第四章
「一寸先は闇。一寸先の闇からぼく。しばし、お付き合いくださいな」



 ぎゅっ、ぎゅっ、と小さいながらも楽しげな音。これを一時でも「小さな悲鳴のような音」と表してしまったことは、今ではもう、気の迷いだったとしか思えなかった。
 ――いやまあ実際、気の迷いだったんだろうけどね。
 家を出る前にも思ったことだが、この買い物中に収まってしまうものだと予想は立てていた。それが実現しただけであって、何を戸惑うものでもない。
 ――お礼なんて言ったら、変な顔されるんだろうなあ。
 たとえこの平静が友人達によるものであっても、予想通りは予想通りであるのだった。一人だけ友人と呼ぶにはやや違和感のある年齢の男性もいるが、それは些事として済ませておくべきだろう。
「ああ、夜が楽しみだ。はっ、はっ、はっ」
 するめのパックと一升瓶が入ったビニール袋を片手にご満悦の表情で、笑い声に合わせて白い息を吐く藍田。その隣ではビニール袋を断ってわさび味スナック菓子を片手に、同じような表情の水野が、藍田の笑い声を真似して同じように白い息を吐いていた。白井はそれを面白そうに眺めていた。
 自分の周囲の世間がずっとこうだったらいいのにとは、今でも思っていた。だが今、それは、少し前までの卑屈な願望ではない。楽しい時なら誰もが考える、ささやかな希望であった。
「千秋くん」
 ――なのに。
「無視です。気付かない振りをして、そのままやり過ごしてください」
 ――なのに、どうして。
「無視? やり過ごす? じゃあ見えてるんだ、そこの眼鏡の人と今話し掛けた女の子。僕のこと」
 ――なのにどうして交差点の真ん中にメリケンサック付けて突っ立ってる人がいて気味が悪い目でこっち見ててなのに澄ちゃんも藍田さんも気付かなくて修治くんが怖いこと言うの?
「ボクは――」
 ――ボクは。
「ん? どしたあ千秋い。雪踏むのが面白いからって立ち止まるのはナシだぜえ。寒いじゃんよお、早く帰ってわさび味したいじゃんよお」
「おじさんは帰っても寒いんだけどねえ、少なくとも夜までは。はっ、はっ、はっ」
 ――ボクは、ここにいたいだけなのに。
「ごめん澄ちゃん、藍田さん。ちょっと用事思い出したから、先に帰ってくれていいよ」
「つれないこと言うなよお。用事あるんならそっちにも付き合うよお」
「おじさんも夜までは孤独だからねえ。よければご一緒して寂しさを紛らわせたいところだねえ」
 ――そんなこと言わないでよ。困るよ。ボクはもう、一緒にいられないんだよ。一緒にいたいけど、駄目なんだよ。あの人がこっち見てるんだよ。またボクなんだよ。巻き込んじゃうんだよ。ここにいられないだけじゃなくて、ここが壊れちゃうんだよ。
「そろそろねえ、人間もいいかなって、思ってたところなんだよね。いや、今、近くでいつも通りのことしようとしてたんだけどね」
 ――ボクはもうここにいられないし、それにいつも通り、自分じゃあ何もできないんだよ。だから、お願いだよ。行ってよ。自分が無力だってだけでも辛いんだよ。その無力のせいで二人に怪我なんてさせちゃったら、ボク、もう。きっと。
「千秋くん、大丈夫です。たとえあいつが修羅だったとしても、僕が全力で何もさせません。だからこのまま、先に家に帰っていてください」
「ん? 眼鏡の人、修羅とかそういうの知ってるんだ? 知っててそんなこと言うんだ? じゃあもしかしてあれ? 鬼とか、夜行とかってやつ?」
「その通りですよ。殴り合いの相手なら僕がします。一方的に殴りたいって言うなら、それも僕が引き受けます。だからどちらにせよあなたの相手は僕です。一般人への手出しは絶対にさせません」
 ――助けてくれる。前の時と、前の前の時と同じで、助けてくれる。その二度とも助かってるんだから、今回もこれできっと。
 信頼もあれば、それに沿った実力と実績もある。だから緑川は、力強い白井の言葉に安心できた。
「おーい、千秋ー? まさか立ったまま寝てるなんて言わないよねー?」
 だがそこで、聞き覚えのある声が頭の中に響く。
 ――で、自分はまんまと弱いままだ。毎回こんな思いし続けるつもりか? なんかあるたんびに助けられて、終わってからウジウジして、んなこと死ぬまで続けるつもりか? 強くなりてえって、変わりてえって思わねえのか? 例えばホレ、千尋さんみてえによ。
 自分の声。である筈なのにとても自分のものとは思えない、苛立ったような声。
「千秋君、もしかして具合でも悪くなったかい? いや、もしそうなら用事なんて言ってないで、いったん帰ったほうがいいんじゃないかな?」
 そしてもう一つ。とても自分のものとは思えない、儚げな声。
 ――もしくは、世間が変わってしまえばいい。自分でも思ったもの。世間が、澄ちゃんみたいに優しかったらいいのにって。そうなればもうこんなことは起こらないし、こんな思いをしなくても済む。さっきみたいな優しい時間に、ずっといられる。だよね?
 こちらには、聞き覚えがなかった。だけど聞き覚えがあるほうと同じく、確実にそれは自分の中にいた。自分でないような、でも自分でないとおかしい、そんな何かが。
 返事をすべきか。緑川は迷った。自分から問い掛けを受けている。ならばそれに答えてしまうと、自分はその通りの考えになるのだろうか? 自分が変わろうとするか、世間を変えようとするか。その方法なんてものは何一つ思い浮かばないが、そうしようと考えるようになるのだろうか?
 そうなれば、救われるのだろうか?
 ――そんなの、どっちでも……。
 自分の中の自分二人に返事をする。しようとする。だが、その時。
「ほい到着っと。いやあ、動いて正解だったよ全く。まさかこんな鉢合わせが起こっちゃうなんてねえ」
 メリケンサックの男と白井のちょうど真ん中、地面に突如現れた黒い穴。そこから灰ノ原が、頭だけを出していた。
「うおわっ!?」
 さながら、地面で行われる黒ひげ危機一髪。その奇怪さにメリケンサックの男が驚き、素っ頓狂な声をあげつつ後ずさる。
 緑川はその穴を、前回ナイフ使いに襲われた時に見たあの世への通路かと思ったが、しかしそれよりは随分と小さい。いつも座っている車椅子のことを考えると、灰ノ原一人が通るのがやっとといった広さしかなかった。
 灰ノ原の鬼道がどういうものかは大体ながら把握していたし、あの世への通路という、これに類似したもの(もしくはサイズが違うだけの同じもの)を知識に留めていたりしたおかげで、目の前の悪人然とした男のような声は上げずに済んだ。が、困惑しないわけではない。
 しかしそんな緑川は気に掛けず、白井は安堵の溜息を吐く。
「ということは、お任せしても?」
「そりゃもう、是非とも。ぼくの仕事だし。それに叶くんもこっちに向かってるから、全く心配要らないよ」
「そうですか、それは良かった」

 自分の中からの声を聞き、灰ノ原が現れ、その灰ノ原と白井が短い遣り取りを交わしている間にも、緑川は水野と藍田から声を掛けられ続けていた。それに対する返事ができたのは、灰ノ原が全てを引き受け、メリケンサックの男と二人であの場所に残ってくれるという話になってようやくのことであった。
「めんどくさがりだなあ、千秋はあ」
「いや、だってほら寒いし、せっかく買ったお菓子も早く食べたいし」
「そりゃ同感だけどねー」
 話の途中ででっちあげた「思い出した用事」は、面倒なので後日に回す、ということにしておいた。
「早く食べたいでしょ? だから千秋君、おじさんにも帰宅後すぐの飲酒許可をだね」
「それは駄目です」
「飲みたいんだよぉ……」
 気分は最悪だったが、それでもこの場所にいられるなら、そんなことは些事でしかない。そして些事で済まさせてくれるからこそ、ここを離れたくないのだ。
 背後からふっと、楽しげな色を孕んだ息遣いが聞こえてきた。
 いつも溜息をついている彼ですら、しかも見ていることしかできない状況ですら、こうなってしまう。そちらを振り返ったりはしなくとも内心では嬉しく、そしてそれ以上に誇らしかった。それは同時に、自分をこの場所へ繋ぎ止めてくれた彼、そして灰ノ原についても。
 だからこそ、誇らしいぐらいに大きな存在であるからこそ、それに憧れる。
 自分で不幸に立ち向かえるよう、みんなみたいに強くなりたい。
 みんなみたいに優しい世間になって、不幸がなくなればいいのに。
 それらは先程、自分のような誰かが言っていたことだった。だが今回は、はっきりと自分の声だった。自分の中の誰かでなく自分自身がそう思って、自分自身の言葉でその思いをそう表現した。誰かはもう、出てこない。
 ――流されやすいってことなのかな、これって。

「で、なんか言っときたいことある? 散々好き勝手やられて散々逃げ回られて相当頭にきてたりするけど、そんなのに流されてちゃあこんな仕事やってられないからねえ。堪えに堪えて訊いておくよ」
 緑川一行が場を去ったあと、頭だけの灰ノ原は目の前の男に尋ねる。
 若干ながら、早口なのであった。
「あー、じゃあまずは真っ先に思いつくのを一つ」
 睨み付ける、と言うよりは眩しくて目をしかめた時のような目をしているその相手は、そんな目でありながらも苦笑い。
「そのままでいいの? えーと……鬼のおじさん」
「あ、灰ノ原学といいます。首だけなのについてはちょっと待っててね。それと、ほらあっち」
 流されないなりの受け答えのあと、その顎であるものを指し示す。目の前の男が歩いてきた方向と逆、つまり灰ノ原が進んできた方向であるその先には、
「うっわ、何あれ気持ち悪っ」
 灰ノ原の首から下全てが、車椅子も含めて、道路の真ん中に佇んでいた。右手でくいくいと自分を指してすらいる。
「ま、これがぼくの鬼道ってわけだねえ。分かりやすく言えば、ワープホールってやつ?」
 少し離れた位置の、灰ノ原の体。その頭部があるべき場所には、今ここで灰ノ原の首が生えている黒い穴と同じものが浮かんでいた。
「にしたってさあ、『気持ち悪っ』、はないんじゃないの? 頭が無くなった生き物なんて、沢山見たでしょうに」
「いやあ、さすがに自分をくいくいやってるのは初めてで……あっ、なんか下がりだしたけど? 黒いのが」
 眩しそうな目の男が指を指す先では、黒い穴が地面へ向けてゆっくりと下がり始め、灰ノ原の体を飲み込み始めていた。
「移動開始ー」
 それに合わせ、こちらの側から灰ノ原の首から下がゆっくりとせり上がってくる。
「……もうちょい速くはできないの?」
「待ってくれるんだ? 優しいねえ」
 非常に、と頭に付けて問題はないくらいのゆっくりさであった。
「いやあ、なんかこう、やる気とかそのへんがごっそり持っていかれてるって言うか」
 眩しそうな目の男は、短いながらもボサボサの髪の毛に指を突っ込み、頭をぽりぽりと掻く。
「ありゃまあ、それはそれは。いやね、自分から穴に入る形だと、普通に移動できるんだけどね」
 地面からせり上がりつつ、灰ノ原は、元から持ち上がっている口の端を更に持ち上げた。
「んじゃあなんでそんな、頭だけ出すなんてこと……」
「そりゃあもちろん、驚かせて動きを止めるためさあ。知り合いがいたからねえ」
「へえ」
 地面からせり上がるのを待ちつつ、眩しそうな目の男は、呆れの余りへの字になっている口の端を持ち上げた。
「なんでそこで笑うの?」
「え?――いやいや何でもないですよ、灰ノ原さん」
「ふーん?」
 ――クズ野郎だねえ。
 顔には出さない。それは特に困難な作業でもなく、実にいつも通りの運びである。なので、この場面でちょうど「ところでさ」と話し掛けられても、やはり顔色に変化はないのだった。
「何かな? そろそろ移動完了だけど」
「いやそのさ、それが完了したら戦うわけだよね? 僕とおじさん」
「だねえ。ま、闘いになればいいんだけど」
 もちろんそれは挑発の意図があっての発言だった。だがこの相手は眩しそうにしかめた目をぴくりとも変化させず、それどころかその口は、にやりと歪められる。
「自信があるのは結構だけど……車椅子だし、武器っぽいもの持ってないしさ」
「心配ご無用。これまでだって何度も何度も繰り返してきたことだし。何度も何度も、何度も何度も何度もね。で、そんなぼくがまだこの仕事やってるってことは――」
「負けなし?」
「ラッキーなことにね。いや実際、他のみんなには勝てる気がしないんだけどね? 主に若さとかの問題で」
「はっはあ、そりゃ面白そうだ。ついに捕まっちゃったんだもんねえ。だったら楽しめないとさ」
 ――勝てる、と思ってるわけじゃあなさそうだねえ。負けてもいいからってことかな? でもそれだったら初めっから鬼を襲ってりゃいいわけで……はんはん、なるほど。
「移動完了。さ、どっからでも掛かっておいで」
 車椅子の車輪の下端まで移動し終えた灰ノ原は、立てた中指をくいくいと引いてみせる。相手との距離は二歩ほど。飛び掛かられれば、動いて逃げるのは間に合わないだろう。だがそれもやはり、いつものこと。
 飛び掛かられる際、あちらから声を上げられることはなかった。
 ――せっかちだこと。
 だがそれもやはり、たまにはあること。
 戦闘開始。灰ノ原は、ぱちん、と指を鳴らした。

 予想通り、と言うよりはいっそ期待通りに雪道で転んだ藍田(一升瓶は腹に抱えて見事に死守)と別れて、暫く。
「じゃーねえ千秋い。また明日あ」
「ばいばい、澄ちゃん。また明日」
 ぶんぶんと大袈裟に振られる手はビニール袋を掴んでおり、揺られる袋がガサリガサリと騒々しい。だがそれすら、発信源が彼女であるなら、緑川にとっては楽しげな音となる。
「賑やかな女の子ですねえ」
 離れていく彼女の背に視線を送りつつ、白井が何やら含むところのありそうな声で。
 しかし含むところはともかくとして、その言った内容についてはその通りだとしか返せない。自慢の友人ですらある。
「おかげで毎日大変だよ」
「好きだったりとか?」
「直球過ぎるよこの鬼。そんなことないからね」
「そうですか? いや、どっちにしたところで答えはそうなるんでしょうけど」
 にやける白井。しかし、そのにやけ面と眼鏡の組み合わせから思い返してしまうのは、、ついさっき助けてもらった人物。
「灰ノ原さん、大丈夫かな」
「ありゃ、話逸らします?」
「そうじゃなくって、真剣に」
 ――自分は修羅だ、って口ぶりだったし……。
「ですか。でも、大丈夫ですよ。直接殴り掛かってくるような相手に負けるわけがないですから、あの人が」
 それは、あの眩しそうな目の男が装着していたメリケンサックを見ての発言だろう。あの凶器がどう振るわれる物なのかぐらいは、緑川にも理解できた。
 がしかし、それがどうして、「灰ノ原は負けない」ということの理由になるのかまでは。
「それは、どうして?」
「灰ノ原さんの鬼道は知ってますよね?」
「あ、うん」
 どういうものだと詳しく説明を受けたことはないが、何度か見たことはある。最近では、金剛とナイフ使いの戦闘後、連絡を受けた彼がそこへ駆け付けた時だ。
「知ってるけど、それがどうして……?」
「まあ、簡単な話ですよ」
 白井の簡単な説明が始まった。

「ぶがはぁッ!」
 奇妙かつ荒々しくかつ痛々しい声とともに、鉄の輪を巻いた拳が腹にめり込む。眩しそうな目をした男が放った素直な右ストレートは、なんの回避運動も防御行動も取られないまま、素直に炸裂したのだった。
 ただしその腹とは、眩しそうな目をした男のものである。
「お見事」
 よろよろと後退する男へ、灰ノ原はぱちぱちと、余裕の表情で拍手を送っていた。
 後退する前の男の拳が伸びた位置と、男の腹の前にあたる位置には、黒い穴が一つずつ。それはちょうど拳が通る大きさであり、つまり灰ノ原は相手の拳を、相手の腹へ向かうように移動させたのである。
「ごっ、は……!」
 みぞおちにでも入って息が詰まっているのか、男から呼吸のなりそこないのような声、もしくは音が、漏れてくる。その時、そんな彼へにやにやとした視線を送る灰ノ原の前から、二つの黒い穴が消え去った。まるでそこには初めから何もなかったかのように跡形なく、そして一瞬のうちに。

「つまり、何でも返せちゃうってこと?」
「穴を通りさえしてくれれば、何でもですね」
 自分の顔を殴るようなジェスチャーを見せられた緑川は、あっさりと納得。実際に灰ノ原の鬼道を見た経験がある以上、そうなる場面が易々と想像できてしまう。
「あー、なんて言うか、灰ノ原さんらしいというか……」
「人をおちょくってるようなところとか、ですか?」
「いやいや、そんなつもりじゃないんだけど」
 しかしそうは言いつつ、灰ノ原のにやけ面が頭にこびりつきそうな心持ちの緑川なのであった。
「千秋くんがそんなつもりじゃなくても、それがあの人ですからねえ」

「これがぼくの鬼道、『好奇の穴』の戦闘における使い方さ。便利でしょ?」
 そんな問い掛けへ返事が返ってくるまでには、やや時間が掛かった。しかし暫くしてその男は、前屈みに丸められていた背中を伸ばし、落ち着いた深呼吸を一つ。
「便利だろうけど、くっさい名前だね」
「ああ名前。これね、大好きな女性に付けてもらったんだよ。だから、馬鹿にすると怒っちゃうよ? えーと……そう言えばまだ名前、聞いてないね」
「くっさい名前の次は子どもじみてるねえ。大好きって、小学生でも言わないよ今時。板梨いたなし善郎よしろうです」
 そんな憎まれ口の間、ダメージを引きずっている様子は微塵もなかった。それはそういう振りをしているなどという話ではなく、真に、微塵もない。
「まあまあ、見ての通りのオッサンで世代が違うからさ。今時を説かれても困っちゃうんだなあこれが」
 ――手加減が間に合ってた様子もなかったんだけどねえ?
「というわけで今時を知ってる、恐らくは若いキミ――板梨くんの話に移ろう。いや、若いだけあって元気だねえ? さっき自分で自分をぶん殴った割にさ」
 目の前の青年、板梨善郎。外見から察するその年齢は、あの不幸少年よりやや上、と言ったところだろうか。
 ――まあ、緑川くんの外見が年齢よりやや幼いってのもあるんだろうけどね。
「さらっと頭に来ること言うね、灰ノ原さん。まあ、一応は若いつもりだけどさ。幽霊に年齢なんてあんまり関係ないけど」
「いやいや、挑発とかじゃなくてね? ほら、手にそんな危なそうなもの嵌めてるしさ、修羅だしさ、それで思いっきりやっちゃって立ってられるなんて、見掛けによらずタフだなあって」
「そりゃまあ……」
 自分を殴った自分の右拳を胸の前へ持ち上げ、返したり戻したり表から裏から眺め回す。ならばそこに何らかの理由があるのだろうか、と灰ノ原は考える。
「実はその嵌めてるやつ、見た目に反してゴム製だとか?」
「いやいや、もっと簡単な話でね。それが僕の鬼道ってだけ」
 適当も適当、冗談が九割五分の軽口だったが、板梨はあっさりと種を明かした。
「ん? 怪我とか治せるってこと? 知り合いにそんな人が――」
「ああそうじゃなくて、殴ったりなんだりで発生する痛みをなくせるわけ。思いっきりぶん殴っても、思いっきり強い力で押されたってくらいにしか思わなかったりね。それに、さすがにちょっとくらいは力抜いたんだろうし」
 軽々しい、実に軽々しい笑みを浮かべてそう説明した板梨はしかし、それを言い終わるとまた別の種類の笑みをその顔に。
「まあ痛みがなくなるってだけで息が詰まったりはそりゃするけど――ははっ、それにしても、まさか自分を殴ることになるなんてねえ」
 それは子どものような笑みだった。無邪気な、そして無闇な。
「そんなきみの鬼道はなんて名前?」
「非痛知。ツウは通るじゃなくて痛いって字ね」
「当て字なの?」
「だって、真面目な名前とか恥ずかしいでしょ?」
 ――そういうもんかねえ? ってのはともかく。
「これまで殴り殺した動物たちも、痛みは感じなかったのかな?」
「だろうね」
「ふーん。それ、使ってたわけだ。どうせ全部即死なのにまたどうして?」
 その質問をした途端、彼の表情にほんの僅かな変化が。口元は微笑んだまま、目だけが微笑む前の状態に戻る。そして微笑んだままの口からもたらされる返答は、
「痛くないほうがいいでしょ、そりゃ」
 至って普通な内容だった。殺したのが自分だという点さえ考慮しないでおけば、だが。
「殺さなけりゃいいんじゃない?」
「僕を追っかけてたんだから気付いてると思うけどさ――」
 もう一度、彼の目が微笑む形に歪む。尋ねられたことが嬉しいとでも言うかのように。
「殺したの、全部捨てられたやつらなんだよね。なんでか分かる?」
「さあ」
「飼われてたのがいきなり外にほっぽり出されたらさあ、ほっといても死んじゃうもん。餓死とか病気とか……この季節だったら、凍死とかもあんのかな? なら、僕の鬼道で苦しまずに死んだほうが楽でしょ?」
「なるほどね」
 至って普通な内容だった。
「嘘だろうけどね」
 至って普通。笑顔のままでそう発言しているという点さえ考慮しないでおけば、だが。
「嘘?」
「ああ嘘も嘘、大嘘だね。動物の頭叩き潰して、その後に悪気なんて全くないでしょ? 毎回。今言った理由は建前で、本当の理由があるわけだ。そう言えば板梨くん、ぼくに見付かった時も、慌てる様子なんて全くなかったよねえ?」
 嘘だと断じたその理由。それを告げている間に、板梨の笑顔の質が変わり始める。
 子どものように無邪気な笑顔から、邪気の篭った笑顔へと。
「へえ。悪意で追っかけてるって噂、本当だったんだ」
 ――それを知ってたから、わざわざここへ?
 板梨が引き起こした事件は初め、この町とは別の所で発生していた。それがじわじわと移動し、そして最近、この町へ辿り着いた。
 のだが、どうしてだか彼はここへ居着いたのである。この町が特別に動物を捨てる輩が多いというわけでもなし、その理由はこれまで、よく分からず仕舞いだったのだが――。
「捕まえて欲しかった、なんて青臭いことは言わないよね? ニコニコしたままそこに突っ立ってて」
「そりゃそうさ。だから――」
 言葉が途切れ、呼吸に変化。直後、板梨が踏み込んでくる。直後の直後、拳が伸びてくる。
 灰ノ原は指を鳴らした。ぱちん、という音に合わせ、またも黒い穴が二つ。
「殴るッ!」
 その声とともに右の拳が引っ込められ、入れ代わりに左の拳が、黒い穴とは重ならない角度から灰ノ原の顔面へ飛び掛ってくる。
 ――穴の向こうで、笑ってるんだろうねえ。
 相手の顔面の前に出した「出口」の穴。その向こう側を想像し、灰ノ原は口の端を持ち上げる。
 それは余裕でなく、負け惜しみでもなく、賞賛であった。
 ――この嘘つき。

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