第三章
「百聞は一見に如かずって言うけど、普段から見てばっかりだとそうでもないよね」



「大体綺麗にはしてあるつもりだけど、人様にお住み頂ける部屋ってことになると限られるよねえ、やっぱり」
「まるで自分が綺麗にしたように仰るんですね」
「なあに、叶くんの方がよっぽど綺麗だよ」
「構いませんよ、いくらでもそうやって誤魔化そうとしていてください。変に真面目ぶられると邪魔ですので」
「ンヒヒヒ、これは手厳しい」
 ――家でもこんな調子なんだな。
 と、早速のことぼろぼろな廃病院、もとい灰ノ原と桃園両名の住居に案内された千春は、自分が住まわせてもらうための病室探しをしている最中、その二人の遣り取りを面白おかしく眺めていた。もちろんのこと、二人が常にこんな調子なのはとうの昔に把握し終えていることではあったのだが。
 しかし、それでもやはり改まってしまう――まさか自分が彼等と、鬼と同居することになるなんて、今まで夢にも思っていなかった千春だったのだ。
 その「今まで夢にも思っていなかった」のが自分ではなく緑川だということには、彼自身思い至ってはいた。けれどそれでも、それだけでは収まりが利かない程に、彼にとってこの状況は感激著しいものなのだった。
 そして、それが暫く続いた頃。
「おっ。ここなんかどうかな? 窓も割れてないしベッドも綺麗だけど」
 十か二十か。幾つめの病室になるかは既に数えていなかったが、これまではドアを開けても「はい駄目」とだけ言ってすぐに閉めてきた灰ノ原は、そう言って初めてドアを開けたままにしみせるのだった。それはつまり、最終的な判断は千春に任せるつもりだ、ということなのだろう。
 そこに住むことになる本人に判断を仰ぐのは、当然といえば当然ではある……のだが、しかし飽くまで不審人物としての扱いからこういう展開になっていることを考えると、それを当然と言い切ってしまうのは躊躇われる千春なのだった。
 掴まった悪者が牢屋に放り込まれる際、「ここでいいか?」なんて確認はされないだろうという話だ――嫌味や皮肉としてはありかもしれないが。
 そんなことを頭によぎらせつつも、灰ノ原に誘導されるまま室内へ踏み込んでみたところ。
 ――おお、これは思ったよりも。
 これまでの部屋も散らかったりはしていなかったものの、窓とベッドがきちんとしているだけでこうも部屋としての印象が良くなるものなのか。違和感なく「住める」と思わされてしまった千春は、部屋の様子だけでなく自分の感覚にも驚くことになるのだった。
 とはいえさすがに多少埃っぽくはあったのだが、しかしそれくらいで済んでいるのは、むしろ感嘆すべきことなのだろう。なんせここは、とっくに潰れてしまった病院の全く使われていない部屋、である。それは通常なら住める住めない以前に、まず足を踏み入れたいとすら思えないような惨状をその平均値とする条件なのだろう。
 なのだろうが、
「ここは駄目です」
 桃園は無遠慮にそう言った。
「あり? なんで?」
「私達の部屋から遠過ぎます。最低でもどちらか一方の部屋から左右に二、上下に一部屋くらいを範囲とすべきかと」
「ああ、なるほど。何かあってもすぐに駆け付けられると」
 何かあっても。その想定されているものが果たして「自分に何かあっても」なのか「自分が何かしでかしても」なのか、気になりはすれ確認しようとは思わない千春だった。
「でも叶くん、そういうのは最初に言ってくれればよかったのに。もう結構ウロウロしてるよ? ぼく達」
「たまに真面目に働いたらどうなるんでしょうか、とそう思いまして」
「真面目に、ねえ。うーん、ただ部屋の案内してるだけのことを真面目な仕事って言われちゃうのもねえ」
「いえ、自分の足で歩いてらっしゃることですが」
「おおう、そこから既に……」
 ただ自分の身体を動かすことを仕事と言われてしまっては、さすがの灰ノ原でもいつものように笑って返すことはできないらしい。と、千春はそう思ったのだが、
「ンヒヒ、じゃあもうちょっと頑張って働いてみようかな」
 やっぱり笑うのだった。
 ――ああ、じゃあこのまま最後まで部屋探ししてくれるのかな。
 それを仕事と言われても困ると本人が言ったばかりなのについそんなふうに思ってしまい、しかもそれにほのかながら感謝の念まで抱いてしまう千春だった。そして、じゃあこの部屋は駄目みたいだし、と踵を返して廊下へ出ようとも。
 しかし頑張って働くと宣言した灰ノ原は、むしろ部屋の中へ進み入る。ドア付近から部屋の中央にまで足を運ぶと、何やら上方、つまりは天井の様子を窺うような仕草を見せた。もちろん、伺ったところで天井の何かしらがひとりでに動いていたりはしないのだが――というわけで、彼のそんな様子に千春が首を捻りそうになったところ、
「えいやあ」
 と、むしろ力が抜けそうな掛け声とともに、灰ノ原はその場でジャンプをした。
 そしてそのまま、天井を突き抜けてどこかへ行ってしまったのだった……。
「…………」
「何やってるんでしょうねあの人は」
 ――いや、なんでそんなことできるんですかあの人は。いやいや、なんでってそりゃあ鬼だからなんでしょうし、だから桃園さんも同じことができるってことなんでしょうけど。
 天井を突き抜けた、と言ってもそれは天井を破壊しながら跳んでいった――千春からすればそれは、「跳んだ」というより「飛んだ」だったのだが――わけではなく、そこに天井が存在しないかのように擦り抜けていった形である。
 幽霊は物体を擦り抜けることが出来る。その幽霊を捕まえるのが仕事である鬼に限っては、「幽霊以外の物体を」ということになるのだが。
 黄芽が千春に対して試していたように。
「…………」
 その後の様子からして敵視ばかりをされていたわけではないというのは分かっているのだが、それでもまだ少し、胸が痛む千春であった。
 そしてそうこうしているうちに、飛んでいった灰ノ原が同じ場所に落ちてきた。着地の衝撃で舞い上がった埃を手でぱたぱたと払いながら、得意げな表情で彼は言う。
「さっき上下に一部屋くらいまでって言ってたけど、二部屋上まで届いたよ叶くん。褒めて褒めて」
「ギリギリ床に手が届いて必死でよじ登った、ではなくてですか? ただ跳んで落ちてきただけにしては、降りてくるまで少々時間が掛かったようですが」
「ンヒヒ、さすが叶くん。ぼくのことはなんでも分かっちゃうんだねえ」
「自分から知ろうとしたことは何一つとしてない筈なんですけどね」
 手が届いたのさえ確認できれば、そこからよじ登る必要はなかったのではないか。そんな当たり前な指摘をする隙は、この二人の前には存在しないのだった。

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