第六章
「一寸先は闇? 本当に闇だったのかよ?」



 ――それが結局どういうことなのか、よく分からない。
 本音はそんなところであった。黄芽から「自分が過去、求道から何をされたのか」。それを聞かされ、その聞かされた内容を理解はしても、自分がそれにどういった感情を持つべきなのかが判然としない……いや、させることができないのである。
 ――命? っていう名前のよく分からないものを更に四つくっ付けたものを、僕の中に?
 よく分からない人によく分からないものでよく分からないことをされた。緑川からすれば、そういう話でしかない。通常、よく分からない人に何かをされたという時点で嫌悪感くらいは持って然るべきなのだろうが、そんな感覚すら浮かんではこない。それを通り過ぎて呆然としてしまうくらい、何が何だか分からなさ過ぎたのだった。
 緑川は現在、自分の部屋でコタツに入って横になっている。そして、この部屋にいるのは彼だけである。黄芽と白井は赤と青、それに黒淵を連れ立って、外で時間を潰していた。恐らくは、積もった雪で遊んでいるのだろう。
 家に帰るわけでなく、しかし一緒にいるというわけでもなく。彼女らのそんな中途半端な撤退は、「一人だけにしておいたほうがいいのだろうが、かといって話すだけ話してそれきり放置というわけにもいかない」というような気遣いの表れであるように、緑川には思えるのだった。
 しかしそうなると、彼はまたしても自責の念に駆られることになる。気にしないわけでもなく、ショックを受けて落ち込むでもない。黄芽達に中途半端な行動をさせたのは、自分のこの中途半端な気持ちが原因なのではないか、と。
 とはいえこればかりは、自分の思考や思案でどうにかなるものでもない。中途半端な気持ちなりに、あの話を受け止めるしかないのだろう。だが、どうやって? どんなふうに? 緑川には、自分の着地点が見出せないのだった。
 しかし、そんな時。
「どんなに考える振りしたって、どうせお前はそういう奴だよ。ずっと一人でウジウジしてろ」
 声がした。が、周りに誰もいないことは、周囲を確認するまでもなく分かり切っている。
 ならばこれは誰の声なのか。状況だけを見れば不可思議であるが、緑川はしかし、すぐに見当を付けるのだった。自分の、自責の念なのだろうと。実際、これと同じような声は、ここ最近何度か聞いている。
「だと思うか?」
 ――えっ?
「俺もそう思ってたよ。俺はお前だと思ってた。でも、千尋さんの話を聞いて分かったんだよ。俺はお前じゃない」
 おおよそ、自意識が語り掛けてくる内容としては不自然極まりない話だった。慌ててコタツを這い出てみても、その声は止まらない。
「――いや、分かったってより、正確には『そういうことに決めた』ってとこか。実際はどうかなんて分かりゃしねえし確かめようもねえ。だったら、俺自身が決めるしかねえだろう? 俺が誰か、なんてことは」
 ――どういう、こと?
 緑川のそれは言われたことに対する質問ではなく、この事態そのものへの疑問であった。しかし声の主は、自分の中にいる自分でない誰かは、前者の意味に捉えたらしかった。
 自分の意識と自分の意識で話が噛み合わないなど、有り得ない話だというのに。
「俺は、求道の野郎がお前の体にぶち込んだ『命』ってやつだ。つまり初めはお前じゃなくて、赤の他人の一部だったんだよ」
「どういう、こと」
 同じ台詞が、今度は口から出た。それは「彼」が他人であることを認めてしまったようで、緑川は声を出した自分自身に驚いたのだが――しかし「彼」は、にやりと笑みを浮かべたようだった。目に見える存在ではないのに、自分でもよく分からない感覚でそれが分かってしまった。
 そして「彼」は、そのにやりと笑むような心情に合わせてか、それまでよりも饒舌になる。
「命ってあれ、四つあったのをくっ付けたもんなんだっけ? そのうちの幾つで俺が出来てるかは、分かりゃしねえんだけどな。一つだけかもしれねえし、四つ全部かもしれねえ。もちろん二つかもしれねえし、三つかもしれねえ。これも俺が勝手に決めちまってもいいんだけど――まあ、それはどうでもいいな。そんなことより、だ」
「な、何」
「俺はお前じゃなかった。じゃあ、俺がここにいる必要なんかないと思わねえか? お前じゃない奴がお前の中にいるって、変だろ。どう考えても」
「……分からないよ。全然、分からない。何を言ってるの? 僕じゃないって、じゃあきみ、誰なの?」
 頭はすっかり混乱していた。混乱しているというのに、「彼」の存在だけははっきりと冷静に認識できてしまっていた。ならば、混乱は余計に酷くなる。自分はどこかおかしくなってしまったのか?「彼」は、おかしくなった自分が生み出した妄想の産物なのだろうか?
「分かんねえんじゃねえよ。分かろうとしねえんだお前は。自分でもさっさと認めとけよ、そんくらい」
「彼」は、それまでの気分が良さそうな口調から一点、うんざりしたような口調でそう言った。
 それは、「彼」が「彼」を名乗る前から、何度も言ってきたことだった。
「でもまあ、そうか。誰ってか。俺が誰か、一応決めとかねえとなあ」
「彼」はどうやら、自分が誰かを――つまり、自分の名前を考え始めたようだった。ということは今の彼には名前がなく、つまり「誰でもない」らしかった。
 が、しかし。「彼」が自分の名前を考え始めた途端、緑川を言いようのない不安が襲った。それはあまりにも大きく、いっそ恐怖と言ってしまっても間違いではなさそうだった。それどころか、恐怖を越えたその先を表すような言葉があれば、それが当て嵌まりすらするような――。
「あっ」
 緑川は、思い付いた。
 これは、絶望だ。
「やっ、やめて」
 自分が誰かを考えるな。自分の名前を求めるな。緑川は物理的に身を引き裂かれそうなほどの焦燥感に駆られ、絞り出すような声でそう言った。他に誰もいない、自分一人しかいない、自分の部屋の中心で。
「俺の名前ねえ。うーん、どうすっか」
「彼」は緑川のそんな様子にまるで構うことなく、呑気に首を捻っていた。こちらの声が聞こえていないのか? それとも、聞こえていて無視をしているのか?
「やめて……」
 どちらなのかすら分からないが、声を掛けるしかない。「彼」は自分の意識の中だけの存在であって、この場のどこにも「いない」のだ。見ることも触れることもできないなら、語り掛けるしかない。
「あー、一から考えるって案外難しいし面倒だな。お前の名前をもじる程度にしとくか」
「やめてよ! やめてってば!」
 声を張り上げた。しかしその結果を待たずして焦燥感は膨らみ、絶望は深みを増す。どうして分かるのかは分からないが、それでも分かっていたのだ。自分には止められないと。
 このままでは、抜け落ちてしまう。それまで自分の一部だと信じて疑うことすらなかった、「自責の念」という自分の感情の一部だと思っていたものが、自分であることを否定して乖離してしまう。
 欠損が生じた自分は、果たして自分だと言えるのか? この先にある避けられない結果の後、自分は自分でいられるのか?
 平和な状況で哲学者ぶるのとはわけが違う。実際に、それが起こっているのだ。「彼」はこれまで、自責の念でしかなかった。その自責の念が、心が、緑川千秋という人格の一部が、今まさに緑川千秋であることをやめようとしている。
「千秋ってのが元になるんだから……そうだな。じゃあ俺、『千春』でいいや」
「彼」は、自分の名前を決めた。名残も躊躇も何もなく、こちらの必死さをあざ笑うかのようにあっけなく。そしてその瞬間、「彼」は緑川千秋でなく、「彼」ですらなく、「千春」という存在になった。
「あ……あ、あああ……!」
 ――緑川の目の前に、彼は立っていた。緑川千秋であることを否定し、自分の名前を手に入れ、「千春」と呼ばれるべき身体をも手に入れた、一人の人間として。
「よう、千秋」
 にやりとした笑みを浮かべ、彼は彼として初めての挨拶を、緑川へ投げ掛けた。
 絶望が現実のものとなった。手遅れとなった焦燥感は同じく絶望へと成り変わり、巨大な絶望の一部として同化した。
 ――――。
 緑川は、しかし反応できなかった。叫び声を上げるではなく、後ずさるわけでもなく、それどころか表情を変えることすら。
 絶望している筈なのに、その目の前に現れた絶望そのものに対してどういう反応をすればいいのか、緑川は分からなかった。……いや、ほんの数秒まで取り乱していたことを考えれば、分からなくなった、であろうか。
 ともあれ、分からない。転じてそれは「分からないという結論を出せる程度には思考を働かせる余裕があった」ということにもなるのだが、しかし一体どうしてそんな余裕があったのかは緑川自身にも――。
 いや、分かった。
 ――違和感がないからだ。異常だと思えないからだ。僕の心の一部が僕から離れてしまうことが、そうなってもおかしくなかったとしか思えないからだ。だからこそ、そうなってもおかしくないと思っていたからこそ、ついさっきまでああも取り乱していたんだろう、僕は。
 いつからだった?
 ――詳細には分からない。けれど、ごく最近であることだけは。
「ごめんね」
 その言葉はかつて自分だった者への、自分として留めておけなかったことへの。

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