第一章
「百聞は一見に如かず。一聞くらいでイライラするものではないぞ」



 誰も居らず、誰も見ておらず、誰も口にしておらず、少なくとも現在は誰の意識にも存在していない、完膚なきまでの「某所」。人どころかあらゆる生物の気配がせず、取り壊しの予定を立てる事さえも忘れられている、世間の流れと隔絶された、一週間半前の廃ビル。
 白井と黄芽はその時その場所で、世にも腹立たしい男と向き合う羽目になっていた。
「さっさと喋ってさっさと消えろ、か。くくく、ではそうさせてもらおう」
 そうは言いながらゆったりと椅子の背もたれに身体を預け、足を組んでみせ。この男の――求道のその不遜さが挑発の意図を含んだものなのか、それとも素の行動なのか、この男ゆえに判断が付け辛い。とはいえ本人の認識に関係なく、黄芽にとっても白井にとっても、それが極めて腹立たしい態度であることには違いがなかったのだが。
「響くんからどこまで聞き出せたのかは分からんが、まあ、ここは一から説明を始めるとしよう」
 黄芽と白井も響から聞き出していることを詳しく伝えるつもりはなかったので、一から説明を始めるという求道の言葉に、反論はない。
「簡単に言うとだな、お前達と同じなのだよ。私達がしようとしていることは」
 反論はないし、更に言えば求道の組織の目的についても、おおよそのところは既に耳に入っている。――のだが、しかしそれでも。
 求道はくつくつと笑ってみせた。
「そう不機嫌な顔をするな、女。冷香くんほどではないにしても、そこそこの顔立ちが台無しだぞ」
 自分達の仕事と同じだとこの口から聞かされ、当の昔から煮えているはらわたが更に温度を上げるような思いだった。もちろん、だからといって話の腰を折るわけにはいかないのだが。
「つまり私達は、悪人を懲らしめようとしているのだよ。お前達と同じだと言うからには、対象は死後の者に限定されるがな」
「とてもボランティアで悪人退治をするような善人には見えませんがね、貴方は」
「それは当然だ。お前達が出会った私達は、私個人の目的で動いている時の私達だからな。お前達はまだ、組織の一員としての私には一度も触れていない」
 そういう意味ではないのですがね、と白井は頭の中で悪態を吐く。が、しかし同時に、あちらもそういう意味でないと分かったうえでそう返しているのだろう、とも。
「そうですか。ところで、『懲らしめようとしている』というのはつまり、まだ行動に出てはいないということですか?」
 懲らしめている、ではなく、懲らしめようとしている。些細な違いではあるが、しかし思い違いを見過ごせるような話ではない以上、白井としては確認する以外の術はない。
 すると求道、これもまた腹立たしいことに、「いいところに気付いたな」と口の端を持ち上げるのだった。
「その通り、私達はまだ行動に出てはいない。現在は準備段階なのだよ。いつまで準備し続けなければならないか、それは誰にも分からんのだがね」
「準備?……先日こちらで捕らえた響峡慈は、貴方のことを研究者だと言っていました。準備というのは、その研究のことですか?」
「またしてもその通りだ、話がしやすくて助かるな。――さて、普通ならばここはその研究の内容について話すべきなのだろうが、その前に一つ。私達が目的としている、懲らしめるべき悪人について話そうか」
 求道は、既に持ち上がっている口の端を、そこから更に持ち上げた。器用なことだ、という文句をぐっと堪える白井。
「鬼という職業柄、知らないほうがおかしいとは思うが……享楽亭という名前を知っているか? 茶屋や和菓子メーカーみたいなネーミングだがそうではないぞ」
 その名前は、響からも聞き出していた。
 しかし、それよりも遥かに前から知っていた名前でもあった。この忌々しい男の言う通り、鬼という職業に就いている者として。
「雑務屋という看板を掲げ、依頼を受け、その看板の通りに何でもこなす集団。時には殺人も――というより、それが主なのだが」
 相も変わらず、にやにやと話す求道。
「まあ、本当に集団なのかどうかすら不明と言えば不明だがな。なんせ依頼者ですら、電話越しに話をするだけでその姿を見ていないという。生きている一般人でも会話が成立するということから、少なくとも電話応対をしているのが死後の者でないとは言えるのかもしれんが」
「集団ですよ。彼等に関連する事件を追った事例は、いくつもありますから」
「ほう、ならば彼等を実際に捕まえたことは?」
「もちろんあります。――あり過ぎて困るくらいですがね。その規模はとても計りきれるものではない、というのが随分昔から現在に至るまでの我々の見解です。それどころか、常に増え続けているのではないかとすら」
 とまで言った白井はしかし、ここまでだろう、とも。自分が関わったならばともかくそう詳しいところまでを記憶しているわけではないし、たとえ記憶していたとしても事件の細部を一般人に、更に言えばこんな男に、話すわけにはいかないのだ。
 なので、話題を逸らす。こちらの話からあちらの話へ。
「そんな途方もない集団を相手に、喧嘩を売ろうとしているわけですか? あなた方の組織は」
「その通りだ。その通りだからこそ、私達はひたすらに準備を続けているのだがな。私個人が知らないような昔から、ずっと」
「……知らない?」
「ああ知らん。何も私に限った話でもなく、自分が死んだ後になって他人の遍歴に興味を持つ者はそうそういないだろう、よっぽどの物好きでもない限りは」
 それはそうだ、と忌々しくも納得させられる白井。仕事柄、相手が犯罪者ばかりというとてつもない偏りがあるにせよ、幽霊となり、加えてこの世に残った者に、そういった傾向があるのは事実なのである。そしてそれは主に、「犯罪率」というデータに表れていたりする。
 他人の遍歴、曳いては他人そのものへの関心が薄いという事実。だからこそ幽霊は他人を蔑ろにし易く、だからこそ幽霊は悪事に走り易く、だからこそ鬼という職業が存在するのである。
「そういうわけで私達組織としては、鬼に目を付けられるようなあくどいことは何もしていない、と主張したい。私が今回、お前達とこうして再会しているのも、それを説明するのが第一の目的だ」
「悪人の集団を相手にするからといって、それが善人の集団であるということにはなりませんよ?」
「その通り。だが、疑わしきは罰せず、罰せられず、だろう? なんせ私達はまだ何も行動に移してはいないのだからな。それにもし私達の組織が過去に何かをやらかしていたとしても、それは私達にすら把握できん。するつもりもないが」
 本当に忌々しい男だ。そう思わざるを得ない白井であった。恐らくは隣に立っている黄芽も同じような心境だろうが、しかしだからこそ動くわけには、動かされるわけにはいかない、というところでもあった。
「つまり、お前達に付け狙われるのはあくまで私個人であるということだ」
 言って、求道は笑う。
「この点をはっきりさせておかないと、とばっちりを受ける他の連中から嫌われてしまうからな」
「貴方のような人間でも、人の目は気にするんですね」
「悪人が悪人なのは、悪事を企む間働く間だけだからな。常に悪人となれば、それはもう狂人だ」
 そんな台詞を悪びれたふうもなく言ってのけるのはどうなのかと尋ねてみたい白井であったが、どうせのれんに腕押しだろう、と思い止まっておく。
「故に、心苦しく思っていたりもしないではない。あの穂村姉弟に、私と同じ悪事を働かせていることについては」
 結局、こちらから何を言わずとも求道は話を進めてしまう――のだが、しかしどうにも、これまでのニヤケ面とは顔色が異なっているようだった。まるでそれが本心であるかのような、心苦しいという言葉そのままの表情。
「止めさせればいいじゃないですか、そう思うのなら」
「悪人が悪事を働くのはわけもない。今言ったように、悪事を働くその間は紛うことなき悪人なのだからな。だが、悪事を働くその間ですら悪人になりきれない紛うことなき善人が悪事を働くのには、それなりの理由とそれなりの覚悟が必要なのだよ」
 表情を変えないままにそう返してきた求道は、顔をあげてこちらを改めて見返すようにし、ふっと息を漏らす。薄く笑ったようだった。
「……善人たるお前達はそれでも、止めるべきだと言うのだろうがな。なに、それが間違っているなどと馬鹿げたことを言うつもりはない。世のため人のために人格も行いも善人であるお前達は、そうであってもらわなければ困る」
 もやもやとした感情を抱かせるような話ではあったが、しかしこちらにそう思わせることが目的の単なるでまかせという線も捨てきれず、つまりは余計にもやもやしてしまう白井であった。
「私の話はこれで終わりだが――しかしもう一つ、他の研究者から伝えておくよう言われている話がある。最後にそれだけ、聞いていって頂けるかな?」
 そう言われ、白井は一応ながら隣で佇んでいるパートナーの顔色を窺った。想定通り、実に不機嫌そうな表情から顎で指示を出されることになったのだが。喋らせとけ、と。
「……聞きましょう」
 すると求道は、これまでにも何度か見せた笑みを浮かべる。もはや何とも思わない、とそう割り切れればどれだけ楽か、などと思わずにはいられない。
「ついさっき他人の過去に興味はないと言ったばかりだが、他人の過去の話だ。大きい事件となると、知りたくなくても耳に入ってきてしまうものでな」
「誰の話です?」
「かつて私達の組織に属していた研究者の一人だ。今はもう、あの世に逝っただかこの世をうろついているかといったところだが」
 ということは、つまり。
「幽霊でない――存命の人間まで属しているものなんですか? あなた方の組織は」
「研究者であることに対して、修羅である必要はないからな。まあしかし、現在のメンバーは全員が霊で、かつ修羅だが」
 それはつまり組織の戦力が僅かでも増強されている、ということなのだが、しかし白井は安堵した。生きている人間を相手取るようなことになるのは、鬼という仕事のうえでも個人の心理としてでも、避けるべきことだからである。
「その人がどうしたと?」
「端的に言うと、化け物を作り上げたが手に負えず、それに関する研究資料や関係者ごとその化け物に叩き潰された、という話だ」
 そこで一拍。白井の頭にある種の感想が浮かぶが、
「――よくありそうな話だがな、SFものの小説やらなんやらでは」
 全く同じことを求道に言われてしまう。些細なことではあるが、気分は良くない。
「しかしそれが、現実に起こったという。しかも肝心の化け物は現在も行方不明のままだそうだ」
 その話について思うことは多々ある。しかしそれらは結局のところ、「胡散臭い話だ」の一言で纏められてしまう類のものであり、ならばそんな質問を求道にぶつけたところで、碌な返事は返ってこないだろう。
 なので白井は唯一、それら多々の質問とは異なる質問を一つだけ。
「どうしてそんな話を?」
 そう尋ねられることは想定済み、ということなのだろう。求道は考える間を挟まず即座にこう返してくる。
「もしその化け物、もしくは叩き潰された研究者がまだどこかにいるとして、そいつらが何かやらかしても現在の我々には関係がない、と言いたいわけだ。同時に、化け物が暴走した事件それ自体にもな」
「素直に飲み込める話ではありませんね」
「だが飲み込んでもらうしかない。なんせ、その事件で組織は一度壊滅したも同然だったらしいからな。組織の形式と名を引き継いでいるだけの赤の他人なのだよ、現在の組織に属している我々は」
 とまで言ってから、くくく、と。
「もしかしたら他にも大きな事件はあるかもしれんがな。しかし、今の我々が伝えられるような話は、残念ながらこれだけだ」
 そうして求道の話は終わり、「質問はないか? では、再開したくはないが恐らくはまたどこかで」という嫌味ったらしい別れの言葉と、あと最後に小さな情報を一つだけ残し、求道はその場から消え去った。
 部屋には一脚の椅子だけが残り、もう、他には何もない。
「帰りましょうか」
 逃がすしかないと初めから分かっていたにせよ、やはり胸が締め付けられる思いの白井であった。
「だな」
 黄芽もそれは同じなのだろう。顔にも声にも出ていないが、この人物が顔にも声にも何の感情も表していないということは、立派に何かを表しているのだった。
『その化け物を作り上げて叩き潰された研究者は、愛坂まなさか真意まい という名前なんだそうだ』
 緑川の話。組織の話。その二つに加えて、最後に残されたこの小さな情報。事件の話が本当なのかどうかすら危うく、本当だったとしてもその人物と関わることがあるかどうかがまた危ういという、使いどころがあるとは思えないその名前を頭に留め、白井と黄芽は無人のビルを後にするのだった。
 ――愛坂真意。その人物の存在が嘘であれば、連鎖的に化け物とやらも嘘ってことで片付けられて楽なんですけどね。

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