第二章
「馬の耳に念仏ってやつだ。だから、怒鳴ったところで無駄なんだよな」



 冬の土曜日。
「コタツでみかん! ベタっつっても、やっぱいいよなあ。俺んちにも欲しいわ、コタツ」
「コタツがあったところで電気通ってないじゃないですか。潰れた工場なんですから」
「あーうっせー」
 気分を良くしているせいか、いつものように眼鏡批判までは言を進めない黄芽。しかし、気分を良くしていてもなおぞんざいに扱われる白井に緑川の胸中はと言うと。
 ――随分とご機嫌だなあ、千尋さん。
 ぞんざいな扱いどころか扱わないのであった。
 それはともかく、会話の通りに現在彼等はコタツでぬくぬくと温まっているのだが、もう少し広い範囲を指し示すなら、その温まっている場所は緑川宅である。となれば当然のように集まっているのは黄芽と白井だけではなく、
「じゃあ、でんきもほしいな」
「ほしいなー」
 仲良く並んで黄芽達と同じコタツに入っている双識姉弟と、
「いいじゃありませんか。寒さなんて、わたくし達にとってそれほど気になるものではないのですから」
 半ば無理矢理に白井と同じ位置からコタツに入っている黒淵と、
「……物凄く貧乏さんな話ですよね、事情を知らない人が聞いたら」
 この家の住人である緑川もである。
 ちなみに黒淵の言う気にならないとは、うっせえと言われた白井を差し置いてうっせえと言った本人をご機嫌だなあなどと思えてしまう緑川のように「慣れてしまった」ということではなく、幽霊というものがそもそも暑さ寒さに強い、ということである。雪が積もりすらしている冬の寒さの中、緑川の友人達がやや薄着がちなのも、そのためだ。
 最近になって知り合った地獄のお偉いさんについては、厚着なのか薄着なのかという以前の違和感がありはするのだが。
「貧乏っつって間違いでもねえだろ、この世の金なんざ持ってねえんだし。……つーわけで、その貧乏な俺に風呂など使わせてくれると、それは感謝に値するぞ。どうよ千秋」
 殆どの場合において、幽霊は空き家など無人の場所に住んでいる。なので先程の会話のようにコタツがあるわけがなく、ならばそれは風呂も然りである。
「ああ、いいですよ。今誰もいないですし」
 そこで彼ら幽霊たちがどうしているのかと言うと、このようにそれを確保できる知り合いに頼むか、それができなければ公共の浴場に人目を忍んで滑り込むなど(あまり大っぴらに言える方法ではないが、背に腹は代えられないという面もある)、各自それぞれに何とか都合を付けているのである。
「そう言えば」
 ここで声を挙げたのは、白井であった。
「黒淵さんはどうしてたんですか? お風呂。この街に来るまで色々歩き回ってたって話でしたけど、いつでも銭湯とかが運良く見付かったわけでもないでしょう?」
 白井自身は生前から家族と共に生活していた家に住んでいるので、なんとかその家族に感付かれないよう、自宅の風呂場を使用している。となればこちらも黄芽達がアテにする候補に入っていたりもする。
 というわけで白井自身の風呂事情は他の幽霊よりも余裕のあるものなのだが――声を掛けられた黒淵は、目を輝かせた。ただでさえ白井の至近距離に座っているというのに、なお一寸顔を寄せたりしつつ。
「きっ、ききき気になりますか? わたくしがお風呂をどうしていたか!」
「え、ええ。気になったから尋ねたんですけど……」
「お風呂に入ってまず体のどこから洗うとか、お気に入りの入浴剤とか、湯船に浸かっているのはどのくらいとか、うっかりしてると浸かったまま寝てしまったりとか!」
「いえ、そこまでは……と言うか、寝ちゃいますか」
「寝ちゃいます寝ちゃいます! そりゃもううっかりすっかりと! よければ今度ご一緒に――!」
「おーし風呂行くぞお前らー」
『はーい!』
 どうしてそうなるのかという話の繋がりすら不明瞭な、願望の勇み足が丸出しな黒淵の逆セクハラ発言。黄芽はすかさず、そこからちびっこ二名を遠ざけようとした。それは実に保護者らしい行いだったが、普段の彼女なら、黒淵に罵声の一つでも浴びせていたことだろう。
 しかし現在の彼女はそうしない。無邪気に喜ぶ双識姉弟はともかく、緑川はそれに違和感を憶えないほど、彼女についての知識が浅いわけでもないのだが――みかんとコタツで機嫌が良かったからだろう、とあまり気にも留めなかった。
 だがもう一人、黄芽の性格についての知識が浅くない白井の考えは違い、またそれは、楽観的なものでもなかった。

 ――黄芽さん、やっぱり迷ってるみたいだな。
「修治さん、今週は待機組なのでしょう? 宜しければご一緒しませんか? わたくし用の、それなりに設備が整ってたりそれなりに広かったりするお風呂ですが」
「ご一緒はいくらなんでも……って、地獄に帰ってたんですかお風呂の度に」
「休暇中だからと言って仕事場に戻ってはいけない、なんて決まりはありませんもの。なんでしたらベッドなんかも――」
 白井から見た黒淵は、服装の奇抜さにさえ目を瞑れば、美人だとか綺麗だとか、そういった方面の感想を持てる容姿の女性であった。が、いくら何でも積極的――どころか、こう自分にタックルをかましたうえそのまま遥か彼方へ走り抜けていきそうな勢いで迫られては、魅力を感じるどころか、魅力を台無しにされている気分なのであった。
 ――黄芽さんもこの人も、外見はいいのにどうして中身がアレなんだろう。やっぱり鬼なんかやってると、こういう事になりやすいんだろうか?……とほほ。
 近しい女性二人の「あと一歩で」感に、がくりと首を垂れる白井であった。が、
 ――でもそれはともかくとして、あれからもう一週間半か。
 黄芽の様子から、こちらについても思考せざるを得ない。
 廃ビルの探索中に求道と再会してから、既にそれだけの時間が過ぎていた。

 二階が黒淵の猛攻撃で賑やかかつ気の毒な空気になっている頃、双識姉弟とともに風呂場の脱衣所で縛った後ろ髪を解いていた黄芽は、「赤はともかく、青と一緒に風呂入んのってあとどれくらいになんだろうなー」などと、自分がそれくらいの年齢だった頃を思い返したりしながら、ぼんやりのんびり考えていた。
 だが、すぐ傍で楽しそうにしている赤と青を見ると、それを口にする気にはなれない。なのでその代わりに、
「さっさと出てきちまったせいで、シャワーだけになっちまったなあ」
 黒淵による半強制的な退場さえなければ、緑川に湯を沸かしてもらって、三人でゆっくりと湯船に浸かることもできた。黄芽からすればそれは、「コタツでみかん」に勝るとも劣らないくつろぎの時間である。
「千秋お兄ちゃんに言ってくる?」
 そう申し出た青は既に全裸なのだった。黄芽はというと、まだ上着に手を掛けた段階である。子どもは、楽しいこととなると行動が速い。
「いい、いい。スッポンポンでうろつくのは良くねえぞ。それに、ここまで来て湯が貯まるまで待たされるってのも――なんだ、間が悪いし」
 脱いだ上着を無造作に放りつつ、そう言い切った一瞬だけ、黄芽は表情を曇らせた。
 ――あの日から……求道の野郎にまた会ってからこっち、千秋の顔見るとどうもな……。
「ほれ、脱ぎ終わったんなら先に入ってろ」
『はーい』
 青、そして青と同じく既に何も身に纏っていない赤も一緒に浴場へ移動させ、脱衣所との仕切りがぱたんと音を立てて閉じられるのを確認すると、黄芽は小さく息を吐いた。
 らしくない、と自分のことながら思うものの、既にそれが一週間も続いているのだ。どうやら自分は自分で思っているほど気丈な人格は持ち合わせていないということが、それに加えてそんなことに今更気付いたということが一層、黄芽の気分を曇らせていた。
 そして今回の入浴は、今日また緑川の顔を見てこうなってしまっている気分を、仕切り直すためのものでもあった。だから、シャワーだけかどうかに拘るよりは、一分でも早く水なり湯なりを頭から被ってしまいたかった。
 そんなことを考えていると、からり、と物音。
「千尋お姉ちゃん」
 一度は閉まった脱衣所と浴場の仕切りが僅かに開いたかと思えば、その隙間から青の声が掛かる。半ば肝を冷やしさえしつつ黄芽がそちらを見ると、赤と青の二人ともが、心配そうに彼女を見詰めていた。
「元気ない?」
 シャツもジーンズも既に脱ぎ去り、下着に手を掛けたままで硬直している黄芽へ、赤が問う。
 見ようによっては別の問題で硬直しているようにも見えるが、そういうことではないので脱衣を続行。そしてそのまま、気分が口調に乗らないように気を配りつつ、いつもの調子で返事を。
「なわけねーだろ?……でももし、元気ないって言ったら」
 声色だけはいつもの調子でありながら、少しだけ甘えてみる。これもまた、らしくない。
「お前ら、励ましてくれるか?」
『うんっ!』
 そこで不安顔のままでなく笑顔になってくれる二人が、頼もしくて仕方がなかった。
 そしてそれはまた、元気がないという現状を見抜いてくれたことに対しても。

「今週の担当組というと、えーと……」
「灰ノ原さんと桃園さんですね、病院にお住まいの。土曜なんで今日までですけど」
 黄芽がシャワーだけとはいえ双織姉弟と一緒にほっこり温まっている頃、二階では白井が、何とか話題の摩り替えに成功していた。担当組と同じく今日までであるものの、自分と黄芽が今週は待機組であるというところからどうにかこうにか話を広げ、現在この町に存在している案件――つまり、鬼としての仕事の話である。
 緑川は黄芽たち三人が風呂場に向かってからというもの、蚊帳の外ででほったらかしにされているような立場にいた。
 だが白井がそうであるように彼もまた、話題の変化に安堵の溜息を吐くような心境なのだった。仕事の話にしても聞いていてあまり気分の良いものではないが、目の前の逆セクハラよりはマシである。
 ――だってボク、男だし。
 それはあまり関係がないのかもしれないが。
「どういう方達なのですか? まだあまり、顔を合わせたことがなくて」
 そりゃあこの様子だと毎日でも修治くんに会ってるんだろうしなあ、などとついつい嫌味ったらしい想像をしてしまうが、黒淵からすればそれは嫌味になどならないのだろう。
 そうでもなければ、ここで申し訳なさそうな上目遣いができるというその図太さを理解するところから始めなくてはならない。それは実に面倒そうだった。
「二人とも生前は医療関係者だったそうで、そのせいか生き物を傷付けるような手合いがすこぶる嫌いなようですね。……ぱっと見は全然、そんな感じじゃなかったりしますけど」
 自分で言った彼等の特徴を苦笑で纏める白井。なんとも失礼な話だが、彼等の「ぱっと見」を知っている緑川には、それを咎める気は起こらなかった。むしろ、深く深く同意していた。
 ――お医者さんって言うより、漫画とかに出てくるマッドサイエンティストって感じだしなあ、灰ノ原さん。せめて着てる白衣がぼろぼろじゃなくて綺麗だったらまだ……。それに桃園さんだって、ぱっと見だけで言うならちょっと怖いような気もするし。まあ、本当は優しい人なんだけど。
「あら? じゃあ今起こってる事件なんて、そのお二人的にはやる気のでるものだったりしませんか?」
「ぱっと見は、そんな感じじゃないんですけどね」
 白井が苦笑いで繰り返し、緑川はそこから笑みを除いた苦い顔になる。しかし、その表情の原因はぱっと見云々ではなかった。
 事件の内容についてである。
「こう言うと感じが悪いでしょうけど、でも、ありきたりと言えばありきたりですわねえ。動物を傷付けて回るなんて」
「まあ今回の件に限れば、傷付けるだけで済んでないんですけどね。……千秋くん、大丈夫ですか?」
「あ、うん。気にしないでくれていいよ」
 もしかしたら今のは部屋を出るよう暗に促していたのかも、と緑川は気をもんだ。だがそう思っていても、この場を動こうとまでは思わなかった。
 それが小さな小さな強がりであることも、分かってはいたのだが。
「それで修治さん、傷付けるだけで済んでいない、というのは?」
 気にしないでいいという緑川の言葉を素直に受け取ったのか、それとももともと緑川など眼中にないのか、黒淵が話を進めようとする。となれば白井も、緑川からこう言われた以上、気後れするところがありつつも話を先へと進める。
 口からは疑問形を発しながら、黒淵は見当が付いている目をしていた。そしてその目は同時に、彼女が地獄の一つを治める長であることを裏付けるかのような威圧感をも。
「少なくとも、紫村さんが悪意を感知した場所で発見された被害動物は、全てが死んでいました」
「そういうことになるのでしょうね」
 驚くどころか身じろぎ一つせず、言葉に詰まることすらなく、緑川からすれば背筋に冷たいものを感じるくらいの平坦さで、「当たり前なことだ」とでもいったふうに了解してみせる黒淵。
 緑川からすれば戸惑いを禁じ得ない豹変ぶりであったが、白井からすれば黒淵のその落ち着きようは、話をしやすいということになったらしい。「それもその全てが」と、黒淵の了解へ追いすがるように話を続けようとする。
 が、
「……いえ、さすがに止めておきましょう」
 思い出したように緑川の顔を見、そして唐突に話を切り上げる白井。その顔には、失敗した、という悔いの色が浮かんでいた。
「あ、あの修治くん。ボクなら大丈夫だって……」
「いやいやそういうことではなくて、公私混同したくないだけです。今は公私でいう『私』の時間ですからね。くつろぐ時はしっかりくつろぐっていうのも、大事なんですよ」
 公私でいう『公』。普段彼ら鬼がしている仕事を思い返せば、その理屈も分からないではない。悪人を追い回し、時にはその所業を目の当たりにし、更にはその悪人と、殺し合いに近い戦闘を繰り広げなければならないのだ。公私をしっかりと区別してきっちりと住み分けさせておかないと――とても、正常な精神ではいられなくなるだろう。いくら飛び抜けた身体能力を持っていようと、彼らもその中身は単なる人間なのだ。一般的でかつ、善良な。
 ――でも。それでも不満に思っちゃうボクは、嫌な奴だったりするんだろうか。
 自分も中身は単なる人間であり、しかも白井達のような飛びぬけた身体能力すら持っていない。ならばせめて、仕事の話を安心して話せる人間だと思われたかった。
 前々回の求道、そして穂村姉弟。前回の響。自身の不幸体質で呼び寄せてしまった彼らを、大切な友人達に押し付けてしまった身として。
「あら、くつろぐのでしたら大歓迎ですわ修治さん。くつろがせて頂く側でもくろがせて差し上げる側でもわたくし、それなりに自身がありますわよ?」
「どっちにしても僕個人が対象っていうのは、ちょっと……」
 あっと言う間に普段の調子に戻り、白井の気を逸らしてくれた黒淵へ、少しだけ感謝する。今の自分はきっと、不満の色を隠せていない。だからそれに気付かれる前に、この表情を隠してしまおう。
 緑川はコタツに入ったままもそもそと体の向きを変え、うつ伏せになった。
「ああほら、千秋くんが引いちゃってるじゃないですか」
「くつろぐ時に他の誰がどうこう、なんて関係ないじゃありませんか。……あっ、えっ、それとも修治さん、まさかわたくしよりも緑川さんを?」
「……へ?」
「いえ、確かに可愛いらしい方ですわよ? でも、これでも男性なんですし……いえまさか、もともとそういうご趣味で?」
 これには男二人、憤らないわけにはいかない。
「なわけないじゃないですか!」
「なわけないじゃないですか!」
 珍しく声を張り上げた白井はもとより、女扱いよりも更におぞましい展開に、うつ伏せた体をついつい海老反らせてしまう緑川であった。
 傷心じみていた内情など、一撃で木っ端微塵の台無しである。
 しかしこのふざけた展開が、緑川にある人物を連想させる。
 ――澄ちゃん、ボクは、本当に何もできないままでいいのかな? 友達を危ない目に遭わせて、自分はやっぱり何もできなくて、本当にそれでいいのかな。
 思い出されるのは、血を吐いている黄芽。片腕を焼き切られた白井。拳を切り飛ばされ、もう一方の腕も破壊された金剛。
 血で、血で、血だった。自分が引き金だと考えたくもないくらいに凄惨な、血。
 ――何もできないままでいい、なんてことになるくらいならいっそ、初めから何も起こらなかったらいいのに。この世間が、いつも優しくて何も起こさないでくれる澄ちゃんみたいだったらいいのに。僕の世間だけが人一倍不幸だなんて、そんな……。

 その頃黄芽は、未だ風呂場の中。湯のない湯船に座り込み、そこへ直接届くように向きを変えた少々熱めのシャワーを、その豊かな胸でのんびりと受け止めていた。
 肝心の湯が張られていないのになぜわざわざ湯船の中なのかと言うと、三人で使うには流し場が少々狭いのである。そして現在、その流し場では、赤と青が体を洗っている真っ最中であった。
「しっかり洗えよー」
『はーい』
 手の届きにくい背中や泡が怖くて目を空けられない頭、顔をお互いに洗い合ったりなど、こちらから言うまでもなくしっかりと泡だらけになっていく赤と青。いくら見慣れてもなお頬が緩んでしまう光景なのは、二人がそれを楽しんでいるからこそなのだろう。
 ――うし。じゃあここらで切り替えるか、頭。
 二人を見ていれば気分は良い。だがそれは、浸るためのものではない。頭の中でモヤモヤと煙状に保たせてしまっていた事柄へ真正面からぶつかるための、いわば切っ掛けであった。
 一週間半。いくら何でも、ウジウジと思い悩むなどという自分に向かない心境にはウンザリしていたところである。
 熱めのシャワーを浴びながら、黄芽は思い返す。ニヤニヤとした表情がいけ好かないあの男との会話、その一言一句を。

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