「しかし困りましたね」
 困って当然の場面なのだが、わざわざ大仰な身振りでそれを表現しながら男は語る。
「出自を明らかにすること自体はやぶさかではないのですが、私が所属している団体というのが、明らかにしようにも特定の名称が付いていないのですよ。皆さんただ単に『組織』だとか、『私達』だとか……しかも私が今回ここを訪れさせて頂いたというのも、どうやらその団体からは外れた思惑からのことのようでして」
「そうですか」
 団体に名称がないこと。少なくとも団体と呼べるほどの人数を抱えた集団であること。今回自分が団体の思惑から外れたところで行動し、あまつさえ危機的な状況に陥っていること。何より、それらの口を噤むべき情報を、困った様子ではあるものの何の躊躇いもなく話してしまう鰐崎に対して呆れを感じない黒淵ではなかった。
 が、しかしその内情に反して、口から出た返事は平坦なものだった。何故ならば、
 ――別に珍しいことでもありませんわね。犯罪者、特に修羅なんて方々の中では。
 そんな事例は獄長という立場柄これまでに幾つも、幾らでも見てきたからである。
 勿論、犯罪者の全てがそうした、言ってしまえば「適当」な性格をしているというわけではない。そうではない者も、逆に几帳面な者も普通にいる――その几帳面さが犯罪者足らしめている場合も――のだが、しかしやはり、どうしても「自分が既に死んでいること」、そして「修羅として人並み外れた力を持っていること」が、そういった傾向を引き上げてしまうらしいのだった。
 少なくとも「こちら」においては、何をしたところで故人である以上追わされる責任は何もなく、そして鬼に出会いさえしなければ、障害となるようなものも何もない。ならば、「そう」なりがちだというのも理屈では分かる……のだが、
 ――虚しくならないんですかしらね。自分の人格が状況に流されて出来たものだなんて。
 ――……まあ、なら生得的なものは上等なのかと言われたら、そうでもないんですけれど。
「さて」
 自分にこそ虚しさを感じ始めたところで、黒淵は空気を改めに掛かる。
「言えることがないと仰るのなら、そろそろ初めてしまいましょうか。むしろ時間を掛け過ぎているくらいですし」
「それはそれは恐ろしいことで」
 という言葉に反して特に危機感を覚えてもいなさそうな笑みを浮かべる鰐崎に対し、黒淵は一歩ずつ歩を進め始める。
 態度の上では余裕がありそうな鰐崎だが、実力差については先程起こった、というか起こした通りなのだろう。なんせやろうと思えばあの時点で始まる前から戦闘を終了させられてもいたわけで、ならば鰐崎としては、あの二度の「押し」は絶対に回避しなければならないものだったからだ。手を抜いてみせた、というようなことは、ならばあり得はしないのだろう。
 であれば、あと彼について警戒すべきは未だ見せていない鬼道だけである。
 もちろん、何が飛び出すか事前には全く分からない以上警戒のしようがないというのが鬼道でもあり、そしてだからこそ、圧倒的な実力を持つ黒淵が警戒を怠れないでもいるのだが――。
「しゃあっ!」
 これまでにない勢いと声量で鰐崎が吠える。少しずつ詰めていた距離は、しかしまだ握った拳が届くまでには至っていない。
 拳が届かない筈の距離にいる黒淵の目前に、しかし猛烈な勢いで「何か」が迫っていた。鰐崎の身体――首の辺りから突き出てくるそれは鋭く、そしてその速度もあり、そのまま進めば黒淵の右肩を刺し貫くことになるのだろう。
 ……というところまで、黒淵には見えていた。
「何か」が黒淵の肌に食い込み、そのまま肉を刺し貫く。そしてその時点で、その鰐崎の身体から出てきた「何か」が、鰐崎の身体そのものだということまで見えた。
 ――身体の一部を針だか槍だかのように伸ばす鬼道、ね。ふん。
 右肩を庇い、代わりに刺し貫かれた左手。黒淵はその貫かれたままの左手で鰐崎を槍ごと振り上げる。
 そんな暇がなかった、ということなのだろう。受け身どころか悲鳴すら上げることなく、肉体的にも精神的にも無防備なまま宙を舞い、アスファルトに叩き付けられる鰐崎。
 これで終わったならそれで良し。そうでなくとも叩き付けられた姿勢のまま無防備を晒し続けている以上、止めを刺すのは容易――かに思われたのだが、しかし黒淵は動かない。
 そうしているうちに、鰐崎の槍が収縮を始めた。貫かれていた左手から引き抜かれ、そのまま首の辺りへ何事もなかったかのように収められていく。
「いやあ、これは益々困った。死んだふりもお見通しですか」
「ふりも何もとっくに死んでるでしょう、貴方もわたくしも」
 叩き付けた際の感触に違和感があった。鰐崎は無防備だったはずだが、何か……アスファルトと鰐崎の間に、クッションになるような何かが挟まれていたような。
 もちろん、それが何だったにせよ鰐崎が全くのノーダメージだったというわけではなく、立ち上がる際には若干ふらついてもいたのだが。
 それでも何とか立ち上がり、体制を整えた鰐崎は言う。ここでもやはり、緊張感のない声で。
「本当に恐ろしいお方だ。何度か見た後ならともかく、最初の一手に『自分から刺されにいく』なんて選択が出来てしまうだなんて」
「お褒め頂いて光栄ですわね。それで? 服の下にでも何か仕込んでらっしゃるのかしら?」
「ええ、それはもう。見てから反応、対応できる貴女と違って、私なんかでは予め準備しておく程度のことしか……」
 鰐崎がゆっくりと両手を上げ始める。
 服の下。もぞり、と何かが動いたように見えた。
「できませんでしたがね!」
 次の瞬間、前方へ突き出すような格好になった両手やその服の下から――どころか、頭の先から爪先に至るまでの鰐崎の全身から、大量の「槍」が四方八方へと突き出された。


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