第五章
「過ぎたるは及ばざるが如し。それでもあの人は、過ぎ続けるのでしょう」



「直接殴り掛かってくるって言うと、あの人を思い出すかなあ。嫌だけど」
「ん? 誰でしょう?」
 灰ノ原と板梨が二度目の攻防に入る頃、まるで平穏な空気になっている緑川と白井は、緑川宅へのあと少しの道のりを平穏なまま進んでいた。
 平穏だからこそ、平穏でない話を切り出せる。
「ほら、初めて求道さんと会った時に千尋さんと――」
「……ああ、女の人のほうですか。確かにあの人も直接殴る感じでしたよね」
 鉄製の篭手を両手に嵌めた、炎を操る姉弟の姉。印象が薄いわけもないのだが、白井が彼女のことを口に出すまでには若干の間があった。
「弟くんのほうは、そりゃもうごっついもの振り回してましたけどね」
「うん。あの時は、ありがとう」
 ――やっぱり、話しにくいかなあ。ボクの前じゃあ。
 三人組だった彼等。なので当然、うち一人を話に出せば、ほか二人も思考に浮かび上がることになる。
 彼等の目的は、自分だった。
「ところで、求道に『さん』付けはどうなんでしょう?」
「あー……うん、でも、なんだかね……」
「ま、千秋くんはそっちのほうが合ってますけどね。物騒なのは僕達の領分ですから」
 そう言ってもらえるのは、実にありがたかった。「弟くん」との戦闘を思い返せば、二度も三度も百度でも、頭が下がる思いだった。
 ――だけど修治くん、本当にごめんなさいなんだけど、ボクはそれがちょっと――。

「さすがは鬼。そこらの動物みたいにはすんなりいかないねえ」
「負けなしって言ったでしょ? すんなりどころか最後までなってあげないさ、首なしにはね」
 二度目の攻防。そして、その後の遣り取り。
 車椅子は吹っ飛んでいた。灰ノ原は、その上から更に吹っ飛んでいた。吹っ飛んだ先の地面に寝転び、しかし頬杖をついて、にやにやとしたまま板梨を見据えている。
「で、寝っ転がったままでどうするの? それによくもまあ、あんな単純な手ですんなり殴らせてくれたもんだね? 負けなしさん。しかも」
 板梨の視線が僅かに角度を変え、灰ノ原の右腕へ。頬杖をついている左腕に対してその右腕は、肘辺りを腰にだらんと引っ掛けられている。一見しただけならただくつろいだ結果そうなったものとも捉えられるが、板梨にとってはそうではない。
「折れるか、少なくともヒビくらいは入ってるでしょ? 無理な殴り方だったからそんくらいで済んだけどさ」
 顔面を狙った板梨の拳。それを灰ノ原は、指を鳴らしたその右腕で、そのまま防いだのだった。
「んー、雪だらけでびちょびちょなのは、もとからボロだし別にいいんだけどねえ」
「そんなわざとらしい誤魔化し方――」
 服装を気にする灰ノ原へ、更に挑発的な声を浴びせる板梨だったが、
「――って、うわあ、そんなベタな」
 呆れたような気の抜けたような、これまで以上に場違いな声を発してしまうのだった。
「片腕で充分さ、キミ程度は。……なんちゃって」
 そう言いながら灰ノ原は、立ち上がりつつあるのだった。自分の足で、しっかりと。
「何の意味があるのさ、その嘘に」
「意味ならあるさ。車椅子を大好きな女性に押してもらうのは、実に気分がいい」
「それだけ?」
「それだけ」
「ないも同然じゃない、意味」
「失礼な。――ああそうそう、きみの鬼道のおかげで本当に痛くないよ。ありがとね」
 防がれたとは言え、全力とは程遠かったとは言え、しっかり入った一撃。他者への暴力による爽快感。板梨が得たであろうその余韻はしかし、あっさりと吹き飛ばされたらしかった。なので、言う。
「――さて、気を取り直したところで再開かな。ただしそろそろ、終わりにしたいところだけど」
「なに? 車椅子から降りたら本気になってパワーアップとか? 漫画みたいだね」
「いやいや、単なる気分の問題さ。だから、今になって初めて、こんなことをしてみる」
 全く動かないというわけではないが、わざわざ動かし辛い右腕でそうすることもない。今度は左手の中指と親指で、ぱちんと音を鳴らす。
 現れた穴は一つだけだった。入り口と出口、効力を考えれば二つ一組であるはずの穴が、持ち上げた左腕のすぐ傍に一つだけ。地面と平行な、縦向きの穴。
「それ、出口はどこになるのかな?」
「ぼくの家のぼくの部屋さ」
 にやにやとしたまま素直にそう伝えた灰ノ原は、その穴の下方から左腕を突っ込む。
「終わらすためには武器がないとね」

「変に長引かせてなければ、そろそろ終わってると思うんですけどねえ」
 目指す自宅までもうあとほんの僅か。だからなのか、それとも単なる時間的な感覚からか、白井が空を見上げながら呟くように言う。
「終わってるって、灰ノ原さん? 変に長引かせるって?」
「相手が悪人でもからかっちゃったりしますからねえ、あの人。むしろ、腹が立つなら立つ分だけ、余計にからかっちゃってる節もあったりするくらいで」
 相手をからかうというのは、あの灰ノ原だ、容易に想像できる。だが緑川は、それでも首を捻った。
「……そんな余裕があるほど強いの? 灰ノ原さんって」
「変則的な強さですけどね。まあ、やる気になったらとんでもなく」
「へー、意外だなあ。――ああ、ごめん、悪い意味でじゃないよ?」
「強そうだと言われて喜ぶ人でもないですし、別にいいんじゃないですかね?」
 強そうだと言われて喜ばない。普通の人なら、そして普通でない力を持っているからこそ、そういうことになるのだろう。
 ――でも、てめえはそうじゃねえんだよな?
 緑川の中に緑川でない誰かがまた、現れ始めた。

 穴へ突っ込んだ左腕を引き抜く前に、灰ノ原はだらんと垂れた右腕で、これまでと同じようにぱちんと音を鳴らそうとした。上手く音は鳴らなかったがそれは問題ない。
「な……」
 問題なく生じた穴。これまで通り。だがそれを見た板梨は驚き、目を見開き、後ずさる。
 縦に向いた穴横に向いた穴斜めに向いた穴、そして頭の位置腰の位置足元の位置と、向きも場所もばらばらな穴が、そこら中に大量に、現れたのである。
「じゃ、準備も整ったことだし、ゆっくりとご覧あれ」
 これまで通りの口調でゆったりと言い放った灰ノ原は、傍らの穴に突っ込んだままだった左腕を引き抜いた。そこから引きずり出された彼の武器はそのまま落下し――
 出てきた穴の真下に待ち構え、それと向かい合っていた穴へ飛び込む。
 また別の穴から現れ、それと向かい合っていた穴へ飛び込む。
 そしてまた別の穴から現れ、それと向かい合っていた穴へ。
 繰り返し繰り返し繰り返し続け、加速し加速し加速し続ける黒色で球形なそれは、くすみ切って光を失った銀の尾を牽いていた。速度を増し続けた結果として最早肉眼でそうだとは捉えられないが、その銀色の尾は鎖であった。長く、長く、いつまで経っても初めの穴から流れ出続ける、あまりにも長過ぎる鎖であった。
 鉄球から一メートル半の辺りが取っ手になっていたりもするのだが、こうして「落とすだけ」なら、それを使う必要はない。そもそももう、手で掴めるようなスピードではなかった。
「そろそろ、鎖部分でも触れたら肉が削げるくらいの速度にはなったと思うよ?」
 ゆったりと言い放つ灰ノ原。しかし対する板梨は、そんな話に耳を貸していられるような状況ではないようだった。穴から穴へと落下し続け、穴から穴までの空間を鎖で占拠し続けながら猛進し続けるその先端、黒い鉄球を、必死で視界に捉えようとしているらしかった。
 すぐ傍を通ればその体を震わせるが、鉄球の通り道である穴は、体制を崩すわけにはいかないように配置してある。もし転びでもすれば、まず間違いなくチェーンソーの刃の如きその鎖へ、身を預けることになる。それに、
「もし鉄球部分が直撃しちゃったりしたら、キミがこれまで潰してきた動物たち以上のグロテスクさになっちゃうだろうねえ?」
「う……あ……」
「ま、心配しないで。動かなけりゃ当たらないから。――ほら、今一周した」
 言うと同時、初めに灰ノ原が腕を引き抜いた穴から流れ出る銀の尾が終端に達し、それを追うようにして黒い塊が飛び出す。しかしもう、次の瞬間にはまるで別の場所に。そして板梨は、そんな鉄球を目で追うことすら恐怖に変換されるくらい、流れる鎖に身動きを封じられていた。
「今なんかほら、片腕どころか完全に何もしてないよぼく。楽なもんだね」
 鉄球が空気を叩き、貫く音。この場所だけ台風が直撃でもしているかのような轟音によって、もしかしたら灰ノ原の言葉は届いていないのかもしれない。しかしそれは、どちらにしても同じようだった。
「こんだけで……」
 恐怖に歪んでいた板梨の口元。しかしそこへ、憎悪による歪みが加算される。
「こんだけで終わりだっていうのか!? やっと、やっと追い付かれてやっと人間が相手になったのに! 腕で防がれたうえに全然力の入らなかった一発だけだっていうのか!?」
 大きな声。それは、灰ノ原の耳へしかと届いた。
「やっと崩れてくれたねえ、ンヒヒ」
 余裕の笑みを浮かべていた灰ノ原の口元。しかしそこへ、待ち望んだ瞬間に対する笑みが加算される。
 しかし、まさにその直後。
「まだ続けていたのですか」
 辺り一帯を覆う異常事態にも関わらず、それを引き起こした灰ノ原のものではない冷静な声。声の主はその声の通りに怯むことなどまるでなく、灰ノ原の傍へ。
「しかも、傷一つ負わせていないようですし。灰ノ原さんは優し過ぎます」
「そう? じゃあ、叶くんならどうするのかな」
「訊かれるまでもないと思いますが」
 ――本人確認さえ済ませれば、すぐにでも終わらせる。方法はその時の気分次第。何度も聞いたからねえ、これまで。
「そうだね。でも、ごめん。ぼくも結構頑固なほうでさ」
「聞くまでもないですね」
 笑顔のまま謝る灰ノ原から視線を逸らしつつ、そっけなく返す桃園。そして彼女は目の前の、流れ落ちる鎖に支配された空間へ、気圧される様子もなく足を踏み出した。
 そんな彼女に灰ノ原は、
 ――病院の外でもナース服、着てくれないかなあ。いや好みどうこうじゃなくて、ぼくとのバランス的にさあ。
 住処での普段着とは違うごく一般的なパンツルックに、そんな感想を持つのだった。しかしそれもまた、いつものことなのだが。

「お、おい……」
 一方、板梨は平静でいられない。状況からして灰ノ原と同じく敵であるとは分かっているはずの桃園に対しても、この鎖の滝の中をすたすたと進み入ってくるその姿に、静止を促そうとしているかのような声を上げるのだった。
 だが当然、桃園は歩みを止めない。無表情のままな瞳で板梨を真っ直ぐに捉え、鎖を避ける動きは最小限に、静かな足取りで彼のもとへ。
「できれば、手は出さないでねー」
 背後から灰ノ原の声。荒げない程度に大きくされたその音量は、際どいところで桃園の耳に届く。桃園は振り返り、小さく頷いて見せた。そして板梨を向き直すと、
「心得ています」
 むしろ目の前の彼へ向けるように、そう返すのだった。
 そしてその声は、目の前の彼へ届いたようだった。
「な、何さ。手を出さないならなんでわざわざ――」
「手を出すつもりはないですが」
 数本の鎖を挟んで、板梨と向かい合う。
「もしお望みなら出しましょうか。酸で焼いて口を開かなくする、だとか」
 口以外にどこも動かさず、綺麗に直立したまま、何の感慨もなくさらりとそう尋ねる桃園。対する板梨は言葉を詰まらせ、結局返事をしないのだった。
「二つほど、言っておきたいことがあります。灰ノ原さんだから『こう』ですが、もしあなたが私の持ち場に現れていた場合、話一つせずに終わらせていました。わざとあなたに殴られるようなこともしませんでした。その点、灰ノ原さんには充分に感謝しておいてください」
「……も、もう一つは?」
「私は結構、動物が好きです。あなたをグチャグチャにしてやれなくて残念です、心底から」
 その時、二人の顔の間を、鉄球が空気を震わせながら高速で通過。空気の震えは風となり、二人の髪を揺らす。
「うっ……う、うぅ」
 しかしそれを恐れて体勢を崩せば、そこかしこに流れる鎖に喰われる。板梨は恐怖による声を上げることすらをも恐れ、口から出る声を必死で噛み殺すのだった。
 しかしそこへ、やはり無表情な桃園の手が伸びる。鎖の間を抜け、板梨の頬にふわりと触れる。
「手、あんた手、出さないって」
「触れただけでは、手を出したということにはならないでしょう。ですが」
 じゅう、と何かが焼ける音。
「あづっ!?」
 板梨の頬に触れる手、指、更にその先端。そこからは微かに、近距離でかつ目を凝らしてやっと確認できる程度の煙が立ち昇る。
「手を出しても、灰ノ原さんは許してくれるのでしょうね。このまま酸で全身を焼き尽くしても、鎖の中へ放り込んでも」
 ――あの人は優しい。優しくされる側が痛いくらいに。
「あなたとは大違いです」
「や、止めてく」
「動物がそう喋ったらのなら、あなたは止めましたか」
「お願いだから……」
「それで今まで殺された動物が全て生き返る、というのなら聞き入れますが」
「……なんで、こんな」
「ただの鬱憤晴らしです。気にしないでください、あなたと同じですから」
「ちが、違う! 僕は――そうだ、僕は、捨てられた動物が可哀想だったから」
「そうですか。私もあなたを可哀想だと思います」
「僕は僕の鬼道で、痛みもなく殺せるんだぞ! こんなのとじゃあ全然!」
「私が出せるのは酸だけではありません。眠りにつくように殺すこともできますよ」
「そっ…………いや、でも」
「もう言葉が尽きたのですか。では、これで」
「やっ、止め」
 頬に触れている手へ、力が入る。
「止めてくれえええええええええええええ!」
 涙すら流れていた。眩しそうだった目を限界まで見開き、目の前の相手へ向けての絶叫。それでも桃園は眉一つ動かさず、自分が成そうとしていたことを――。
 と、その時。周囲を流れる鎖の滝が、次々と途切れ始めた。板梨の目がそれを追い、あちらへこちらへギョロギョロと泳ぎ回る。
 そしてついには、桃園と板梨の間にある鎖が、その終端を猛スピードで通過させた。
 するとその途端に板梨の体からすとんと力が抜け落ち、崩れ落ちそうになるが、桃園はその後ろ襟を掴み上げてそれすら阻止。
「容赦ないねえ、相変わらず。下手したら首絞まるよ? それ」
 背後から、にたにたとした声。振り返るまでもなかった。
「絞まってるなら動きます。意識はあるようですから。ところで、容赦のない女は嫌いですか」
「いんや? むしろ大好き。格好いいしね」
「そうですか。心底から以上に残念です」
 鎖の呪縛がなくなった空間。その鎖、そして鉄球は今、背後の灰ノ原の更に背後で引き続き騒音を撒き散らしている。こちらも振り返るまでもなく、いつも通り、上方へ向けた穴を連続させて勢いを殺しているのだろう。手で止められないのはもちろん、だからと言って地面に激突させれば、アスファルト程度なら容易く叩き割ってしまうからだ。
 しかし振り返るまでもないことをわざわざ確認することはなく、涙を流し、涎を垂らし、抜け殻のようになってしまった板梨の頬から、手を引いた。
「手、出そうと思ってたわけじゃないでしょ?」
「灰ノ原さんがそう言いましたから」
 頬を僅かに焼いたが、それは実に些細なもの。転んでできる擦り傷よりも更に軽いものだった。夜行と修羅の戦闘の程度を考えればこの程度、手を出したとは言わないだろう。
 ――言ったとしても、問題にしないのでしょうが。この人は。
「嬉しいねえ。抱き付いていい?」
「どうぞご自由に」
 唐突にもほどがある提案だったが、それでも桃園は慌てない。冷静にそう返して身体を押し付ける。ただしそれは、板梨の身体だったが。
「そうそう実はぼくってホモっ気が――って、なんでやねーん」
「紫村さん、確保完了しました。ええ、すいません時間が掛かってしまいまして」
「おお、会心のノリ突っ込みが無視された」
 素早く紫村に連絡を取っていた桃園は、するりと灰ノ原を振り向いた。
「五十三点です」
「うわ、ひっど」
 何度となく突き付けた覚えのある点数だった。むしろ、これ以外の点数を口にした覚えがない。
「それでは紫村さん、お願いします」
 毎度毎度、初めてそう言われたようなリアクションを返してくる灰ノ原。しかしこちらの「毎度」ももちろん変わらず、なのでいつも通りそれを無視し、紫村に願う。
 間に何を挟む時間も置かず、「あちら」への通路が開いた。灰ノ原が作る黒い穴をそのまま大きくしたような、しかし行き先がまるで違う、あの世への通路が。
 それを確認した灰ノ原が、今回の相手に手錠を掛けた。一連の動作中、まるで抵抗はない。
「さて、行こうか板梨くん。やっとおびき出した『人間の相手』が、こんな偏屈者でごめんなさいね。建前の理由まで用意してもらったのにさ」
「…………」
 声は確実に届く距離だった。が、耳に届いても意識に届いているかははっきりとしない。未だに垂れた涎を拭うことすらしない彼は、返事を返そうとしなかった。なので話はそこで終わるが、桃園はそれを良しとしない。
「気になる話ですね。行く前に聞かせてもらってもいいでしょうか」
「ぼくの話にもそれくらい食いついてくれたらいいんだけどなあ」
「食いつくような話題がありませんから」
「ンヒヒ、まあ、いいけどね。じゃあ聞かれたことを一息でさっと言っちゃうけど、この人、捨てられた動物が可哀想だから殺してたんだって」
「ええ、それは聞きました」
「それが建前の理由。本音は、人間をぶん殴りたかったってだけみたいなんだよね。初めからそうだったのか、動物を殺してるうちにそうなっちゃったのかまでは分かんないけど」
「直接人間を狙えば――と、不謹慎ながら、そう考えますが」
「悪いことするんじゃなくて仕方なくそうなった、って状況が欲しかったんだろうさ。だから建前の理由で動物を殺し続けて、ぼくらに自分を追わせた。見付かったら晴れて『逃げるために仕方なく』人間に手を出せるってわけ」
「クズですね」
「本当に容赦ないなあ、同感だけどさ。……ああ良かった、五十三点とか言われなくて」
「それでも別に構いませんが」
「嫌だよ、こんなのと同格なんて」
 とまで言われても桃園は表情を変えず、そして灰ノ原は、いつものように笑う。
「んじゃあ、そろそろ行ってくるね。叶くんは家でのんびりしてて頂戴な」
「ご苦労様です」
 任務完了。それを伝えると灰ノ原はぱちんと指を鳴らし、そしてすぐ傍の地面に、人間一人がすっぽり入る黒い穴が。
 ――お茶くらいは、淹れておきます。
 ひっくり返った車椅子をのたのたと引き起こし、そこに座り直す灰ノ原の様子にそう考えてみるものの、口にはしない。
 そして桃園はためらいもなく、今現れた穴へひょいと飛び込んだ。

 そうして辿り着くのはいつも通り、自分達の家の、灰ノ原の部屋。言い換えるなら、廃病院の病室の一つ。じきに灰ノ原の鉄球も、同じ穴から降ってくるだろう。
 基本的には自分の視界内にしか穴を作れない、という特徴がある灰ノ原の鬼道。しかし一つだけ例外的に、視界外にでも保存しておける。それがこの部屋へ通じる穴だ。どこからでも鉄球を取り出せるように、そしてどこからでもここへ戻ってこられるように。
 ――要らない世話ばかり焼くにしては、面倒臭がり。
 そんなことを考えながらドアへ向けて歩き始めた途端、穴から現れる鉄球。一拍もおかずにどずんと音を立て、この部屋から持ち出されて以降初めて動きを停止させる。
 しかし最後までそれを振り返ることなく、桃園は部屋を出た。荒れてはいるが清掃だけは行き届いている廊下の床を靴底で叩き、まず向かうのは自分の部屋。今出た部屋のすぐ隣、最上階である四階の隅部屋であるその部屋へ、着替えのために。
 そのナース服への着替えが灰ノ原の意向であれば自室のすぐ隣が灰ノ原の部屋であるのもまた、彼の意向であった。要は、押し付けられて押しかけられただけではあるのだが。
 今ではもう袖を通すことに抵抗すらなくなった、いつもの服。「そのほうが心霊スポットっぽくなって人も寄り付かないだろうから」と提案者は言うのだが、さてそれはどこまで本気なのか。――そんなことすら考えなくなったのはいつ頃からだろうか、と桃園は久方ぶりに考える。しかし、その思考を放棄するまでは五秒と掛からなかったのだが。
 一息の休憩も挟まずに着替えを済ませ、桃園は給湯室へ向かい始めた。お茶を淹れるために。もちろん廃病院の水道やガスが生きているわけもなく、あちらへ着き、そこで使用することになるのは、保存用のミネラルウォーターと携帯ガスコンロだが。
 水も可燃性ガスも、自身の鬼道で出せないこともない。だがそのどちらも(特に飲むことになる水は)、この方法で用意するつもりはなかった。
 自分は今、恐らくはそう時間を於かずに帰ってくる灰ノ原のために、茶を淹れようと給湯室を目指している。常ににやにやしている彼が自分が淹れた茶を飲んでいる場面を想像しても、やはりその表情はにやにやしている。いつものことだが。
 ――喜ばれているのか、普段通りなのか、それとも普段から喜んでいるのか……。
 捉えどころのないパートナーであった。捉えたいと思うわけでもないが。

 桃園の携帯電話が鳴ったのは、給湯室へ向かっているその途中。仕事が終わった直後というタイミング的に灰ノ原、もしくは紫村かと思った相手は金剛だったが、電話に出はこそすれ、足は止めなかった。
「はい」
 電話に出る。そして話を聞く。その間も差し障りなく、頭から離れてくれないあのにやにや顔。それでも桃園は、誰が見ているというわけでもないのに、平静を保っているのだった。
 電話の向こうで金剛が妙な話を持ち出しても、それは変わらない。
 そういう女なのであった。

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