第四章
「果報は寝て待て。まあさすがに、寝かせてはもらえないみたいだけど」



 目的を果たす。
 合図となったその言葉と同時に、定道がこちらへ一直線に駈け出してくる。あまり素早そうな体形には見えないがしかし、やはり一般人よりは格段に上のスピードであった。
 とはいえ、それは実に直線的な動き。そこからすれ違いざまに振り抜かれた彼女の拳を、田上は避けるというよりは距離を取るようにして危なげなく回避。その後視線を送ってみるに、隣に立っていた愛坂も、どうやら同じように動いたらしかった。
 定道はその勢いのまま走り抜け、荒田の元へ辿り着く。一方で荒田は、今の一瞬に何の動きも見せていなかった。であれば自然、こちら二人とあちら二人が向き合うことになるのだが……。
 ――せっかく挟み撃ちの形だったのに?
 有利な状況をわざわざ自分達から崩したあちら二人を訝しまないではない田上だったが、しかしだからといってそのことを問い質すような状況ではない。戦闘は既に始まっているのだし、それにこちらの初動をどうするかは、既に打ち合わせ済みなのである。
「真意さん!」
「あいよっ!『田上行太郎』!」
 田上の呼び掛けに応じ、愛坂が動く。いや、それは自発的に「動いた」と捉えるようなものではないのかもしれないが。
 田上の名を読み上げた愛坂の身体が、着込んだジャージの内側で不気味かつ痛々しく蠢き始める――べきりべきりごきりごきりと、人体が発してよいものではない音を立てながら、今読み上げた「田上行太郎」の形に作り変えられていく。
 その間の愛坂は無防備であり、ならば田上としては敵である定道と荒田に注意を向けていなければならない……ということもあるし、そもそも見ていて気分のいいものではない。なので、田上がわざわざ愛坂の方を見るようなことはないのだった。
 そして想定通り、定道と荒田は手を出せないでいる。それを直に見てしまった定道は表情を歪めており、そして仮面で覆い隠されているにはせよ、荒田もそれと同様なのだろう。
 そうして様子を窺っている間に不快な、しかし聞き慣れもした音が止む。ならばジャージの内側だけでなく、顔も変形し終わったことだろう。そこで初めて横へ向けられた田上の視線の先には、自分と同じ、しかし自分らしからぬ気だるげな笑みを浮かべた顔があった。
「お待たせっす」
「いえ」
「申し訳ないっすね、いつもエグいもん見せちゃって」
「いえ、見てはないですから」
 定道と新たに動きがないことを受けてか、軽口を挟んでくる愛坂。相手の様子がどうあれそんなことをしている場合でないというのはもちろんなのだが、しかしいつものことでもあるので、ここでもやはりわざわざ突っ込みはしない田上であった。
 名前を読み上げた人物に変身する。それが愛坂の鬼道なのだが、口調を変えているのは単なる彼女の拘りである。
 ――だからって変身した相手に似せるわけでもないってのがまた、この人らしいというか何と言うか……とまあ、今それはそれとしておいて。
「んじゃあやりますよ、真意さん」
「うっす」
 前方の敵二人に向き直りつつ、愛坂に呼び掛ける田上。となればもちろんその表情は、そしてその裏にあるものも、冷たく張り詰められていくことになるのだが――しかしながら、一部そうなり切れないところも。
 二人くらいならわたしだけでも。頭の中で繰り返し再生されるのは、定道を止めようとしていたらしい荒田のその言葉だった。
 別に、自分の力に過度な自信を持っているというわけではない。それとはまた別の理由から、田上はこう思っていたのだった。
 ――やってみやがれ仮面女! やれるもんならな!
 気が緩まないよう声に出しこそしなかったものの、その啖呵と同時に田上が鬼道を発動させる。同時に、田上の身体ごと愛坂も。
 二人くらいなら、と言ってみせた荒田の目の前で、その二人の敵が二人どころではなくなっていく――個人を指して《軍団》の肩書きを持つ、田上の鬼道。それは、自身を最大十人にまで増殖させるものだった。
 最大十人。当然ながら今は出し惜しみをするような場面ではなく、なので田上は、そして愛坂も、その限界である十人にまで自身を増殖させていた。つまりは「二人くらいなら」と言ってみせた荒田の目の前にその十倍、二十人もの田上がずらりと並ぶことになったのである。
「行くぞ仮面女!」
「お? んじゃあ自分はもう一人の方で」
 ……そういうつもりで言ったわけではなかったのだが、それならそれで問題はない。ないということにしておく。
 どちらがどちらに仕掛けるか決定したところで、田上十人が荒田へ、愛坂が化けたジャージ姿の田上十人が荒田の近くまで駆け抜けていた定道へ向けてそれぞれ駆けだし、うち何名かが飛び上がる。積もった雪に残る大量の足跡と大量の足音が敵二人へと真っ直ぐに突っ込み、宙を舞った数名も、放物線を描きながら同じく敵二人へと空中から突っ込んでいく。
 気を付けなければならないのはあちら二人の鬼道だが、しかし余程のことがない限りは、この人数全てが捌き切られることはないだろう――と、愛坂が化けたものも含めた二十人のうち、何名かの田上はそんなふうに考えていた。
 のだが、
「『広げろ』依子! 叩き落とせ!」
「うりゃああっ!」
 定道の指示で荒田が両腕を振るう。その振るった両腕の先では両手で一つのペットボルが握られていたままだったのだが、しかし田上は、そして恐らくは愛坂も、ペットボトルを見てはいられなかった。
 ペットボトルの蓋は外されていた。その状態で大きく振り下ろされたとなれば中の液体が飛び散る筈だったのだろう。もちろんそんな当然の、無駄な結果になど結び付くわけがないのだが。
 それが液体であるということは誰の目にも――当然ながら田上にも、明らかであった。だがその液体は、
 ――なんじゃこりゃあ!?
 巨大な羽子板とでも言うべき形状に固定されていた。しかもそのまま、こちらへ向けて振り下ろされてくるのだ。
 ばたばたと倒れ伏す田上の集団。しかしそれでも総計二十人、全員が叩き潰されたわけはない。被害を被ったのは定道の指示通りかつ文字通り、体を宙に躍らせている者だけであった。
 人数のことがあるにせよ、地に足をつけて受け止める分にはその液体の板は薄い――というより、重みを感じないほどに軽かったのである。薄く広がり、人間を数人纏めて叩き落とせるような大きさになったにはせよ、重量は元の液体と変わらないということなのだろう。
 それ故地上の田上達は、避けきれなかった者でも腕で軽く受け止める程度、足を止めるまでには至らないで済んでおり、また飛び上がって叩き伏せられた田上達も、見た目ほどの痛手は負っていなかった。
 だが、荒田としても初めからその程度のつもりだったのだろう。そこから無理に押さえ付けてくるようなこともなく、巨大な板状の液体は、一瞬でペットボトルの中へ引き戻されていく。
 無事でこそあった地上を駆ける田上だったがしかし、いきなりのことに驚き、同時に舌打ちも。ジャージ姿の田上、つまり愛坂がどういう心境なのかは、当然ながら分からないが。
 とはいえ、足を止めるほどの衝撃でないのならば構っている暇はない。余裕もない。愛坂の狙いが定道であるならば田上の狙いは荒田であったのだが、その荒田が、今度は両手に一つずつペットボトルを構えたのである。
 瞬時に作り出されるそれぞれの液体の形状は、先程の羽子板よりも厚い板――いや、盾が二つ!
『オラアアア!』
 複数の田上のうち二人が、真っ直ぐにその盾を殴りつける。が、その勢いで荒田本人が押されはするものの、液体の盾自体はびくともしていない。鬼道で制御されているのは間違いないにせよ、とても液体とは思えない頑丈さであった。
 しかしこの頑丈さについては、先程の羽子板で予想済みでもある。あれほどの薄さ、軽さでも、人間を叩き伏せているのだ。
 予想できていたのなら対応も素早い。一方では盾の側面から回り込むように、一方では液体の盾に拳を突き立てた数名の田上を踏み台にして盾を飛び越えるように、残りの田上全員が荒田へと肉薄する。
 ――盾のほうも抑えたまんまだ! これなら防御も間に合わねえ!
「ウッゼぇっ……!」
 ――ん?
 肉薄している、ということで互いの距離は近い。そういうわけで荒田の呟きが聞こえてくるのはいいにしても、予想外にガラの悪い言葉と発音を田上達が気に留めた、その瞬間であった。
 大きな音と水しぶきとともに、二つのペットボトルが爆発を起こした。
 そして、これで時間切れ。
 羽子板による一撃で倒れ伏し、起き上がりつつあった田上は残らず消え失せ、今の爆発でずぶ濡れになった田上も、ただ一人が残るのみとなった。

 時間を数瞬巻き戻し、巨大な羽子板による叩きつけのその直後。愛坂達――服装と気だるそうな目付き以外は田上そのものだが――は、定道を目掛けて突進していた。
 もちろん、数で勝っているからといって油断はない。一目見ただけとはいえ、どうやら液体を操るらしいあちらの荒田はともかく、こちらの定道はどんな鬼道を持っているのかまだ分からないのである。
 ――でもそれにしたってこれ、動きが無さ過ぎない?
 荒田に「叩き落とせ」と指示をしてから、彼女は一歩も動いていなかった。どころか、何かしらの構えを取っているわけですらない。
 もちろんコンマ秒単位のごく短い時間ではあるのだが、この人数をまさか真正面から迎え撃つというのも考えにくいものだ。と、愛坂がそう考え終わるかどうかの瀬戸際になってようやっと、定道が動きを見せる。ただし、口元だけであるが。
「断我」
 ――ダンガ?
 それは呟きのようであり、ならばこちらへ向けて放った言葉ではないらしい。
 拳が定道へ届く位置に到達するまでもういくらも掛からない。ならば、意味の分からない呟きを気にしても仕方がないだろう。
 しかしそんな中、愛坂は気付いた。定道の表情が変わって――いや、表情が消えていることに。とはいえそれに反応するどころか、最早それについて何を思う暇すらないのだが。
 直後、愛坂が田上の身体で繰り出した拳は、見事に定道の胸へめり込んだ。
 ただしそのめり込ませた一人以外が全員、逆に殴り飛ばされていたのだが。
 そして、これで時間切れ。
 羽子板による一撃で倒れ伏していた愛坂は残らず消え失せ、今の一瞬の攻防に参加した愛坂達も、それに打ち勝ったただ一人が残るのみとなった。

 予想外の反撃を受けた田上は、愛坂とともに一旦相手から距離を取った。あちらの二人も同じような選択をしたようで、引いたこちらを追ってはこなかった。
「あいたたた……」
 増殖を解いた時、全員のダメージがある程度引き継がれる。なので増殖後の自分を多数殴り飛ばされた愛坂は、軽度ではあろうものの、体のあちこちを痛めたようだった。
「大丈夫ですか、真意さん」
「うん。でもそっちが羨ましいっすね、濡れるだけで済んだみたいだし」
「んなこと言われましても」
 ――羨ましがられても困るというか、いっそ後味悪いというか。
「それはさておき、どうしたもんっすかね」
「どうなったんですか、そっちは」
「何か呟いたと思ったら無表情になって、そしたらとんでもない速さで反撃食らったっす。あんだけ大勢で殴りかかって無事だったのが一人だけっすよ」
「こっちはペットボトルが爆発しただけでしたけど……何ですかそれ」
 それが威力のある爆発でなく単なる目眩ましであったことは、そうする必要性がない以上は「手加減をされた」というようなことではないのだろう。ならば、荒田へ再度接近することにそれほどの問題はなさそうであった。もちろん、目眩ましでしかない爆発をいいとしても、頑丈な盾は依然として問題なのだが。
 それはともかくとして、愛坂のほうである。
「別の名前使ってみたらどうです?」
「いやいや。相手が相手だけに、あんまりこっちの手の内見せちゃうのもどうかと思うんすよね。『ストック』してるのは全員六親のみんなっすから」
「はあ。なるほど、享楽亭ですもんねえ」
 別の名前。愛坂の鬼道は相手のフルネームを知っていてかつその相手が目の前にいて初めて使用でき、鬼道の写し取りについては更にその鬼道がどういうものかを知っていなければならない――のだが、「ストック」という名目で選択、保存している名前については、相手が目の前にいる必要がない。
 逆に言えば、いま愛坂が使える「田上以外の名前」は、この場に他の人物が誰もいない以上、ストックしている六親メンバーの名前だけなのである。
 鬼道の名前さえ分かればあちらの定道と荒田の名前も問題なく使えるのだが、体だけを写し取って鬼道が使えないとなれば、わざわざそうする意味も薄いだろう。
「それに田上くんは体格が近いから、動きやすいっす」
「それは毎回言ってくれなくてもいいです。チビってことなんですから」
「元がペッタンコだから、女よりも男の体のほうが大体はしっくりきちゃうってのもあるっすね」
「それも言ってくれなくていいですから」
 愛坂の普段の身体は、実のところその偽名と同じく「本物の愛坂真意」のそれである。なのでこういうことを引け目なくバシバシと言ってくるのだが、女性の体と比較される田上としては、毎度毎度耳が痛いやら反応に困るやらな話なのであった。
 ――そこを楽しまれてるんだろうけどなあ。
「じゃあもう、逃げます? 俺らはあの二人に付き合うことないんですし」
「いや、もうちょっと待ってりゃ何とかなると思うっすよ? 下手に逃げようとするよりよっぽど安全に」
「逃げるより……何とかって、どうなるんですか?」
「分からないなら、お楽しみってことで。んー、それにしてもあっちの二人、動かないっすねえ?」
「お互い様じゃないですか、それは」
 とは言え確かに、定道と荒田には動きが無さ過ぎた。戦闘を継続する必要性がないこちらと違ってあちらは仕事なのであり、ならばまさか、こちらと同じような無駄話をしているわけではないのだろうが……。
「……ああ、真意さんの一発が効いてるんじゃないですか?」
「手応えがあんまりだったっすしねえ。後ろに跳ばれてたっすかね、多分」
「あんだけの人数殴り飛ばしておいて受けもこなしてたって、バケモンですかあの小太り」
 などと悪態を吐きつつ、そして言い終えてから、
 ――バケモン、ね。
 と昔のとある記憶を呼び起こす田上であった。が、もちろん今それは関係ない話であり、なのでそれは振り払っておき、待っていれば何とかなるという愛坂の言葉に期待を寄せることにしておいた。
 するとそこへ、
「聞こえましたよ小さいの。どっちも小さいですけど男の方」
 荒田が釘を刺してきた。さすがに相手は女性、体形のことを揶揄するのは不味かったらしい。なぜ釘を刺してきたのがその小太りこと定道本人でなく荒田だったのかというのは、気に掛からないでもないが。
 ――つーかお前は口調を統一しろよ。何だったんだよさっきの。
「いいじゃないか依子。それとも、この体型はあまりお気に召さないかな?」
「い、いえ智代さん、もちろんそんなことはありませんけど……」
「ふふふ、だろうなあ。ふふふふふ」
 口調が変わる仮面の女。それに比べれば普通な人間であるはずなのに、定道についてもやはり、どこか不気味な人物だと思わされてしまう。しかし彼女のどこにそう思わせる要因があるのか、田上には未だに分からなかった。まさか、肉付きがいいという点ではないのだろうが。
「それにしても、喧嘩か。野蛮なことだと食わず嫌いだったが――ふん、『断我』であれだけ動けたんだ、なかなか具合が良さそうだな」
「わたしとしては、喧嘩が『それ』だというのはあまり喜ばしくはないですけど……断我、ですか? 疑我を飛ばして?」
「人数が人数だったからな」
 ダンガとかギガとか何言ってんだこいつら、と田上は必要もなく苛立った。しかしそれらは苛立ちを助長させただけであり、根源となっているのは別の部分だった。
 喧嘩。野蛮なこと。享楽亭なんぞに与するお前が何を言うかと、享楽亭を敵に回す組織に与する田上は、思わずにいられなかったのだ。
 しかしそんな思いも口にしなければ当然伝わらず、なのであちらの話は続く。
「そうだ、人数。忘れるところだった」
 荒田と会話していた定道が、こちらを向いた。
「愛坂真意。お前の鬼道は他人の姿と鬼道を真似るというもので間違いはないか? 今のその姿や、さっき私にしたことからして」
「まあ、そうっすけど」
「自分自身との殴り合いなんて他では経験できんだろうなあ。そういうわけで愛坂真意、私を真似ろ」
「変な注文っすねえ。別にいいっすけど」
 大概のことには動じない愛坂ですら眉を顰めるような、まさしく妙な注文であった。それでも二つ返事で了承してしまうのは流石だというところなのだろうが――しかしその前に、この小太りはこれが仕事だということを分かっているのだろうか? と、ついつい敵の心配をしてしまう田上であった。
「でもその前に、鬼道の内容を教えてもらわないと。付けてるんなら名前も教えてもらえると有難いっすけど――疑我とか断我とか言ってたあれって、鬼道の名前ってわけじゃないっすよね?『しっくりこない』っすし」
「名前と内容か。ふむ、まあそんな感じになるのだろうが、面倒な話だな」
 定道の言う「自分自身との殴り合い」が鬼道までを含んだ話だったのかどうかは定かでなかったのだが、そもそも定道は「身体を写し取るだけなら本人の名前だけでいい」という条件を知らないはず。ならばそのことを明かさずに鬼道までを写し取っておくというのは、いい判断だったのだろう。
 ――さすが、抜け目ないなあ真意さん。
「私の鬼道は『我不関』。自我を削り取り、その削り取った量に応じて運動能力を底上げするというものだ。パワーアップだな、簡単に言えば」
「自我を削り取る……ちょいと理解に難しいっすけど――ははあ、それであんなボーっとした顔になってたわけっすね」
「私自身、その最中の自分の顔を見たことはないがな。……ああ、疑我とか断我とかいうのは、削り取る自我の量に応じて便宜的に付けた段階名だ。その後ろに絶我、無我と続くのだが……」
「のだが?」
「無我までいくと、何もできなくなる」
「ありゃあ。ふふふ」
「ははは、お恥ずかしい」
 ――なんで談笑みたいになってんですか真意さん。つーか俺の姿で女っぽい笑い方しないでください気持ち悪い。
「さて、これでいいか? 愛坂真意」
「しっくりきたし、いいみたいっすよ。じゃ、第二ラウンドっってことで――『定道智代』!」
 愛坂が次の体の名を挙げると、べきりべきりごきりごきりと肉も骨も軋ませて、これまでの体が変形を始めた。
「ぐ……」
 その過程を真正面から見たのだろう。荒田が、仮面の奥から嗚咽のようなものを漏らしていた。田上の体を写し取る際にも同じものを見たのだろうが、とはいえやはり一度見た程度で慣れられるものではない。ましてや今度は、自分の相方への変形である。
「なるほど、だからジャージにサンダルなのか。ある程度までの体格になら対応できるというわけだな」
「ちなみに下着は男ものの改造品だわね。太くても細くても、それに合わせてゴムひもでキュッと」
「済まんね、ただでさえこんな体形なのに妙な注文を付けて」
 気だるそうな目付きでジャージ姿な自分を相手に、態度を変えない定道。どう反応すべきなのか、そもそも反応をすべきなのか、田上は迷う。なにせ自分のほうはまず間違いなく、もう一度荒田とぶつからなければならないのだ。
 が、そこで。
「依子、どうせもう時間が無い。お前は田上少年を止める程度でいいぞ」
「時間が無い、ですか?」
「そろそろ鬼が来る。――そういうことだろう? 愛坂真意。さっき話していた、『待っていれば何とかなる』というのは」
「おお。ご名答、だわねえ」
 この地区に配属されている鬼は事件への対応速度が非常に、いや異常に早い。そのことは、「鬼に関わるような界隈の者達」の中ではそれなりに広まっている話であった。
 事件が発生し、隠がそれを調査し、その後に夜行が容疑者を捕える。通常はそういう段階を経る筈なのに、この地区の夜行は、事件が起こる前から待ち伏せをしている場合すらあるというのだ。
 ――そっか、鬼が……また会うことになんのか、あのコスプレ集団に。
「というわけで、お前を連れて帰るというのは今回はもう諦める。あとは時間いっぱいまで遊んでもらうだけだ。宜しく頼むぞ――愛坂真意!」
「めんどくさいわねえ!」
 目付きと服装だけが違う同じ女が二人、お互いを目掛けて駆け出した。
 田上としては愛坂に加勢したかったのだが、正面方向には仮面の女、荒田依子が。先程のペットボトル二本はあの爆発で吹き飛んだはずだったが、しかし見ればまたも両手に一本ずつのペットボトルが収まっている。どうやら複数所持しているらしく、かつやる気になっているようだった。
「どけっつってもどかねえよな、やっぱ」
「あなたのせいで……」
 ――ん?
 すぐ傍で愛坂と定道が激突し始めたのを横目に、意味がないと分かっていながらそれでも一応と投げ掛けたその質問。しかしそれはどうやら、まるで無視されたようだった。
「あなたがわたしに汚い言葉を遣わせたせいで、智代さんから罰を与えられてしまいました」
「は? 罰? いやお前、何の話――」
「あなたのせいで今晩、智代さんと同じベッドに入れません」
「えっ?」
「抱いてもらえないと言っているのです」
「抱い……はい?」
 自分と殴り合いをさせろという定道の注文も妙であったが、こちらはそれより妙なことになりつつあった。が、妙なことになったというのは理解できながらも、しかし田上はその妙なことがどういうことなのか、即座には理解できなかった。
 ……即座ではなかっただけで、少し考えれば理解できてしまったのだが。そして正直、したくもなかったのだが。
「足止めでいいと言われましたが、それだけではとても済ませられませんよねこれは……ざっけんじゃねえぞこのクソガキが! グチャグチャに叩き潰したらぁああああっ!」
 ――えええええっ?
 最早全く戦闘意欲の湧かない田上であった。が、それでも荒田は向かってくるので、応戦せざるを得なくもある。
 逆切れもいいところだが、それにしたって周囲の気温が上昇せんばかりの激しく荒々しい怒りである。戦闘意欲はないものの、仮面の下の表情はいったいどんなことになってしまっているのかと、そんなことは気になってしまう田上であった。

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