――できればもう少し、お話をしていたいところだったんですがね。
 黒淵に戦闘を終わらせに掛かる意思を見せられると、鰐崎もさすがに呑気に構えてはいられなくなる。
 とはいえ、戦闘に関してはともかく合間合間の遣り取りに関しても彼自身は大真面目であり、なので「気を引き締める」というよりは「戦闘一本に集中する」という形での意識の切り替えではある――が、しかし悲しいことに、黒淵との実力差の前ではそんな些細な違いなど何の意味もありはしないのだろう。意識を切り替え何をどうしたところで、勝ち目は依然としてゼロのままだとしか思えなかった。
 勝ち目がない。しかしそれは、鰐崎からすれば大した問題ではなかった。なにせ――
 ――勝つ必要など初めからありはしないんですからね!
 黒淵がこちらへの一歩を踏み出したのと同時に、鰐崎は再度鬼道を発動させた。先程黒淵を飛び越えたのと同様、全身から四方八方へと槍を射出し、うち一本を支点に病院へと移動する。
 もちろん、二度同じ手が通用する相手だと侮っているわけではない。しかしこの方法なら黒淵はまず自分へ向けられた槍一本を回避せねばならず、そして槍を支点に本体を引っ張っての移動である以上、止めなければならないのは本体よりもその支点となる槍であり、そしてどの槍を支点とするかは後からいくらでも変更可能である。以上の理由から黒淵にこの移動を止めるのは不可能、とは言わないまでも極めて困難だろうと鰐崎は判断した。
 そしてその判断は功を奏し、鰐崎の足は無事に地面を離れた。その時点で黒淵はまだ、自分へ向けられた槍を回避したところから動けないでいる――槍を引き戻そうとし、しかしその前に無駄だと察して諦めていた前回の跳躍時のことを思えば、今回も何かしようとして同じく諦めた、ということなのだろう。
 ――いとも容易く私の鬼道を避けてみせ、そのうえあの様子とは……つくづく恐ろしいお方だ。
 高速で黒淵から遠ざかりながら、つまりは安全圏かつ目的地への移動を達成させながら、しかし鰐崎の胸中は黒淵への畏怖に満たされていた。
 何かしらの手を思い付き、しかしそれは無駄であると実行前に気付き、諦める。結末こそ本人にとって芳しくないものであれ、自分を刺し殺しに向かってくる槍を前に、人はそこまで冷静な判断ができるものなのだろうか?
 もちろん、と言ってしまっていいのだろう、そんなことは在り得ない。例え既に死んでしまった身であっても、それはただ「これ以上死ぬことはない」というだけのことなのだ。幽霊になっても痛いものは痛いし怖いものは怖い。
 であればつまり、黒淵にとっては鰐崎の槍など「気にするまでもなく避けられる程度のもの」でしかない、ということなのだろう。意識のひとかけらもそちらへ費やすことなく、どうすれば自分の跳躍を止められるかだけを考えていた、ということなのだろう。
 そして逆に、気にした場合の結果は「わざと刺されて掴んでぶん投げる」であった。
 ――…………。
 前述の「痛い」も「怖い」も、意思力で抑え込めるほどの時間的余裕。油断などない全力の攻撃を始めてから、それが黒淵に到達するまでの時間。その二つをイコールにされてしまっていたという事実と、そしてそれすら彼女にとっては慎重に過ぎた悪手でしかなかったというもう一つの事実に思考が及んだところ、畏怖すら飛び越えこのまま黒淵の傍に留まりたいとすら思う鰐崎なのだった。
 が、とはいえさすがに、与えられた任務を放棄するほど無責任な人間であるつもりはない。
 という鰐崎の自分への評価は、しかし恐らく口にしたところで周囲の人間からは信じてもらえないことだろうが。
 ――それに、もう一つ。
 もう一つ。黒淵に入れ込み過ぎてはいけない理由、一人の女性を頭に思い浮かべながら、鰐崎は名残惜しさを込め改めて視線を黒淵へと向けた。
 そしてその直後、彼はそんな感傷に浸っている場合ではなかったことを思い知らされることになる。
 黒淵は笑みを浮かべていた。それも出会った直後の柔和なものではなく、歓喜に、興奮に、そして残虐さに満ち溢れた、極めておぞましい――敵でありながら黒淵の何から何までを肯定してきた鰐崎ですらおぞましいと思うような、それはおよそ人が人に対して浮かべていいものではない笑みだった。
 緩んだ形に強張った口元が動く。そうしている間にも二人の距離は離れ続けており、なのでその呟きが鰐崎の耳に届くことはなく、そして同じくその距離故に口の動きから何を言っているか判断するのも困難であったが、しかし何より、その邪悪な笑みが雄弁に語っていた。
『捕まえた』
 ――諦めたんじゃない! 既に何かされている!
「ぐあっ!?」
 逃げられてなどいなかったと自覚したその瞬間、鰐崎の身体にある変調が襲い掛かる。槍に力が込められなくなり、支点としていたものを含め全ての槍が引っ込んでしまう。ならば当然鰐崎の跳躍は勢いを失い、そのまま地面へと墜落。そして両足での着地どころか受け身すら取れず、無様に土の上を転がり――。
「ぐっ、がっ、あああああああああっ!!?」
 鰐崎に襲い掛かり、彼を地面に叩き落したのは、猛烈な痛みだった。
 両足の激痛。槍に引かれて飛ぶだけの移動であれば足が痛んだところでどうということはない筈なのだが、しかしその度を超えた強さのみをもって、この激痛は鰐崎の足だけでなく全身の自由を奪っていた。
 何が起こったのか。黒淵は槍を回避しており、足どころかその槍にすら触れてはいなかった――点滅するかのような途切れ途切れの意識で鰐崎はなんとかそんな疑問を持ち、その痛みに痛む自分の両足を見遣る。
 そこにはちゃんと、傷一つ追っていない自分の両足があった。……ただし、まるでそこだけ光が避けているかのようにその両足は真っ黒、いや真っ暗に染め上げられていたのだが。


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