「では黒淵さん。強行突破を試みさせて頂く前にひとつ、お尋ねしても宜しいでしょうか?」
「……そちらのお時間が宜しいのでしたら、いくらでも」
 ――まあそうですわよね、やっぱり。「こちら」ならまともな頭を持った修羅もいるかも、なんて思っていましたけど、修羅なうえに鬼の世話になるような人間だという時点でまともであるわけがありませんわよね。
 これから戦闘に入ろうかという時に呑気な質問を投げ掛けてきた鰐崎へは「まともではない」という評価を下しつつ――とはいえこれはその点だけでなく、それ以前からの言動もあってのことなのだが――黒淵は、断るほどの興味すらないといった風情で、投げ遣りな返事をする。
 地獄の一つ、「こちら」の言葉に言い換えるなら刑務所の一つを任されている黒淵にとっては、いっそそうでない人間に会うほうが珍しいというくらい、まともでない人間は見慣れたものだった。収監されているのが全員犯罪者なのは当然として、そこに勤務している鬼達もまた、例えば「サドの変態共」と蔑まれるような者達ばかりなのだ。
 自分も同等の力を得ているとはいえ、そうでもなければ人外の力を手にした修羅達の面倒を見たがるわけもない――という背景がないわけではないにせよ、しかし黒淵は、日頃からそこに不満を抱いていた。
 地獄を出、「あちら」からすらも出てしまえば、何かがどうにかなって状況が変わったりするのではないか。今回の休暇にはそんな期待もなかったわけではないのだが、しかし現状、目の前に立っている合法的に痛め付けられる男は、結局のところまともでない人間だった。
 落胆と、そしてそれよりも深く黒い感情を胸中に抱かせる黒淵に対し、そのまともでない男は言う。まるで彼女を口説き落とそうとでもしているかのように、軽やかに。
「この地区の鬼ではなく、かといって鬼ではないのかといわれれば、間違えようもなくそういうわけではない。となれば貴女は、どこか他所の地区の鬼でいらっしゃるのでしょうか? しかしそれにしても、鬼は大体二人一組で行動するものだそうですが」
「他所の地区、ねえ。まあ、他所といえば他所ですわね。違うのは地区というより管轄ですけれど」
 話を長引かせたいというわけでは決してない、どころかその逆ではあるのだが、しかしただただ気乗りのしなさのみを以て、遠回しな言い方をしてしまう黒淵なのだった。そしてもちろん、それが彼女にとってのベストから真逆の行動だというのは言うまでもない。
 一方、あからさまに不機嫌そうな黒淵をよそに、男は照れくさそうな笑みを溢しながら言う。
「恐縮ながら、私あまり鬼の組織体系には詳しくありませんでして……。鬼が夜行と陰に分けられるのは承知しているのですが、それは管轄がどうのという話ではありませんよね?」
「ええ。夜行だ陰だの括りで言うのなら、わたくしは獄卒ということになりますわね」
「獄卒」
 単語自体は「こちら」にも存在するものではあるが、しかし鬼に関連する単語として耳にしたのは初めてだったのだろう。たったの四音ながらも、たどたどしい口調で繰り返す鰐崎だった。
「簡単に言えば刑務官ですわね。地獄で犯罪者どもをいたぶる仕事ですわ」
 自嘲気味に説明を続ける黒淵。例えに出された刑務官が耳にすれば、それは訂正を求められるどころか激怒されてもおかしくない程に乱暴極まる説明だったのだが――しかし、それは飽くまでも自嘲なのだった。そして、
「そして、わたくしはその地獄の一つを任されている身でもあります」
 普段なら自慢げに語っているその話についても同様に……いや、それ以上に自嘲の度合いを引き上げて、口調だけでなく苦笑いすら浮かべて語ってみせるのだった。
「さあ、わたくしの話はこれくらいでいいでしょう。それで? そちらは何処の何方さまなのでしょうか?」
 話を長引かせたくないというのもあったし、そうでなくともここいらが区切りの挟みどころでもあっただろう。
 というわけでこちらから切り上げ、自分か訊かれたことを今度はそのまま訊き返す、という極々当たり前な行動に出た黒淵。しかし鰐崎はというと、難しい顔になって「ううむ」と、わざとらしいくらいに分かりやすく困った様子を取ってみせるのだった。
「悪人である私に大してやけに親切にお教え下さったと思えば……なるほど、こちらも丁寧に説明せざるを得ない状況を作った、ということなのですね?」
「…………」
 全くそんなつもりはなかった。
 し、そこは別に律儀になるところでもないだろう、とも。
 自分の身の上など教えたところで「あちら」の、しかも地獄の話である。悪用しようとしたところで「こちら」から何ができるというわけもなく、なので教えることを躊躇する理由が何もなかったというだけなのだった。
 そしてそもそも獄卒は、のみならず鬼は、その全てが一応は公務員である。立場を明かせと言われれば、それがどんな相手であっても説明を拒否するという選択肢は初めからありはしないのだ。……そういった枠組みとはまた別の話の心情的な話として、別の世界の公務員と言われても、といったところもないのではないのだが。


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