そしてそのもう一人の候補のにやけ面を振り払ったところで漸く、
 ――あっ、しまった!
 と慌てて再度背後を振り返る千春。その強過ぎるくらいの心強さからつい桃園の名前を口走ってしまったが、しかしそれは今まで水野と藍田、のみならず幽霊でない誰かと一緒にいる際には、努めに努めて控えるようにしてきたことでもあったのだ。
 とはいえそれはただの反射的な行動であり、実のところ千春の頭の中ではそもそも現在の事態が整理し切れていなくもある。なんせ今まで幽霊が見えていなかった筈の二人が、何の前触れもなく「見えて」いるのだ――しかもその「見られた」のが自分、つまり緑川千秋から抜け出た彼の感情の一部という、例外的な幽霊どころかそもそも本当に幽霊なのかどうかすら疑わしい存在だということが、よりこの事態をややこしくさせている。
 ――桃園さんのことも見えてるんだろうか?
 慌てて振り向いた割には冷静に、そして「いきなり女性の名前を叫ぶ奇行に走ったと思われたかもしれない」という不安を誤魔化すためにも、まずはそこを気に掛けてみる千春。口走ったのは名字だけなのだから女性も何もあったものではない、ということには気付けないでいた。
 果たして水野と藍田の二人は期待通り――今日までのことを思えば、どこか期待に反していた部分もあるような気がしないではないのだが――どうやら、桃園のことも見えているようだった。見えるかどうか尋ねてみるまでもなく、先程自分に対してそうしたように二人揃って桃園を睨み付けている。これでは疑いようもないというものだろう。
 とここで、その睨み付けられている桃園は眉ひとつ動かさないまま、つまりはいつもの調子のままで、「おかしいですね」と。
「このお二人は確か……」
「そうなんですよ。千秋の知り合いのあの二人なんですけど、なんか俺のこと見えてるみたいで」
 黄芽や白井ほどの回数ではないが、桃園もこの二人とすれ違ったことがないわけではない。そのこともあり、「千春さんのお知り合いのあの二人なのではないですか」と言われる予感がした千春は、桃園の言葉の上から自分の言葉を被せに掛かった。ああして睨み付けられた後で「そうです自分の知り合いです」とは、ほぼそういうことで間違いがないとしても尚、言い難かったのだ。
 そして彼のそんな反応に何も気が付けない桃園ではない。やや眉を顰めるようにしてみせ――しかしそれだけで済ませもし、「そのようですね」と。
 桃園は視線を千春から水野と藍田へ移す。
「千春さん……こちらの彼のことで訊きたいことはあるでしょうが、まずはそちらのお話を聞かせて頂いても宜しいでしょうか。状況が整わないまま話を進めるには少々、事情が込み入っておりまして」
 自分の話を、しかも桃園を交えて説明するとなれば、それにはまず「幽霊が実在する」という前提が必要となってくる。であればなるほど、順序としてはそっちが先のほうがいいか、と不意に感心させられる千春だった。同時に、悪い奴を捕まえるばっかりじゃなくてこういう場面にも慣れてるんだろうな、とも。
「それは構いませんが」
 動いたのは藍田だった。普段はそんな背景を感じさせないが、藍田は水野の世話役のような立ち位置にいる人物である。であれば桃園のそれと同様、彼がここで水野に先んじて動くというのも、仕事の一環ではあるのだろう。
 水野を守る、という言い方をするのであれば、当たり前ながらこちらに害意など全くないわけだが……。
「でもその前に、お嬢さんはどちら様で? そちらの……千春さん? は、千秋くんに何かしら縁のある方なんでしょうけど」
 縁がある人間だと察してもらえただけまだマシか。というのは、余所余所しくも「さん付け」をされてしまったことに対する思いだった。もちろん藍田がそういう態度を取るのは仕方がないことではあるし、ならばそれを非難するわけにもいかないのだが。
「失礼しました。私は――」
「いやちょっと待って、もしかして」
 千春がじんわりと重い雲にのしかかられたような心中でいる一方、身分を明かすよう求められた桃園はそれに従おうとし、しかしそれを求めた藍田自身に止められてしまう。
 桃園が彼らの顔を知っていたのであれば、当然あちらからも同様ということにはなる――もちろん、彼らが以前から幽霊が見えていたとすれば、という話ではあるが――であれば藍田は、その時に見た記憶を辿ろうとしているのだろう。
 ――だとしてもこう、割といい年したおじさんが若い女の人の顔をじろじろ見てるっていうのは、他人からしたら割と怖い構図だけど……。
 と、失礼ではあるが仕方なくもある感想を持っていたところ、「ああ!」と藍田。もう少し早い段階で決着してほしかったところではあるが、どうやら何かしら記憶と繋がるところがあったらしい。
「この地区担当の夜行さんですか? もしかして」
 だからといって、いきなりそこまでの話が出てくるとは思わなかったのだが。
「いやあ、ナース服だけじゃなくて普通の服もお召しになるんですねえ。顔じゃなくて格好のほうが記憶に残っちゃってたもんで……あ、いや、これは失礼でしたかね?」
 ……そのうえ、その話がここに繋がってくるなどとはとてもとても。
 どこまで本気なのかは不明なものの、申し訳なさそうに頭へ手をやる藍田。そこでそんな彼へ向けられたのは、水野のパンチだった。
「あいたっ」
「こんな時にエロオヤジってんじゃないよもう」
 世話役として世話をする相手に小突かれたところで、藍田はとても頼りなさそうな笑みを浮かべるのだった。

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