第三章
「病は気からといいますが、気そのものが病だと、厄介ですよねえ?」



「それっぽい動きはない? 紫村さん」
『はい。桃園さん側も同じく、ですね』
「そっか。ごめんねえ、なっかなか捕まえられなくて。明日になったら黄芽さん達に引継ぎだよ」
『いえ、それを言うならこちらこそですよ。指示を出してるのはわたしなんですから』
「ンヒヒ、そう格好いいことを言われると困っちゃうなあ。なんせぼくは格好いい女性に弱くてね、叶くんに怒られてしまうよ」
『あら、わたしだって困ります。死別してはしまいましたけど、これでも人妻ですよ? それに桃園さん、怒るどころか歓迎するんじゃないですか?』
「おやおや、酷い言われよう。報われないなあ、ぼくってやつは」
『つける薬が見当たりませんからねえ』
「医者の無養生ってやつだねえ。まあ、元医者、なんだけど」
 風呂場の黄芽が赤と青の励ましを受けつつ記憶を辿り、緑川の私室で黒淵から猛烈に言い寄られる白井が溜息を吐き、そしてその隣で緑川がいつも優しい友人を想っている頃、灰ノ原は、紫村と連絡を取っていた。
 夜行としての仕事の連絡であった筈だが、という疑問は、彼を知る者ならば、今更誰も浮かべまい。だからこそ紫村も、彼に同調した会話を楽しんでいられるのである。
 灰ノ原学。端的に言って、こういう男なのであった。
『あら、医者かどうかなんて関係ありませんよ。これは恋の病ですから』
「おやおや紫村さん、意外にロマンチストかい? そんな青臭い言葉を適用される年じゃないんだけどなあ、ぼくは」
『それならどうして、こんな状況でこんな話になっちゃうんでしょうかねえ?』
「そりゃもちろん、やきもちを妬いてもらうためだとも。叶くん、こうでもしないと釣れてくれないし、こうしてでも釣れてくれなかったりするし」
『病んでますねえ。重症ですねえ』
「そう思うよね? やっぱり」
『いえいえ、灰ノ原さんのことですよー』
「ありゃあ。なるほど、重症なのに自覚症状がないってのは厳しいねえ。はて、恋の病とやらに関しては名医だったりするのかな? 紫村さんって」
『これでも経験者ですからねー』
 この町に配属されている夜行六名と隠一名、計七名のうち、自分の家庭を持った経験があるのは紫村のみである。それが皆の、紫村椿という女性の人物像に大きな影響をもたらしているのか、七名の中では最年長――と言っても体の年齢は三十を迎えた辺りなのだが――の灰ノ原でさえ、彼女との会話においてあしらわれる側に立つことに、何の抵抗も感じなければ違和感も湧かないのだった。
 が、そんな彼女との会話に、それとは別の女性の声が。
『そういう話は、私の耳が届かないところでしてもらえませんか』
「突っ込みがワンテンポ遅いよ叶くん」
 静かな、と言うよりはいっそ冷たく余所余所しいその声の主。ほんの少し前に話題の中心となっていた、灰ノ原の仕事上の、『仕事上の』パートナーである、桃園叶その人であった。
「今はホラ、紫村さんを褒めてたところなんだしさあ。もうちょっと前の段階で――」
『失礼します』
「あ、待って待ってごめんごめん。愛してるよー」
『失礼します』
 同じ台詞を二度繰り返されたのち、ぶつり、と無慈悲な音が灰ノ原の耳を刺した。
 怒りか呆れかのどちらか、もしくはそのどちらをも胸中に抱いてはいるのだろうが、しかしそのどちらをも感じさせない平坦な声。何があろうとこの調子を崩さず、公私の枠に囚われない全ての物事を、てきぱきと片付けてしまう。
 桃園叶。端的に言って、こういう女なのであった。
『恋の病なんかじゃないんですよね? 本当は』
「……ごめんねえ、付き合わせちゃって」
『いえいえこれくらい。むしろ、関わらせてもらえて光栄です』
「頼りになります。――と、あんまり続けてたら泣き言が入っちゃいそうだからこの辺で」
『そうですか? ああ、もうちょっとで泣き言が聞けたのに残念』
「ンヒヒ、まだまだ泣くわけにはいかないからねえ」
『ふふ。私は好きですよ、灰ノ原さんのそのやりかた』
「女性にそう言ってもらえると自信が付くよ。ありがとうね。――それじゃあ、また何かあったら」
『はい。では、また』
 一度だけの挨拶ののち、ぶつり、と小気味のいい音が灰ノ原の耳を包んだ。
「何の病になるなのかねえ、これは」
 携帯電話を畳み、それをその身に纏ったぼろぼろの白衣の胸ポケットへ仕舞いながら、自嘲するかのように呟く。通話は切れた。周りには誰もいない。だからこそ。
「さて、泣き言終わりっと」
 そして仕事へ。今回のターゲットの出現が予想される場所を離れた位置から監視し、その出現をただただ待つ。ただし、本当にここに現れるかどうかは分からない。そしてそれは、桃園が待機している場所も同じ。更にはそれどころか、今日は現れないということだって充分にあり得る。徒労に終わる可能性はかなり高い。
 車椅子の肘掛けに体重が掛かり、ぎし、と金属の軋む音。頬杖をついた灰ノ原は、どこかの誰かのような溜息を吐いた。
「やることやったら悪意もそこまでって、やっらしいねえホント」
 それが、今回の相手。犯行後に追うということができず、しかしそれ以外のところでも気に入らない、小動物の頭を叩き潰して回っている何者か。
「ありゃ、これも泣き言だね」
 灰ノ原が見張っているのは、ある幼い捨て猫であった。動物を殺して回っているという今回の相手だが、その相手が殺す目標となるにはもう一つ、人間に捨てられたという条件が含まれているらしかった。そう判断したのは、被害に遭うのが目の前の猫のようにダンボール箱に入っていたり、そうでなくとも明らかに「この町」に生息しているとは思えない動物などだったりしたからだ。
 民家や学校などで飼われている動物が被害を受けたという例は今のところ、一つもない。
「さあさあ気を取り直して、お仕事頑張ろうか」
 気を取り直した灰ノ原は、いつものにやにやした表情へ。
 ――最低限、仕事の時と叶くんの前では、こうでないとねえ。

 ――最低限、誰かと一緒にいる時は、これじゃ駄目だよねえ。
 緑川は、気を取り直せそうになかった。
 抵抗する気力、どころか溜息をつく気力すら吸い尽くされたらしい白井。そしてそれを吸うまでもなく始めから気力満載だった黒淵は、なすがままとなった白井にしかし、ただただ寄り添っている。暴力的ですらあった言い寄りっぷりからは想像もつかなかった結末だが、その言い寄りっぷりを見ていたからこそ、恋人然として佇むその様子を微笑ましいとは思えず、ましてや羨ましいなどと。
 しかもそもそもにして、そう思っていられる気分ではなかったのだ。一方はまだまだ知り合ってから日が浅いとは言え、どちらも友人。その二人を前にするには、些かにも些かな些かさであった。
「おやつか何か、買ってくるね」
 この気分は良くない。しかし、良くないと言ってすっぱり切り替えられるものでも、恐らくはない。
「千尋さんは満足だろうけど、やっぱりみかんだけじゃなんだし」
 だから、一人で思い悩める時間が欲しかった。
 自慢ではないが、というか自慢になどなりはしないが、不幸には慣れている。近所の駄菓子屋への行き返りの間だけでも、気持ちの整理には充分だろう。
 ――力を相手に何もできない自分が嫌? そんなの、不幸そのものを相手にしてることに比べれば。初めから抵抗が不可能な、この体質に比べればねえ。
「あら。おやつ程度でしたらわたくし、あちらに戻れば用意できますわよ? それも、この家が埋まるくらい」
「いや、そんなにはいらないです」
 と言いつつ、ちょっと揺らいだ自分が憎い。おやつに釣られる男子高校生。見た目以外にもこういうところが女の子っぽいって言われるんだろうなあ、などと思ってしまうがしかしそれは、男だ女だという以前の問題であるような気も。
 が、ともかく。
「お客さんへ出すものなんだし、自分で準備します」
「そうですか? まあ、そうしてくださるのでしたらお言葉に甘えますが……。今時の男の子にしては珍しいくらいに律儀ですわねえ」
「でも、女の子じゃないですよ」
 そういったつもりではなかったのだが、とでも言いたげなくすんだ表情を向けられてしまうが、緑川は気にもしなかった。
 女ではない。だが、今の自分は、自分が男だと胸を張って言うことができる人物足り得るのだろうか? それを考えると、いつものように腹が立つことすらなかった。おやつの誘惑の件はもちろん、それより深刻な現在の悩みにおいても。
「行ってきます」
「あ、僕もお供しますよ」
 少しの間だけ一人で、と考えていた外出へ、白井が同行を申し込んできた。
 苦いような心持ちになる。が、断りを入れはしない。そうしたいというのは極めて個人的な理由であり、その理由をもってそうするというのは、どうも何か間違っているような気がしたからだ。――ついでに、申し出てきた白井の考えているであろうことも考慮して。
「じゃあわたくしもご一緒に!」
「あ、黒淵さんはできれば残ってください。黄芽さん達がほったらかしになっちゃいますから」
「そ、そうですか?」
 勢い良く立ち上がった黒淵は、しおしおと座り直す。そして白井はそんな黒淵へ、にっこりと微笑むのだった。
「行ってきますね、黒淵さん」
 黒淵は恐らく、その笑顔の内情に気付いてはいないのだろう。これまでしかめ面ばかりだった白井の微笑ということで、待たされることへの不満など忘れてしまったかのように嬉しそうな表情へ。
「行ってらっしゃいませ!」
 そうして二人で出ることになったのだが、部屋を出る直前、白井はこっそりと親指を立てて見せてくるのだった。

「いやまあそれだけじゃなくて、この辺一帯がちょっと物騒だったりするっていうのもあるんですけどね」
 一応は風呂場への扉越しに黄芽と双識姉弟にも出掛ける旨を伝え、緑川は白井と共に、雪の残った道を歩く。今は降っていないが、昨晩降ったものが残っている形だった。
 積もってから半日以上経った雪が残っている。つまり、それだけ寒い。少しだけこたつが恋しくなった。
「って言うと、さっき家の中で言ってたあれ? 動物が狙われてるって」
「まあ、そうです。狙われてるのが動物だとは言え、危険人物がうろついてるのには変わりないですからねぇ」
「ありがとう」
「と、言われるような事態が起こらないことを願うばかりですよ。……黒淵さん以上に厄介な事態なんて、そうそうにはないんでしょうけどね」
 そう言いつつほんの少しだけ笑い、しかし直後にいつもの溜息。わざわざその話に結び付ける辺り、どうやら相当こたえたらしい。
「成す術なしって感じだったもんねえ。修治くん、悪い人相手だったら凄い強いのに」
 ――そしてその修治くんよりも強い黄芽さん。ボクは弱っちいけど、もし千尋さんみたいに強かったら……ああ、わざわざその話にって言うなら、ボクもそうみたいだなあ。
「いやあ、女性から言い寄られるのって、もっと気分の良いことだと思ってたんですけどねえ。成す術なしで何もしなかったのに、とんでもなく疲れましたよ」
 人や車がさんざん踏み固めたらしい雪はさくさくと鳴らず、ぎゅっ、ぎゅっと小さな悲鳴のような音を立てるばかり。
 ……それこそ毎年毎年、何度も何度も聞いている音だというのに、そんなふうに形容してしまうのは初めてのことだった。小さな悲鳴。なんと気味の悪い例えなのだろうか、と。
「かと言ってもう一方の女性は、言い寄るどころじゃないですからねえ」
「あはは、そんなの全然想像できないよ。千尋さんがそんな」
「はてさて。内輪の人とご一緒するばかりで出会いの少ないこの職業、僕に春は訪れるんでしょうか?」
「あれ? 修治くんって、そういう願望とかあるんだ?」
「……そんなふうに見られてるんですか? ああ、春が来ないわけだ――と、おやあれは」
 恐らくこの後には溜息が続いたのだろうが、それより前に話が進んで今回はキャンセルと相成った。
「あれは、春でしょうか?」
「え? ち、違うよ。そんなんじゃ」
 白井にとってそれが「そんなふうに見られてた」という衝撃を上書きしてしまうほどのものだったのか、はたまたそれの登場にかこつけて気にしないようにしたのかは、分からない。だが緑川もまた、それの登場によって、そんなことを気にしてはいられなくなってしまった。
 横道の先、二人の視線の先から、ぎゅっ、ぎゅっという、こちらと同じ音。ただしそれはこれまでの年と変わらない、楽しげな音だった。
「ん? およお、千秋じゃんかあ」
 膝ががくりと崩れてしまいそうな声。背筋が固まってしまいそうな寒さの中でも、その威力は絶大だった。実際、白井がよろめいた。「な、いや、春……」などと意味不明な言葉を呟きさえした。
 ――修治くん、声を聞くのは初めてだっけ?
「奇遇だね、澄ちゃん」
「おっす。いやいやあ、なんだか今日はご機嫌かい? 良い顔しちゃってえ」
 良い顔。つまり、笑顔なのだろう。しかしそれは、隣で妙なことになっている白井が面白くてそうなっているだけだった。ついさっきまで白井といかにも男子同士な話をして、やはり笑っていたのだが、それでも内心では思い続けていることがあった。そしてそれは、今のこの笑顔についても同じだった。
 むしろ、思い続けていたことが増幅されてしまった。彼女の登場によって。
 しかし、それでも彼女がいると緑川は。世間が彼女のように優しかったら、とまでに彼女を評価する緑川は。
「雪踏んで歩いてたら、楽しくなっちゃって」
「そりゃまた子どもっぽいなあ。ま、気持ちは分かるけどねー」
「それで澄ちゃん、どこに行くとこ?」
「んー、小腹が空いちゃってねえ。ちょいとスウィーツなど買い求めようかなあと」
「ポテトチップスはスイーツって言わないと思うよ澄ちゃん」
「ありゃあ、ばれてら」
「わさび味ってとこまでばれてるよ」
 長年の付き合いから得た彼女の好みを言い当てたところ、白井が呟いた。
「スイーツどころか辛いじゃないですかそれ」
 ごもっともだった。
「この場合、スパイシースになるんでしょうか? それとも、無理があるからちょっと妥協してスパイツ?……あ、そういえば確かホットにも辛いって意味があったから、ホッツとか――」
 くどかった。
「どうでしょう?」
 無視した。
「ま、返事できる状況じゃないですけどね。わさび独特の鼻に来る辛さを果たして英単語が想定してるのかどうかも不確かですし――あそうそう、こういうこともあろうかと雪をすり抜けて歩いてましたから。足跡は残してないですよ」
 それはさすがに無視できない。言われて初めて気付いた緑川であったが、ここまで確かに、雪を踏む音は自分のものだけだった。誰もいないのに足跡と足音だけがついて来ている、というのはホラーな現象そのものなのだ。そしてそれはもちろん、目の前の彼女についての話。
 その彼女こと水野澄は眼鏡男のくどい話が展開されている間、緑川が「楽しくなった」と言ったことで気になりだしたのだろう、わさび味までを看破されたことへ照れたような笑みを浮かべたまま、雪を踏み鳴らしていた。
「ボクもおやつ買いに出たところなんだけど、一緒に行かない?」
「訊くまでもなかろうよ。それにどうせ、目的地は同じでしょお? おやつ買うってんだしさあ」
「まあ、ね。あはは」
 子ども達がちょっとした小遣いで菓子類を買う時、この近辺では、最寄りのコンビニよりも先にその候補地に挙げられる店が存在する。そこは表に酒屋の看板を掲げていて、だがその実、陳列棚の殆どが駄菓子類で占められていたりする。なので大人の客よりは子どもの客のほうが圧倒的に多いという、良く言えば地域のニーズに応えた、悪く言えば節操のない店である。
「さあ行くぞ千秋! あんまりちびっこに人気があるとは思えないあたしのお気に入りのもとへ!」
「いや、ボクは塩味かコンソメ味なんだけどね」
 ――そのちびっこにも、食べてもらうんだし。
 そう言えばちびっこ二人、それと黄芽は風呂から上がったのだろうか、などと考えながらも、ずんずんと前を歩き始めた水野について行く緑川。何を遠慮しているのか白井はその更に数歩離れた位置を歩いてきていたが、気にしないことにした。

「んあ? なんだ、あいつらまだ帰ってきてねえのか」
「今さっき出て行ったばかりじゃないですか」
「あれ、そうだっけか」
 いろいろと考え事を済ませた黄芽が双識姉弟とともに緑川の私室へ戻ると、そこにいたのは黒淵ただ一人。出かけ際に声を掛けられてからもそれなりに時間が経ったと思っていたが、案外そうでもなかったらしい。
 ――あー、すっげえ空回り感が……。そっか、まだ帰ってなかったのかあいつら。てっきりもう帰ってるもんだと――――テンパってんなあ、俺。
「千秋お兄ちゃんと修治お兄ちゃん、おかし買いに行ったんだよね?」
「はやく帰ってきてほしいなー」
「帰ってきたらまずお礼だぞ、お前ら」
『はーい!』

 赤と青が二人揃った元気のいいお返事によって一層、自ら、おかしへの期待を膨らませている頃。
「おんやあ? 大人のお客さんだねえ珍しい」
 緑川一行が目的の酒屋に到着して即、そう声が上がる。しかし緑川も水野も一応は酒屋で大人扱いされるような年ではなく、白井に至っては存在を視認されておらず、なのでその呼び掛けは店主から三名に向けてのものではない。
「おや、これはこれは澄ちゃん。彼氏を連れてデートかい? それにしては、ムードのない場所だと思うけどねえ」
 水野の呼び掛けに応えたのはちょうど店内に居合わせた、高年に差し掛かっているとも言える中年男性。その言い草にカウンター向こうで新聞を広げている店主が咳払いをするもそれは、子どもを主として地域にしっかりと根ざしているこの店において、よくある光景なのだった。
「花より団子よりポテトチップスわさび味なんで、ムードなんか知ったこっちゃねえってやつですよお」
「こんにちは、藍田あいださん」
 へらへらと手を振ってとても女子らしからぬ物言いな水野に続き、知り合いへ頭を下げる。彼氏などと言われている以上は、緑川もこの男性のことを知っているのだった。
「こんにちは、千秋くん。いやはや、一度性別を入れ替えてみたらどうだい君達。ちょくちょく言ってるけど」
 こけたような頬、弱々しい笑み、そして白髪が混じり始めている髪。一見頼りなさそうなこの男性、実際にも何もないところで転びそうになっていたり、雨の日には高確率で傘を差さずにずぶ濡れで帰宅しているところを目撃されたりと、様々な意味でかなり頼りない人物だったりする。
 ――今日なんて雪積もっちゃってるしなあ。滑って転ばないかなあ。
 というような調子でこの近辺ではそれなりの評判を受けている藍田という人物なのだが、緑川と水野にとっては、それよりもう少しだけ馴染みの深い人物であったりもする。
「ちょくちょく言われる度に言い返してるけど、あたしはそれもいいと思うんですよねー。でも言われる度に言い返してるからそれはいいとして、うちのお父さんは元気でやってます?」
「元気も元気。電話なんかしてあげたら、もっと元気になるんじゃないかな?」
「残念、昨日したとこでーす」
「あー、じゃあ明日辺りはハッスルされちゃうのかなあ」
 はっ、はっ、はっ、という、今にも霞んで消えてしまいそうな笑い声が続く、そんな話。そこからも察せられるように、藍田は水野の父と、仕事上の関係において近しい立場にいる人物である。そのうえで水野家の事情もある程度把握しており、その事情のせいで両親と一緒に暮らせない水野と両親のパイプ役を務めていたりもする。
 ……のだが、しかし実際のところ、いま水野本人が言ったように連絡自体は問題なく取られているので、だからこそ緑川が彼に見るその役割は、パイプ役「っぽいもの」ということになっていたりもする。
「それで藍田さん、今日はお酒ですか? こんなお昼から」
「店の人に言われるんなら分かるけどさあ。それに千秋くん、買ってすぐ飲むってわけじゃないよ? って言うか、飲むだけが酒の用途じゃないよ? 料理に使うこともあれば消毒にだって――」
「藍田さんが料理するなんて初めて聞きましたし、消毒にお酒使うなんてワイルドなことするくらいなら素直に消毒液買ったほうがいいと思いますけど」
「…………買ってすぐ飲むってわけじゃないよ?」
「飲むんですね?」
「ちょっとだけ。一杯だけだからさ」
 拝むようにして頼み込んでくる藍田に対し、腰に手を当ててむくれる緑川。どうしてだか、この人物を前にするとこんな調子になってしまうのだった。
 そんな緑川の肩を、水野が叩く。
「いよっ、良妻」
「妻じゃないよ! 男だよ!」
 そんな突っ込みもいつものことで、藍田も弱々しい笑みを浮かべるばかり。しかし今回は、それに初めて対面した人物がいる。その人物は眼鏡を指でくいっと押し上げつつ、「いや、これは意外な一面ですねえ」と。
 幽霊相手にこの場で返事はできないがしかし、素直に驚かれてしまうと、怒ることすらできない。なので、緑川はそこで消沈。
「妻かあ。婚期なんて、すっかり逃してしまったからねえ。はっ、はっ、はっ」
 白髪交じりの頭をぽふんと押さえ、いつものように笑う藍田。中年から高年に差し掛かっている彼は、独り身という立場に甘んじているのであった。
「妻じゃないですけど、その年で独身で料理ができないっていうのはどうかと思いますよ」
「うーん、軽く死にたくなるようなこと言ってくれるなあ」
「いよっ、恐妻」
「だから! あとさらっと死ぬとか言わない! もうお酒禁止! 少なくとも夜までは禁止!」
 荒い声。続いて店内を覆う、しばしの静寂。しかしその後、店長が小さく吹き出す音だけが短く店内の空気を叩く。
 そしてそれを合図にしたかのように、緑川は水野と藍田の両名から一方ずつ、同時に肩を叩かれる。
「……どういう意味? この手」
「可愛いよお、千秋い」
「はっ、はっ、はっ」
 そんな二人に挟まれてむすっと頬を膨らませる緑川だがしかし、その二人の向こうにいる白井が何かを言わんとする気配。
「非常に面白いです、千秋くん。これは是非黄芽さんにも教えてあげないと」
 ――帰ったら、一発ぐらい引っ叩いてもいい?

 ――ほっほう、ようやく叩き潰せるか。
「こっちに向かってるんだね?」
『はい。現在の距離はそこからおよそ五百メートル、灰ノ原さんが立っている通りを南から北へ、徒歩の速度で移動中です。その場の猫が目的地と見て間違いはないと思います』
 紫村から、今回の相手を感知したとの報告。そして、その反応がこちらへ向かっていると。待ちに待って焦がれに焦がれた反応が。
 今の時点で、胸がすく思いだった。
「さて。道まで分かってるんだったら、じゃあここで待ち構えるかこっちから出向くかだけど……ああ、それはこっちで勝手に決めるから、紫村さんは叶君に連絡お願い。『ゆっくり来てくれていいよ』って」
『了解しました。では、仕事もその後もお気を付けて』
「何かあったらまた宜しくね。ではでは」
 今回の通信は、自分から切った。それで何が変わるわけでなくとも、気分を切り替える切っ掛け程度にはなる。恋の病もどきは部屋の隅へ。
 ――さてさて、今回はどんなワルモノが出てくることやら。たった五百メートル手前でやっと感知したってことは、思い付いた時に手当たり次第ってやつか。そしてその悪意もこれまで、犯行直後にはもう消え失せてしまっていて……。
「ンヒヒ、こりゃすっげえクズ野郎だねえ」
 笑いに合わせて車椅子がカタカタと音を立てる。
 相手についての評価を定めたところで、次の議題はここで待ち構えるか、それともこちらから出向くかというもの。五百メートル程度なら、どちらにしたところで大した差がないのも事実。ならば、考慮すべきは結果以外の面である。
 ――まず、そもそもにしてその「こちらが想定した結果になるのかどうか」だ。他でもない紫村さんが言う以上、相手の現在の狙いはこの猫であることはまず間違いがない。だけど、ここに辿り着くまでそれが継続されるだろうか?
「ンヒヒヒ」
 車椅子がカタカタと音を立てる。
 ――相手はクズだ。思い付いた時に思い付くがまま、しかも生き物の頭を叩き潰しておいて悪意が即消えるってえ人でなしだ。この猫を目指していると言うなら予め場所を知っていなけりゃならないし、ということは初めてこの猫を見付けて知った時に、手を出さなかったということになる。犯行は本当に気まぐれだ。ならもし、五百メートルの間にまた別の動物を見付けたとしたら? 前置きも後腐れもなく殺しができるイカレ野郎が、わざわざそれを見逃してまで当初の予定を遂行するだろうか? ここに来るだろうか? やる気になってるのに?
「ンヒヒヒヒ!」
 ガタガタと音を立てる。
 ――来ないさ! 来ないねえ! ならこっちから行くしかないねえ! よりにもよって元医者相手に無差別な殺生たあいい度胸じゃないの!
 昂ぶり、震え、ざわつき、そしてガタガタと揺れる胸の内。今回の相手は、既にいくつもの殺しを重ねた。ならばこちらもそれ相応に――と、言いたいところではあるが。
「……ふう。そいじゃ行きますか」
 相応なのは、出始めのみ。それで充分であり、そしてそれ以上は、及ばざるが如しというものにあたる。
 ――でもまあ、加減しないってのはいつものことなんだけどね。ボクが手を出す以上は。
 最後にそれだけ確認した灰ノ原は、軽く右手を持ち上げ、指を鳴らした。
 ぱちん。
「おっ、上手く鳴った」
 気分の切り替えを表したかのような、軽い軽い音だった。

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