第一章
「一心同体。比喩でも何でもなく、ね」



 足音が聞こえる。それも複数――二つか、三つか。
「……は?」
 開いた部屋のドアの向こうには、黄芽と白井が立っていた。赤と青、そして黒淵はいない。赤と青を黒淵に任せて温まりに来たか、それとも赤と青が苦手な黒淵への嫌がらせか。そんなところなのだろうと、緑川はそう判断した。
 が、しかし。
「やあ、千尋さん。それに修冶くん」
 軽く手を挙げ、親しげに呼び掛けた千春に対し、白井は顔をしかめてみせる。
 表情こそ随分と違うものの――低い身長、華奢な体格、そして女性と見間違えられてしまうような顔立ち。少し前まで「彼」でしかなかった「千春」が得た身体は、千秋と瓜二つなのだった。
「千秋くんが二人……ということでは、ないみたいですね」
 困惑が勝ってもおかしくない、いや勝るべきとすら言える状況だというのに、白井が優先させたのは千春への警戒心だった。
 この異常事態を前にして感情に迷いがないというのは、くぐってきた修羅場の数がそうさせているのだろうか。そんなふうに思いながら緑川は――けれど。
 けれど動くことも、声を出すことすらもできはしなかった。より正確には、動く気にも声を出す気にもなれなかったのだ。意識が混濁しているというわけではなく、むしろ意識ははっきりしているのだが、だというのに何をする気にもなれなかった。
 やる気がない。簡単に言うなら、そういう表現される状態なのだろう。
「誰だてめえ。千秋に何しやがった」
「何もしてないよ。俺はたった今、この腑抜けから生まれてきたばっかりなんだし。……ああそうそう、誰だって言われたら俺は千春だよ。そういうことにした」
 白井と同じく黄芽もまた、千春に敵意を向けていた。しかし一方で千春にそんなつもりはないらしく、引き続いて親しげな返事をしてみせる。
「俺は千尋さんのことも修冶くんのことも前から知ってるけど、まあ改めて宜しくね。素っ裸だけどさ。……あー、なあおい千秋、服貸してくんない? 俺は気にしないけど、丸見えだぞ? 色々と。お前と全く同じ身体の色々が」
 ――…………。
「なんだよ、また落ち込んだ振りか? 分かったよ、いいよ勝手に借りるから」
「待てやコラ」
 迷いなく箪笥がある方向へ足を踏み出そうとした千春はしかし、黄芽に肩を掴まれてしまう。その掴んだ指の皮膚への埋まり具合からして、黄芽はその手にかなりの力を入れているようだった。
「んな好き勝手させるわけねえだろ」
「うーん。状況的に仕方ないとはいえ、知り合いにそういう言い方されるってやっぱり傷付くなあ。俺、こいつと全く同じだけ好きなんだよ? 千尋さんと修冶くんのこと」
「…………」
 そう言われても尚、黄芽は千春を睨みつけていたが――しかしどうやら、その子細は分からないにしても、思うところはあるようだった。さもなければ黄芽のこと、全裸のままで外に放り出すくらいのことはしてのけるだろう。必要であれば、痛めつけさえ。
「おい千秋」
 そんな黄芽が、緑川に声を掛けた。
「返事が無理なら首振るだけでもいい。こいつに服貸していいかどうかだけ答えろ」
 ――…………。
 緑川は黙ったまま、首を縦に振った。
 いいか悪いかをはっきりと判断したわけではない。ただ、「千春がどういう存在か分かっていたから」。首を縦に振った理由は、それだけのことだった。服を貸す貸さないなど考慮したところで何の意味もない相手だと、分かっていたのだ。
 自分が自分の服を着ることに、良いも悪いもありはしないだろう。
「白井、適当に取ってこい」
「はい」
 千春の肩を離さないまま、黄芽は白井に言葉と顎でそう指示を出した。
 白井は実にその指示の通り、本当に適当にズボンと上着を一枚ずつ取り出した。手付きからして、どちらも一番上にあったものだろう。
「……修冶くん、下着のほうは?」
「なくてもいいでしょう、別に」
 どこか不安げな千春の質問を、白井は冷たくあしらった。起こっている問題自体は服がどうのという緊張感の欠片もないものだが、白井の声色からは敵意が、いやそれどころか今すぐ千春に何らかの危害を加えそうな危うさすら感じられる。
 とはいえ白井は、黄芽とともに「そういう仕事」に就いている人物である。なので緑川がこういう白井を見るのもそう珍しいことではなく、そしてそれが関係しているのかどうかは定かでないが、いま緑川は、そのことを別にどうとも思いはしなかった。
 苦い顔で着衣を済ませた千春に、白井は容赦なくこう尋ねた。
「それであなたはどういう経緯でここにいて、どういう経緯で千秋くんと同じ顔……というか、同じ身体をしてるんですかね? 服のサイズもぴったりみたいですし」
「ここにいる理由は、さっきも言ったけど今こいつから生まれたばっかりだからだよ」
 その返事に白井は眉をひそめたものの、千春に構う様子は見られなかった。
「同じ身体っていうのは、俺からしても『生まれてみたらこの身体だった』ってだけなんだけど……まあ、コピーしたってことなんだと思うよ、単純に考えて。チビで女っぽくて貧弱な、こいつのこの身体をさ」
「じゃあ、そもそもの『どういう経緯で千秋君からそのコピーが生まれるなんてことになったのか』っていう話も、あなたには分からないんですかね。当たり前ですけど、理解が追い付かないんですよこっちとしては」
「断言できるわけじゃないけどさ、そうなりそうな原因って言ったら一つしかなくない?『ついてない』ってだけで起こるようなことじゃないのは分かってるって、俺自身」
 そう言われた白井は、黄芽と顔を見合わせる。言葉を交わしこそしなかったものの、その様子からして何か思い付くことはあるらしい。そしてその「何か」というのはもちろん、求道に埋め込まれた「命」というよく分からないもののことなのだろう。
 ……しかし結局、白井は尋ねるのだった。
「なんですか、その原因って」
 すると千春は、嬉しそうな表情を浮かべた。
「飽くまで俺に答えさせるのね。さすが修治くん、やっぱ格好良いなあ。できる男って感じで」
「馬鹿にしてるんですか? それは」
「馬鹿にって……すると思うの? 雑談中ならともかく、仕事のことでこいつが修治くんを。そうじゃないなら俺だってそんなことしないよ。だよな? 千秋」
 同意を求められた緑川は、小さく頷いた。自分が白井を馬鹿にするようなことがないということ、そして自分がそうであるなら千春も同様だということ、その両方に対して。
「はあ。辛いよなあ、お前を通さないと言いたいことをすんなり聞き入れてもらえないって。お前と同じ人間――だった、筈なのにな」
 ――…………。
「ごめん」
「さらっと謝んなよ殺すぞ」
「ごめん」
 とても自分のものとは思えない表情、とても自分のものとは思えない声で凄まれた千秋だったが、しかしそれに動じるようなことはなかった。何故なら千春の、今ではもう自分ではない彼のその感情は、たった数分前まで自分のものだったのだから。
 そして今ではもう、自分のものではないのだから。
「分かってるとは思うけどな」
 黄芽が割って入る――というのは話の上だけでなく、実際に千春の前に立ち塞がってみせた。
「俺らの仕事の対象になるからな、そういうの」
 間に立った黄芽の背中に遮られ、緑川の位置からはその時の千春の反応を窺い知ることはできない。しかし彼は今驚いているのではないか、と、緑川はそう判断するのだった。何故なら、自分が驚いていたからだ。
「鬼の仕事の対象になる? ってことは俺、幽霊なの?」
 その質問に対して黄芽が応答するまでには、若干の間があった。
「……なんだ、自分で気付いてなかったのか? さっき肩触った時に擦り抜けられなかったからな。じゃあ幽霊ってことになるだろ、そりゃ」
 出自が出自なので――千春の「決定」をそのまま取り上げるなら、求道に埋め込まれた「命」が「千春」という具体的な形を得たものだと――そのまま既知の幽霊という枠に納めてしまえるとは、黄芽も思ってはいないことだろう。
 ただ、今この場はそんなことで迷ってみせる場面ではない。黄芽はそう判断したんだろう推測した緑川は、ならばそれに引き続いて、
「へえ、異常事態の真っ最中にそんなこと調べてたなんて……やっぱり格好良いなあ、千尋さんも」
 そう、そんな黄芽を格好良いと思うのだった。いつものように。
「ふざけてんのか?」
「そんなことないよ。だってそいつはずーっと、ふざけるどころか大真面目に、そんなことばっかり考えてたんだから」
 千秋がそうだったと。だから自分もそれと同じなのだと。
 そして、
「二人があんまりにも格好良いもんだから、逆に格好悪い自分が嫌になっていったんだよそいつは。で、俺がその『嫌』の塊ってわけでね」

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