そしてそれはともかくとして、洗濯をする手段がないわけではないという話である。提案者である灰ノ原はもちろん千春もその選択肢には気付いていないわけではなかったし、恐らくは、いや間違いなく桃園もそれは同様なのだろう。
 では何故その案が真っ先に出てこなかったかというのは、やはり「服を借りた相手が自分自身」という状況あってのことなのだろう――と、少なくとも千春はそう考えた。黄芽や白井、つまりは第三者の手を煩わせることのほうが余程気が引けるしなあ、と。……「直接服を手渡してきた相手を果たして第三者と呼んでいいものだろうか?」という疑問が頭を掠めたりしないでもなかったが。
 ともあれ。
「あー、いや、もうこのまま返しに行っちゃいます。あいつも文句なんか言わないでしょうしね、自分に自分の服返されたって」
「ンヒヒ、そうかい。その辺の匙加減はお任せするよ」
「あはは、はい。お任せください」
 その辺、というのがどの辺を指しているのかは言うまでもないとして、やはりそれについては遠慮されているところがあるようだった。しなくていい、とそれについては先だってそう言い含めている千春ではあったが――とはいえやはり、悪い気はしないのだった。

「さて叶くん」
「何でしょうか」
 借りた服を返すために千春が病室を出、それを見送ったところで――ここは今後千春が使うことになる病室であり、ならば部屋の主を見送るというのも妙な話ではあるのだが――灰ノ原は、それを待っていたかのようなタイミングで桃園に声を掛けた。
 一方そうして声を掛けられた桃園はというと、千春の後に続くようにして、つまりはこちらもこうなるのを待っていたかのようなタイミングで部屋を出ようとしていたのだが、
「今それ、何処に行こうとしてるのかな?」
 にやにやと口の端を持ち上げながら、そう尋ねる灰ノ原なのだった。無論、普段からそうだろうと言われれば、間違いなくそうなのだが。
「止めておいたほうが良いと?」
 対して、向けられた質問に対する回答を省略する桃園。それは「答えるまでもなく察しを付けているんだろう」ということなのだろうし、そしてその通り、灰ノ原は察しを付けていた。
「いやいやそんなつもりじゃないよ。ただ単に微笑ましいなってね。ンヒヒ」
 そう言いながらやはりいつもと変わらない笑みを浮かべる灰ノ原だったが、それを見た桃園はというと、いつもと変わって眉を顰めてみせるのだった。その割には「灰ノ原さんにニヤつかれるのにはもう慣れていますが」と、言葉の上ではいつも通りであるふうを装ってもいたのだが。
「気を回し過ぎだとは思いますよ、自分でも。まるで子ども扱いですしね」
「まあ、そこら辺は事情が特殊っていうのもあるわけだし。部屋割のことだってそれと同じことではあるんだしさ」
 桃園は千春の後を追おうとしていた。その割には一緒に部屋を出るわけでなし、出ていく千春に声を掛けるでもなしということで、本人には気付かれないようこっそりと、ということなのだろう。
「それにしても叶くん」
「何でしょうか」
「鬼と関わったせいで、ってことじゃなくて良かったね。千春くんのことは」
「……そうですね」

 灰ノ原と桃園が住居としている廃病院。玄関を出たところでそのぼろぼろな佇まいを振り返った千春は、なんとも不思議な気分に包まれるのだった。
 黄芽や白井の家ほどではないにせよ、見慣れているし通い慣れた場所でもある。まさかそこに自分が住まわせてもらうことになるとは――というのは何も、その傷みが酷い外観から不安にさせられたという話ではなく。
「俺んちかあ」
 一言そう呟き、そこから更に一息の間を挟んでから、千春は足を進め始める。ここが自分の家であるなら、これから向かう緑川の家は自分の家ではないのか。と、案外悲壮感もなくそんなふうに考えたりもしながら。

 通い慣れた道であるうえ、そもそも大して距離があるわけでもない。ならば道中で何があるというわけでもなくあっさりと緑川家に到着するだろう。
 普段ならわざわざ意識することですらないのだろうが、とはいえ自分に自分の服を返しに行くという奇妙な事態はもちろん、自分自身の成り立ちまで含めてあれこれと込み入った状況下にあることもあって、そのわざわざ意識しないであろうことを意識しながら歩いていた千春だったのだが、
「あれ、澄ちゃんと藍田さん」
 もうすぐ目的地に着くというところで、前方の曲がり角から知り合い二人が並んで出てきたのだった。
 ――でもまあ、「何かあった」って程の事じゃないよなこれは。
 なんせ二人とも近所に住んでいるし、加えてああして一緒にいることに不自然がないくらいに関わりの深い間柄でもある。道端で偶然に出くわすことなど、特に珍しくもないのだった。
 なので千春は、その珍しくもない前例そのままに、二人の元へ歩み寄る――歩み寄ろうとして、しかしその歩み寄ろうとして前へ出した足が地面に到達する前に、気付くことがあった。
 あってしまった。
 道端で出くわすことが珍しくない二人。その時に千春が――その頃はまだ「緑川千秋」だったわけだが――毎度一人だったというようなことはなく、黄芽達と一緒だった場面も数多くあった。そしてその時、水野と藍田のどちらもが黄芽達に反応したことはない。
 つまり彼女らは幽霊が見えず、その声を聞くこともできないのだ。
 そして千春は……。
 ――…………。
 千春は、足を止めた。見えも聞こえもしない以上、そうして待ったところで何も意味はないのだが、水野と藍田がその場を歩き去るまで、動かないでいることにした。
 身を隠すわけでもなく、息を殺すわけでもなく。ただただ道の真ん中に突っ立っているだけの自分の目の前を、知り合い二人がまるで気付くこともなく通り過ぎようとしている。
 声を掛ければその二人がともにこちらを向く。そんな当たり前に過ぎて意識すらしてこなかったことから、自分はもう外れてしまっているのだ。
 ――もっと前に気付けただろうに、馬鹿だなあ俺。
 こうなる前に気付けていれば、覚悟もできていただろうに。そうやって自分を罵ることで気を紛らわせるのが精一杯だった。
 ……しかしそこで、想定外の事態が発生する。
「え」
 水野が、そして藍田もが、揃って千春を見ていた。
 一応ながら周囲の様子を窺ってみる千春だったが、そこには自分以外誰もいないし、わざわざ注目するような何かがあるわけでもない。つまり二人がその視界に捉えているものは、間違いなく千春なのだった。
 気付かれないことにショックを受けていた千春にとってそれは、当然ながら喜んで歓迎すべき事態だった。
 声も掛けずにただ突っ立っていた彼に二人は驚いた表情を浮かべているが、それもすぐにいつもの親しげなものに戻るのだろう。喜んだ勢いに任せてそんなふうにも思っていたのだが、しかし。
「え……え、何……?」
 彼女らの表情が驚きのそれから敵意に満ちたものに移り変わったのを見てもまだ気楽でいられるようなことは、これもまた当然なことながら、ありはしないのだった。

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