緑川家から廃工場、もとい黄芽と双識姉弟の住居へ。
 黄芽と白井に連れられた千春がそこへ到着するまでには、いつもの通りそう大した時間は掛からなかった――と言ってもそれは飽くまで実時間を指した表現であり、千春の体感においては、普段掛かっている時間の何倍にも感じられたのだが。
 そしてその理由は明白だった。ならばそれについて思案したところで現状が悪化するだけなのもまた明白であり、故に千春は、努めてそちらへ思考が及ばないようにするのだった。
 ……及ばないようにしようとすればするほどむしろそちらに傾くというのは、これもまた明白なことだったのだが。
「着いたぞ」
 これまで何度も足を運んでいる以上は言われなくとも、もっと言えば建物自体を見ずとも周囲の景色から把握できてしまう千春ではあったが、しかしそうやって「初めて招く客」として扱ってくる黄芽に対して、不満を漏らす気にはなれなかった。
 そしてその代わりに、
 ――千尋さんのこと好き過ぎだろお前。
 と、「黄芽に不満を持てない原因」である緑川に対して不満をぶつける千春なのだった。無論その黄芽に対する親愛は千春自身の想いでもあるので、どちらかと言えば責任転嫁や八つ当たりといった類のものではあるのだが。
「もう他のみんなは中に?」
 気を取り直して――取り直し切れたかどうかは定かでないのだが――千春は黄芽にそう尋ねた。
「多分な」
 黄芽の返事は素っ気なかった。が、しかしそれについては千春の扱いによるものではなく、その「他のみんな」に対するものなのだろう。
 幽霊の世界の警察。鬼という職業を簡単に説明するとそういうことになるのだが、しかしその割には襟元が正されていないというか、普段一緒に居ても規則に則った行動というものが見えてこないのだった。
 ……というのは何も千春の個人的な感想ではなく、黄芽や白井達、この地区の六人の鬼全員から少なくとも一度以上は同じような話をされた覚えのある千春だった。むしろ彼女ら自身がそう言っていたからこそ千春は、となれば同時に緑川も、遠慮なくそんな認識を持てているという面があったりもする。
 では今この場面においてその認識がどういう予想を立てさせるかというと、「呼んだからといってすぐに来てくれるとは限らない」なのだった。無論、来ないかもしれない、などということはさすがになく、また緊急を要するという旨を伝えさえすれば、すぐにでも駆け付けてくれるのだろうが……。
 横目でちらりと黄芽の顔を窺う。
 皆をここへ呼び付ける際、特に重要な問題でもなさそうに言い聞かせていた黄芽だった――そしてそれは恐らく、自分を気遣ってくれてのものだったのだろう。
 自分への警戒を解いたわけではない。だというのにそういった面も見せてくる黄芽には、とても敵わないな、などとついつい自分と比べてしまう千春だった。
 そんな自分が嫌いなのだと分かっていても、それが自分である以上は避けようがないのだが。

 千春達が廃工場の元客間――今でも客間として用いているので、そういう意味では「元」ではないのかもしれないが――にまで踏み入ったところ、果たして他の二組四人の鬼と一人の隠は既に、その全員が到着していた。
 のだが、
「あれ、緑川くん?……にしちゃあ凛々しい顔してるけど、どうしたの? 恋でもした?」
「…………」
 その内の一人、椅子ではなく車椅子に座っているぼろぼろの白衣でにやけ面の男は、挨拶よりも先にそんな冗談を投げ掛けてくるのだった。冗談にしても発想が突飛に過ぎる、とは、わざわざ言い返さないでおく千春だったのだが。
「何を馬鹿なことを仰ってるんですか灰ノ原さん」
 いつもなら苦笑いで聞き流していたコンビ相手からの突っ込みも、そうだそうだ言ってやってください、と今回は陰から応援する千春。
 しかし、
「恋をして人が変わるというなら、私達が緑川さんと知り合ったのは変わった後のことでしょう。小さな頃から仲の良い女の子がいるという話ですし」
 ――あ、そんな話をする場面じゃないとかじゃなくて普通に内容の指摘だった。……じゃなくて、いやいや、澄ちゃんはそういう対象じゃあ……。
「そもそも恋で人が変わってどうするんですか。無事付き合うようになったとしても、いきなり付き合う相手の性格が変わったら相手が困るでしょう。それに自分だって性格が変わればものの見え方も変わってくるでしょうし、それでせっかく付き合い始めた相手が魅力的に見えなくなったらどうなさるんですか」
 ――あ、いや、桃園さん、そこまで頑張って頂かなくても俺はもう。
「おやあ? 珍しく饒舌だねえ叶くん。一家言あるってことなのかな? そういう話題には」
「ないほうが可笑しいでしょう。ほぼ全人類、いえ有性生殖を行う全生物に共通の話なんですから」
「ンヒヒヒ、ごめんごめん。そりゃそうだね」
 灰ノ原の言い分に釣られた部分もあるにはあるのだろうが、ちょっとムキになってるような、と桃園の口調に対してそんな感想を持つ千春。しかし一方で彼女をそうさせた張本人はというと、それ以上そこを突こうとはしないのだった。
 ――引き時を弁えてる、ってことなんだろうか?
 そもそも押すような場面ではなかった、ということを敢えて度外視しつつ、少しだけ感心させられる千春なのだった。
「はイはイ! アタシそうイう話ダイスキだヨ!」
「それはみんな知ってる。止めてくれ」
「ムー」
 普段なら手短かつ辛辣な言葉を投げ付けるだけな桃園が少しだけお喋りになっているその横で、普段からお喋りな人物は碌に喋らせてもらえずに頬を膨らませていた。
 ――まあ、恋愛観の話ってよりは金剛さんとの惚気話になるんだろうしなあ、シルヴィアさんの場合は。
 止めた金剛以外がくすくすと笑っている中――止められたシルヴィアすら一緒になって笑っていたりする――その笑っていたうちの一人、隠である紫村が話を先に進めるよう促す。
「それで黄芽さん、お話というのは? わたしとしては今の話が続くのも悪くないんですけど、わたしが悪くなくても金剛さんに悪いですし」
「はは、そうですね」
 返事をしながら重ねて笑ってみせる黄芽だったが、しかし僅かに立ち位置を変えて千春の隣に並ぶ頃にはその笑みに陰りが差していた。
 いや、本来すべき話がこちらである以上、それを陰りなどと表現すべきではないのかもしれないが……。
「わざわざ連れてきてるから察しはついてると思いますけど、こいつの話です。……千秋じゃないんですよ、こいつ」
 とうとうか、と、初めからそれが目的だと分かっていたのに身構えてしまう千春。黄芽から受けた余所余所しい態度だけでも少々胸が痛んだというのに、これで皆からざわつかれたりしたら――などと覚悟に近い予想をしてもいたのだが、しかし。
 ざわつくどころか、周囲はしんと静まり返ってしまうのだった。しかもそれは黄芽が何を言っているか分からないというふうではなく、それを意識した途端に息が詰まってしまうような、強い緊張感を孕んだものだった。
 引き続き紫村が問う。
「緑川くんは今どこに?」
「家にいます。大丈夫です、黒淵の奴も一緒に置いてきましたし、今すぐ誰かにどうにかされるって状況でもないです」
「今目の前にいる千秋に似ているが別人の何者か」である自分への警戒より、「突然瓜二つな人物が現れた今ここにはいない千秋」への心配を優先させた紫村。様子を窺う限り、それはどうやら他の皆全員がそうであるらしい。
 こうまで心配してもらえる千秋が羨ましい――とは、思わない。かつて自分はその千秋の一部だった者であり、ならばそれは自分のことのように嬉しいことなのだった。こういう時に限って千秋との同一性を優先させることについては、千春自身も「都合がいいもんだな」と思わないではなかったが。
 そして、羨まなかった理由としてはもう一つ。
 ここでほんの少しでも気持ちがネガティブへ傾けてしまうと、そのまま潰されてしまうように感じられたのだ――それほどまでに、皆が発する空気には凄まじいものがあった。黄芽を除けばまだ、口を開いたのは紫村ただ一人だけだというのに。

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