――成程。たまたまこの廃病院を訪れていた肝試し客、なんてことではなかったというわけですね。
 宣戦布告を受け、男は目の前の女性が一般人でないことを理解した。先程の会話では鬼のことを知らない素振りを見せていたが、あれはただ知らない振りをしていただけなのだろう、とも。でもなければ、「警察のようなもの」という説明の直後に「ならば自分がその警察の代わりを務めよう」などという発想に至るわけもない。
 そして鬼のことを知っているのであれば、同様に修羅のことも知っている筈である。目の前の自称悪者、つまりは自分が修羅でないとする判断材料は、なんせ自分にそれを否定するつもりが全くない以上、これまで一つも出てきてはいない筈。ならば彼女は修羅を相手にすることを躊躇しない人物――つまりは鬼か、そうでなくとも鬼と同様の何かなのだろうと、そう考えることに不自然はなかったことだろう。
 なので男は、宣戦布告に次いで一歩ずつ歩み寄ってくる黒淵については「そのつもり」で迎え、ならば当然反撃や回避、場合によってはこちらから先に手を出すことまで含めた、いたゆる臨戦態勢というものを取っていた――。
 つもりだったのだが、
「――――っ!?」
 彼が黒淵から手を出されたと認識できたのは、視界に空しか収まっていないこと、そしてそのことから、自分がアスファルトの上で仰向けになっていると気付いた後のことだった。
「今、何が……?」
 口にしながら起き上がってみて二度驚く。さっきまで自分がいた位置に黒淵が立っている――歩み寄ってきた以上、それは当然のことなのだが、しかし自分はそこからおよそ十メートルほども離れた位置にいた。つまり彼はただ倒されただけでなく、それほどの距離を吹き飛ばされていたのだ。反応どころか認識すらできないほど一瞬のうちに。
「ただ押しただけですわよ?」
 そんな返事が聞こえてから気が付くに、彼女は男のすぐ横に立っていた――そして彼は、またしても「ただ十メートルほど押し飛ばされる」こととなる。
「くっ……!」
 今度は倒れず、ガリガリと靴底をアスファルトに擦り付けながら何とか踏み止まりはしたものの、しかしそれで何かがどうにかなるというわけではもちろんない。こちらからはまだ何もしていなかったが、とはいえ最早そんなことをするまでもなく、自分と彼女にどうしようもないほどの力量差があることは明白だった。
「…………」
 ――押しただけ?
 どうしようもないということで、少なくとも「素直に戦いを挑む」ことに諦めがついたところ、彼の中にある違和感が浮かび上がる。
 十メートルも吹き飛ばされ、そしてそれを二度繰り返した割には身体には大したダメージがない――いや、もちろん全く痛みがないというわけではないのだが、しかし動くのに支障があるほどではない。ただ、その「押された」であろう箇所がずきずきと痛みを発しているだけである。
 ならばつまり、彼女は本当に「押しただけ」だったのだろう。もし彼女が真っ当な打撃を加えるつもりでいたのなら、二度目すらなく自分は昏倒させられていた筈だ。――と、彼はそんなふうに考えた。
 ともなれば、彼女はどうしてそんなことを? という疑問もそれに続いて浮かんでくる。
「……嫐りものにでもするおつもりなのでしょうか?」
 鬼に代わって自分を捕まえる、という彼女が掲げた目的からは、それは実に掛け離れたものだったのだが……しかし、だからこそそれくらいしか思い付けない、というところでもある。掲げた目的から外れない限り、彼女が自分に手心を加えることなどあり得ないのだ。
 それに対して黒淵はというと、
「ええ」
 実に愉しそうに口元を緩ませ、歪ませながらそう返しつつ、今度は一歩ずつ一歩ずつ、自分で作った彼との十メートルをゆっくりと詰めてくるのだった。
 では、それに対して彼はというと。
「ふふふ、そういうのも嫌いではありませんけどね」
 黒淵と同じような笑みを浮かべ、抵抗はもちろん逃げる素振りすらも見せないまま、彼女の接近を許すのだった。
 黒淵の足が止まる。
「あら、怖がっては下さらないんですの? つまらないですわね」
「怖がるだなんてそんなこと。どんな形のものであれ、女性からのアプローチは喜んで受け入れるのが男の務めというものでしょう? それも貴女のような美しい女性となれば尚更に」
 そんな言い分に黒淵は眉をしかめる、どころか顔のパーツ全てを使って嫌悪感を露わにしてみせるのだが、しかし彼はそんなことを気にも留めない。何か思い付くことがあったのか、弾んだ口調に加えてパチンと指を鳴らしすらしながら、「そうだ」と。
「私、鰐崎わにざき紳一しんいち と申します。美しいお嬢さん、宜しければお名前をお聞きしても?」
「これはどうもご丁寧に。わたくしは黒淵芹といいます」
 自称とはいえ「悪者」である彼、もとい鰐崎に対して律儀にも名乗り返す黒淵だったが、しかしその顔には未だ嫌悪感が満ち満ちている。ならばどうやら相手をいたぶる趣味の時間はそろそろ終わりであるらしい。と、そう判断する鰐崎だったのだが、しかし。
 ――それにしても困りましたね。突き飛ばされた、つまりは病院から遠ざけられた距離が、二度の合計で二十メートルほど。この方を相手取ったまま詰めるには、これは相当大変な距離ですが……ん?
「ははは、なるほど。趣味だけでなく実益も兼ねていた、ということですか」
「ん? 何のお話でしょう?」
「貴女が私の想像以上に素敵な女性だった、という話です」
 ――このまま逃げるのも手かと思っていましたが、これは少々、頑張ってみたくなってしまいましたね。


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