第一章
「回心転移? 俺は元からこんなだぞ」「と、彼ならそう言うのだろうな」



「本当に何もなかったら泣けますねぇ、こんな所まで足運んで」
「いーじゃねーか別にどうせ暇なんだし。入る前から辛気臭え顔すんな行くぞオラ」
「はぁ……」
 公共の交通機関への無賃乗車の旅、およそ一時間と半刻。
 辛気臭い顔をするなと言いながらも、自身は苛立ったような表情を隠そうとしないポニーテールの女性、そしてその女性に言われたままの辛気臭い顔で溜息を吐く眼鏡の男。この二人組は、誰が見ても全てのフロアの使用が放棄されている廃ビルへ、今まさに入り込もうとしているところだった。
 女性は肩に常識外な大きさの金棒を担ぎ、男性は懐に常識的な金鎚を挿して。
「そもそも、こんな所っつうほど遠くでもねえし――眼鏡のくせに面倒くさがりとか、最悪だろお前」
「眼鏡に一体何を求めてるんですか」
「頭が良くてクソ真面目で、その割に上司の言うことにハイハイ頷くだけの単細胞さだな」
 あまりにもあんまりな偏見に、眼鏡は再び溜息を。
「……一応訊きますけど、今の話での上司って誰ですか」
「俺に決まってんだろ」
「ですよねやっぱり」
 誰も居らず、誰も見ておらず、誰も口にしておらず、少なくとも現在は誰の意識にも存在していない、完膚なきまでの「某所」。人どころかあらゆる生物の気配がせず、取り壊しの予定を立てる事さえも忘れられている、世間の流れと隔絶された廃ビル。
 少なくとも上司と部下という関係ではないこの二人、黄芽と白井がこの場所を訪れた経緯は、二日前に捕えた響という男からもたらされた情報を基点としていた。

「……本当に名前以外、何も知らないのか?」
 二日前。響の取調室。取調官の口調は疑惑と凄みを孕んだものではなく、ただただ呆れだけを感じさせるものであった。
「ああ知らねえ。名前だけならそりゃ聞いたことあるけど、実際にそいつらと顔合わせた事ねえし」
「しかしお前、自分が所属している組織の目標のことを何も知らないなんて……」
「あのな鬼さん、もし全員に知らせたりしたら確実に独断行動ばっかになんだぞ? なんたって俺みてえな暇人が殆どだしな、あそこは」
 からからと笑いながら言われ、取調官は沈黙した。今回のこの響にしても確かに、本人からの話ではあるが、独断の行動で一般人の少年を狙ったのだ。しかもその少年を狙う自分の上司が彼をどうするのか、それすらも知らないままに。
「俺等は研究員一人一人に専属のボディガード。組織内での役割はそんだけだ」
「他の構成員はどうなってる?」
 取調官に、言葉を選ぶような神経質さはない。それはなにも彼が不注意だとか能力不足だとかいう話ではなく、響がこれまで、彼の質問に素直に答えてきたからであった。
 今のままで情報を引き出せるのならば、下手に口調を作って刺激してしまうほうをこそ避けるべきだ、と彼は判断したのである。
 もっとも、そんな神経質な無神経さが響に対して意味があるのかどうか疑いたくなるくらい、この男は自然に何でも話してしまうのだが。
「まず、今言ったその研究員様方が全員纏めて組織のトップってことになんだよ。んで、トップにつく俺等がナンバー2で、下に適当なのがわんさか。そんだけ。組織っつってもシンプルだろ?」
「適当なの、というのは、お前がわんさか連れてきた黒服達か?」
「そうそう。あんたらの呼び方で言う修羅になったのはいいけど、結局弱っちかった奴等だな。まあ、負けて捕まった俺が言えたこっちゃねえけど。ケハハハハ」
「トップ達の数は?」
「ハハ――ああ、真面目だねえあんた。あー、会ったことねえのもいるだろうからハッキリとは知らねえけど、十人前後ってとこじゃねえか? となると自動的に、俺等ナンバー2もそんだけの数ってことになるな」
 案の定ぺらぺらと、これまで通りに組織の内部情報を話してしまう響。
 がしかし、次に用意している質問を口にすることを思うと、取調官はさすがに緊張を禁じ得なかった。無論、それを顔に出すわけにはいかないのだが。
「組織の本拠地の場所は?」
 これさえ聞き出してしまえば、その組織を「潰す必要が出た」際、手が空いている近隣の夜行を纏めてぶつけるだけで事は済んでしまうだろう。数をも加味した夜行達の質は、そこらの組織程度が対抗できるような生半可さでは――
「ん? 数聞いたら勝てそうだ、つって潰しに掛かる気か?」
 どくん、と心臓が鳴る。
 だが。
「……一般人に手を出そうとしている求道個人はともかく、組織を潰す理由はないだろう? 組織の目的を聞く限り、悪事を働こうとしているわけではないようだし」
「あ、そういうことになんの? まあ別にどっちでもいいんだけどな、俺は」
 跳ねかけた心臓を落ち着かせる。
 何も知らないこの男に、「何かある」と悟らせるわけにはいかないのだ。組織の目標、その相手。その名前しか知らないという、この男に。
「それに、もう手遅れだろうさ。俺が捕まったって分かった途端にお引越しの準備か――下手したら捕まった時点で終わってたりしてな。組織がシンプルだと動きやすくていいよな、こういう時」
 その話が本当だとするなら、戦力はともかく、相手にしづらい組織ではあるようだった。
 ――なるほど、「あれ」を相手にしていられるわけだ。
「しかし一応、お前が捕まるまで本拠地だった場所を聞かせて欲しい」
「お役所だねえ。いいぞ、確実に無駄だけど教えてやる。……羨ましいこった、忙しそうで」

「んあーっ! 人っ気がねえーっ!」
「苛立つところですか、そこ」
「なんにもねえーっ! 広えーっ!」
「……楽しんでますか、もしかして」
 情報を聞き出した時点で「引越し完了」とまで言われていた廃ビルは、二日も経ってしまうと、まだ入ってすぐの玄関ロビーだけとは言え、見事なまでに何も残されていなかった。廃棄された建物であるとしても不自然なくらいに。
「あー、俺ん家もこんだけ広かったらなー」
「三人……いえ、四人暮らしには充分すぎるくらい広いじゃないですか、今住んでる工場跡だって」
「現状に満足すんなよつまんねえやつだなこの眼鏡。あとあの変態を数に入れんな」
 白井はまたしても溜息と短い愚痴を吐くのだがそれはいいとして。
 交通機関利用で一時間半の移動なので、黄芽や白井達の担当地区からはとうに外れている。なので黄芽がここに住むというのは当然、適わない希望なのだが――
「どーせ誰も居ねえって報告も入ってんだし、余裕持っていこーぜ。念のためってだけの話だろ、俺等が来たのなんて」
「まあ、そうなんですけどね」
 響の話からして、場所が判明した直後にでも捜索すべきだったこの場所。なのでもちろん、この廃ビルを含んだ一帯を担当地区とする夜行が即座に足を踏み入れている。だが響の発言通り、その時踏み込んだ夜行達は、この建物内で何をも見付けることはなかった。物一つ、人一人。
 それは現在の黄芽、白井が置かれる状況と、まるで同じであった。
 しかしその報告があっても尚、この二人は、ここを訪れずにはいられなかった。現在彼女らが休日組である以上は夜行の仕事としてでなく、組織の動向と関係がなかったにしても、そのメンバーの一人に友人を付け狙われている身として。
「で、どう動きましょうか?」
「んー、別々に歩き回っても大丈夫だろ。危なっかしいこともなさそうだし」
 担いでいるものが木か竹でできているかのように軽く扱い、自分の肩をトントンとノックしながら、これまた軽く言う黄芽。しかし言葉のほうはともかく、担いでいるほうが軽くはなく、それどころか重いという単語だけでも表現しきれない重量なのは、言うまでもない。
 が、相棒の眼鏡は肩に担ぐ物より、言葉の軽さに溜息を吐く。
「そりゃまあ、そうなんですけどね……。で、分担は?」
「俺が一階から四階。残りお前」
 ちなみにこのビル、九階建てである。
「……地味に……いえ、まあいいです。割り切れませんもんねそうですもんね」
 地味であるが故になお悔しかったりもするのだが、地味であるが故に強くは言えず、白井は口から出掛かった文句を引っ込めるのだった。
 無論、引っ込めずに全てを言ってしまったところで、黄芽という人物がそれを聞き入れるわけもないのだが。
「黒淵のやつ、ちゃんと赤と青の面倒見れてんだろーな?」
「気にしてすらもらえませんか」
 たった今何かを言いかけましたよ僕は、などと心の中で呼び掛けてみる白井であった。

 その頃、黄芽が気に掛けた三名はと言うと――
「何故……何故、このわたくしがこんな……」
「やったー! 全部真っ白ー!」
「芹お姉ちゃん、ずっと交代できないねー」
 勝ったほうが交代というルールでオセロを打ち続けているのであった。
 始めのうちこそは「何戦かしていれば、いずれは」という思いで勝負に臨んでいた黒淵であったが、既におよそ十連敗である。
 真剣にオセロという遊びに興じた試しはなかった。だがこれだけ負けが重なれば、さすがに一手を打つ際、あれこれと戦略を練りはする。練りはするのだが、練っていないかの如くにそれを崩してくるのだ。この愛らしい双子の姉弟は。
「これまで……第四十三番獄獄長という地位につくまでわたくしは、幾度もの競争を勝ち抜き、幾度とないチャンスを掴み続けてきたつもりですわ……」
「偉い人になるまでの話だ!」
「かっこいー!」
「第三十番獄以降の地獄は、修羅を収監相手とする場所。管理能力と同時に戦闘能力、いえ、有事の際の鎮圧能力を求められるその場所の獄長になるために、ただでさえ常人離れしている身体能力を磨いて磨いて磨き抜いて、競争相手は男も女も蹴散らしてきたというのに……。だというのに、ここにきてこんな小さな子ども相手に……!」
「赤達すごい!」
「すごいね!」
「しかしわたくしは人の上に立つことを選んだ者! 負けは負けだと潔く認めましょう!」
「やっぱりかっこいい!」
「偉い人なんだもんね!」
「そこであなた達! ここでわたくしは負けを認めたうえで――負けを認めたうえで! そろそろ別のゲームでの対戦を所望しますわ!」
 子どもが苦手だ、などとはもう言っていられない黒淵であった。
「いいよ!」
「バックギャモン!」
「うあーっ! ルールすら分かりませんわー!」
 涙目でもあった。

「まあ、しっかりした大人が傍にいれば心配ないでしょう。赤ちゃんも青くんもお利巧さんですから」
「しっかりしてんのかよ、あれ。服装からしてキワモノ臭ぷんぷんじゃねえか」
「いやその、獄長という肩書きのほうを信用して……あー、もう行きましょう行きましょう」
 普段着が黒のお姫様ドレスという点はいくら何でも庇いきれず、しかし黄芽と同調するわけにもいかず、なので白井はさじを投げた。
「そうだな、さっさと行って終わらせてとっとと帰んぞ。言ったら余計心配になってきた」
 さじを投げたところへ素直に同意されると複雑なものがあるが、しかし白井は気にしないことにした。さじは投げられているのである。
 ――はあ。

 黄芽と白井が初めから無駄だと分かっている捜査を始め、黒淵が勝ち目のない闘いを挑んでいるその頃、緑川は学業の合間の休憩中であった。
「ねえ千秋い、昨日今日とさあ、なんかぼけーっとしてること多くない?」
「んえっ? え、そう?」
「ほらあ、今のそれだってえ」
 授業中であれ休憩中であれ、いつも隣の席に座っているはずの幼馴染、水野澄。彼女に話し掛けられて驚くようなことはない筈なのだが、しかし緑川は驚いた。彼女の存在がすっかり意識の外だったのだ。
「んー……。でも、澄ちゃんだっていつもぼけっとしてない?」
「よく言われるけど、それは見た目と声がそれっぽいってだけだよお。そんな今更説明するまでもないことで話を逸らそうとすんなよお」
 そう、彼女はぼけっとなどしていない。たとえ常に眠たそうな声でも、たとえ常に糸のような目をしていようとも、本当に眠ってしまっている時以外は、しっかりはっきりとした意識を持っているのだ。
 少なくとも、幼馴染の様子がおかしいことに気付ける程度には。
「悩み事とかなら聞いちゃうにゃん」
「にゃん!?」
「ぼけーっとしてる顔も可愛いからそれはそれでいいけどわん」
「わん!?」
「んー、目論見通り目が覚めたみたいだキリン」
「いやあの、可愛いとか言わないでよぉ」
「……キリンは駄目かあ、スルーされちったあ」
「だってそれ鳴き声じゃないよ?」
「キリーン」
「いや、鳴き声じゃないよ?」
「キリーン……」
 実に残念そうであった。
 そしてそれと同時に、周囲から押し殺したような笑い声。外見と実態のギャップが魅力的(どういう意味での魅力なのかは大いに考証の余地ありだが)な水野と、外見と性別のギャップが魅力的(どういう意味での魅力なのかは大いに同情の余地ありだが)な緑川のペアは、このクラスの名物と位置付けられているほどなのであった。
 それゆえか、普段の何気ない会話に聞き耳を立てられていることも珍しくもなく、なのでこうして笑いものになってしまう場面も多々、あるのだった。主に水野が原因なのではあるが。
「……それはそれとしておくがおー」
「何の動物かすら分からないよ」
「熊」
「ああ」
「で、何か悩み事でもあるがお?」
 熊は引き続くようであった。熊と言うよりライオンかな、と緑川は思いもしたが、それはどちらであれ同じような気もしたので、言わずにおく。
「うーん、まあ、ちょっとね」
「良ければ聞くがお」
 ――はっきりと何があったか言ったりしなければ、大丈夫だよね。澄ちゃんのことだからすごく気にしてくれるんだろうけど、でも澄ちゃん、こういう時の距離の取り方、びっくりするくらい上手だし。
「自分じゃあどうしようもない問題があって、でもどうにかできる人が助けてくれてる時、自分はどうしたらいいんだと思う?」
「お礼を言えばいいと思うがお」
 ――…………。
「で、でも、助けてもらってばっかりっていうのはちょっと嫌じゃない? 自分でどうにかできるようになれたらなって、思わない?」
「それってつまり、誰の助けも借りないってことがお?」
「うん。そうなれたらいいなって」
「ねえ千秋、無理なら無理でいいと思うよ、あたしは」
 ――澄ちゃん、ボクは……。
 緑川も水野も、少しの間だけ、揃って何も言わない時間が生じる。さっきは笑っていた周囲のクラスメイト達も、すっかりその色を失ってしまっていた。もっとも、周囲の状況については、この時の緑川に気にする余裕などなかったのだが。
 そしてこういう状況に陥った時、緑川と水野のどちらが先に動くのかと言えば、それは毎回決まっている。
 緊張した空気を溶かしてほぐして捏ねりあげるようなぽやんとした声が、弾むような調子で飛び出した。
「助ける側も、理由があって助けてるんだと思うがおー。助けられなくなったらそれはそれで、困っちゃうんだと思うがお」
「助けられなくなって、困る?」
「うん。だってそれ、ちょっと寂しいことだと思うがお。誰だって嫌がお、寂しいのは」
 話す内容は依然として雰囲気を暗くしかねない危ういものである筈なのに、水野の普段の口調で言われてしまうと、緊張感の欠片も感じられないのだった。
「…………」
 それでも内容が内容なので、緑川はすぐさまの返事ができない。すると、
「ヘイヘーイ、熊パーンチ」
 頭にぺすんと水野の右手が。
 どう考えてもそれは、熊と言うより猫パンチだった。
 どうしてだか笑ったら負けなような気がしてしまう緑川だったが、ついつい、小さく吹き出してしまうのだった。釣られて周囲のクラスメイト達も。
「何はともあれ、まずは笑顔が一番ってねー」

「…………」
 何もありはしないと踏んでいた廃ビルの探索。白井と別れて暫くとしないうちに、その白井から携帯で呼び出された黄芽の前には――
「やあ、待っていたぞ」
 デスクとセットで配置されていて然るべき回転式の椅子、しかしただそれ一つだけしか置かれていない九階の一室で、彼はその椅子の背もたれへ、目一杯に背中を預けていた。
 上がカッターシャツだけ、そして外れる直前にまで緩められたネクタイという、本来の目的とは真逆にだらしなさをこそ強調しているかのようなスーツ姿。オールバックな髪型のおかげで誰の目にもハッキリと窺える目元、そして口元は、にやにやと不敵に笑んでいる。
「あと二日ほど待たされたら、諦めて移動するところだったな」
 炎を操る姉弟を引き連れていた前回とは違いただ一人、黄芽と白井の前に無防備を晒していてもなお、彼はあの日と変わらぬ調子で口の端を持ち上げていた。

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