廃病院にて礼と謝罪の申し出、そして桃園のちょっとした考え事があってから、やや時間を置いての緑川家。
「千秋くんが気を落とすことはないと思うんですけどねえ」
「自分でもそう思ってるよ」
 首から上だけしか出ないところまでコタツに潜り込み、あまつさえ顔をカーペットにめり込ませ。緑川の声が低いのはしかし、そんな鼻の潰れた無理のある体勢だけが理由ではないのだろう。
「……息が苦しい」
「仰向けになるか、せめて首を横に向けるぐらいはしたらいいんじゃないですか?」
「やだ」
「困りましたねえ。黄芽さんに黒淵さん、何か良い案はないものでしょうか?」
「首締めちまえ」
「この隙に発掘してみましょうか。緑川さんが男子であることを証明するようなグッズでも」
 意地を張っている最中とはいえ、さすがに冷や汗が吹き出す緑川であった。
「『良い』案はなさそうですね。効果のほどはともかく」
 白井がこういう場面で悪乗りしない人柄であったことが幸いである。次いで吐かれる呆れたような溜息が、今は頼もしくて仕方がなかった。
「千秋お兄ちゃん、どうしてそんなに元気ないの?」
「帰ってきてからずっとだよね?」
 真剣になってくれるだけ、あちらの大人二人よりこちらの双識姉弟のほうが格段にマシであった。――のだがしかし、対応のしづらさはこちらも同等。真剣になってくれている分だけ、むしろ申し訳なく思ってしまう。
 どうして対応がしづらいのかというと、
「内緒」
 だからであった。
 緑川はありったけの苦笑を二人に向けた。それはつまり、たったいま白井に言われて即座に否定した「横を向く」という行為でもあったのだが、しかし細かいことを気にはしない。
 現在、赤は黄芽の膝の上、青は白井の膝の上なのだが、すると二人ともが不安そうに頭の上の顔を見上げた。
「気にすんな」
「大丈夫だよ」
 そんな言葉だけで笑顔になれてしまうのは二人がまだまだ幼いからであろうが、しかし今この場では、その幼さこそが長所となっていた。少なくとも、緑川にとっては。
 ――でもそうなるとますます、自分の駄目さが浮き彫りになっちゃうんだけどね。
 再び顔を床に押し付けつつ、緑川の思考はそういった方向へ進んでゆく。赤と青に言えないそもそもの原因、修羅に対して自分が何もできないという、よく考えるまでもなく不必要な苛立ちは、自分へ向けられる無垢な心配にすら向けられるのだった。
 修羅に対して何もできない。だがそもそも自分はただの男子高校生であり、ならば初めから何をする必要もない。自分でもそれは分かっているのに、それでも苛立ちが抑えられないでいる。まるで、苛立っているのが自分以外の誰かであるようだった。
 自分の気持ちがこんなにも制御できないものなのだと感じたのは、初めてであった。
「……おや?」
 そちらを見はしないが、着信音。それと同時に聞こえた声の通り、鳴った携帯電話は白井のものであった。
「誰からだ?」
 鳴った、ということは少なくとも仕事の連絡ではない。しかしそれでも、相手を尋ねた黄芽に対する白井の返答は、緊張を孕んでいるようだった。
「桃園さんですね」
 厄介事以外で連絡を入れてくるような相手ではなかったのである。そうでなくとも彼女はつい先ほど仕事を一つ終えたばかりで(緑川が見掛けたのは彼女でなく灰ノ原だったが)、ならばそんな彼女との通話は赤と青のいるこの部屋から場所を移して行うべきではないだろうかと緑川は、そして白井も考えはしたのだが、
「叶お姉ちゃん?」
 見上げる青は、明らかに桃園と話をしたそうな顔をしているのだった。となれば、それと向かい合う赤も当然のように。ということで、
「もしもし?」
『桃園です。今、黄芽さんはご一緒ですか?』
「――あ、一緒ですけど……青くんと赤ちゃんも一緒なんですよ。ちょっと代わりましょうか?」
『急ぎではありませんので』
 緑川には桃園の声は聞こえなかったが、白井が答えた「一緒ですけど」が誰を指してのものなのかはすぐに分かる。厄介事の話ということで、もちろん黄芽なのだろう。
 見掛けはともかくとして「獄長」という立派そうな肩書きを持つ黒淵だという可能性も浮かばないではなかったが、さっきから白井に寄り添っているだけというその様子から、なんとなくではあるが、そうではなさそうだと思ってしまうのだった。
 しかしそれは一旦横に置いておき、桃園は青と赤への交代を了承したらしい。向こう側に桃園が控える携帯電話はここで、白井から青へと渡された。
「こんにちは、叶お姉ちゃん」
『今日は、青ちゃん。今どこにいるの?』
「千秋お兄ちゃんのお家。みんなもいっしょだよ」
『みんなっていうのは?』
「赤と、千秋お兄ちゃんと、千尋お姉ちゃんと修治お兄ちゃん。芹お姉ちゃんも」
『芹お姉ちゃん……黒淵さん、かな?』
「うん、すぐとなりに――あっ、赤にかわるね」
 黄芽の膝を離れ、青のすぐ隣に立っていた赤。青はその赤から何を言われるまでもなく、携帯電話を手渡した。
「こんにちは、叶お姉ちゃん」
『今日は、赤ちゃん。今日もみんなでおこたに入ってるの?』
「うん。芹お姉ちゃんもいるし、千秋お兄ちゃんが寝ちゃってるから、ちょっとぎゅうぎゅうだけど」
『そうなんだ。でも、そのほうが温かそうで羨ましいかな』
「うん。えへへ――じゃあ、修治お兄ちゃんに代わるね」
 満足したのか、ほんの少しずつの会話で携帯を回す赤と青。若しくはそれが元々白井への電話だったことへの遠慮だったのかもしれないが、しかしどちらにせよ、いつも通りの感情を抱かせる二人であった。
 電話口の向こう側、双識姉弟に対してのみ僅かに口調が丸くなる桃園を思い起こしつつ、緑川は引き続きうつ伏せになり続けるのだった。
「お電話代わりました」
『会って頂きたい人物がいます。黄芽さんと――良ければ黒淵さんもご一緒に、こちらへお越し頂けますか。黒淵さんについては、私達が一度は顔合わせをしておきたいというだけのことですが』
「分かりました」
『金剛さんとシルヴァーマンさんには既にお越し頂いています。あと、今こちらに灰ノ原さんはいませんが、もうじき帰ってくるでしょう』
「お疲れ様です」
『緑川さんと赤ちゃん青ちゃんは、そちらでお留守番ということでお願いします』
「はい」
 呼ばれた人員、残された人員からして、やはり面倒事である。桃園の言葉が聞こえなかった緑川にも、白井の困ったような溜息から、その面倒事だということだけは読み取れたのだった。もちろん、その後に白井から簡単な説明はあったが。

 呼び出された白井一向が廃病院へ到着した頃には、既に灰ノ原はあちらから戻ってきていた。いつものようにぼろぼろの白衣を身に纏い、いつものように車椅子に腰掛け、口元と眼鏡の奥の目をいつものようににやつかせながら桃園の隣に位置し、白井ら客人――中でも黒淵と、向かい合っていた。
「休暇を取ってのご旅行、という話でしたが、どうですかねえ『こちら側』は?」
「平和ですわねえ、やっぱり。悲鳴とか怒号とか、聞こえてきませんし」
「ンヒヒヒ、それは何よりで」
 黒淵が旅行の途中でこの町に立ち寄り黄芽達と出会ってから、二週間近くが経っていた。しかし灰ノ原と桃園は、これが黒淵とのようやくな初対面だったのである。
「いや、これでも騒がしいほうなんですけどねえここ最近は」
「らしいですわねえ」
 二人の眼、のみならずその場全員の視線が、生意気そうな顔付きの少年と、ジャージ姿の女性へ向けられた。この二人が纏めて、ここ最近の騒ぎの一つである。
「申し訳ありません」
 ジャージ姿の女性、愛坂が頭を下げる。すると隣の田上も、不服そうではあったが彼女に倣った。彼らがここに居ることそれ自体はまだしも、板梨の件については、不服を申し立てる余地すらないのだろう。
 ――ジャージに眼鏡の女性……ドレスだとか白衣だとかナースだとか神主衣装だとかよりは、マトモなんでしょうけどねえ。
 大金棒を肩に担ぐ女性を相方としている眼鏡の男は、あまり緊張感もなくそんなことを考えていた。
 この場に緑川や双識姉弟が居るのならばそうもいかないのだろうが、現状はそうではない。それに加えて愛坂と田上はどうにも悪人に見えず、そもそも彼らが悪意を持っているのなら紫村から連絡がある。ならば白井の緊張感のなさはなにも油断ではなく、つまりはそもそも、警戒する必要性が限りなく薄いのであった。警戒を緩める要因として、愛坂の膝の上にデフォルメされた熊の人形――ベアが鎮座していたりもするのだが。
「そんな畏まらないでも大丈夫だよ。公務員だって言ってもぼくら、そういう堅苦しいのは得意じゃないからさ」
「否定はせんが、お前が言うな」
「ありゃ」
 白衣の男は、神主衣装の男に怒られていた。その隣でシルヴィアは「そレもそうだネー」と屈託なく笑い、愛坂の膝の上からベアに「ぐままー」と相槌を返されたりもするのだが、一方で田上少年、それら全てに対してどう反応していいのか分からないといった表情である。もちろん、自分の立場というものも影響してのことではあるのだろうが。
 ただ、その隣で愛坂は笑っていた。さすがに控えめながらも、しっかりと。

「なんか、ごめんね。こんなので」
 緑川家。未だ顔面を床に押し付けていた緑川は、唐突に謝った。無論ながら頭はこれ以上下げられず、なので言葉のみの謝罪ではあったが。
「なにが?」
「どうかした?」
 部屋にあった漫画を二人で呼んでいた赤と青、何を謝られたのか分からなかったらしい。つまりはこの部屋にいる三人の中でそのことにずっと気を揉んでいたのは当人である自分一人だけだった、ということで、何となく顔が熱くなってしまう緑川であった。
「いや、まあ、その……暗い感じで」
「元気出してね、千秋お兄ちゃん」
「雪がもっと積もったら、みんなで雪だるま作ろうね」
 この二人に励まされっぱなしなのは分かっているし、それはどうかとも思っているのだが、だというのにその状況から抜け出せないでいる。
 緑川の苛立ちは、加速する一方であった。
 加速した先に物騒な考えがちらついていることにも、気付いていた。
 物騒な考えというのが具体的にどういうものなのかには、気付かないふりをしておいた。気付いたところで実現不可能であることは分かっていたし、それ以前に実現させる気もないのだ。
 ――じゃあ、もういい。こっちで勝手にやらせてもらうわ。
 そんな声にも、気付かないふりをしておいた。

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