第五章
「油断大敵。してなくても失敗したらそう言われちゃうもんだよねえ」



「それにしても、可笑しな戦いですよねえ」
 愛で世界を救う。それを成す為には、どんな手段を使ってでも世界を救った後に、「全ては愛ゆえの行動だった」と宣言すればいい。
 そんな可笑しなことを言い放った直後に、それとは別のことを笑い飛ばしてみせる鰐崎だった。
「それこそゾウとアリに例えていい程の実力差――いえ、こんなにも美しい女性をゾウに例えるのは気が引けますけどもね。だというのに貴女は私の話などに付き合ってくださり、加えてご自分からもお話をして下さって、その結果一瞬で終わる筈のものがこうも長引いているわけですし」
 それは確かにその通りなのだろう。終わらせようと思えば一瞬で終わらせられていたことを否定するつもりは更々ない黒淵だったのだが、しかし当然、特に何の考えもなしに長引かせているというわけではない。
 ――そうすることに面白みがある男だというならともかく。
 と、ついつい出てきてしまう余計な話は苦々しく噛み潰しておくのだが。
「そう思ってらっしゃるのなら、それこそ無駄口を叩いていないで今すぐ後ろの病院に向かったらどうなんですの?」
 黒淵は問い返す。唐突に「愛で世界を救う」などと語り始めたせいで、結局のところ鰐崎が今回ここ、灰ノ原と桃園の住処である廃病院を訪れたのかはまだ聞き出せていないでいる。しかしどうあれ、そこが目的地であることには違いないだろう。
 そして鰐崎は今、その目的地に背を向けている。無論、自分より遥かに実力が上である黒淵から注意を逸らすわけにはいかない、というのもあるのだろうが……しかし、彼のそれはそういった状況に即してのものではなく、興味や関心といった心情の部分からして、病院よりも黒淵にこそ惹かれているように見えた――「見えた」黒淵からすればそれは、いっそ「見えてしまった」と言っていいほど気色の悪いものだったのだが。
 そしてその気色の悪い見解は、残念ながら的を射てしまっていた。
「まさかそんな勿体ないこと。美しい女性に興味を持って頂いておきながらそれを袖にするなど、私にはとてもできかねます」
「…………」
 寸でのところで舌打ちを止める黒淵だった。そして彼女のそんな様子には構うことなく、鰐崎は再び語り始めてしまう。
「こんな言葉はご存知ですか? 黒淵さん。『愛の反対は無関心である』というフレーズなのですが」
「聞いたことくらいは」
「それが正しいとするならば、逆に『愛とは関心である』とも言えますよね?」
「…………」
 いや違うんじゃないか、とは言わない。語りたいのであれば語らせればいいのだ。たとえ、進んで耳を傾けたいわけでなくとも。
 気分が乗ってきたのか、黒淵への警戒はどこへやら大仰な身振り手振りを添えて鰐崎はこう続ける。
「ならばつまりつまり、黒淵さんに関心を持つ私は黒淵さんを愛していることになりますし、そんな私の話を聞きまた私に話をしてくれもした黒淵さんもそれと同様、私を愛してくれているということになります」
「…………」
 今自分はどんな顔をしていることだろうか。問い掛けでなく断言する形でそんなことをのたまった鰐崎に対し、顔の筋肉の強張りを感じ始める黒淵だった。
「そして私は先程こんなふうにお聞かせしました。愛に世界を救う力はありませんが、ならば愛は無力なのかと言われればそんなことはない、と。では黒淵さん、愛の力とは一体どのようなものだと思いますか?」
「さあ。そもそも愛というものの定義からして、わたくしと貴方では随分な差異があるようですし」
 鰐崎によれば愛そのものであるらしい関心を、一切持つことなく言い返す黒淵。しかし当の鰐崎はそんな黒淵をビシリと指差し、「そう!」と声を大にし始める。
「愛に決まった形などはなく十人十色の千差万別! 今言った『関心』すらもその一つでしかない! 素晴らしいですよ黒淵さん! そんなことも分からない人間が世の中には大勢いるというのに!」
 勿論ながら、黒淵の言葉にそんな意味合いは含まれていなかった。
 というようなことを伝える気もまた、一切持てなかったのだが。
「……決まった形がないと仰るのなら、その愛の力というものにも『これ』と定義できる形はないのでは?」
「大部分においてはその通り! しかしとはいえ『愛』という一つの単語で表される以上、共通項となる部分もまたあるのです! そしてそれこそが、私が求める愛の力なのですよ!」
「で、その愛の力というのは?」
 引き続き、関心はまるでない。しかし放っておくと「それは何か?」と質問されることになるのは目に見えていたので、その回避策として自分から尋ねることにする黒淵だった。回避して何か意味があるかと言われれば、全くありはしないのだが。
「手元に置く! 遠くから見守る! どんな形であれ、愛してやまない『何か』をその『何か』のままでいさせようとする強烈な欲求!」
 そしてあちらのほうは相変わらず黒淵の様子をまるで気に掛けない――が、しかし鰐崎、ここで手振り身振りを取り止めたかと思うと、
「……つまり愛の力とは、現状を維持しようとする意思の力なのです」
 大にしていた声量を落とし、しかしそれまで以上に力を込め、まるで聞き手である黒淵の耳に植え付けるかのようにゆっくりとじっとりと、そう語り聞かせてくるのだった。
「故に維持の真逆、『世界を救う』という大変革には釣り合いません。救った後の世界を維持することにこそ、愛はその力を発揮できるのです」
 ――成程、何の考えもなく愛だ愛だと喚いているわけではありませんのね。
「よく分かりましたわ」
「おお、ご理解いただけましたか」
 ――理解。考えがあったからといって、ならそれを理解出来るのかと言われれば、それはまた別の問題なんですけれど。
「分かりましたので、貴方には地獄に行ってもらいますわね」

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