「さあて! さあてさてさて千春くん!」
「んほあ」
 紅茶と菓子があまりに美味し過ぎたということなのか、いつしかうとうとと首を揺らし始めていた千春。しかしそんな彼を叩き起こすかの如くに、灰ノ原は大声を張り上げるのだった。
「あ、すいません寝掛かってました俺」
「いや、全然構わないんだけどね? むしろ安心したよ、こんな所だけどちゃんと眠れてくれるようで」
 廃病院。今いる病室の様子を語るまでもなく、その時点で既にそこに住んでいる本人ですら「こんな所」呼ばわりも止む無しな場所ではあるのだろう。しかしだからといって「眠れてくれる」とはまた、随分とへりくだった物言いだが……などと思ってしまう千春だったのだが、しかし一方で灰ノ原自身はというと、そこに頓着するようなこともなく。
「はいこれ。善は急げってことで」
 そんな灰ノ原がそう言いながら差し出してきたのは、千春が先程脱いだばかりの服なのだった。つまりは、緑川から借りていたものである。
「寝ちゃう前に返してこようね。先に延ばせば延ばすほど行くのが面倒になっちゃうしね、こういうのって」
 今現在頭の中で燻っている眠気を思えば、灰ノ原のその言い分もそう間違ったものではないのだろう。しかしそう思っていても尚、どうしたものかと眉をしかめる千春なのだった。
 ならば続けてその表情の中身を口にしようとも思ったのだが、それには桃園が先んじてこう告げてくる。
「洗濯してから返すということであれば、またあちらに行って洗剤を買ってきます。どうしますか?」
 人から衣服を借りたのであれば、洗濯をしてから返す。それは当前のことといえば当前のことではあるし、ならば灰ノ原はともかく桃園は間違いなくそうさせようとしてくるのだろう――が、しかし今の言い方というのはどうも、「して当然」というよりは「敢えてそうするのならしても構わない」というふうに聞こえたのだった。
 どちらかといえば「しない」側に傾いている提案。しかし、桃園の人物像からそこに違和感を持った千春は逆に、違和感を持ったからこそすぐに察することができた。
 ――買ってこないと洗剤がない。ってことは、普段「こっち」ではしないんだな、洗濯。
 それもまた、当然といえば当然ではあるのだろう。灰ノ原と桃園は、のみならず鬼というのは基本的に無人の建物に勝手に住み着いているわけで、ならばそこには電気も水も通ってはいないのだ。洗濯機はもちろん、そもそも水道から水が出ない――先程頂いた紅茶にしたって、茶葉と同様水もまた買い置きだという――しかし、だからといって外で公共施設の水道や川の水を使おうとするくらいであれば、それこそ「あちら」に行って普通に洗濯したほうが手間にならないのだろう。さっきも見たように、「あちら」への移動はああもあっさりしているのだから。
「この服を持って行って洗濯するってことにならないっていうのは、じゃあやっぱり人だけじゃなくて物も持ち込んだらアウトってことなんですか?『あっち』には」
「その通りです。鬼自身の私物であれば、鬼と同様に自由なんですけどね」
 そうする必要があるわけでもなし、それは千春は関係のない話と言っても過言ではない。しかしこうして「あちら」に纏わるルールの厳格さを目の当たりにすると、意味もなく神妙にさせられてしまう千春なのだった。
 が、桃園はそれに構うこともなく、「それにしても」と。
「灰ノ原さんにも見習って頂きたいくらい察しがいいですね」
「いやあ、ごめんねえお馬鹿さんで」
 頭を軽く叩きながらそう返す灰ノ原だったのだが、するとそれを見て桃園は何やら考えるような間を空けたのち、「いえ、やっぱり訂正します」と。
「全部察したうえで敢えてそこから外れたことをなさってるんですものね、灰ノ原さんは」
「ンヒヒ、そう捉えてくれるんだったらそれでも全然構わないけどね?」
 そうでしょうね構わないんでしょうね、と、桃園に同調して呆れさせられる千春なのだった。
 そして、そこで本当に構わないのが灰ノ原学という男である。
「ところで洗濯の件だけど、黄芽さんか白井くんのとこに行って頼むっていう手もないわけではないよ?」
 途中に挟まれた余計な話はともかく、自ら洗剤を準備するという提案をした桃園に対し、彼からはそんな提案が。
 ――そうだよなあ。黄芽さんと修治くんが特別なんだよなあ、やっぱり。
 双識姉弟と同居している黄芽。
 生前の、もとい生前からの自宅に住んでいる白井。
 黄芽は必要に駆られて、白井は状況に許されて、それぞれ「こちら」で洗濯をする立場にあるのだった。
 ――いや、たかが洗濯で立場がどうとか、大袈裟な話ではあるんだろうけどさ。

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