一方その頃、緑川家では。
「何かあったらすぐ連絡してください、と言えないのが辛いところではありますけど……」
「まあ千秋本人より紫村さんの連絡の方が早えしな、何かあったとしても」
 白井は心配そうに、黄芽はそうでもなさそうに見せ掛けようとしつつもやっぱり心配そうにそう言って、玄関をくぐっていく。そんな二人を追い越してその少しだけ向こう側、家に面する道路に目を向ければ、そこには赤と青に両側から引っ張られて困り顔の黒淵がいる。……睨まれた。
「じゃあな千秋。次来るまでには元気になってろよ、赤と青がしょんぼりするから」
「そしたら黄芽さんも一緒にしょんぼりしちゃいますしね」
「お? テメエも今すぐここでしょんぼりさせてやろうか?」
「……ちなみに、その方法は?」
「ボコるか黒淵に襲わせるか。赤と青から逃げる口実にもなるし元気ハツラツだぞ、多分」
「それでは千秋くん、お邪魔しました。また近いうちに」
 理不尽な暴力から逃げるようにしつつ――いや、それ以外の何物でもなく、家路を急ぎ始める白井だった。黄芽に促されるまでもなく黒淵自らの判断によってそうなる可能性もないということはない筈なのだが、敢えてそれに言及したりはしない緑川だった。
「うん。また今度、修治くん千尋さん」
 緑川は笑っていた。いつものように。
 自身の心の一部に見限られ、それをまるごと失ってしまった今でも、いつものように笑えていた。

「痛くも痒くもないでしょうね、あいつは。それどころか楽になったんじゃないですか? ずっと抑え込んでたもんが自分からどっか行ってくれたんですから」
 緑川が笑っている頃、千春は続けてそうも言った。が、それに対して灰ノ原は柄にもなく――というのは千春の認識においての話なのだが――眉をひそめてみせるのだった。
「その言い方だとまるで、その『なけなし以下の暴力性』がそっくりそのまま千秋くんからなくなっちゃったみたいに聞こえるけど……そういうことでいいの?」
 その表情に似合う、つまりは灰ノ原の柄には合わない、それは慎重さを窺わせる質問だった。が、しかし千春はさらりと、かつ頭上にクエスチョンマークを浮かべながらこう返す。
「え? そりゃそうじゃないですか。だって俺が今ここにいるんですよ?」
 ――あれ?
「……いや、そうか。俺がそんなふうに感じてるってだけで、実際にそうなのかどうかは分からないのか、この話って。『なけなし以下の暴力性』だって、それそのものが出て行ったんじゃなくてコピーされたってだけなのかもしれないんですし」
 灰ノ原への返事なのか独り言なのか、曖昧な口調で千春は溢す。全てが自分の感覚に基づく話だということを忘れたわけではなかったのだが、しかし自分の感覚だからこそ、いま灰ノ原が持ったであろう違和感を即座には持ち難くもあるのだった。
「きみのことを疑うわけではないんだけどね。疑ったところで、他に考える材料があるわけでもないし」
「いや、なんか勝手に決め付けたままにしちゃうところでしたし。大事なことなのに」
 なんせ自分自身の成り立ちに関わる、どころか成り立ちそのものの話である。他の誰がどう思おうと千春本人はそれを軽んじるわけにはいかなかった――し、それにどうやら、灰ノ原と桃園も同様であるらしい。そんなことを言っているような場面ではないと思いつつ、しかしそれでも心のうちに温かみを感じずにはいられない千春だった。
「ところで、ですが」
 ここで口を開いたのは、その自分や灰ノ原と同様にこの話を重く見ているらしい桃園だった。
「暴力性、と仰る割には、今のところ千春さんに粗野な印象というようなものは皆無なのですが」
「そうそう。さっきも言ったように良い子だしねえ、今のところ」
 粗野な印象はない。千春自身もそんなふうに振舞ってきたつもりはなく、ならば自分の元になったものに対して「暴力性」などという言葉を使ったことへ疑問を持たれるというのは、まあ当然のことと言えば当然のことではあるのだろう。
 しかし。
 ――なんか、話が微妙に逸れたというか……灰ノ原さんも普通に頷いてるけど。
 というのが、千春の感想だった。
 例えばそれが初めから灰ノ原の言葉であったなら何も引っ掛かるところはなかったのかもしれないが、しかし桃園となれば話は別である。彼女は、話を途中で逸らすことなど到底考えられない人物なのだ。灰ノ原への容赦ない突っ込みを除いては。
 ……というようなことを考えていたところ、するとその桃園がふいと顔を逸らした。何から逸らしたかというとそれは、間違いなくいつものにやにやした表情で彼女を眺めていた灰ノ原から、なのだろう。
 それが何を意味しているのかは、しかしあまり考えないようにしておく千春だったが。
 ――だって、勘違いだったら照れ臭いしなあ。

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