一方その頃、廃病院側。不審者の目的が何であるかは不明ながら、あちらが明らかに病院の様子を窺っている以上、窓から顔を出して窺い返すというわけにもいかない。なので黄芽達はそれが可能な部屋に移動するようなこともなく、ただじっと黒淵からの連絡を待っていた。
 が、その一番に望まれて然るべき展開よりも先に動いたのは紫村であった。
「……話し始めたみたいねえ、これは」
 彼女の鬼道は自分を中心とした一定範囲内の人間の悪意を感知するものであり、その動向までを知り得るものではないのだが――しかし、その感じ取った悪意の「強さ」や「振れ方」、そして今回であれば「二つの悪意の距離」などの条件も加味すれば、ある程度の予測を立てることも可能なのである。
 二つの悪意。弱々しいものながらも初めから悪意を持ってこの廃病院を訪れた不審者はもちろんのこと、その不審者を場合によっては叩きのめして捕縛するつもりでそちらへ向かった黒淵にも、悪意がない、などということがあるわけもなく。
 もちろんそれは黒淵に限らず、普段からそれと同じことを仕事として行っている黄芽達も例外ではない。故に紫村は、どんなに親しく、どれほど知りたくない人物の悪意であっても、余すことなく感じ取れてしまうのだった。
 そしてそれは、向かいの部屋で待機している緑川達も含め、今この廃病院内にいる全員が承知していることでもある。だからこそ今更その点を気に掛けることはなく、
「話し始めた?」
 黄芽はそう尋ね返した。
「ってのは、表の誰かさんと黒淵がってことですか?」
 その時点での彼女は顔に怪訝そうなものを浮かべていたのだが、
「ええ」
 紫村が薄い苦笑と共にそう返すとすぐさま、黄芽もそんな紫村に同調することとなる。
「何やってんですかねあの色ボケ女。普通は突っ込む前に報告の一つでも入れるもんでしょうに」
 日常生活でも業務内でも使われている、鬼達の携帯電話。今回黄芽は黒淵が仕事を手伝うということで自分のそれを貸しており――重ね重ね、一人で出ていくとは思っていなかったのだが――そのこともあって、普段なら苛立つであろうところ、それを通り越して呆れ返ってしまうのだった。
 が、
「黄芽さんもそんな感じですよね、割と」
 業務用の連絡をする頻度が最も高いであろう相手から、そんな指摘をされてしまうのだった。
「うっせーよ」


 黒淵は考えていた。
 この男は自分が目の前の病院から出てきたところを見ていた筈だ。そしてこの廃病院に鬼が住み着いていることも知っているらしい。であれば何故、自分をその鬼だと思わなかったのか? 万が一にも鬼ではない可能性を考慮し、下手なことを口走らないための演技だったとしても、鬼ではないかと疑う素振りすら見せないでいる必要はないだろう。
 ――と、いうことは?
「鬼、ですか? それはどういう方達なんでしょうか――まさか、言葉の通り角の生えた鬼がいる、なんてことはありませんわよね?」
 男にそう尋ねてみる黒淵。すると男はその整った顔立ちを緩め、「ははは」と手本のような笑顔を作ってみせる。
「大丈夫、人間ですよ。鬼というのは職業の名前でして……確か、この辺りには七人。白衣で眼鏡のおじさんと、ナース服の女性と……」
 まだそこまでの説明は求めていないというのに、指折り数えながらその「七人の鬼」の紹介をし始める男。
 ――思った通りですわね。
 それを理由に黒淵を鬼だとは思わなかったのだろう。この男は、この地区の鬼達のことを知っていた。しかも目の前の廃病院に住んでいる灰ノ原と桃園の紹介を最初に持ってきた辺り、どうやらここに住んでいるのがその二人だということも。であれば、他五人の住居も把握しているとみて間違いはないのだろう。
 そして、こういう展開は以前にもあった。黒淵自身もたまたま現場に居合わせた、各鬼の住居を黒服の集団が襲撃した事件。あの時初めて白井と対面した時の衝撃たるや……。
 ――と、それはこの仕事を終えてもう一度修治さんの前に立ってからのお楽しみということにしておきまして。
 ……であれば、いま目の前でこの地区の鬼の外見的特徴を並べ立てている男も、あの集団の一員ということになるのだろうか?
「最後に、大人とは思えないほど小柄な女性、ですね」
 五本目を越え折り返しに入った右手の薬指を立ち上げながら、男は最後の一人の紹介を終えた。紫村を最後に持ってきたのは、彼女一人だけが夜行ではなく陰だから、ということなのだろう。戦闘要員である夜行に比べれば警戒する必要が薄い、というのもあったのかもしれない。
 ――もしかしたら、ただそういう趣味だってだけなのかもしれませんけどね。
「随分と個性的な方達なんですね」
 されるまでもなく知っていた説明を受け、黒淵はそう言って男に笑い掛ける。自分の格好を顧みる気はさらさらない。
「それで、職業だと仰いましたけど。どんなお仕事なんでしょうか? 鬼っていうのは」
 続けてそう尋ねもしたところ、男は躊躇いもせずにこう答えるのだった。
「簡単に言えば警察です。悪い人を捕まえて牢屋に――いえ、鬼ですからね。地獄に連れて行ってしまう人達です」
「悪い人を? じゃあ、その鬼を避けている貴方も悪い人なんでしょうか?」
 男は躊躇いもせず、それどころか笑みを浮かべさえしながら、こう答えるのだった。
「はい」
 黒淵は、笑みを浮かべ返した。
「でしたら、代わりにわたくしが貴方を捕まえても問題はないですわね?」

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