「さっき別れたばっかなのに白井お前、なんでいきなり最上階なんだ?」
「まずそこなんですか? と言うか、まず僕なんですか? いえ、単に上から行けば、下から来る黄芽さんとの合流が楽かなーと」
「おっしすげーどうでもいいな。んじゃ次お前――求道、だったよな? 何でこんなとこにいんだ?」
逸らした視線の外側からいつもの溜息が聞こえてきたが、いつも通り気にしないことにした。毎回気にするには、回数が多過ぎるのである。それ以前に、溜息自体がどうでもいい、という身も蓋もない理由が存在していたりもするのだが。
「くくく、良かった良かった。嫌われる余り無視されるのかと思ったぞ」
「そうお望みならそうしてやんねーでもねえけどな。でもわざわざ俺等を待ってたんだ、そうじゃねえんだろ?」
「もちろんだ。――ああしかし、周囲に誰もいない時間というのもたまにはいいものだ、とは思いもしたがな」
元から笑っているように見える表情へ更に笑いの色を重ね、こちらが立っていてあちらが椅子に座っている以上、目線の高さはあちらが下だというのに、見下すような視線を放ってくる求道。
見ているだけで腹が立つのが、意識でなく感覚として捉えられるほどであった。
「俺等以外が来た時はわざわざ隠れたりまでしやがってよ」
「まあ、隠れるのと逃げるのは得意だからな。もちろん今回も、君達に捕まる気はない。話をしようと思っただけだ。――君達が来るかどうかは実際、賭けだったがな」
「んなもんいいっての。話をしようと思ったんだな? じゃあそれ、さっさと言え」
彼の顔を見た瞬間からこの瞬間まで、捕まえられるなどとは一度も思わなかった。そのくせもったいぶったような話し方をするのが、余計にこの男の腹立たしさを増しているのかもしれない。
「ふむ、今回は時間に余裕があるからゆっくりと、と思ったのだが――男、君の相方は少々、短気に過ぎないか? せっかくの器量良しが台無しだな」
「後で何されるか分からないので、コメントは差し控えさせてもらいます」
ある意味で同調したような返事をした白井へ、黄芽のとても器量良しとは言えないようなチンピラ同然の目が向けられる。が、
「それと」
白井は、その視線に気付きさえしなかった。
「僕自身のことならいいんですが、友人関係となったら僕も短気ですよ、結構。話し始める前に逃げるようなことにならないよう、あまりふざけた言い回しを多用するのは控えたほうがいい、と忠告させてもらいます」
眼鏡の奥でしっかりと求道の姿を収めているその目は、いつもよりやや細められていた。これに加えて、首が横へ傾きだした時。そこが白井の堪忍袋の尾の限界であると、黄芽は知っていた。
相棒の心中を確認した黄芽は小さく鼻を鳴らし、視線を求道へ向け直す。その先でその男は、まるで悪びれる様子もないまま、なおも口の端が持ち上がったままだった。
「なるほど、では本題に入ろう。私の目的は話をすることだからな」
「千秋くんの話ですよね?」
「ああそうだ。緑川千秋。外見から性別を勘違いされやすく、幽霊が見え、不幸体質の、あの少年の話だ。――話を始めたら、通信機の類で仲間と連絡を取るのは控えてもらうぞ。同じく、この部屋を出るのもな」
熱めなはずのシャワー。しかし、その熱さははもう感じられなかった。それどころか胸を打つ湯の感触も、胸を打った湯がそのまま流れていく音も、そして体を洗うだけのはずがいつの間にか楽しそうにはしゃぎ始めている赤と青の声も、何も感じられなかった。
それら全てを感じられないことすら、感じられなかった。
「まず本題に入る前にだが、鬼、お前達は響君から私と組織について、どこまで聞き出した?」
「そりゃもう色々と。しかしここでは、あなたの千秋くんへの行いと組織とは無関係だ、と答えればいいのでしょうか?」
「話が早くて助かるな。時間が余れば、組織のほうの話もしてやろう。どうせ響君のことだ、碌に何も知らなかったろう?」
「あくまで時間が余れば、でお願いしますよ。千秋くんの話が優先です」
この時既に黄芽は、求道との会話を、白井に全て任せる腹積もりであった。たとえ腹を立てていても口調を乱しはしないこの男は、腹が立っていなくても乱れた口調の自分より(これでも自覚はある、一応)、『こういうこと』に向いている。そういう意味では自分の欠点を補ってくれる、頼りになる相棒なのであった。
「約束しよう。では私がなぜ彼を求めているかだが――十年前に彼と私が会っているのは、知っているな?」
「ええ。本人は誘拐されそうになったと言っていましたが」
「くくく、残念だが、五、六歳の子どもを捕まえるのに失敗する修羅などいないな。緑川君が気付かなかったのも無理はないが、あの時、私の目的は達せられたさ。無事にな」
「何をしたのですか? 千秋くんに」
「あー……すまんが、それを説明するにはまた別の説明を挟まなくてはいけなくてな。ふざけるわけではないのだが、少々の回り道を許可していただきたい」
「……いいでしょう。どうぞ」
「すまないな」
すまなそうな顔など一片たりとも見せていないのは、言うまでもない。
「まず鬼。お前達はこの世で一度死に、あの世でその職に就き、この世に戻ってきた。そうだな?」
「そうですが、それが何か」
「一方で私はなのだが、この世で死に、しかしあの世へ行くことはなく、この世でこうしてのんびりさせてもらっている。――私は私の研究において、まるで関係のない方向から、偶然にもそこへ行き当たったのだ。あの世へ行く者とこの世に残る者の差は何だ? 知っているか? 鬼達よ。なにぶんこの世に残っている限り、あの世の事情は分からんからな。あの世では常識だったりするのかもしれん」
「――いえ、知りませんが」
「そうかそうか、それは良かった。予想外にとは言え、必死に研究して突き止めたことが常識だというのも、泣ける話だからな」
――必死に研究ってのも泣けるってのも、てめえに限っちゃ想像できねえけどな。
「……私はそれを、『命』と名付けた。仮も仮、適当も適当な名前だがな」
「それがこの世に残るかあの世へ行くかに関係する、と?」
「ああそうだ。簡単に例えるならそれは肉体と魂、そして魂とこの世を結び付けているもの、ということになる。まあ、糊とか接着剤みたいなものだな。――ああ、魂というのは今の私達そのもの、つまり霊体のことだ。ここまではいいか?」
「いいですよ」
「それは生きている頃から、恐らくは全ての生物の、体の内にある。だが持ち主が死ぬと粘着力が弱まり、剥がれ、肉体か魂のどちらかに残る。そうしてまず肉体と魂の結び付きがなくなるのだが、この時もしそれが肉体に残った場合、魂はこの世との結び付きをすら失い、あの世へ旅立つというわけだ」
「しかし僕達は今、ここにいますが? 仕事の都合上、あの世とこの世を行ったり来たりですよ?」
「ああ。それを踏まえる限りは、あの世へ行った後のこの世との行き来には影響しないらしいな。しかしその割に、鬼以外の霊が行き来しているという話はあまり聞かないが」
「そこいら辺はあの世側の法律の話です。この世側のあなたは気にしなくても結構ですよ」
「――なるほど、ある種の制限があるわけだな。でなければこの世はとっくに霊で満杯か」
「その通りですが、本題からは外れてますね」
「そうだな、では本題に戻ろう。……さて、今君が言った通り、私は『この世側』だ。だから命の、この世との結び付きがどうののほうは余り関心がない。関心があるのは、肉体との結び付きのほうだ。それを突き詰めようとしているうちにたまたま、先程の内容に行き着いたわけだな」
――じゃあ、さっきのって完全に無駄話なんじゃねえかこの野郎。
「で、それと千秋くんがどう関係するんですか? と言うかもう一度訊きますが、千秋くんに十年前、あなたは何をしたんですか?」
「さっきも言ったように、命は糊や接着剤のようなものだ。ということでもう一つの特徴として、複数の命は張り付き合い、混ざり合い、その結果として一つの塊にすることができる」
そこで求道はいったん話に区切りを入れ、それまで深く身を沈ませていた椅子の背もたれから上体を起こし、肘を膝に当てて、前のめりの姿勢になった。
その表情のせいだろうか、見ようによっては笑いを堪えているようにも。
そして。
「私は十年前、緑川君にそれを埋め込んだ。男性二名、女性二名、計四つの命の、塊をな」
さすがに白井は、そして黄芽も、すぐには反応できなかった。それは肉体的な反応のみの話ではなく、精神面においてもであった。冷静に考えれば怒りが込み上げて当然の場面でしかし、そうなることすらなかったのである。
そんな迷路に迷い込んだような思考では、こう尋ねるのが精一杯であった。
「何のために、そんなことを」
求道は返す。すかさずに、そして依然、にやにやと。
「何のためと問われればそれは、自分で命と名付けたものの研究のためだな。それが私の目的に添えるものなのかどうかは、可能性が高いと踏んではいるが、しかしまだ断定はできん。どういう性質があり、何をどうすればどうなるのか。今はそれを調べているところだよ」
「――あなたは、何を目指しているんですか」
「一度肉体と離れた魂、つまり我々が、再び肉体と結び付く方法。それが私の、組織とは関係がない部分においての研究課題だ。――簡単に言うとだな、生き返りたいだのよ私は」
「千尋お姉ちゃん、シャワー貸してもらっていい?」
呼び掛けられれば、さすがにそれへの反応はできた。見ればこちらへ手を差し出している赤は全身、顔まで泡だらけで、
「洗い終わったよー」
青に至ってはもう目を開けることすら適わないような状態であった。
考え事をしている間にどんな争いが繰り広げられていたのだろうか? などと想像してみると、気分がふっと軽くなる。
「ちょっと熱いと思うぞ。気ぃつけろな」
微笑みを返しながら、湯を出したままのシャワーを手渡す。しかしそれが本心からの微笑みなのかそれとも作り笑いなのかは、自分でも判断できなかった。
シャワーを受け取り、そこから吐き出される湯を平手で叩くようにして熱さを確かめた赤は、これで泡を洗い流すのは無理だと判断したらしい。少しだけ温度を下げていた。
「ねえ赤、目が、目が」
というわけで、まず初めに湯が掛けられたのは青の顔であった。
シャワーを手にした以上はもう一悶着あるのだろうと予想を立て、黄芽の意識は再び、一週間半前のあの日へ。
「もちろん、私自身の体と結び付くのはもう不可能だが。なんせとっくに灰になってしまっているからな。くくく」
求道は笑う。だが黄芽には今しばらく、情報を整理する時間が必要だった。求道の言う命というものがどういうものであり、それを複数集めて一つにしたものを体の中に埋め込まれるということがどういうことなのか、考える時間が必要だった。
恐らくは白井も同じなのだろう、求道の話に間が空いても、これまでのように言葉を差し込めないでいた。
「ああそれともう一つ。言うまでもないことだと思うが、緑川君だけではないぞ? 被験者は。とは言え命そのものは死体安置所にでも入り込めばいくらでも手に入るし、被験者となった存命の人間達にも、今のところ悪影響らしい悪影響は出ていないがな」
今のところ。その一言は気に掛かったが、悪影響がないという情報は、黄芽に僅かばかりの安堵感をもたらした。命を埋め込まれたことそれ自体について、緑川に被害が出る可能性は低い、という意味にも取れるからである。
しかし、だ。ならば何故。
白井が動く。
「つまり、緑川くんには何も起きなかったのでしょう? それならどうして今更、十年も経ってから、彼を狙うんです」
「観察を続けるうちに面白い人間だとは思ったが、緑川君自身は正直どうでもいい。――生者、しかも他者の中に長期間置かれ続けた命がどうなるか、時期が来たら取り出して調べてみようと思ってね。もちろん他の被験者でも同様の調査はしているが、四つもの命の塊を使ったのは彼だけだ」
「どうでもいいって、じゃあどうして緑川くんなんですか」
「誰でもいいのに自分が選ばれてしまう。それが彼の特徴だろう? まあ、これを不幸と捉えるのならば、という前提あっての話だが」
どうして緑川なのか。それは彼が不幸だから。――不本意だが、理屈は分かってしまう。冗談で済まない不幸に付き纏われている者。それが緑川だからだ。
だが黄芽は、そこを重要視しなかった。他に思うところがあった。ただでさえ不穏な空気を放つ求道の話の中でも、特に際立った不穏さを放つ、ある一言が。
「おいテメエ」
「ん? 何だ女。随分と大人しいと思っていたら、ここでようやく質問か」
「取り出した後どうなんだよ、千秋は」
視界の外で、白井の気配がぶれた。そして視界に納めた求道は、ぎしり、と再び椅子の背もたれへ体重を預ける。
「くくく――くっくっく、なるほど、頭は回っているようだな女。では訊こう、何を想像した? 何を想像すれば、そんな視線だけで人を殺せそうな目ができる?」
「ざけんな糞野郎が!」
その怒声と同時に、それをかき消さんばかりの荒々しい騒音を立ながら、彼女の傍の壁が吹き飛んだ。
砂状になった壁の一部や埃が煙となって舞い上がり、彼女の所業を覆い隠さんとし。……だが、その程度で彼女は。
彼女の怒りは。
――収まっちまうんだよな、悲しいことに。
「てめえこそ、何考えてりゃんなヘラヘラしたツラしてられんだよ。何人見ても理解できねえし慣れられさえしねえ、てめえみてえなのは」
命は、肉体と魂を繋いでいる。命は、複数が混ざり合う性質を持つ。ならばもし、緑川に埋め込まれた四つの塊が、緑川自身のそれと混ざり合っていたとしたら? そしてその状態で、四つの塊を取り出すということは?
推論でしかないのだが、求道の反応を見る限り、そうなる可能性はあるということなのだろう。緑川の命が四つの塊と諸共に取り出され、肉体と魂の繋がりがなくなり――。
つまり、緑川が死ぬ、という可能性が。
「ふん、壁一枚だけで静まるか。まあ仕事柄、私のような人間とはまま顔を合わせているだろうしな。さすがは鬼、というところか」
「静まる必要がねえってんならまた別だけどな。でも、てめえにゃまだ訊かなきゃなんねえ話がある」
緑川を狙う理由。それに付随する、求道が目指す目的。そしてその過程に何があるか。それさえ聞いてしまえばもう、これ以上この話について何かを聞き出す必要はないだろう。
求道は止めなければならない。結論はそれだけだ。
「それに、手ぇ出そうとしたところで逃げられるのがオチなんだろが」
止めなければいけない相手を、この場では止められない。
実に歯痒い、そして不甲斐無い話ではあったが、だからと言ってヤケを起こすわけにはいかないのだ。何のつもりかは分からないが、あちらからみすみす情報を提供してくれるという。ならば今できることは、それを全て聞き届けることである。
しかしそれを考えると、たった今壁を破壊した一撃についても、冷や汗ものの行動であったのは間違いない。
――分かっててやってんだろうけどな、このゲス野郎は。
「さっさと喋ってさっさと消えろ。あとは組織についての話だけだ」
「千尋お姉ちゃん、終わったよー」
「こうたいこうたーい」
案の定、確実に泡を洗い流しただけとは思えない時間が経っていた。待っている間に少々身体が冷えてしまった気がしたが、それにしたって二人に話し掛けられて初めて気付く程度だ、問題はないだろう。
「おーし、じゃあシャワー貸してくれー。ちょっと温まったら返すからな」
湯のない浴槽と流し場を入れ替わるように移動し、そのついでにシャワーの所有権も。
が、よくよく考えてみれば。
「それともお前ら、先に上がるか? 体も洗ったんだし」
「ううん、待ってる」
「千尋お姉ちゃんが髪洗うの、綺麗だもんねー」
普段はポニーテールだが今はそれを解かれて自由に広がり、吸った水の重みでいつも以上に真っ直ぐ伸びる黒髪は恐らく、それが赤と青でなくとも似たような感想を持たれるのだろう。もちろん、赤と青以外の人間が彼女のこんな姿を見ることはまずないのだろうが。更には、もしそんなことがあったとしてその場合、果たして注目されるのが髪なのかどうかという問題もあったりする。
しかしそんなことはともかくとして当の黄芽本人であるが、
――知ってるか二人とも。綺麗ったって、髪長えやつが髪洗うとこなんて、相撲取りと似たようなもんなんだぞ? むしろ髪だけで言うなら相撲取りのほうが綺麗だったりすんじゃねえかってくらいだぞ?
綺麗だと言われて嬉しくないわけではないが、洗っているところだけを指して褒められると、毎回そう思ってしまうのであった。……言うまでもないのかもしれないが、ややこじ付け感のあるその指摘は要するに照れ隠しである。
その照れ隠しも終わり、熱めのシャワーを浴び始めたところで、黄芽は再び一週間半前の記憶の中へ。ただし、穏やかな気持ちのままで。
シャワーは、しっかりと熱かった。
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