「おっ。今度はどうかな叶くん? また後出しで条件追加されちゃったりする?」
「人を底意地の悪い人間のように言わないでください」
「えー……?」
 というような案内役二人の遣り取りには、苦笑いを浮かべておくだけにしておいて。
 どうやら、桃園が出した条件に合致した部屋が見付かったらしい。部屋自体の様子についても先程合格になり掛けた部屋と比べて遜色はなく、なので千春としても、ここで決定ということになっても不満はなかった。
「303号室……ってことは、桃園さんの部屋の下らへんですか?」
 三十度ほど傾いている部屋番号のプレートを確認し、千春はそう尋ねた。
 今の身体を得る以前のものではあるものの、千春は灰ノ原と桃園の部屋はどちらも最上階である四階にあったと記憶していた。各階各部屋の位置関係を把握し切っているわけではないにせよ、方角を見失ったとか、303号室なのにここが三階ではないなんてことがない限りは、恐らくそういうことになるのではないかと踏んだのだが、
「真下だよ」
 ニヤニヤしながらそう答えてくる灰ノ原だった。
「ジャンプするタイミングが良ければ、着替えを覗いたり、とかね?」
「興味もないくせに何を仰るんですか」
 ――いやいや、そもそも上の階まで届くジャンプなんか俺には無理ですから。
 と、そもそもの部分に対して突っ込みを入れたのち、
 ――あと、言及していいのかどうか良く分かんねえけど……。
「ええと、その、ないんですか? 興味。いや、変な質問ですけど」
「覗きくらいその気があるならいつでもできますからね、灰ノ原さんの鬼道があれば。私の部屋に覗き穴を一つ作っておくだけでいいんですから」
 僅かな間とはいえ尋ねていいものかどうか悩んだのが馬鹿らしくなるくらい、桃園はあっさりとそう返してくるのだった。コメントを避けるどころかそれを灰ノ原に任せるですらなく自分でそう言ってしまえる辺り、本当に心の底からそう確信しているのだろう。
 ……果たしてそれは信頼と呼んでいいものなのかどうか、これまた悩むことになってしまう千春でもあったのだが。
「いやいや叶くん、その気がありさえすれば間違いなく行動に移してるっていうのはどうなの? なかなか致命的な評価だと思うけど?」
「人体の内側まで見尽くした人間が、着替え程度に何か思うことがあるんですか?」
「ああ、そういう話か。いやあびっくりした、ぼく個人じゃなくて職種の話ね」
 桃園の言い分をあっさり受け入れ、そう言っていつものように笑ってもみせる灰ノ原だったのだが……相変わらず独特な世界にいる人達だな、と、親しみを込めた苦笑いを浮かべながらそんなふうに思う千春なのだった。まさか医療に携わる者が全員「そう」だなんてことはあるまいし――いや、そもそもにして灰ノ原についても、どこまで本気で言っているのか分かったものではないのだが。
 ――着替えどうこう言うんだったら、桃園さんがナースの格好してるのって灰ノ原さんの発案らしいしなあ。今は私服だけど。
「とまあ、こんなしょうもない話はともかくとしてだね千春くん」
「はい? あ、俺の話になる感じですか?」
「そうそう、やっと使ってもらう部屋が決まったところでね」
 それまでのへらへらした調子を崩さないまま、話題を変え始める灰ノ原。これがあるからどこからどこまで本気なのか全然分からないんだよなあ、とまたしても苦笑いにならざるを得ない千春ではあったが、しかし自分の話になるとなれば、そういった調子のままでもいられない。あちらは調子を変えていないというのに、である。
「あー、椅子が一つしかないなあこの部屋。うん、じゃあ千春くんはそれにお掛け頂いて」
「はあ」
 勧められるまま、傍にあった丸椅子に腰を下ろす。自分だけが座っているというのも落ち付かないもんだな、としっかり座り終えてからそんなふうに思わないでもない千春であったが、しかしそこは灰ノ原である。
「で、叶くん。椅子が足りないんじゃ仕方がないし、我々はそこのベッドの縁でいいよね?」
「いえ、私は立ったままで結構です」
「ンヒヒ、それは残念」
 そう言って一人ベッドの縁に腰掛ける灰ノ原だったが、もはや何も言うまい。今そうではないとはいえ、普段から灰ノ原は車椅子に座り桃園はそれを押しているのだ。誰が立っていて誰が座っているかで言えば、普段と何も変わらないのだから。
 というのはもちろん、これから何かしら質問をされるらしい、という状況への緊張を誤魔化そうとしているだけなのだが。
「さて千春くん」
「は、はい」
「まあまあそんな硬くならないで」
 ここで自分の話となれば、その内容は真面目なものにならざるを得ないだろう。自分で言うようなことではないけど、とも思いつつそう考える千春だったのだがそれはともかく、だというのにやはりへらへらした調子を崩さない灰ノ原には、ある種尊敬の念すら浮かんでしまうのだった。
「きみについての話は黄芽さんの家でも聞かせてもらったんだけど、でもまあせっかく同じ家に住むことになったんだしね。だったらもうちょっとお話したいなーって」
 求められているのが質問なのか雑談なのか、その時点では判然としなかったのだが――しかしそのどちらにせよ、それは千春としては嬉しい提案なのだった。不審からくるものではなく、親睦を深めるために設けられた会話の場となれば。
「叶くんなんかゴキゲンだもん、さっきから。ずっと羨ましがってたもんねえ、赤ちゃん青くんそれに緑川くんまで黄芽さんと白井くんが独占してたの」
「こんな広過ぎる所に灰ノ原さんと二人暮らしですからね。それはもう」
 ――……否定はしないんだな、桃園さん。
 桃園が双識姉弟を可愛がっているのは把握していたものの、とはいえ羨ましがってまでいた(しかもそれを灰ノ原に見える形で!)というのは、千春にとっては意外なことなのだった。
 しかしそれを口にするとしたらそれは灰ノ原の仕事だろう、ということで、千春は別の質問を投げ掛ける。
「赤ちゃん青くんと同じ扱いだったんですか、あいつ。要はちょっと前までの俺も、なんですけど」
「ンヒヒ、そういうことになるのね。――そう、その通りだよ。さすがに表に出して猫可愛がりはしてなかったけどね、あの二人と違って」
 ――口調が小さい子相手のそれになるってだけで、猫可愛がりってほどじゃあ……いや、桃園さんだし、その程度でそういうことになっちゃうんだろうか? なんせ桃園さんだし。
「灰ノ原さん。その言い方だとまるで、緑川さんを小さな子ども扱いしていたように聞こえますが」
 失礼に当たりそうなことを考えていたのもあって、桃園が口を開いた瞬間にはびくりと背筋を震わせた千春だった――ということはともかくとして、
「あれ、そういうことじゃなかったんですか?」
 問われた灰ノ原に先立ち、そう尋ねる千春。それはかつての時分の話でもあり、ならばそうでないというのならそのほうがいいのだが、ならばどういった扱いだったのだろうか? と、それ以外の扱いを思い描けない自分に溜息を吐きつつ。
 答えたのは灰ノ原だった。
「ンヒヒ。そうだね、ちょっと言い方が悪かったかな――そうそう、そういうことじゃないんだよ千春くん。顔付きが可愛らしいからって、高校生男子を小さい子ども扱いっていうのは、ねえ? いやあ、それは中々宜しくないよ」
「は、はあ」
「しかもそれがこんな綺麗なお姉さんからだなんて、多感なお年頃の男の子のプライドに傷を付けちゃいかねないしねえ」
「いや……」
 ぐいぐい話を逸らしてくるうえ下手に突っ込みを入れたりもし難い、というなんとも厄介な話法を展開し始める灰ノ原だったが、しかしそこへ「話をややこしくしないでください」と桃園。間違いなく止めに入ってくれる人がいるのは心強いものだ、などと変なところで感嘆を覚える千春だったが、それはともかく。
「仕事以外での知り合い、ということですよ。仕事仲間だからといって仕事の話しかしないというわけではありませんが、それでもやはり、感覚としては随分と違ってきますからね」
「そういうもんですか」
 すぐには理解が及ばない千春であった――というのはやはり、自分が初めから「仕事の外」から彼女らと関わっている人間だからなのだろうが、しかし。
「そういうもんですね」
 そう言って浮かべられた桃園の微笑には、理解よりも先に確信を得る、得させられることになったのだった。

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