借りれば「無駄」である事もまた、言うまでもないだろう。
「あーあ。俺今、アンバランスに左だけ撫で肩なんだろうなあ。かっこわり」
「安心しろ。コートなんぞ着込んでるおかげで、さして目立っていない」
「お、そりゃ良かった」
 冗談じみた会話。緑川には、そんな行動に出られる彼らの心情が理解できなかった。死なないとは言え、殺し合いのレベルの戦闘。それに決着が着いた直後――いや、戦闘中の会話からしてそうだったかもしれない。まるで友人とふざけ合っているような会話を殺し合いの相手と交わせるその心情が、理解できなかった。
「あの」
 そして今の緑川は、理解できない事柄を理解しようと思えるほどの心の余裕も無かった。自分のやりたい事。自分の望み。殺し合いなどという非日常を目の前にしてしまっては、それらを自分から行動に移すという事だけで精一杯だったのだ。
「ん? よう、まだ居たのか不幸少年」
 首を傾け緑川を見た響は、笑みを浮かべたままそんな事を言ってのける。まるで緑川の存在などどうでもいいかのように。
「怒んな怒んな、冗談だよ。お前が目的で来たのに忘れる訳ねえだろ?」
 ――あれ、ボク今、怒った顔になってる?
「にしても可愛らしい顔だよなー……いや待て待て、これは怒られても、本当だっつの」
 こちらに対して怒りの感情が湧いた事は、はっきりと理解できた。しかし悪人相手に怒るというのは、相手が動けないからと強気になっているのかもしれない。それはどこか嫌な感じがしたので、一旦口を休めて深呼吸。
 そして、問う。
「どうしてボク、狙われてるんですか?」
「悪いな。そこんとこは俺、知らねえ」
 あっさりしたものだった。あっさりし過ぎて、疑う気にもなれなかった。
「緑川、それはこちらで訊き出す。お前はもう家に」
「最後まで居させてください」
 これではあまりにも道化。あまりにも惨め。あまりにも無力。
 事件の中心でありながら自分が狙われた理由さえ分からず、そのうえ自分で行動する事もできない。行動できないが故に、事が済めば帰るように言われる。
 分かっている。帰るように言ったのは金剛の気遣いだ。決して邪魔者扱いをした訳ではないだろう。……彼は自分の優しさを「彼女」の真似事だと評したが、とてもそうは思えない。
「見届けないと不安なんです」
「……まあ、構わんが」
 嘘だった。無力な自分を曝け出さないための嘘だった。見届けようが見届けまいが、あんな容赦の無い戦闘を行える者に狙われて不安が消える筈が無いのだ。
「そうだな、両腕がこれでは連絡もできんし」
 両腕が機能していない金剛。相手を確保したのなら誰ぞ仲間に連絡を入れなくてはならないのだろうが、それもままならない。という事で、それを緑川がここに残る理由としてきた。
「なら緑川、俺の携帯を出してくれんか。胸の辺りに裏ポケットがある」
「あ、はい」
「……気持ち悪いだろうが、すまんな」
「いえ」
 腕から血を吹き出させたために金剛の神主衣装は血染めであり、そのうえ左手にいたっては切断されてしまっている。その見た目、そして臭いに、平気だとはとても言えない。だが、かと言ってまるで駄目だという訳でもなかった。戦闘中からずっと見ていたにしても、自分で不思議に思うくらいであった。
 ――これも、強がってるだけなのかな。
「こういう時は普通無線の状態で繋ぐんだが、ボタンを押せないんじゃあ今回ばかりは仕方ない。灰ノ原に繋いでくれ。普通の携帯電話と使い方は同じだ」
 仕事の話は無線機能を使う。緑川もそれは知っていたが、手を使えない状態の金剛が返事の度にボタンを押さなくてはいけない無線機能を使うのは骨が折れるだろう。自分が代わりに押すにしても、身長差があり過ぎて結局はやはり骨が折れそうなのだった。
 普通の携帯電話と使い方は同じ、という事でアドレス帳を探してみる。あっさりと見つかる。その中から灰ノ原の名を探す。どうして灰ノ原なのかは分からないが、これもあっさりと発見。発信するところまで操作してから、携帯電話を金剛の耳辺りに差し出した。そして金剛はそれを耳と肩で挟む。
「――おう、俺だ。終わったぞ。――ああ、緑川は無事だ。だが俺が腕をやられてな」
 そこで響が「ケハハ」と笑った。金剛はそれをじろりと見下ろすが、話は続ける。
「それでお前に来て欲しいというわけだ。――ああ、まるで動かん。今話しているのも緑川の手を借りてやっとだ。――ああ、頼む」
 そこまで言って、金剛は傾けた首を戻した。折り畳み式である携帯電話は、開かれたままバランスを保って肩の上。
「終わりましたか?」
「ああ。二分ほどで着くそうだ」
「そうですか。……どうして灰ノ原さんなんですか?」
「連絡を取ってないから実際のところは分からんが、恐らく他は全員地獄に行っているだろう。……そう言えば詳しくは言っていなかったが、こいつの部下が他の鬼全員の家に向かっていてな」
「ああ、そう言えばちらっとそんな話」
 ――確か、あれは情けなさ過ぎるだとか。という事はみんな無事だったんだろうけど……。
「灰ノ原のほうは桃園に後始末を全部任せたらしい。まあ、色々あってな」
「そうなんですか」
 我侭を言うなら黄芽や白井の顔を見たいところではあったが、それはまさしく我侭でしかない。ちなみに金剛が省略した色々の内容も聞きたいところではあったが、緑川は「本人がそれで済ませるならそうしておこう」と考えた。金剛自身は平然としているものの、負っているその傷は明らかに重症だったからだ。こうして話をしている事自体、無理をしているのかもしれなかった。
「なんだ、また鬼が来んのか? ケハハ、どんな奴か楽しみだな。闘えねえのは残念だけど」
 一方で、響は遠慮をしなかった。金剛以上の怪我(普通の人間なら笑いながら会話などしていられないだろう)をしている彼に遠慮を臨むのも妙な話ではあったが。
「後ろ」
 金剛が前方を顎で指す。それは響にとっての後ろ、と言うより頭上であり、「あー?」と声を上げながら頭を上下逆にしてそちらを向く。するとそこには、
「やあ、初めまして」
 車椅子に座ってぼろぼろの白衣に身を包み、度のきつい丸眼鏡をかけて口をにんまりと横に開いた、いかにも胡散臭い男が一人。
「……あれ? 二分ほどって今……」
「ンヒヒ、嘘ついた」
 見るからに一般人でない彼を響は一目で鬼だと断定したらしく、予定時間より大幅に早く到着したその男に、驚きを取り繕おうとしない。突然の出来事にそんな暇が無かっただけなのかもしれないが。
「嘘って……いや、て言うかじゃあ、いつの間に? 全然気付かなかったぞ俺。そんな音立って当たり前みたいなのに乗ってるくせに」
「そこは企業秘密」
「……あー、なんか闘っても面倒臭いだけっぽいなお前」
「おや、センス良いね君。多分正解だと思うよ」
 車椅子の上から地面に仰向けの響を見下ろしていた灰ノ原はそこでくいと顎を上げ、金剛を見遣る。
「そのうえ中々お強いようで。金剛くんがここまでボロボロになっちゃうとはねえ」
「あまり言ってくれるな、灰ノ原」
 腕が動いたのなら頭でも掻きだしそうに、バツが悪そうな金剛。もしかしたらそこを突かれないためにずっと響と気の抜けた会話をしていたのかも、と緑川は邪推する。邪推だと自分で気付いているからには、それは振り払うべき考えであったが。
「でもまあ本気出してたら体半分千切れて潰れてただろうしね、この殴り方じゃあ。相変わらず手加減かい? 変わってるね君は」
「……残念だが、手加減は殴る際の力だけだ。その瞬間以外は本気だった」
「ほうほう、それはそれは」
 灰ノ原のにやつき加減が増し、足元から「ケハハ」と笑い声。敵にも味方にも同時に笑われた金剛は、バツが悪いを通り越して不機嫌そうな顔になった。そしてそんな奇妙な状況に、緑川は反応に困ってしまう。
 ――まさか、灰ノ原さんとこの人に合わせて笑う訳にもいかないし。
「――あ、紫村くん? こちら灰ノ原。主犯格捕まえちゃったから許可取ってもらって。位置は現在地のまんまね。どうぞ」
 最後に「どうぞ」と付けたからには先程金剛が避けた無線機能を使用中なのだろうが、しかし通信内容がそれらしくない。灰ノ原が「それらしい」言葉遣いをしているところは想像し辛いとは言え、実際のところそれはどうなのだろう。どうなのだろうと言ってどうなって欲しいのかもよく分からなかったが。
「あーい、待ってるよー」
「おい、今のって『あっち』への道を開くとかその辺の話だろ? どれくらいで開くんだ?」
「んー、色々手続きとかあるからねえ。十分くらい?」
 途端、灰ノ原の背後の空間に巨大な黒い円形が。
「まあ嘘だけどね」
「何の意味があんだよさっきから……」
 呆れ返る響。どうやら金剛とは違って、こちらとは気が合わないらしい。
 それはともかくその穴のような空間こそが「あちら」への通り道であり、つまり響は今からそこへ連れて行かれる事になるのだが、
「これが……」
 緑川がそれを見るのは初めてであった。つい先日まで鬼達の仕事現場に居合わせる事すらなかったのだから、当然と言えば当然であるが。
「入るなよ緑川。指の先だけでもあっちに入ったら死んだ事になるからな」
「は、はい」
 今ここに居る者達を見ていると死者と生者の差というものが分からなくなってくるが、しかしそれでも死というものは、一生物として本能的に忌避してしまうものである。不注意で入ってしまうという事が千鳥足の酔っ払いでもない限り在り得ないとして、それでも一歩後ずさってしまうのは、その表れなのだろう。
「あの、それで、本当に頼んでからこんなに早く出てくるものなんですか?」
「手続きはあるけど、大抵こっちが仕事に入った段階から進めちゃうしねえ。つまり紫村くんが、頼めばすぐ出せるような状態にしてくれてるって訳」
「へー。……って、あれ? じゃあ紫村さんと話してたのは?」
 事実がそうであるなら、紫村と灰ノ原の会話が事実と反している事になる。だったらあの会話が本当は嘘で、灰ノ原の一人芝居だったのではないのか。そうも思ったが、会話後に穴が開いたのも事実なので、では一体? と内心首を捻る緑川。
 すると灰ノ原、楽しそうにへらへらしながら携帯電話をへらへらと宙で揺らす。
「いやあ、紫村くんってノリがいいよね。突然あんな事言っても察してくれるんだもん」
「それはお前がいつもそんなだからだろう」
 即座に突っ込みが入ったが、それでも灰ノ原はへらへらしたままだった。
「なあおい、ところで俺はいつまで寝っ転がってりゃいいんだ?」
「ああ、ごめんごめん。あんまり大人しくしてるもんだからついうっかり。ンヒヒ」
「立ってもいいってんなら立つぞ。ずるずる引っ張られて連れて行かれるなんて願い下げだしな」
 どうやら響、立つ必要が無いから寝転んだままなだけであったらしい。そのように口走り、鬼二人に見せ付けるようにゆっくりとではあるものの、あっさり立ち上がってしまった。
「動いたら踏むぞってな目で睨んでんだもんな、ずっと」
「当たり前だ。緑川はもちろん、一般人がそこらに居るんだからな」
 ――あ。
「ん? どうしたのかな緑川くん、突然不治の病だと宣告されたような顔しちゃって」
 その表現は果たして適切なのだろうかとは思ったが、とにかく緑川は金剛の一言にはっとした。そう、ここは学校。当たり前だと言われればそれまでなのだが、すっかり忘れていたのである。
「いや、喋ってたの全部独り言になっちゃうなって」
 キョロキョロと周りを気にし、それで周囲に人が居ない事が分かり、それでもやや声を落として言う。緑川以外の大多数の人間にとっては、ここに揃った怪しい男三名は存在していないのである。彼等が幽霊であるが故に。
「大丈夫だよ。誰も君の事なんか見てないし」
「はあ」
 現在周囲に誰も居ない以上、灰ノ原の言葉を信じるしかない。嘘である可能性も大いにあったが、どうせ裏は取れないのだ。
 誰も自分を見ていない、というのはやや寂しい響きでもあったが。

「じゃ、行きますか」
 付近の地面に落ちていた響のナイフ二本、それに穴の開いた金剛のフライパンと切り飛ばされた左手を回収した灰ノ原は、それらを膝の上へ適当に重ねた後、懐から手錠を取り出して響に装着。そして嵌められた手錠の前に携帯電話を持ってきたのち、カチカチと操作を始める。
「知ってるかどうか知らないけど、一応この手錠、鬼道を使えなくしちゃうんだよね。と言ってもまあ悪用を防ぐためにこうやって色々コチョコチョしなきゃならないんだけど。んで、そこんとこオッケー?」
「知らねえけど、今更どうでもいいな。つうか『オッケー?』とか訊くなら掛ける前に言えよ」
 口調はぶっきらぼうながらも大人しくそれを受け入れた響はこれから、灰ノ原の同伴は付くものの、自分の足で「あちら」への穴に進み入る事になる。
「少し待っていれば帰り道の供に誰か寄越すが、どうする?」
 怪我の治療をしなくてはならない金剛も灰ノ原と一緒に行く事になり、別れ際にそんな提案を持ち掛けてきた。
「いえ、一人で帰れます」
 やっぱりこの人の優しさは真似事なんかじゃないな、と思いつつ、それでも緑川はその話に断りを入れた。ここへ来てもやはり意地になっているのだ。何もできず、何も知らないまま、事件の中心にいるという自分に対して。
「安心しな不幸少年。今回のは半分俺の独断みてえなもんだし、暫らく今日みたいな事はねえだろうよ」
 左側がやや撫で肩になっているような響は、最後の最後にそう言ってきた。
 今回の出来事の主犯である男からそんな事を言われても、どう反応すればいいか分からない。灰ノ原のように嘘を付いているだけかもしれないし、そもそも「暫らく」というのがどの程度の期間なのかすらはっきりしない。だから緑川は、黙して何も返さなかった。言葉も仕草も。
「じゃ、頑張って生きろよ」
 最後の最後の最後、緑川に背を向けた響は、長い黒髪――今となっては所々に血の赤が付着してしまっているそれを左右に揺らしながら、そう言って黒い穴の中へ姿を消した。鬼二人と共に。
 ――あの人、本当に悪い人だったんだろうか。
 つい、そんな事を考えてしまう。考えるまでもなく悪人であるのは自明だと言うのにどうしてそんな事を思ってしまうのか、自分でもよく分からなかった。


 緑川と別れてから、どれだけ経ったか。一時間というところか。
 内側には大量に縫い込まれたナイフカバーと、そこに挿されたナイフ群。一旦手錠を解かれ、そこらの棚に置いてみれば「がしゃり」と音がするそんなダッフルコートを脱いだ響は、実際に彼を確保した金剛の立会いのもと、殺風景な取調室に押し込まれていた。
 緑川が現在進行形で求道に狙われている以上、情報を引き出すのは少しでも早いほうが得策。それが確保直後に傷を治療してまで響の取調べを始めた理由である。
 結局のところ緑川が狙われる理由を「知らねえ」としか答えなかった響は、机を挟んで正面に座している取調官から顔を背け、響と同じく治療済みな腕を組んで壁にもたれている金剛へ問い掛けた。
「んな事よりよ、一つ訊きてえんだけど」
「なんだ」
「右腕に氷張った後、お前何か俺の顔にぶつけたよな? あれ、何だったんだ?」
「今はそんな話をしていない」
「どうせここ出たらお前にはもう会えねえんだろ? 大丈夫だよ、知ってる事は全部話すから。俺、あそこに入ってたのはただの暇潰しだし」
 ふう、と溜息をつく金剛。体が大きい分、その動きも大きかった。
「袂に積もった雪に氷を張ったものだ。……いや、触れた時点で溶けるから正確には水滴か」
 金剛は右腕を水平にし、下へ伸びるように垂れた袂をふらふらと揺する。
「こんな形だからな。振れば遠心力で飛んでいくという訳だ」
「なあるほど。で、いつ雪に氷張ったんだ?」
「右腕に氷を張る時、肩まで袖を捲っただろう」
「ははあ。そう言えば」
 響は実に楽しそうだった。これから――まだ刑期は定まっていないが、少なくとも十年以上にはなるだろう。それだけの期間を牢獄で過ごす事になると、本当に理解しているのか疑わしくなるような態度であった。
 しかしそれは、知った事ではない。理解していない筈もなく、つまりこういう男なのだろう、と。
「俺からも訊きたい事がある」
 取調官から呆れるような目線を向けられたが、響本人は「おう、なんなりとどうぞ」と。
「二日前、お前の仲間と思われる三人組は俺の同僚から逃げおおせた。どうやら鬼道を使っての事らしいが、ならばお前はどうしてあっさりとここに居る?」
 響、「ケハハ」と肩を揺らす。彼の座るパイプ椅子がそれに合わせてギチギチと音を立てた。
「お前、あん時ぽろっと言ってたろ? 俺には友達いねえんだよ。同じ組織の仲間はいてもな」
 実に楽しそうであった。

「どうかしましたか、求道さん」
 体の前面がアクセサリーだらけな男は、その割にストラップ等の装飾品が一切付けられていない携帯電話の呼び出しに答えた。
 男はとある公園のベンチに腰掛けていた。積もった雪にはしゃいでいた子ども達もそろそろ家へ帰るような時間となり、ちらほらと公園を後にする小さな背中が見え始める中、それにやや名残惜しそうな視線を送りつつ、ベンチの裏に置いてある巨大な金鎚に手を伸ばした。
『響くんがやられたようだ。監視役からそう報告が入った』
「……そうですか」
 伸ばした手は、何も掴まず元の位置へ。どうやら呼び出しではないらしい。
『おや、少しだけ返事に間が空いたな。――くくく、これは意外だ。きみなら喜びさえすると思ったが』
「確かに俺は、あいつがとんでもなく嫌いです。昔の俺を見てるみたいで吐き気がする。……でもあいつ、強い事は強かったですから」
 暫し、沈黙。それは穂村弟だけの話ではなく、電話の向こうの求道もまた、口を噤んでいるらしかった。そして、
『無理だと思うなら、付き合ってくれなくてもいいのだよ? 相手は手強い』
 それに対する返答は素早い。
「いえ、付き合います。まだ俺が弱いってんなら鍛えてでも、求道さんについて行きます」
『すまないね』
 再び沈黙。だが今度は言葉に詰まったのではなく、頭に浮かんだ文章を実際に口にするかどうかで迷った事による沈黙であった。求道のほうは、穂村弟の言葉を待っていただけなのかもしれないが。
「姉さんは近くに居ます?」
『ああ。代わるか?』
「いえ、じゃあ、姉さんに聞かれないようにしてください」
『くくく、なんだ逆だったか』
「……………俺に声掛けるくらいなら、姉さんにお願いします」
『姉思いだな、きみは』
「ただの罪滅ぼしです。俺が響の野郎みたいだった頃の」
 見方によっては求道からの連絡が煩わしい、という話にも受け止められるそんな会話。だが、そうはならない。今更そんな注釈を入れずとも真意が伝わるような、彼等の関係はそういうものだった。
 ――しかし、言っておきたい言葉というものもある。響が捕まって弱気になっているのか、と自分に問い掛けながらでも。
「求道さん。もし目的が達せられなくても俺と――特に姉さんは、求道さんの事を」
『くくく。不吉な事を言うな、由也くん』
「……すいません」
『だがここは、ありがとうと言わせてもらおう』


 夜。取調べはまだ終わっていないが、今週は自分とシルヴィアが仕事を担当する週であるという事で、金剛は自宅へ帰ってきた。自宅門前の空間にぽっかりと開いた、黒い穴を通って。
 開いたままの携帯電話に「通行完了」とだけ言葉を送り、今通ってきた穴が前触れも後触れもなく消失するのを確認し、折り畳み式の携帯を閉じる。
 踵を返した金剛が自宅のドアをすり抜けて中に入ると、
「鎧、お帰リなさイ!」
 表向きには「誰も住んでいない」ので、電気が通っている筈も無くそこは暗い。そんな中、ただいまを言う暇すらなく、シルヴィアに飛び掛るようにして抱き付かれる。ずっとドアの前で待っていたのだろうか、とも思ったが、それ以外の感触に足元を見てみれば、侍人形と兵士人形も、足に抱き付いてきていた。そしてシルヴィアの肩からマスターが「お帰り、鎧」と。それらを確認し、少し遅れて言う。
「ただいま」
 だが、言うだけだった。抱き付いてきたシルヴィアに何をするでもなく、そのままぶら下がられるままに立ち尽くす。
「……ああ、鎧、怪我シたんダね? ワタシそんな事、気にシないのニ」
 ちなみに、ぶら下がると言っても足は床に届く筈なのだが、シルヴィアは足に力を入れていなかった。
「お前がどうこうじゃない。ただの俺の勝手な決め事だ」
「うん、知っテる」
 付き合いは長い。そのうえ深い。今更説明せずともこちらの言い分などお見通しであるだろう。だがそれでも、過去にしたのと同じ説明を繰り返す金剛に、シルヴィアは毎回嬉しそうな笑顔を向けてくる。
 むしろ説明を聞きたいと思っているのだろう。そう考えると金剛は、シルヴィアを抱き返したくなった。もちろん決め事がある以上、そうはしないが。
「お前こそ怪我はしなかったのか?」
「すると思ウ? ワタシ、そンなに弱くなイつもりダよ?」
「そうだぞ鎧。みくびられては困る」
「いや、分かっていて訊いたんだがな」
 相手は響の部下の黒服三名だった。あれしきの相手があれしきの数では、シルヴィアに触れる事すらままならなかっただろう。身体のしなやかさと敏捷性において、彼女はこの地域に配属された六名の鬼の中で一番なのである。鬼道による「数」に次いでその点が、彼女が対集団戦を得意とする理由なのだから。
 ――相手があれでは、本領を発揮するまでもなかったかもしれないが。
 抱き付かれているのは構わないとしても、玄関に立ったままでいることはないだろう。金剛はぶら下がったままのシルヴィアと人形二体をずるずる引きずりながら、居間へ進む。適当な位置に腰を降ろすと、シルヴィアは寄り添うようにしてその隣へ。人形二体はシルヴィアの膝へ。
「それで、相手はどんナのダったの? 鎧に怪我させるナンて、どんナゴリラ?」
 俺を前にしてゴリラか、とも思ったが、自分で認めるようなのでそれは言わないでおく。
「何でも切れるナイフ使いだ。鬼氷すらも豆腐みたいに切ってきてな。……ちなみに体型は普通だ」
「へー、凄いのモいるもんだネえ」
「くわばらくわばら」
 シルヴィアとマスターの口調はのんびりしたものだった。そんな口調でいられるのは金剛を信頼しているからか、それともあまり関心がないからなのか。当然正解は前者であり、金剛にとってはそもそも選択肢が前者しか存在していなかった。
「どんナ人だったノ? 千秋を狙っタ理由は……分からナイってさっき言ってたケド」
「ああ、結局分からないままだ。嘘をついているというふうでもなかったしな」
 今日の時点で響から聞き出せた事は、既に携帯電話を使ってこの地区の鬼全員に報告済みである。口頭で伝え切れたのは、収穫が少なかったという事の裏返しでもあったが。
「しかしあいつ本人は分かりやすい奴だった。幽霊の基本的な考え方をそのまま実行しているような男だったな」
「基本的? 悪人なのにか?」
 マスターが疑問を呈す。それに答える金剛は、嫌悪や侮蔑といった負の感情を浮かべなかった。
「要は後も先もなければ現在の自分を縛るものすらなく、本当の意味で自由になってしまったという事だ。そこで修羅なんぞになってしまえば、得た力を振り回さずにはいられないだろう。鬼道まで持つとなれば尚更だ」
 死に、世界との接点を無くし、それでも世界に残ってしまった者達。自分が何を成すべきか、誰からも教えてもらえなくなった者達。その状態で清く正しい生活を送り続けられる者が、果たしてどれだけいると言うのだろうか。
 当然、今回の響のようにまでなってしまう者はそれほどいない。だが、鬼の仕事は無くならないのだ。比較的平和でかつあまり大きいとは言えないこの町においても、鬼は配備されなければならないのだ。
「しかしそれは君も、それにシルヴィアも同じだろう。幽霊で、鬼だ。修羅同等の力がある」
「だが俺には縛りがある。自分で決めたものから他者に決められたものまでな」
「鬼になった理由、か?」
「それもあるし、加えて鬼という職業そのもののルール、悪人を捕まえるというものもある。だが一番はそれらではないな」
「ではそれは?」
「惚れた女が、一見馬鹿に見えるほど良い奴だった。俺はそれに合わせる事にした。だから悪人にはなれん。力があろうとなかろうと」
「なるほどな」
 マスターが納得すると、それまで二人の談話を黙って聞いていたシルヴィアはくすぐったそうに笑みを零し、その頭を金剛の肩にもたれさせてくる。しかし自分で作り上げた縛りにより、その頭を抱き寄せる事はできない。だがその程度、一人の女を愛するという巨大な縛りの前において、苦にはなり得なかった。
「……………」
 肩から腕に掛けての温かみと重みを愛しく思いながら、金剛は思い出していた。
 あの男は言った。仲間はいるが友達はいないと。言い換えれば親しい者がいないと。そう言うのならば、自らを縛るものを意識的に排除していたのかもしれない。とするなら、一人の女性に入れ込んでいる金剛は愚かに見えたのかもしれない。だが、
 ――誰からも縛られない生き方など、俺は真っ平御免だ。

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