「…………」
 黒淵は下を向いて黙り込んでいた。
「…………」
 その黒淵に視線を送っている桃園もまた、黙り込んでいた。
 黒淵の部下が以前水野に仕えていた、という話。変なところで接点があるもんだなあ、という程度で済まされる話でないことくらいは緑川にも分かっていたのだが、しかしこれが黒淵自身の話であるならまだしも、会ったこともない人物の話――いや、緑川が会っていたところでそれは何ら影響を及ぼさないのだが――ともなると、済まさなかったところでどうなる話でもないように思えてしまうのだった。
 そしてそれ故に緑川は、二人が発する居心地の悪い空気に対して身動きが取れないでいる。偶然にしては出来過ぎている、というのは事実だが、しかしだからといってそれは「こう」なる理由にはならないのではないか、と疑問に思わずにはいられなかったのだ。
 そして緑川がそう思ったのならそれは千春も同様だったのだろうし、それに疑問を持つまではいかずとも何かしら感じ取るところはあったのだろう、双識姉弟も不安そうな表情を浮かべているばかりなのだった。
「あの」
 この状況で誰かが動くならそれは黒淵か桃園のどちらかだろう、と緑川はそう踏んでいたのだが、しかし最初に声を上げたのは、そんな予想に反して千春なのだった。
 緑川の予想を千春が覆す。それは言い換えれば「自分に自分の予想を覆された」とも言える状況である。緑川本人からすればそれは、驚きにすら値する出来事なのだった。
 が、しかし端的に言えばただ声を上げたというだけのことでもある。実際に驚いてみせるほどのことではないだろう、とどこか冷静にその驚きを処理してしまう緑川でもあった。
「今のこれって、つまりどういうことになってるんですか? どう言えばいいのか分かりませんけど、なんかこう、雰囲気というか……」
 声を上げた千春はそのまま、黒淵と桃園のどちらともなくそう尋ねる。質問としては要領を得ないものであったが、しかしその点すらを含めてそれは、緑川の胸中とぴったり合致していた。
 それを受け、黒淵と桃園がほんの数舜だけ視線を交わす。そしてその直後、黒淵が部屋のドアの側へと視線を送ると、それに応じて桃園が立ちあがった。
「赤ちゃん青くん、お仕事の話になるから隣のお部屋に行きましょうか」
 赤と青は素直にそれに従った。いつもなら元気よく返事をしていたであろうところ黙って桃園の傍らに付くその姿は、怖いものから遠ざかるために桃園に縋った、というふうに見えなくもなかったのだが。
 ――そして、その三人が部屋を出たのち。
「簡単に言えば、わたくしが何かしら関わっているんじゃないかと疑われている、ということですわ」
 表情では不服そうにしながら、しかしその割には落ち着いた口調で黒淵はそう言った。
 疑われている、とは言うが、しかし見ていた限りでは桃園はそれらしいことを何も口にしていない。なんせ、それらしいことどころかそれ以外のことすら何も言わず、ただ黒淵と同様に黙り込んでいただけなのだ。
 そしてそもそも、
「疑われてるって、だってさっきのは部下の人の話なんですよね? だったら黒淵さん自身は何も関係ないじゃないですか」
 という話でもある。今度もまた、それを口にしたのは緑川ではなく千春ではあったが。
 すると黒淵は呆れたように、しかしどこか嬉しそうな色も含ませながら、「平和ですわねえ」と笑ってみせるのだった。
「部下がどこで何をしていたかなんて存じません、というわけにはいかないのが上司というものなんですのよ。たとえ本当に知らなくても、ですわね」
「……地獄に来る前のことって話でしたけど、それでもですか? それってつまり、黒淵さんの部下になる前の話ってことですよね?」
「それでも、ですわ。部下にしたのはわたくしの判断なんですもの。任命責任、なんてよく言われてると思いますけど、ご存じありませんか?」
「…………」
 返す言葉が尽きてしまったのか、千春が黙り込んでしまう。それを見た黒淵は、「だからまあ、任命する以前のことを知らなかったっていうのがまず問題なんですけどね」と自嘲気味な笑みを浮かべながら言うのだった。そしてそのまま、「そういう事務的な話は、わたくしに限らず皆さん適当ですけどもね」とも。
 彼女が誰を指して「皆さん」という言葉を口にしたのかは分からないものの、分かる範囲で、ということで黄芽達を当て嵌めてみたところ、それは実に納得のいく話だった――が、それはともかくとして。
 千春が黙り込んで初めて、緑川は口を開くことができた。
「でもそもそも水野さんの家と関わってたからって、それが悪いことってわけじゃないんですし。だったらやっぱり疑うも何もないと思うんですけど……」
 すると黒淵は、あっさり「そうですわね」と。そして、
「あなた方が関わってさえいなければ、ここの鬼さん方がここまでピリピリすることはなかったんでしょうね」
 とも。
「さて、どうしましょうかしらね。まだまだ休暇中ですけど、一度あっちに戻ってあのつまらない男からもうちょっと詳しく話を聞いてきましょうかしら」

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