第五章
「毒を以って毒を制した……毒でいいよな、あれ」



「分身?」
 定道、荒田との戦闘が終わって一件落着――というわけにはもちろんいかず、その次に田上と愛坂を待っていたのは、灰ノ原、桃園両名への事態の説明であった。
 どうにも緊張感というものを感じさせてくれない相手ではあるのだが、とはいえ田上にとってはやはり、これもまた「一件」としてカウントしたくなるような事態だった。
 ――警察の取り調べ、だもんなあ。これって要するに。
「はい、分身です。そのまんまですけどね」
「そうだねえ。ぼくはもうちょっとユーモアに富んでるほうが好きだけど」
「ユ、ユーモア、ですか?」
 意外な言葉に田上はぱっと顔を上げるが、しかし表情のほうはぱっとしていなかった。
 分身。自分を十人にまで増殖させる田上の鬼道の名であるのだが、鬼道といえば多くは戦闘行為に用いるものである。なんせ「そのまんま」な名前を付ける性格の田上であるので、そこにユーモアってどういう神経してるんだこの人、などと思わずにはいられなかったのだが――。
「あ、いや、すいません」
「ンヒヒ、いいよいいよ。ぼくはあれだ、人と違うということに快感を見出す幼稚な人間だからさ」
 そこまで顔や言葉に出たとは思わないにせよ、仮にも自分達を助けてくれた人物に対する態度ではなかった。そう反省する田上であったがしかし、当の灰ノ原はこんな調子である。
 が、それに続くのは彼のパートナー。
「というような嘘を平気で並べ立てる人間です。信用なさらないように」
「そうそう、彼女の言葉は信用してくれていいよ」
 今のが嘘であるなら、灰ノ原の本心はどうであったのか。しかし田上はそんなことを考える前に、「この二人、よく組んでられるな」と思ってしまうのであった。
「さくっと纏めちゃうと分身の術ってことなんだろうけど、細かいところ訊かせてもらっても大丈夫かな?」
「あ、はい」
 ――纏めた割にむしろ二文字増えてる、っていうのはともかく。
「えーと、増えてられるのに時間制限があるんですけど、増えた俺同士が近くにいる場合だけの話なんですよそれ。全員が散り散りになる分にはいつまでも増えてられて、そうやってばらばらに動き回るのがこの鬼道本来の使い道なんです。……って、本来も何もあったもんじゃないんでしょうけどね鬼道の使い方に」
「ンヒヒ。そりゃ確かにそうだね、こんな不思議パワー」
 笑って返してきた灰ノ原に、ああ、自分達よりよっぽど使い慣れてるであろう鬼にも通じる感覚なのか、と田上。意外だという思いがないわけではなかったが、しかしどこかほっとさせられたような気分がそれより大きかったのは、どうやら間違いないらしかった。
 といったところへ、灰ノ原はこんなふうにも。
「にしても、随分便利そうだねえその鬼道」
 ――いやいや、それだったらそっちのほうこそ。
 と、あのどこにでも繋がる黒いトンネルを思い出してそんな感想を持つ田上だったのだが、しかしその道のプロである鬼に褒められて悪い気はしない、どころか嬉しいというのがそれより大きかったのは、これもまたどうやら間違いないらしかった。子どもか俺は、なんてふうにも思わないではなかったが。
「今回みたいに戦闘で使うこともできるんですけど、複数でボコボコにするってなんか卑怯かなって。……使いましたけどね、今回」
「使ったんだ? いやあ、自己矛盾ってやつか。若さ溢れるねえ」
 喜ばされた直後だというのに、それはなんともこちらの神経を逆撫でするような物言いだった。しかし灰ノ原という人物はそれを本気で言っているのか冗談で言っているのか掴ませてくれず、更には先程にも思った通り、仮にも自分達を助けてくれた人物である。そうしたかったというわけではないものの、機嫌を損ねるに損ね切れない田上なのであった。
「灰ノ原さん、そういうことを遠回しに伝えようとするのは単に性格が悪いだけですよ」
 と、ここで実に冷ややかな口調で彼に釘を指したのは、もう一人の鬼である桃園。
「田上さん、愛坂さん。私達はあなた方の味方ではありません。敵だというわけでもありませんが、しかしどちらかと言えば敵に近い立場です」
 ――…………。いや、灰ノ原さん、さっきのアレでそんなこと伝えようとしてたのか?
「ああ、ストレート過ぎるよ叶くん。しかも的確過ぎるよ」
 これだけはっきり言われてしまうと逆に不快感も何もなくなってしまうが、ではあちらはどうかと愛坂の顔色を窺って見たところ、うんうんと頷いてすらいた。桃園の言葉と灰ノ原の突っ込みのどちらに頷いているかは――どっちもだろうな、と勝手に予想しておく。
「まあそれはそれとして」
 かなり強引に話題を転換させる灰ノ原であったが、桃園の印象を気遣うというより、むしろそういうことをまるで気にしていないというふうであった。何がそう思わせるのかといえば、彼のにたにたした表情なのだろう。
「次は愛坂さんの鬼道だね。ちょっと見ただけのことを言えば、あのぽっちゃりした女の人に化けてたみたいだったけど?」
 ――よく見てるなあ、さすがに。
 というわけで今度は愛坂の鬼道、他人行儀の説明に移る。
「他人行儀(シフト・ジ・アザー)」。ユーモアに富んだ方が好みだ、と先程灰ノ原は言っていたが、それにはこういうものも含まれるのだろうか。そんなふうに考えた田上はそのセンスの真似をしてみようと思い立ってみたが、暫く考えてみても口にするのが恥ずかしいような案ばかりが浮かぶだけなのだった。何だったらその愛坂の鬼道自体、なんでさらっと人前で口にできるんだと思わなくもない。
 と、そうしている間に説明が終わったところで、
「なるほどねえ。じゃあ、鬼道はともかく、ぼくに化けることもできるわけだ」
「悪用するつもりはありませんけどね、もちろん」
「ンヒヒ、ぼくはジャージなんか着ないしね。この恰好じゃなけりゃあ誰もぼくだと気付かないよ、どうせ」
 ぼろぼろの白衣に加え、眼鏡に車椅子。それもそうなんだろうなと田上はついつい納得してしまうものの、しかし今日会ったばかりの相手にそれも失礼な話だな、とも。
「叶くんは……性格のほうを真似るのが難しいんじゃないかなあ?」
 言われて視線を桃園へ移し、これもまたそうだろうなと。桃園本人は「それは誰でも同じでしょう」と返してはいたが、同じなわけがなかった。
 が、もう一つ。
「ああ、そもそも私、性格まで真似るなんて面倒くさいことはしませんから」
 これがあるのだった。どんな姿になろうとも、愛坂はいつも愛坂のままなのだ。
 それを聞いた灰ノ原、表情は変えないまま、
「じゃあその性格は愛坂真意のものでもないのかな?」
 などと言い出した。今ここにいる愛坂が「愛坂真意」を名乗る偽物であることは話したが、性格「は」愛坂真意のものでない、つまり体は愛坂真意であるということは、話していない筈であったというのに。
「いや、愛坂真意を常に名乗っている以上、姿も真似てるのかなと思ってさ」
「あらあら、これは驚きましたねえ。どちらもご名答です」
「あ、合ってた? そりゃ良かった。じゃあさっきの鬼道の説明からして、愛坂さんは本物の愛坂真意に会ったことがあるってことかな?」
「いえ、残念ながら。でも私が怪物に殺された時、目の前にあったビル――つまり、当時愛坂真意とその仲間達が使っていたビルで写真と資料を見付けて、そこから彼女の名前と容姿を把握することができたんです。修羅になってこの鬼道を手に入れた後、その写真も資料も処分しちゃいましたけどね。『ストック』してしまえば問題ないわけですし」
 今ここにいる愛坂にとって、「本物の愛坂真意」は憎き自分の仇である。ならば彼女に関する資料や写真は、そう簡単に処分してしまえるようなものではないのではないか。今ここで初めてそれを聞いた灰ノ原と桃園は、もちろんそんなふうに思うだろう。
 ……というふうに田上が考えたのは、かつての自分がそんなふうに思わされたからだった。
『んー、仕返しだけが目的なら捨てはしなかったんだろうけどねえ。でも、誰かが同じようなこと起こしちゃうかもでしょ? あの女と、あの女がやらかしたことの情報が残ってたらさ』
 人間としての格、もしくは器の差。今と同様な締まりのない笑みを浮かべながらそう語った愛坂に、かつて田上はそういったものを感じさせられたのだった。
「怪物を作り上げたのが彼女だってことも、その時に?」
「そういうことです。いや、ビル自体が滅茶苦茶に破壊されてたんで、こればっかりは運が良かったとしか。結構後になってからのことですしね、私が修羅になってそこへ戻ったのって」
 愛坂の昔の話。先の思い出の中でもそうだったように本人はそれを何でもないふうに語り、灰ノ原と桃園はどう見てもそれを単なる情報として聞いている。が、田上はそんな彼女らに同調などできそうもなかった。
 怪物に殺され愛坂真意の情報を得たその瞬間から、愛坂は姿と名前を偽ってきた。偽っていると公言してまで、ずっと偽り続けてきた。それを考えるととても軽々しく聞き流せる話ではなく、いっそ聞きたくなとすら。
「大変そうな話だねえ。――んじゃ次は、あのぽっちゃりさんと仮面してた娘の話かな。君らの話はもう、ぼくらの家であらかた聞いてるしね」

「う……」
「気が付いたか?」
 田上と愛坂がそれぞれ戦闘を行った相手の話を始めた頃、その二人は未だ逃走中であった。とはいえそのために体を動かしているのは、うち一方だけだったのだが。
「すいませんでした」
「説明は要らないか、それは助かる」
 荒田が肩に担がれたまま謝ると、定道はそう言いながらからからと笑い飛ばす。しかしそれでも走り続ける足は止めず、なので荒田も定道も、走りからくる振動に合わせて声を弾ませていた。
「こっちこそすまなかったな。急を要したとはいえ、少し勢いを付け過ぎた」
「いえ、おかげで痛みを感じる暇もありませんでしたから」
 荒田はあの時、鬼に手を出そうとしていた。もちろんあちらからすれば、手を出そうが出すまいがこちらが敵であることに変わりはない。だがそれでも、手を出してしまえば即座に実力行使を図ってきただろう。定道に止められていなければどうなっていたか――。
「……やっぱり、この仮面は必要みたいです」
「ふむ。しかし何度も言うが、いくら私でもそこまで気にはしないぞ?」
「何度も言い返しますけど、これは私の意地です。『智代さんに好かれた私』にそぐわないものは、出来る限り排除します」
「何度も聞いたな。まあ、お前のそういう意地を張れるところは好きだが」
 定道に好かれた自分にそぐわないもの。仮面の話で言うならば、それは戦闘中の怒りに歪んだ醜い表情であった。
 定道は、暴力というものを好ましく思っていない。もともと暴力的な性質の人間であった荒田は、ならばその顔を仮面で覆い尽くしてでも、暴力的な素の自分を隠す必要があると判断したのだった。
「それに私には、弱みもありますから。智代さんはもともとノーマルなんですし」
「今更な話だな」
 アブノーマルな自分からの、ノーマルな定道への恋。
 初めは、一方的なものだった。定道がそれを受け入れてくれる速度は尋常ではなかったが、しかしそれでも、自分がこちら側へ引き込んだことに変わりはないのだ。
 ……いや、定道の性質を思えば、引き込んだという表現も正しくはないだろう。
 定道はまだ「あちら側」に立っている。そこを動かないままにして、自分の想いを受け入れてしまっているのだ。彼女はそれができてしまう人間であり、また、意識してそうしようとしている人間でもあった。
 誰がどんなことをしようと、彼女は自分の立ち位置を決して変えないだろう。例えその相手が、自分自身の無意識であっても。
 今になってそんなことを考えていると、定道がくっくと息を弾ませる。
「もしかして、罰のことでふて腐れてるのか?」
「ないとは言いませんけど」
「ふむ、正直でよろしい」
 荒田からすればその質問をされること自体が罰であるくらいなのだが、しかしその返事に定道は気を良くしたらしい。微笑んでいるのが背中越しにでも分かるくらい、弾んだ声色を聞かせてくるのだった。
「そうだ、正直ついでにもう一つ訊いておこうか」
「何ですか?」
「名前――田上君と言ったか。あの子との戦闘、どうして途中で手を止めた? 直前まであれだけご機嫌斜めだったのに」
「それは……その、すいません」
「責めてるわけじゃないさ。足止め程度でいいと言ったのは私だ、それは果たしてくれたんだからむしろ褒めてやりたいくらいだぞ。何なら本当に褒めもいい」
「こんな格好で褒められても恥ずかしいだけです」
「だろうな。話すにしても褒めるにしても、尻が相手みたいで私も少々恥ずかしい」
 などと言われてしまうと肩から降ろして欲しくなるのだが、そうなれば降ろす前にからかわれるのは必至である。罰を受ける身であることを考えれば、何となくそれは控えておきたかった。
 ので、質問への返答である。
「見当違いに余裕ぶられたのが滑稽だったんです」
「詳細を聞きたいところだが――滑稽とまで言うか。田上君のことなのだろうが、くくく、酷いなお前も」
「うふふふ」
 定道の笑い声を耳にした途端、荒田も笑ってしまう。しかしそれは返事の一種としての笑いではなく、単なる思い出し笑いであった。
 ペットボトルを弾き飛ばし、「あと一本だな」と笑んだ田上。鬼道についてわざわざ説明したわけでもないので、ああいった勘違いも仕方がないと言えば仕方がないのだが、しかしそれでも、滑稽なものは滑稽なのであった。
 肩からだらんと担がれたまま笑うというのは不気味だろうなというのは、自分でも思っていた。が、結局それを自力で止めることはできず、自然に治まるまで笑い続けるのだった。
「うふふふふ」

 ――なんだ!? 急にものすっごい寒気が!
「気になる点が二つほどあります」
 田上がぞくりと背を震わせたと同時に、桃園が疑問を口にした。それはそれでまた背筋を強張らせられるようなものだったのだが、というのはともかく。
「何でしょうか?」
「仮面の女性の鬼道は、水を操るものだという話でしたが」
 返事をしたのは愛坂であったが、仮面の女性、つまり荒田の話となると、担当は当然田上である。桃園の人物像的にもお互いの立場的にもあまり長々と会話はしたくなかったが、しかしこうなれば仕方がない。
「はい、そうです」
「その割には、周辺の様子が大人しいですね。飛び散った水の量も、雪の溶け具合からしてそれほどでもなさそうです」
 言ってから、桃園はその周辺を見渡すようにした。
「水を操るというのなら、この一帯、水だらけなのですが。なんせあちこちに川が流れていますし、薄くとはいえ地面を覆っている雪解け水だってありますし」
「あ」
 言われてみれば、そうなのだった。ペットボトルの水しか使ってはこなかったが、触れていない水でも操れるとなれば、付近の住宅の間を縫うように枝分かれしている小川の水や雪解け水だって使えない道理はないのだ。……ペットボトル数本分の水でああだったことを考えると、とても想像したくない事態ではあるが。
「あ、操れる水の量に限界があるとかじゃないんですかね?」
 そう思いたいという部分ももちろんあったのだが、それ以前に事実として、荒田が手加減をするような理由がない。ならばあれは手加減だったのではなく、何らかの理由があってのことだったのだろう。
「もしくは、操った水が何か特別だとかね」
 灰ノ原も、何やら楽しそうに意見を挙げてきた。が、
「一応、あいつ本人は『ただの水』って言ってましたけど」
「そうなの? でもそれが嘘じゃないとは限らないし、そうでなくとも『ただの水』にだっていろいろあるさ。それこそ田上くんの勘違いじゃないけど、『一度触れておかないと駄目』とか、それっぽい理由ならいくらでも考えられるしね」
 そうですよね、と素直に頷いたのは、何もフォローに飛び付いたというだけのことではなかった。
 ――いや、なくはないんだけどさそれも。
 ……鬼道というものはそれぞれがあまりにも特徴的に過ぎ、なので他人がその詳細を予想するというのは、荒唐無稽もいいところなのだ。ならばその勝手な思い込みが良い結果を生むことはないだろう――と、実戦経験では鬼に比ぶべくもない田上ですらそう思うところであった。
 するとそこへ、愛坂が。
「あー、ちょっといいですか? 思い付くことがありまして」
「おっ、何かな? 愛坂さん」
「えーとですね、定道と荒田の関係は、さっき話した通りなんですけど」
「うんうん。なんか艶っぽい関係らしいねえ、女の人同士で」
 相変わらずにやにやと言ってのける灰ノ原だったが、愛坂も負けてはいなかった。その外で田上は、どういう表情をしたものかと顔の筋肉を強張らせるのだが。
「定道のほうが、やってることの割に暴力を嫌ってるらしいんですよ。だから荒田もそれに合わせてるんじゃないかなあ、と。川の水なんて使ったら、ここら一帯ボコボコになっちゃうでしょうし」
「ははあ。あーなるほど、上下関係もあるんだったねえあの二人」
「もちろん、ただ単にペットボトルの水しか使えなかったっていう可能性もあるんですけどね」
 愛坂の説が正しいとすると、つまり荒田は手加減をしていたということになる。そうであって欲しくはないと思ってしまう田上だったのだが、しかしその次には、そんなふうに思ってしまった自分を恥じることになるのだった。
「――さて、じゃあ叶くん、気になることのもう一つは?」
「この地区の隠が優秀だと知っていたのに、わざわざここで貴方がたに仕掛けたことです。見付けたその場でなくとも、この地区を出るまで後をつけるなり、方法はあった筈ですし」
 これもまた、言われてみればそうであった。田上と愛坂は特別に急いで行動していたわけでもなく、万一尾行に気付いたとしても、定道のあの鬼道があれば逃げ切るのはまず無理だろう。ならばどうして、すぐに鬼がやってくると分かっていてこの場で仕掛けてきたのだろうか?
「それも多分、定道の考えだと思いますよ」
 愛坂は、そこでもまた定道の名を挙げた。
「わざと邪魔に入られて仕事を先延ばしにしただけなんだと思います。もっと喧嘩をしたいってな理由で。暴力が嫌いなくせに」
「うわあ、依頼主が可哀想になるねそりゃ」
「あはは、まあ、上手くいってたところであたしが偽物じゃあ意味ないんですけどね」
 そしてその依頼主も、定道によれば「存在しないならそれでいい」と言っていたらしい。それはつまり「愛坂真意」がこの世に存在している確証があったわけではないということであり、ならば仕事の成否については、いくらでも誤魔化しが効くのである。それどころか、今回の件の報告を怠ることすらできてしまうかもしれない。
 となれば、恐らく期間を設定してあるのだろう。田上はそう考えた。そうでもないと、仕事がいつまで経っても終わらないのだ。もちろん、本物の愛坂真意がこの世に存在していれば、そうでなくなる可能性もあるにはあるのだが。
「他に何か、話しておきたいことはありますか」
 聞くことに徹しているのだろう。ここまでは灰ノ原に比べて話に対する反応が乏しい桃園であったが、ここでそう尋ねてきた。
「一応訊いておきたいんですけど」
 愛坂が小さく手を挙げた。自分と同様もう話すことはないと踏んでいた田上にとっては、意外なことであった。
「はい」
「あたし達、今回のことで捕まったりはしないんですか?」
「隠の報告では仕掛けたのはあちら側のようですし、それに加えて修羅同士の戦闘であの程度ということであれば、正当防衛の範囲内でしょう。無論あなた方の話がすべて事実とは限りませんが、疑わしきは罰せられず、です。こういう職業の最大の弱みですね」
 もちろん自分達に非があると思っているわけではないし、更に桃園は顔色を一つも変えていない。しかし田上は、彼女の苛立ちを察しようとせずにはいられなかった。
「そういうわけですので、もうお引き取り頂いても結構ですよ」
「お手数をお掛けしました」
 丁寧に頭を下げる愛坂の横で仕草も言葉もそれに倣い、そして愛坂と共に、田上は帰路に就いた。

「で、どうだったのかね田上君」
「何がですか」
「そりゃもう、女の子と殴り合った気分ってやつがだよ」
「……嫌な言い方しますね」
 簡単なものだったとはいえ、取り調べは取り調べである。そこから解放されたとなるとやはり、後ろ暗いところがあったわけではなくとも、多少ほっとさせられるところはある――などと思ったのも束の間、隣を歩く愛坂はその小さな安堵を台無しにせんと攻撃を仕掛けてくるのだった。
 ――まあ、それはそれで気楽な状況ってことなのかもしれないけど。
 ちなみに愛坂の言う「女の子」とは、もちろんながらあの仮面の水使い、荒田のことなのだろうが……。
「女の子って年ですかねあれ」
「『あれ』ったって田上君、顔見えなかったでしょうに」
「そりゃそうですけど」
 少なくとも身体つきは成人女性のそれに見えたし――というのは何も変な意味ではないし、ましてや自分が小柄なことを僻んだ物言いなんかでは当然ないのだが――あとはやはり、あのドスが利いた罵声だろうか? ある意味では子どもっぽいと言えそうな気もする要素ではあるのだがしかし、あれを見た、というか聞いたうえで荒田を女の子扱いなど、田上にはとてもできないのだった。
 他にもないではないのだが、何にせよ愛坂に対して長々説明したいような話でもない。ここは話題を逸らし……もとい、話題を正しておくことにした。
「殴り合い切れなかったって感じですかね。ブチ切れられた時は正直引いてましたし、その後は真意さんが定道と言い合いしてて冷めちゃいましたし」
「はっはっはー、ごめんなさいねえ」
「いや別に、殴り合いたかったってわけでもないですし」
 本物の愛坂真意絡みの話、ということで愛坂からすれば願ってもない相手だったろうし、ならば田上としては自分がそこに同伴することに躊躇いはない。が、しかしそれでも戦闘というものはやはり、可能な限り回避したいものではあるのだった。
 ――そういうんじゃないんだよなあ、俺がやりたいことって……。
「強くなりたい」
 どきり。
 と、考えを読んだかのような愛坂の一言に動揺させられる田上だったのだが、しかしすぐに「そうなるような相手じゃないだろう」と強引にそれを抑え込む。
 せっかく修羅になったんだったら、なれるところまで強くなってみたい。
 彼が抱えるそんな思いは、愛坂に限らず六親の全員に知らせていることだった。故に今、愛坂にその話を持ち出されたのも特に驚くようなことではない。
 ――まあ、そんな真面目な話でもないんだしな。
 修羅になったついで。切っ掛け程度のものならないわけでもないのだが、明確な動機や背景があるわけではないそんな思いだからこそ、皆に話せたというところでもあった。そうでもなければ、気恥ずかしくてとても言えたものではなかっただろう。
 し、それに何より、真剣にそんなことを考えていたとしたら、それは物騒を通り越して危険な思想ということにもなりかねない。なんせ修羅になった時点でもう、超人的な身体能力を獲得してしまっているのだから。
「でも今回はっきりしたよね、田上君がちょっと強くなってたって」
 何が「でも」なのかは分からないが、愛坂はここでそんなことを言い出した。
「え? 何かそれっぽいことありましたっけ、今回」
 殴り合い切れなかったという先の話の通り、全力で戦えた時間は、なかったとは言わないまでも非常に短いものだった。であれば見ていてそうだと分かるようなことなど……いや、多少なりとも武道に通じている愛坂なら、それでも見極められるものがあるのだろうか?
 と、期待をしてみたところ、
「お色気攻撃への耐性はバッチリだったね」
「……何の話ですか?」
 見事に梯子を外されてしまう田上なのだった。
「またまた、とぼけちゃってえ。あたしが直接見たわけじゃないけど、だからって田上君から何も見えなかったってことはないでしょ? 短めなスカート穿いてあんな、ガンガン蹴りかましてくる相手にさあ」
「…………」
 ――あんなド派手なの履いてて「女の子」はないよなあ。っていうのは、偏見なのかなあ。
「帰ったら遊ちゃんにお礼とか言っとく? 見慣れてたおかげで今日助かりましたって」
「言うわけないでしょうが。ていうか止めてくださいよ、帰って顔合わせた時に意識するじゃないですか」
「あはは、そしたらまたよっしー君が困り顔になるわけだ」
「それも含めて止めてください。というか止めてあげてください。男視点だと本気で可哀想ですよあいつ」
「うむ。じゃあこれ以上は何もしないってことでさあ帰ろう」
 止めてくれとは言ったけど、もうこの時点で手遅れだよなあ。と、足取りが重くならずにはいられない田上なのだった。
 そしてもう一つ。
 ――真意さんのこと狙ってるってことはあいつら、いつかまた来るんだろうなあ。……来るんだったら次はズボンで来てくれねえかなあ。

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