千春が改めて自らの無力さを自覚させられていた頃、そんな彼の大元、あるいは産みの親とでも言うべき存在である緑川はというと、晴れ晴れとした気分に包まれていたのだった。
何があったというわけではない。自宅玄関にて黄芽達を見送った後、自分の部屋へ戻ってコタツに入り、そのまま横になっているだけである。しかし、だからといってコタツの温かさに気分を良くしているというわけでもなく――。
「いやあ、何をあんなにモヤモヤしてたんだろう?」
自分以外に誰もいなくなった部屋の中心で、天井を見上げながら一人呟いた。
一人である以上、当然ながらその呟きは誰の耳にも届かない。しかし緑川にとってそれは「でも」ではなく、「だからこそ」の行いであった。
憧れや、それが高じての嫉妬。彼が持つ倫理観からすればそれは、赤の他人ならともかく親しい友人に向けていいようなものではなかったのだ。そしてだからこそそれは、一人の時でもなければ口には出せなかったのだ。
口に出さなければならなかった。自分に言い聞かせるために。
「…………」
何をあんなにモヤモヤしていたのか? そんなことは彼自身にも分かっていることだったし、そしてそれが今になって解消された理由もまた、はっきりしていた。友人に対する憧れや嫉妬。それが自分から分離し、独立し、「千春」という人格を獲得して出て行ったからだ。
なんせ比喩でなく本当に自分の足で歩いていってしまったのである。それは、これ以上ないくらいに「自分から抜け出ていった」ことを示す光景だった。
――が、しかし。そこまで疑いようがない状況を目の当たりにさせられても尚、はっきりされられないことが一つだけ。
「…………」
それは、それを「疑いようがない」とした自分の判断であった。
確かに千春は出て行った。しかしだからといって、彼の元となった感情が自分の中にはもう欠片すら残っていないなどと、どうしてそんなことが言い切れるのだろうか?
あの感情さえ無くなってしまえば、さっきのようにああも気持ち良く皆を見送ることができる――だから、あの千春が自分を離れていく光景を以って「無くなった」のだと、そういうことにしたい
だけなのではないか?
認めることが怖い、というのもないではない。しかしできるだけそれを考慮しないように考えてみても尚、緑川には分からなかった。自分の本心が、果たしてどちらなのか。
そして。
分からないのであれば、より都合が良い方にしてしまえばいい。それに該当するのがどちらなのかは、緑川にとって考えるまでもない問いなのだった。
灰ノ原が「あちら」から帰ってきてからというもの、千春は実に上機嫌だった。というのも、彼の心配をよそに、灰ノ原の買ってきた服がどれも常識の範囲内に収まるものだったのだ。
灰ノ原とのペアルック、下手をすれば桃園とのペアルック――現在の桃園が着用しているのは私服なのだが、もちろんながら彼が想定したのはそちらではなく――すら有り得ると戦々恐々だった千春にとって、その結果がどれほどの安堵をもたらしたかは筆舌に尽くし難いほどだった。
そしてそんなところへ、
――美味いこれ! すっごい美味い!
桃園が淹れた紅茶、そしてそのお茶請けとして灰ノ原が買ってきた洋菓子が、見事なまでに千春の好みに合っていたのである。強烈な安堵に緩み切っていた心へ、これはまさに染み渡るような幸福感なのだった。
「ンヒヒ、どうやら気に入って頂けたようで」
口にものを含みながら喋るものではない、というようなことを気にしていられないほどただただ感動から無言になっていたのだが、だというのに灰ノ原からはそんな言葉が。となると自分は今一体どんな顔をしてしまっているのかと、慌てて姿勢やら表情やらを正す千春なのだった。
するとここで、
「まあ、随分高価なものをお買い求めになったようですしね」
と、何やら挑発的な言葉を灰ノ原にぶつけたのは桃園。
それを受け、今まで全然気にしなかったけどやっぱり鬼でも倹約の意識とかってあるんだなあ、などと手元の高価であるらしい洋菓子に目を落とす千春だったのだが、
「それを言うなら叶くんだってこれ、いい葉っぱ使っちゃってぇ」
と、カップをかつんと指先で叩きながら言い返してみせる灰ノ原なのだった。
ちなみに千春がそうであるのと同様、灰ノ原はカップに注がれた後の紅茶しか目にしていない筈である。ならばつまりは香りと味――いや、そういえば口を付けていただろうか?――だけで、茶葉の種類を特定してしまったということになるのだが……。
「確かにそれはそうですが」
確かにそうなのだそうだった。しかも桃園は、それを当たり前のように受け流していた。
「とはいえこちらは買い置きですから、どれを使っても金銭面で問題はありません」
「ンヒヒ、普段から贅沢な使い方してるならそれで納得するけどね」
――ちゃんと味わってご馳走になろう。うん。
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