第四章
「人は見かけによらぬもの。そりゃそうですよね、特に俺の場合」
そういえばこれは俺が何か質問をされるという話だったっけ、と千春が現在の状況を正しく認識し直すまでには、少々の時間を要した。その質問というのがどんな内容であれ、ある程度は気を引き締めたほうがいいだろう――などと殊勝な心掛けをするには、目の前の光景が和やかに過ぎたのだ。
「ねえねえいいじゃないのさ叶くん、減るもんじゃないんだしむしろ増えたんだしさあ。もっと見せてよさっきのあの、にっこりしてるようなしてないような薄くていじましくて微笑ましくて可愛らしいスマイルをさあ」
「微笑の一言で済むものに、よくもまあそんな遠回しな表現を持ってくるものですね。というか、なぜ説明の中に『微笑ましい』が先に出てくるんですか」
粘っこく迫る灰ノ原を冷たくあしらう桃園。それ自体はいつもと全く同じものだ。
……では何が違うのかというと、そのいつもと同じように灰ノ原をあしらう桃園が、先程からずっと口元を手で覆い隠していることだった。どうやらその「微笑の一言で済むもの」は一度表に出てきてからこっち、引っ込まなくなってしまったらしい。
「あまりしつこいようだとセクハラで訴えますよ」
「ん? 訴えるって、誰に?」
「暴力に」
「ンヒヒ、分かった分かったこれくらいにしておくよ。詰られるのは悪くないけど殴られるのは趣味じゃないしね、さすがに」
――これを笑い話で済ませられるんだから、さすがというか何と言うか……。
冗談だと分かっていても「鬼の暴力」に戦慄せざるを得ない千春であったが、しかしそれですら、「詰られるのは悪くないけど」という発言を聞かなかったことにするための避難先だったりするのだった。
「さてさて千春くん、お待たせしました。そろそろ本題に入ってもいいかい? なんて、待たせちゃった側がお伺いを立てるようなことでもないんだろうけどさ」
「あ、いえ、おかげでリラックスできたりしましたし」
というのは割と真面目な話であり、なので今度こそ気を引き締めに掛かる千春。次いで桃園も、覆っている手でぐにぐにと口の周りをマッサージするようにしてみせたのち、それを下ろしていつもの冷ややかな表情を露わにさせるのだった。
そこまでしなきゃいけないってことはよっぽど嬉しかったんだな、とは、しかしあまり考えないようにしておく。なんせその嬉しいことというのは自分がここに住まわせてもらうことになったことを指しているわけで、ならばあまりそこへ頓着すると、今度はこちらの頬が緩んでしまいかねないのだ。
「ンヒヒ、そうかいそりゃ良かった。では早速質問だけど――千春くん」
「はい」
「きみが千秋くんから発生した存在だという話、ぼく達はどれくらいの塩梅で扱ったらいいかな? 全く触れない方がいい? それとも、案外そうでもなかったり?」
「…………」
千春にとってそれは、返事に詰まるような質問ではなかった。返すべき答えは、問われた瞬間に頭の中に浮かんでいた――しかし、それでも実際に詰まってしまったというのは、「発生」だとか「存在」だとかの、物々しく重々しい単語が出てきたことに対するものだった。
それだけのことと言えばそれだけのことではある。が、それが正に自分の存在に対して使われたものということになるとやはり、「それだけのこと」で済ませるわけにはいかないのだった。
そうして言葉に詰まっている間に、灰ノ原は更に言葉を重ねてくる。
「もちろん、今この場でそのことに関するありとあらゆる事態を想定しろっていうのは無理があるからね。基本的には何かあったらその時に遠慮なく言ってくれたらいいんだけど、でもまあ、取り敢えずは大まかな指標からってことでさ」
――優しいなあ。
返事に困っているとみての言葉にせよ、そうではなく初めからそこまで言い切るつもりだったにせよ、それは灰ノ原が自分に対して気を遣ってくれたということになるのだろう。
故に千春は恐らく――いや、間違いなく、言葉に詰まらずそのまま返事をしていた場合よりも気持ちよく答えることができた。
「案外、なんてこと全然ないですよ。全く気にしないんでどんどん話し掛けてください」
「ほう、そりゃあ有難い。ねえ叶くん」
「そうですね」
手短に同意してみせる桃園だったが、しかしどうも口の動きが不自然なのだった。……また緩まないように頬の筋肉を強張らせた、というのは容易に想像できたし、わざわざその真偽を確かめようとも思わない千春だったが。
「ンヒヒ。じゃあ千春くん、また早速だけどいいかな」
「あ、はい。どうぞ」
早速続きだが、状況がさくさく進展するのは心地良いものだった。というのはもちろん、その状況そのものが自分に対して好意的なものだから、なのだろうが。
「『みんなが好きで自分か嫌い』……だったかな? 緑川くんのそんな気持ちを元にしたのが自分だ、というようなことを言ってたらしいけど」
「はい、それで合ってます」
黄芽と白井には直接そう言った千春だったが、その他の鬼達への説明は千春ではなく黄芽が行っている。しかしどうやら、そこから齟齬が生じたりはしていないようだった。
慎重になってなり過ぎだってことはないよな、と、そこから続くであろう更なる質問に身構える千春だったのだが、
「そんなきみは結局、どういう人なのかな?」
出てきたのはそんな、なんともリアクションし辛いものなのだった。いや、もちろんその質問に不備や不手際があったというわけではないのだが、どうも軽い質問にも重い質問にも取れてしまうというか……。
「見るからに困ってますよ灰ノ原さん。もっと質問の意図を明瞭にすべきかと」
「ありゃ、そう? ごめんごめん」
毎度のことながら、即座に指摘してくれる桃園の存在は実に有難い。今回に限らずこれから先のことも安心だ――というのはともかく今向けられている質問なのだが、
「きみは良い子? それとも悪い子?」
ということなのだそうだった。まさか馬鹿にしにきているわけではないだろう、とは思うものの、それでもやはり、そしてまたしても、どう反応したものだか迷うことになってしまう千春だった。
が、しかし。
「短い間とはいえ、ここまで一緒に居た感想としては『実に良い子』なんだよ、千春くんは。だからぼく達としては仲良くやっていきたい――大喜びではしゃぎにはしゃいでた叶くんはもちろん、ここまで勤めて冷静にやってきたぼくも、そんな彼女と同様にね」
「それは、私から何か言ったほうが宜しいのでしょうか?」
「んや、結構。ンヒヒ」
とのことだった。もはや桃園の突っ込みを纏めて一つとして扱わざるを得なくなっているような気がするが、それはともかく。
「一緒に暮らすにあたってそのほうが都合がいいから、ってだけの話じゃなくてね? 今のところ、きみはそれに値する人物だってことで」
今のところ。それはつまり今後どうなるかは分からない、ということではあるのだが、しかしもう一つ、今後も引き続き今のままであって欲しい、ということでもあるのだろう。それは千春にとって頭が下がるほど有難い気持ちではあった。
……のだが、しかし。
「良い奴、とは言い切れないです」
しかしだからこそ、ということでもあった。有難い気持ちだからこそ、それに対して嘘や誤魔化しを返すわけには。
「『みんなが好きで自分か嫌い』。あの時はそんな言い方しましたし、別にそれが間違ってるってわけでもないんですけど……もっとはっきり言うと、俺の出所っていうのは」
「ちょっと待った千春くん」
灰ノ原が止めに入ってきた。
「それはぼく達に聞かせても大丈夫な話かい?」
「大丈夫です。というか、聞いてもらわないまま一緒に居続けるほうが大丈夫じゃない……ような」
迷いはなかったが、躊躇いはあった。
そしてそんな言葉の後に訪れたのは、しばしの沈黙。その間の灰ノ原の表情はいつものそれと変わらなかったが、しかしこの場合は、「表情が変わらなかっただけ」とすべきなのだろう。なんせこれまで暇さえあれば軽口を飛ばしてきた灰ノ原が、軽口どころか何も言わずに、何も言えずにいるのだから。
……とはいえ、しばしの沈黙である。暫くすればその灰ノ原も、「分かったよ」と続きを話すよう促してきた。
乱れてもいない息を整え、崩れてもいない姿勢を正し、千春は改めてこう告げた。
「あいつの――弱虫な千秋の野郎の、なけなし以下の暴力性。それが俺です」
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