時間は前後して、緑川家前。学校で金剛達と別れ、真っ直ぐここに戻ってきた緑川は、二階の窓からこちらを見下ろす赤と青に手を振っていた。
「千秋お兄ちゃん、おかえりなさーい!」
「おかえりなさーい!」
 辛い事があった。酷い光景も見た。二日前にも似たような状況におかれたとは言え、やはり今回の出来事は非日常的なものであると言えるだろう。二度目程度で慣れる訳がない。
 むしろ今日と二日前の記憶が一度に蘇ってきたせいか、ここまでの帰り道で緑川は嘔吐しそうになっていた。いっそあの時吐いていれば楽になったのかも、と思う反面、それが無しでもなんとか持ち直した自分に、ある種の誇らしさも感じていた。
 ――その程度で何言ってんだお前、とか言われそうだけどね。千尋さん辺り特に。
「千尋さんと修治くんはまだ戻ってきてないの?」
「うん」
「まだだよー。修治お兄ちゃん、オセロは置いていってくれてたけど」
 この二人がここにいる以上、仕事が終わればあの二人はここへやって来るだろう。そんな示し合わせた訳ではない、しかし確実と言える予想を持ちながら、緑川は自室でオセロをしていた双識姉弟に対面。
 やはりこの二人が一緒だと、頭の中の嫌な事がなりを潜めてくれる。そんな事を考えながら盤面を検めてみると、どうやら今のところは白の優勢らしい。駒の数自体もそうだし、何より角を一つ取っている。さて残り三つの角はどうなるか、などと思いながら次の一手を待っていると、難しい顔をした赤が黒の駒を盤面の上空であっちへこっちへ。その迷っている様子に頬を緩ませていると、机の上に置いてある緑川の携帯電話が鳴り始める。
 緑川の高校は校則として携帯電話の持込が禁止であり、守る者と守らない者が半々程度のそのルールを、緑川は律儀に守っているのであった。
「あ、そう言えばね、何回か鳴ってたよ電話」
「え、本当に?」
 うー、と唸る赤を前に余裕の表情の青が、お留守番中の出来事を伝えてきた。
 帰る途中で忘れ物に気付き、それを取りに戻って再度帰ろうとしたところで響と金剛が現れた。全て含めれば合計一時間程度、いつもより余計に学校に居た事になる。青の「何回か鳴っていた」という証言がその一時間以内の出来事であるなら、時間に対する呼び出しの頻度はかなり高めか。
 何か急ぎの用事だったりするのかもしれない、と緑川はやや急ぎがちに携帯を手に取り、画面を確認。そこには電話が三件あった事を知らせる表示があり、ボタンを一つ押すと、それらが全て水野からのものであると知らせる表示が。
「友達?」
「うん、友達の女の子」
 まだ次の一手を決められない赤に対して既に勝ち誇ったような顔を作り上げ、そのままの表情をこちらに向けてきた青に対して、緑川は相手が女子である事までを告げる。それは、「これが黄芽相手なら何を言われるか分かったものではないが、この二人にならそこまで教えても問題はないだろう」という判断からであった。
「帰る時、ボクと一緒に居たでしょ? ドレスのほうじゃなくて」
「ああ、うん。優しそうなお姉ちゃんだった」
 肯定の意味を含めた笑顔を青に向けつつ、電話を掛けて来た相手、その優しそうな人へ、今度はこちらから掛ける。
『やっと帰ってきたあ? 忘れ物取りに行くだけにしちゃあ、えらい時間掛かったねえ』
「まあ、いろいろあって。それで何か用?」
『いやいや、特に何もお。なんとなく掛けてみただけだよお』
「それで三回も掛けちゃう? しかも結構短い間に」
『だってあたし、千秋の事大好きだしい』
「あはは、またそんな反応に困るような事言わないでよ。ボクだって好きだけど」
『小さい頃からずーっと一緒だもんねえ。だからあたし、千秋の事なら何でも知ってるよお』
「例えば?」
『今まで何人の男の子に本気で好きになられちゃった、とか』
「やや、やめてよ……いいよそんな事知らなくて」
『そう? じゃあ千秋い、千秋はあたしの事どれくらい知ってる? 逆にさあ』
「ええ、急にそんな事言われても……。うーん、好きな食べ物とか」
『あはは、普通だなあ。そういう普通なところも大好きだよー』
「褒められてないような気がするんだけど」
『まあ気にすんなってえ。そんでさ――』

『じゃあまた明日ねえ』
「うん、また明日」
 他愛のない、しかし掛け替えもない世間話や冗談を言い合い、それが終わりを迎え、緑川は携帯を畳む。そしてオセロ続行中の赤と青を見遣る。電話の向こうにも、そしてこの場にも、自分を励ましてくれる存在が居てくれる事が実感として浮かび上がる。それは裏返せば自分がまだ励まされるような状況にあると自覚しているという事にもなるのだが、しかしそれでも緑川は嬉しくて仕方がない。
 もしこの時外から呼ぶ声がしなければ、赤と青の頭を唐突に撫でていたかもしれなかった。
「おーい! 帰ったぞー!」
 仕事帰りに酒を飲み、声のボリュームが調整できなくなっている大黒柱のような大声。しかしそれは口調の割に女性の声であり、つまりは。
『おかえりなさい、千尋お姉ちゃん!』
『おかえりなさい、修治お兄ちゃん!』
 ギリギリ顎が乗せられる程度の高さにある窓の縁から、双識姉弟が外を覗いて元気良くお返事。もちろん緑川もそれに倣うが、階下の様子を確認すると、やや戸惑ってしまうのだった。
 だがどちらにせよ、今は家に母親がいる。幽霊相手に大声を出す訳にはいかず、いつも通り無言のまま、黄芽達に中へ入ってもらうのだった。

「いやー、終わった終わった」
「僕は今回何もしてませんから、楽なものでしたよ」
 当て付けの様にそう言った眼鏡は即座に小突かれたりしていたが、緑川の目はそちらを向いていなかった。
 ――どうしてこの人が、千尋さん達と一緒に?
 黒い長髪、黒いドレス、そして黒いハイヒールを右手の指にぶら下げて。
 学校の帰りに出くわしたあの女性が、どうしてだか今ここに居るのだった。
「また会いましたわね。親切で可愛らしい男の子さん」
 あの時は黄芽が連れて行ってしまったが、結局彼女は何者なのだろうか。まさか今回の件に関係している……いや、それなら黄芽と白井がここへ連れて来るはずがない。だったら一体?
「可愛いは余計ですぅ」
 頭が軽く混乱し始めながらも反論だけはきっちりと返しておく緑川。その時初めて、今気付いたと言わんばかりに黒淵へ駆け寄る赤と青。
「その服、いいなあ。赤も着てみたい」
「お姉ちゃん、やっぱり千尋お姉ちゃんのお友達なの?」
 すると黒淵は――と言っても赤と青、そして緑川もまだその名前を知らないのだが――たった今緑川にさらりと嫌味を言った穏やかさはどこへやら、急に顔を強張らせる。その事は誰の目にも留まるほど露骨なものであったが、一番早く反応を示したのは白井であった。
「どうかしましたか?」
「いえ、あの、小さい子どもは苦手で……」
 助けを求めるような情けない顔を白井に向ける。が、その小さい子ども二人も悲しそうな顔になってしまった。
「赤達の事、嫌い?」
「お話するの、嫌?」
「そ、そういう意味ではないのですけど。ああ、あたくしはその」
 苦手がイコールで嫌いになる訳ではない。怖がるように一歩後ずさる赤と青に黒淵は動揺し、そして動揺のあまりにそれを隠す事すら忘れているらしい。そんな様子を見る限り、彼女はどうやらただ「どう接したらいいのか分からない」というふうであった。
 しかし赤と青にはそこまで読み取れないのだろう。しょげたような顔で俯いていると、その二つの頭へ黄芽がぽんぽんと手を乗せた。
「嫌いじゃねえってよ、赤も青も。じゃあ、そうだなあ」
 何かを探すように部屋を見渡した黄芽の目が、ゲーム途中のオセロ盤を捉える。
「オセロの途中だったんだろ? あの姉ちゃんの相手してやれ」
「あ、うん」
「じゃあお姉ちゃん真っ黒だから、黒のほうね」
「え、ああ、構いませんわよ」
 ――真っ黒だからとは言うけど、黒って負けてる側じゃなかったっけ。
 実は赤にも青にもオセロで勝てた試しが無かったりする緑川は、オセロ盤に向かう黒淵に少し同情。だがそれはいいとして、黄芽と白井には訊いておかなくてはならない事がある。
「あの人って結局誰なんですか?」
 自室にまで入れておいてからこんな質問をするのは妙な話かもしれなかった。が、それでも知らないものは知らないのだ。
「その前に、まずは無事で何よりです」
「あ、うん。……そうだ、金剛さんにちゃんとお礼言ってないや」
 今から考えれば可笑しな話だが、あの時の自分は何もできなかった事が悔しくて仕方がなかった。加えてどうしてだか自分を狙って現れたコートの男が悪人だとは思えず、そのせいか「お礼を言う」という発想が出てこなかったのである。今からすれば、失礼極まりない話であった。
「それは明日でもいいだろ。旦那、んなこたあ一言も言ってなかったしな。んでそっちの真っ黒女だけど」
「し、失礼ですよ黄芽さん。一応は目上の人なんですから」
 黄芽の言葉に白井が慌て始め、当の真っ黒女はというと、オセロ盤の前から黄芽を睨んでいた。しかし赤と青の事を思ってか、睨むだけで物言いは付けてこず。
「関係ねえだろ部署が違うんだし」
 緑川にはよく分からないが、部署が違うという事は彼女も鬼ではあるのだろうか。緑川はまずその辺りを尋ねてみようとしたが、黄芽がそれに先回り。
「って訳で、あいつは地獄のお偉いさんだ。こっちで言うなら刑務所の所長ってとこか」
 非常に分かりやすい説明ではあった。だがあまりにも簡素でもあり、それが気に食わなかったのだろう。
「第四十三番獄獄長、黒淵芹! ですわ!」
 と声を荒げ、自ら名乗る黒淵。しかし次の瞬間、はっとしたように口を押さえ、恐る恐る顔を対戦相手の双子側へ。果たしてその双子の反応は「すごい!」「かっこいい!」というものであり、オセロについては開始時のリードなど考慮に入れない堅実な一手を打ちながらも、輝くような目を黒淵に向けるのであった。もちろんその肩書きの意味など、知りはしないのだが。
「あ、ありがとう」
 それはさておき。
「それって、こんな所に居てもいい人じゃなくないですか? よくは知りませんけど」
「長期休暇とって旅行中なんだと」
 あっさりと返ってきた返事の内容は、やはりあっさりとしていた。そう言われてしまっては、疑問が湧く余地もない。だがそこへ、白井が情報を付け加えてきた。眼鏡の位置を直しながら。
「で、ここらで一旦腰を落ち着けようと思われたんだそうで。それでどこかゆっくりできる場所を探す事にしたけど、地図すらない。というわけで現地の鬼、つまり僕達に会おうとしていたんだそうです」
「さすがは修治さん。黄芽さんの手抜きな説明とは一味違いますわね」
「いやあ……」
 うっとりしているような目付きをもって褒めてくる黒淵に、白井は頭に手を当てた。だがそれは照れている訳ではなく、その眼鏡の奥のびくびくと怯えるような目は、黄芽の方を向いていた。さてその黄芽の反応はと言うと、
「はん、赤と青がこの場に居て良かったな」
 ほっと一息。それは白井だけではなく、緑川も同様であった。
 そして同様である白井が寄り添うように近付いてきたかと思うと、こそこそ耳打ちを。
「黒淵さん、僕達と同じで喧嘩強いからね」
 そんな人がこんな所で黄芽と喧嘩を。その様子をシミュレートしてみたところ、青ざめる他ない緑川であった。
 ――部屋どころか家がピンチだよ、そんなの。
「それで、腰を落ち着けるっていう場所は決まったんですか?」
 自宅の危機を回避する意味でも話題を逸らしてみると、黒淵は渋い顔。
「それがどうも、いい場所が見付からないのですわ。空いている建物は夜行さん方が使ってらっしゃるようですし」
「でも、金剛さんとシルヴィアさんの家とかは結構空きがあると思うんですけど」
 それを言うなら黄芽と双識姉弟の廃工場、そして灰ノ原と桃園の廃病院もそうなのだが、どうにもお勧めはし辛かった。そこに住んでいる者達には申し訳無いが、ゆっくりと腰を落ち着けるには適していないように思えたのだ。なにせあれらは元々、人が住むための場所ではないのだから。
 それに比べて金剛達の住まいは、世間的には空家扱いであるとは言え人が住むための建造物である。二階建てのそれにはしかし現在二人しか住んでおらず、しかもあの二人の事、頼んで断わられはしないだろう。
「あら、そうなんですの? でもさっき訊いた時にはそんな話……」
 しかしどうやら、黄芽や白井的にはお勧めではないらしい。理由は分からないが、候補地として挙げられてすらいないらしかった。
「いや、その、……ねえ? 黄芽さん」
 黒淵から疑問の目を向けられた白井は、何やらあたふたと。そして黄芽に対して助けを求めるような仕草を見せると、その黄芽は赤と青にしばし目を遣り、それから黒淵に手招きをした。
「ちょっと来い」
 困惑したような表情を浮かべつつも、黒淵はそれに従う。オセロ盤から一旦離れ、ベッドに腰掛ける黄芽の元へ。
「耳貸せ耳」
 若干嫌そうに顔をしかめる黒淵であったが、これにも従う。そして黄芽からの耳打ちを聞き届け、顔を離すと、「それは仕方ないですわね」とあっさり納得。
 耳打ちされている間に黒淵が見せたはっとした表情が気に掛かる緑川であったが、自分で考えてみても見当は付かない。
「何だったの?」
 白井に尋ねてみる。すると白井、黄芽が黒淵にそうしたように耳打ちを。
「ほら、金剛さんとシルヴィアさんってラブラブじゃないですか。だからその、夜とか」
「……ひゃわわっ」
 意図せず妙な声をあげてしまう緑川であった。そう、彼等は夫婦。しかも戦闘中の会話で金剛が響に堂々と述べたように、その仲は熱い。本人の言葉を借りるなら「夫が妻を愛して何が悪い」である。
「ねえねえ」
 そこへ赤の幼い声がし、緑川の背中がびくりと跳ね上がる。そのおかげで確認するほどの余裕が緑川にはなかったのだが、緊張が走ったのは彼だけではなく。
 さて、もし今の話の内容を尋ねられたらどう誤魔化すか。誰もがそう考えたのだ。
「お姉ちゃん……えっと、芹お姉ちゃんだったよね? それで、お家探してるんだよね?」
「だったら良い所があるよ!」
 青が赤に元気良く続くが、それは果たしてどこなのか。黄芽や白井ですら答えが思い付かないような問題に、どうしてこの二人があっさりと答えを思い付けるのか。甚だ疑問な緑川であったが、彼らの用意した答えに興味もある。さて、どんな場所が飛び出すのだろうか。
「青達のお家! いいよね? 千尋お姉ちゃん」
 出てきたのは、緑川が口にするまでもなく対象外とした場所であった。しかしこの二人にとってはむしろ最良の場所であるらしい。
「マジか……」
 絶望したようにそう漏らすのは、千尋お姉ちゃんこと黄芽。そこへ黒淵、
「そう言えば、この子達はどこに住んでいるのですか? この部屋?」
「廃工場だよ」
「え? だってそこは貴女が」
「一緒に住んでんだよ、俺と」
 そこまで聞いて、黒淵はその顔にあからさまな不快感を浮かべた。つまりは黄芽が気に入らないのだろうが、緑川にはその理由が思い付かなかった。
 ――学校の帰り道で別れた後、二人に何かあったのかな?
 赤は黄芽に「だめ?」と。
 青は黒淵に「いや?」と。
 乞う様な表情とともにそう尋ねられた女性二人、困り果てた顔を見合わせる。
「でも、赤と青がそう言うならなあ……」
「え!? わ、わたくしは! ……うう、これだから子どもは苦手なのですわ……」
『やったー!』
 喧嘩が強い女性二人は、それに反比例するかの如く子どもに弱いようだ。黄芽については以前から知っていたが、黒淵もそれと同じように。
「ねえ修治くん、なんとなくだけど千尋さんと黒淵さんって似てない?」
「だから折り合いが悪いんでしょうね」
 そういうものなのだろうか、とも思ったが、折り合いが悪いのは先程当人が言っていた通り。他に判断材料もないので、そういうものなのだろう、という事にしておく。
「それは仕方ねえとしてもだ。てめえ、俺がそんなに気に入らねえか」
「そちらこそですわ。貴女にてめえ呼ばわり筋合いはありません」
 果たして本人二名は、その事に気付いているのだろうか。訊いてはみたいところであったがどうにも気が退ける――もとい、恐ろしくて尋ねる気になれない緑川であった。

 無事、と言えるかどうかはともかく、黒淵の住居が決定。新しい住人に早く我が家を紹介したいのか「帰ろう帰ろう」と双識姉弟がせがみ始めれば、黄芽がそれを断わるはずもなく、黒淵がそれを断れるはずもない。帰り際に一人一個のみかんを受け取り、四人揃って帰宅。
「では、少しばかり報告を」
 しかしその時、白井はまだ緑川の部屋に残っていた。この時点ではまだ響の取調べは継続中で、金剛も「こちら」に戻ってきていないのだが、それでも伝えられる事はある事にはあったのだ。
「うん」
 すぐ終わる、という事なのだろう。白井は部屋の出入り口の前に立ったままで話を始めた。
「今回千秋くんを狙った響という男、やはり二日前に現れた求道という男の部下だそうです。正確には、求道専属のボディガードみたいなものだそうで」
「え、じゃあボディガードがわざわざ一人で? 求道って人、今日は居なかったし」
 ボディガードという職業名を聞いて思い浮かべる業務内容と言えば、当然ながら要人の警護。だと言うのに今回現れた響は、自ら手下を引き連れて自分を捉えようと襲ってきた。緑川はそこに不合理さを感じたが、
「本人曰く、『最近暇だったから無理矢理仕事作って勝手に出てきた』だそうです」
 そう言われ、あの響という男の言動を思い返すと、それは充分に理解できる話であった。しかしこれですっきり納得、と思ったところへ、
「それについてちょっと意外な話が出てきまして……」
 白井が神妙な表情に。
「ボディガードだというのに、今回の彼は二日前のあの場には居なかった。護衛対象が出てきているのにです。変ですよね?」
「……そう、だね。暇だって言うならどうしてあの時出てこなかったんだろう?」
 もちろん、出てきて欲しかったと言う訳ではない。すぐに治したとは言え黄芽と白井が大怪我を負わされたあの場に響まで現れていたらと考えると、緑川は今からでも背筋が凍りつく思いであった。
「彼によると、穂村姉弟は求道のお気に入りなんだそうです。自分の仕事をあの二人に取られてばかりであの二人が嫌いだ、とも言ってたそうで。……それはどうでもいいんですが、あの穂村姉弟、求道や響とは組織的な繋がりがないそうなんです」
「え? それって……」
 数秒、考える。意外も意外で、思考がその内容についていけなかったのだ。
「それってつまり、全然関係がない人達だったって事?」
「個人的な知り合い、という事になるんですかね。とにかく穂村姉弟は、求道と響が所属している何らかの組織のメンバーではないそうなんです。それともう一つ」
「うん」
「千秋くんを狙ったのは組織としてではなく、求道個人の研究のためなんだそうです」
「……え?」
 もう、何が何やらであった。
 穂村姉弟はどうして求道と共に行動していたのか。
 求道は自分を捕らえて何をしようとしているのか。
 組織自体は何の目的で存在しているのか。
 一体の目的も全体の目的も、何一つ分からない。分からない事しかない。緑川には何らかの仮説を組み立てる材料すらなく、話を聞いてもただ呆けるしかない。
「僕達も今はこれだけしか分かりません。不安を煽っただけみたいになってしまいましたが――」
「い、いやあの、不安にすらなれないって言うか。だって、……ええ?」
 混乱。今の緑川にあるのは、それのみであった。頭の中が疑問符で埋め尽くされ、疑問がどうして疑問であるのか、それすら分からない状態。今日と二日前の事件の断片が散り散りばらばらに飛び交い、時系列の整理どころか断片の一つを摘み上げる事すらできない状態。誰が、なぜ、どこで、何を、どうやって、何のために、いつから――
「落ち着いてください、千秋くん」
 目の前には白井。場所は自分の部屋。外は暗くなり始めている。
「あっ。……う、うん」
 現実は何も変わっていなかった。何も変わってくれてはいなかった。結局混乱は混乱のまま、どこか頭の片隅に放置されているだけに過ぎなかった。
 肩に置かれた白井の手に気がついたのは、部屋の様子をぐるりと見渡してからだった。そして白井は眉を寄せ、何か分からない何かに対して怒っているような表情を作った。それがどうしてだかも分からなかった。
 しかしそれも短い間。見間違いだったのかと思うほどの短い時間を経て、白井は表情を柔らかくした。
「いい知らせが一つだけあります」
「なに?」
「暫らくは手を出して来ないんだそうです」
「そう……」
 にこやかにそう言った白井に、それ相応のつもりの返事をした。だと言うのに、白井は少し寂しそうな顔をした。それがどうしてだか、分からなかった。
「……それでは、僕もそろそろ。疲れたでしょうから、今からでも横になってゆっくり休んでください」
「うん。ばいばい、修治くん」
 白井は返事をせず、小さく頭を下げる動作のみを残し、部屋を後にした。
 自分が涙を流していると気付いたのは、五分ほどそのまま立ち尽くした後であった。
 どうして流れているのかも分からない涙を拭い、白井に言われた通りベッドへ横になる。そうしているうち、緑川は一つだけ思い出した。今回の件で確実な、たった一つの事を。
 自分は何も知れず、何もできなかった事を。
 しかしそれはただ確実なだけであって、緑川に何の影響も及ぼさなかった。腹を立てる訳でなく、悔しさを募らせる訳でもなく、仕方がなかったと開き直る事すらせず、ただ事実だけが頭に浮かんで、何も生まずに消えていった。
 何も生まなかった。何も生まなかったはずだった。だと言うのに、
 ――知らないできないじゃなくてさ、自分から動けよ。
 頭の中の誰かがそう言った。自分ではない。そんな筈がない。何故なら、何も生んでいないはずだから。
 恐らくそれは、混乱の続きだったのだろう。自分以外の誰かが自分の頭の中でものを考えるなど、在り得ないのだ。何も生まないというのは錯角、もしくは願望で、実際のところは悔しかったのだろう。事件の内側において、手も足も頭も動かせなかった自分自身が。
「だって、ボクは……」
 言いかけたその時、どこからか携帯の着信音が。水野へ掛けた後、どこへ仕舞ったか。
 ――そうだ、ポケットの中だ。
 取り出し、相手を確認。その相手は、またも水野であった。
『よっす。なんか微妙に暇だったからまた掛けちったあ。んへへー』
「澄ちゃん……」
 腰から砕けてしまいそうな、いつもの声。それを今、瞬間的に頼もしく感じたのはどうしてだろう。緑川には分からなかった。
 分からなかったが、これまでのそれとは違って心地良い「分からない」であった。
『おう、澄ちゃんだぞう。……あれ? 千秋、もしかして元気ない?』
「そんな事、ないよ」
 そんな事はない。それは半分本当で、半分嘘。元気はないが、無くした元気は今、じわじわと湧き上がってきている最中である。どうしてかは、言うまでもないだろう。
『そっかあ、元気ないのかあ。どしたん? さっき掛けた時はなんともなかったじゃんよお』
「……ちょっと、ね。いろいろあって、頭がこんがらがっちゃって」
『あー。あるよねえ、そういうの。あたしもたまに頭がわーってなっちゃうよお』
「澄ちゃんが? 嘘だあ」
 水野の言った事が可笑しくて、つい口調が弾んだ。その事が可笑しかった。
 もっともっと可笑しみを重ねたい。そう思った。だから、話を続けた。
『千秋に嘘なんかつかないよお。秘密はあるけど、嘘は絶対に言わない』
「……じゃあさ、澄ちゃん。こういう時、澄ちゃんはどうするの?」
『寝る。食べる。お風呂に入る。お爺ちゃんお婆ちゃんとお喋りしてみる。教科書を開いてみる。明日の準備をしてみる。テレビを見てみる』
「あはは、どれが本当?」
『全部本当だよお。嘘は言わないって今言ったばっかじゃんかよお。そういう時はね、考え込まない事。何でもいいから何かして、頭を切り替える事』
「へえ。……そうだね、効果あるみたい」
『ん? 今、何かしてるの?』
「澄ちゃんと話してる。……ありがとう、元気になったよ」
『んへへ、どういたしましてえ』

 それから暫らく、前回の電話と同様に雑談で盛り上がったりしながら、電話を切る頃――いや、電話の最中から、頭の中の誰かの気配は消え失せていた。
 気分は晴れやか。つまり、これで良かったのだろう。どうしようもない事に悩んで別れ際の白井にあんな顔をさせ、水野に気を遣われるくらいなら、初めからこれで。
 助けてもらってばかりの一日だった。自分で抗う事のできない事態については誰かに助けてもらうしかないが、もし誰かに助けを求められたりしたらその時は、今日自分がしてもらったようにその人の事を助けよう。
 その日がいつ来るかも分からなければ、本当に来るかどうかも分からない、加えて言うなら自分に何ができるのかも分からないが、それでも。
『じゃ、頑張って生きろよ』
 最後にそう言い残して行った、あのどこか悪だとは思い切れない男。
『お前だって幽霊なら分かるだろ!? 普段がどれだけつまらねえか! この世のもんじゃなくなって! それでもこの世に残って! 何しろっつうんだよああ!?』
 幽霊になって全ての縛りを失ってしまった事を、嘆いていたようにも思えるあの男。
 彼も、生きている頃は誰かを助けたり誰かに助けられたりしていたのだろうか。

 ――あなたの言う通り、頑張って生きます。みんなと一緒に。
 ――ボクは生きていますから。みんながいる限り。

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