第三章
「虎穴に入らずんば虎児を得ず。やるだけのことはやらせていただきますわ」



「あら」
 黒淵が地獄への帰還を考え始めていた頃、廃工場では紫村が小さく声を上げていた。そこでは引き続き鬼達による会議が執り行われていたのだが、しかし彼女のその声は、会議の流れにはそぐわない唐突なものである。
「おヤ? もシかしてお仕事かナ?」
 全員の視線がそちらへ集中する中、初めに反応してみせたのはシルヴィア。しかし紫村に何があったか即座に理解したのは、この場の全員に共通のことであった。会議の最中に不真面目にもそれとは別のことを考えるような紫村ではなく――いや、他の鬼達も同様ではあるのだが――故に、そんな彼女が「何か他のことに気を取られた」となると、それはもう可能性は一つしかないようなものなのだった。
 つまるところそれは、悪意を察知する彼女の鬼道に反応があったということ……なのだが、
「うーん、そうなんだけどちょっと微妙な感じねえ。今すぐどうこうするつもりじゃなさそう、というかもしかしたら何もしないままかも?」
 今回はそんな装いであるらしかった。
 彼女が察知できる、別の言い方をすれば「したくなくても察知してしまう」ということにもなるのだが、そうして察知される悪意に強弱の別はない。なのでこの程度のものにすら反応してしまうのだが、しかしそれについては紫村自身はもちろんのこと、それを受けて仕事に入る黄芽達も、すっかり慣れてしまっているのだった。
 ――じゃあ何かありそうになるまで待機か、こりゃあ。
 自分と白井が今週の担当組ということもあり、やや面倒臭さを感じさせられる黄芽。することがない、という意味ではまだ仕事が発生していないも同然ではあるのだが、しかし単に仕事がなくて暇をしているだけの状況と仕事の中で待機させられている状況では、やはり居心地が随分と違ってくるのだった。
「ただし」
 その面倒臭さが溜息となって口から漏れ出しそうになったその時、それを遮るようにして紫村が話を続けてくる。というのはタイミングだけの話ではなく、それまでよりやや低くなった声の調子についても。
「黄芽さんと白井くんには出てもらって、あと桃園さんにも連絡したほうがいいと思う」
「叶くんに? どうしてまた」
 桃園の名前が出たことで灰ノ原が動いてみせたところ、いつも通りに浮かべられているそのにやけ面に合わせたのか、それとも桃園の名前に反応したことに対してなのか、紫村は微かに笑みを浮かべ返してみせた。
「反応、病院のすぐ傍ですから。足を止めて……そこで誰かを待っているのか、それとも病院の様子を窺ってるのか。後者だとしたら、少なくとも『病院の中に誰かがいる』のを知ってるってことですよね」
 病院の中に誰かがいるのを知っている。その「誰か」というのが桃園を指しているとすれば、余程のことがない限り彼女なら自力でどうとでも対処できることだろう。
 が、今あの廃病院にいるのは彼女一人ではなく――。
 瞬間、部屋の中が冷たく鋭いもので埋め尽くされる。
 しかしその次の瞬間には、「ンヒヒ」と笑い声。
「じゃあ担当組じゃないけどボクも一旦帰ろうかな? その人が万が一人の家に勝手に上がり込んできた場合、家主として叱り付けるくらいだったら手柄の横取りにはならないだろうしね」
 手柄の横取り。にやけ面から発せられたその言葉は黄芽と白井に向けられていたのだが、対して黄芽はふんと鼻を鳴らす。
「別に手柄なんか欲しくねえし、お前は家主じゃなくて勝手に住み着いてるだけだし、あとお前と桃園が揃ってて叱るだけで済むわけねえよな」
「ンヒヒ、辛辣だねえ。――じゃあ、早速だけど移動しましょうか」
 言うが早いか灰ノ原はパチンと指を鳴らし、すると彼の背後に当たる空間に、黒い穴が開き始めた。

「担当組も何もあったものではありませんね」
 灰ノ原から一通りの受けた桃園が最初に返したのは、そんな嫌味だった。
「ンヒヒ、便利過ぎる移動手段っていうのも考え物だねえ。もっと褒めてくれていいんだよ? 叶くん」
「もっとも何も、褒めたつもりは微塵もありませんが」
 空間と空間を繋ぐ穴を作り出す灰ノ原の鬼道、好奇の穴。通常は穴の作成範囲を視界の及ぶ範囲内に限定されているが、一つだけ例外的にその範囲外にも作っておける――ということで、廃病院の彼の部屋にはその「例外の穴」が一つ常在させられている。そしてその穴のすぐ隣には、彼の武器である長過ぎると言っていい程に長い鎖を引いた鉄球が。
 この「例外の穴」は、持ち運びに不便極まる彼の武器をどこからでも引っ張り出す手段、そして今回のようにどこからでも帰宅できる手段として活用されている。
 ……今回の場合、活用され過ぎて工場に集まっていた鬼達全員が病院に来てしまったわけだが。
「まあ、たった数歩で来られるとなれば俺達と紫村だけあっちに残る理由もないしな」
「お仕事の邪魔はしナイから安心していいヨ! あト紅茶あったら飲みたイな!」
「もう残っていないかもしれませんが、そうでなければ」
「イエーイ!」
 仕事とはいえ緊急性のある要件ではない、ということも灰ノ原から知らされていたためか、桃園も含めさほど緊張感を生じさせたりはしていなかった。
 ――が、皆を先導するように部屋を出ようとした桃園は、はたと足を止め皆を振り返った。
「そういえば、皆さんが集まったのは丁度良かったかもしれません。こちらからもお伝えしたいことがあります」
「叶かラ? こっチでも何かあっタの?」
「ええ」
 ――こっちでも、も何も奴さんが今いるのはこっちなんだけどな。だから俺らこっちに来たんだし。
 頭の中でそう突っ込む黄芽だったが、しかしその「奴さん」について動きがあるなら紫村から知らされている筈である。ならば何かあったというのは、今だと千春についてのことか――とも考えたのだが、しかし結論から言って、その予想は外れていた。
「黒淵さんのことで」

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