第六章
「藪をつついて蛇を出す。つついたことになるんだろうなあ、何もしてないのに」
――いや、いやいや、よく考えたら俺が幽霊だっていう話は黄芽さんのあの「鬼がすり抜けられるかどうか」って話だけで決め付けてたんだし、じゃあその点が幽霊っぽいってだけで厳密には普通の幽霊とは違うってことなんじゃないか? ここまで幽霊が見えない知り合いには会ってこなかったわけだし、現にこうして澄ちゃんと藍田さんに見られてるわけだしさ。人から普通に見える、ということはもしかしたら割と普通の生活が送れたりするかもって話にもなってくるし、じゃあこれまたもしかしたら、俺ってそもそも家を出る必要がなかったとか? まあそうは言ってもあの根性無しと同じ屋根の下ってのはなんか嫌だし、ほんの短い間とはいえ灰ノ原さんと桃園さんにはすっごい歓迎してもらってたっていうのもあるし、家に戻るかって言われたら即座にうんとは言い難いような気もするっちゃするんだけどさ――。
……などという千春の逡巡は、当然のことながら現実からの逃避でしかない。
頭を働かせるべきなのは今後のことなどではなく今この場で直面している問題、つまりは水野と藍田が揃って幽霊であるはずの自分を見、しかも「睨み付けている」ことである。
普段からそういう目付きの二人だ、というようなことは全くない。なんせこの二人はどちらとも穏やかな人柄であり、そして普段、表情においてそれを微塵も隠そうとはしていないのだ。
千春は、千秋の一部だった頃から、二人のそんなところが気に入っていた。そしてだからこそ、いま目の前でこれまで見たことのない表情を自分に向けているその二人を、視界にも意識にも留めていたくないのだった。
無論、視界はともかく意識のほうはそう思えば思うほど強く留まることになり、だからこそ今のような逃避をすることにもなったのだが。
「きみ」
あの表情を向けられ始めてからどれだけの時間が経ったのか、千春はその感覚を失ってしまっていたが――とはいえ、まさか数分もこのまま棒立ちだったということはあるまい。恐らくは数秒、長くても十数秒程度の間を挟んだのち、ここで初めてあちらから声が掛けられた。
藍田だった。
「緑川千秋くん、ではないよね?」
「…………」
もちろんそうではないのだがしかし、どう返事をしたものだか判断に迷う千春。あんな奴と一緒にされてたまるか、というようなことを藍田に言っても仕方がないし、だからと言って当然、千秋ですなどと嘘を吐くことには何の意味もない。二人ともその千秋本人とすぐに連絡が取れる間柄ではあるし、そうでなくともここから自宅はすぐそこである。
となればもう、どうやらあちらが察しているのに任せて「はい」とだけ答えておくのが最良なのだろう――が、しかしそうなれば「千秋でなければ誰なんだ」という話にもなり、ならばそこには、鬼である黄芽達はともかく一般人である藍田や水野に自分の事情を話してしまっていいものか、という葛藤が生じてくるのだった。
自分が感じたそのままが事実だと仮定しての話ではあるが、なんせ自分の出自にはあの求道が絡んでくるのだ。彼がその話を知った水野達に矛先を向けるという可能性を考えれば、とてもここで自分の出自を話す気にはなれないのだった。
――俺が言ったって信じてもらえないかもしれないけど、間違いなく千秋本人にも訊いてみようってことになるだろうしなあ……。俺が千秋じゃないことはちょっと見ただけで分かっちゃってるみたいだし――ん?
藍田は、そして恐らく水野も、自分が千秋でないことを既に察している。それを意識したところで初めて、千春はそこに違和感を覚えた。
――そりゃあ昔からの付き合いだし、雰囲気とか表情とかが違うっていうのくらいは分かるんだろうけど……でもそれで、それだけで別人だなんて断定できるもんなんだろうか? 癪だけど、全く同じなんだぞ顔も身体も。表情だって、たまたま機嫌が良いとか悪いとかでいくらでも変わるものなんだし。
「なんで違うと思ったんですか?」
千春はそう尋ね返した。自分が何者であるか、という話を体よく後回しにした形ではあったが、しかし本意がそこにあったわけではなく、ただの副産物でしかなかった。
「…………」
すると今度は藍田のほうが黙ってしまう。特に根拠もなしに何となくそう感じただけ、ということであればそれを口にするのに何を躊躇う必要もないわけで、ならばそこには「何か」があるのだろう。例えばその、決して緑川には向けないであろう敵意に満ちた視線の元になっているものだとか。
とはいえ、あちらも黙り込んでしまったのでは話が続かない。どうしようもなくただ二人と向き合うばかりの千春だったのだが、しかしそこで動いたのは水野だった。……いや、動いたというほど大袈裟なものではない。それはただ千春から視線を外してその向こう、千春自身からすれば背後方向へと、何かを見付けたように視線を動かしただけのことだった。
彼女が何を見たのか気になる、というのはもちろん、この膠着状態を少しでも動かしたいということもある。不安や焦り、それに期待もが混ざり合った落ち着かないものを抱えながら、千春はその視線を追って背後を振り返った。
するとそこには、
「トラブルのようですね」
「桃園さん!」
自分が緑川家へ向かっていることを知っている人物、つまり今ここに駆け付けてくれるであろう人物の中では最も頼りになる人物が、そこには立っていたのだった。
……最も、などと言ってはみたものの、候補は二人しかいないのだが。