第五章
「一寸先は闇。……自分が闇な場合はどうなるんだろうか」



「なに? 千春くん、今までずっとノーパンだったの?」
「すいません……」
 謝る場面ではない気がするのだが、しかし恥ずかしいやら情けないやらな心情に釣られてか、ついつい謝ってしまう千春だった。
「叶くん、これぼくとしてはどういう反応を」
「気持ち悪いんで普通に止めてください」
 間。
「――そっかあ。仕方ないとはいえ、中々酷いことするねえ黄芽さんも」
「あ、いえ、あれはああなって仕方なかったかと……」
 色々と一段落したところで最後に出てきた話題は、「ここで暮らすに当たって何かご入用なものはあるかい?」というものだった。
 急務であった。
 これ以上なく。
 何がというまでもなく。
 いや、よくよく考えれば、そこまで困るようなことでもなかったりはするのだが……。
「ンヒヒ、そうかい。じゃあまあ数日分の衣類ってことで、ちょっとばかしお使いに行ってきますかね」
「すいません、ありがとうございます」
 入用なもの、ということでこれは、灰ノ原がそれを調達してくれるという話でもある。
 調達する品が衣服である以上、通常であれば寸法を合わせるために千春本人が同行すべきなのだろう。しかしその調達先というのは当然「こちら」ではなく「あちら」ということになり、なので千春がそれに付き添うわけにはいかないのだった。
 一度「あちら」に踏み入った者は、二度と「こちら」へは戻ってこられない。
 とはいえもちろん仕事のために「こちら」を訪れている鬼はその限りではなく、そしてそれを踏まえる限り、それは「できない」というよりは「許されない」ということになるのだろうが。
 ――改めて考えてみたら、それって結構凄い特権だったりするんだろうか?
 今更になってそんなふうに思ってしまうのは、自分が幽霊になったことはもちろん、桃園がつい先程それを「大き過ぎる見返り」と表現していたからでもある。
『こうしてこの世にいられることですよ』
 ……正確を期すのであればそれは、あちらとこちらの自由な行き来ではなく、ただこちらで暮らせることのみを指しているようにも聞こえたのだが。
「あー、紫村さん? そうそう、灰ノ原です」
 そうして考えたところで何がどうなるわけでもないようなことを考えていたところ、灰ノ原がいつもの携帯電話で紫村に連絡を取っていた。
「ちょっとあっちに戻りたいから手続きの方を――ん? ああ、仕事のことなら大丈夫。叶くんはこっちで待っててもらうし、それにそう長くはならないからね。――うん、ちょっとお買い物を。千春くん、今着てる分しか服がなくてね。しかもそれだってちょっと足りてないし」
 とまで言ってからにやついた顔をこちらへ向けてくる灰ノ原には、お願いだからそれ以上は言わないでくださいとハラハラさせられる千春であった。今更手遅れではあるが、できれば桃園にだって聞かれたくはなかった話なのだ。……いや、だから、実害があるかと言われれば別にそういうわけでもないのだが。
「はーい、そういうことで宜しくお願いしまーす」
 終始軽いノリで連絡を取り終える灰ノ原だったが、それとは対照的に千春はここでふつふつと緊張を湧き上がらせる。自分自身が幽霊となってもやはり――いや、むしろ「だからこそ余計に」ということなのかもしれないが、あの世とこの世を繋ぐ穴の出現には、やはり身構えてしまうところがあるのだった。
 ――前見たのは、あのナイフの奴が学校に来た時だったな。名前……ええと、響ナントカとかいう。
 自分を、と言ってもその頃はまだ「千春」ではなかったわけだが、自分を捕えるために学校に現れたナイフ使い。ほぼ同時に現れた金剛に全てを任せ、自分はただ事の成り行きを傍観していることしかできなかった――などとついそんなふうにも考えてしまうものの、しかしここでそんなことを言っていても仕方がない。
 今この部屋にいるのが自分一人だけだったなら、思う存分暴れたり喚いたりしていたのだろう。固く握り閉めた拳を見下ろしながら、千春はそんなふうに思っていた。固く握ったところで対して固くもないのであろう、弱々しい拳を見下ろしながら。
「そんなに身構えることもないけど、でもまあできるだけ動かないでね千春くん。ほんのちょっとだけでも『あっち』に入っちゃったら、ぼくと叶くんはきみをそのまま連れて行かなきゃならなくなるから」
 拳のみならず身体全体を強張らせる千春を見て、灰ノ原はそんなふうに声を掛けてきた。そしてそれとほぼ同じようなことは、響の件の際にも金剛から聞いている。要するに、自分が幽霊であろうがなかろうが関係なく、「あちら」に繋がるあの穴には絶対に触れてはならない、ということであるらしい。
 勘違いがあったとはいえ、それでも注意を促されたことで身体の強張りはいくらか和らいだ。そしてそれを引き金にしたかのようなタイミングで、その絶対に触れてはいけないものが灰ノ原の傍に現れた。それ自体が発するものはもちろん警告音のようなものも一切なく、極めて静かに、かつあっさりと。
「じゃ、行ってきます。すぐ戻るから叶くん、お茶でも淹れておいてよ」
「分かりました。なら、何かお茶請けになるようなものも一緒に買ってきてください」
「ンヒヒ、了解」
 そんな他愛のない遣り取りを残し、灰ノ原がその穴を潜っていく。
 穴それ自体の佇まいと同様、そこを通る者とそれを見送る者の様子もまた、あっさりとしたものなのだった。

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