――頭のおかしい男を相手にしてもつまらない、なんて自分に言い聞かせてみても――。
 地に落ち、自分の両足に起こった異変に目を、そして意識をも白黒させている鰐崎にゆっくりと歩み寄り、木々の影の中から日向へとその身体を晒し出しながら、黒淵は自らの現状を推し量る。
 ――たまりませんわね、やっぱり。
 激痛に身を悶えさせる男。黒淵にとってそれは、この上なく「そそられる」ものであった。
 それを理由に彼女は鬼となってそのための力を得、加えて同様の理由から「こちら」で活動する夜行や陰ではなく地獄で活動する鬼、獄卒となる道を選び、そしてその才覚から獄長にまで上り詰めたのだった。
 が、しかし一つだけ、彼女はそれに反するものを抱えてもいる。
「鬼道……! 私としたことが……!」
 両足を襲う激痛からか、声を張らせて鰐崎が呻く。口を開いたことでその苦悶に満ちた表情に更なる歪みが生じ、ならばそれは一層、黒淵を悦ばせることになった。
「うふふ。やっぱり、頭の片隅にもなかった感じですかしらね? まあでも仕方ありませんわよ、そういう方も珍しくはありませんし」
 鬼と修羅の戦闘において、鬼道は戦局に極めて大きく作用するものである。が、しかし元の実力にどうしようもないほどの差があると、そちらにばかり意識が向いてしまい鬼道が意識の外に追いやられてしまう、というようなことは度々起こるものなのだった。
 もちろんそれは「起こさせる側」である黒淵の見方であり、「起こさせられる側」からすれば、度々も何も二度目以降などありはしないのだが。
 そして、そんな遣り取りをしている間に黒淵は鰐崎のすぐ傍まで辿り着く。自分の足を見ていた鰐崎は気付いたことだろう、黒に染め上げられた両足からは遮蔽物もなく降り注いでいる太陽光を無視して影が伸び、そしてそれが、黒淵の影と繋がっていることに。
 黒淵の鬼道、シャドウオブサディスティック。一度見ればおおよそ見当が付く通り、それは自身の影をその効果範囲とするものなのだが――しかし今は、そんな「見ればおおよそ見当が付く」ようなことを呑気に説明するような場面ではない。
「さて? それだけお元気ならもう少し『伸ばして』も大丈夫ですわよね? なんせ、わたくしは貴方を無力化して連れて行かなければならないのですから」
 苦痛に歪む鰐崎とはまた違った形にその顔を歪ませながら、黒淵は言う。
 するとその言葉に追従するように、鰐崎の足を覆い尽くしていた「黒」が、段々と鰐崎の身体を上り始めていった。
「ぐああああああっ!」
「鬼道なんて、最後の一押しに使うくらいが丁度いいものなんですわよ? 最初から使ってしまったら、その一度で仕留めてしまわない限り、相手はいくらでも対応策を考えられますもの」
「黒」の範囲、つまりは激痛を発する範囲がどんどん拡大されていき、鰐崎は悲鳴を上げる。しかし黒淵はそれに構わず――いや、大いに構いながら、構っているからこそ、それには触れずにズレた話題を持ち掛け始める。
 しかしもちろん、鰐崎にそんな話を聞いている余裕などあるわけもない。黒淵の声が掻き消されてしまうほどの悲鳴を上げ続け、そして肩の辺りまで染め上げられる頃には、その悲鳴すら尽き掛けていた。
 ――終わり方くらいは普通でしたわね。
 自分を悪者と称し、敵である黒淵を肯定し続けていたかと思えば、唐突に愛で世界を救うなどと宣い始めたりもした鰐崎。そんな彼に対するその言葉が称賛なのか批判なのかは、黒淵自身にも判然としないところであった。
 しかしどうあれ確保は完了、あとは白井達の元へこの男を引きずっていくだけである――。
「貴女は……」
 ――あら、しぶといこと。
 鰐崎が口を開いた。もちろん今でも鬼道による激痛が全身を襲っている筈であり、なので悲鳴すら上げられなくなった今では、その声は実に弱々しいものであった。
 その弱々しい声で、鰐崎は問う。
「こうして人を……人を、痛め付けるのがお好きなんですよね……?」
 黒淵は口を歪めてこう返す。
「ええ。とっても」
 すると鰐崎は、激痛の中にありながら小さく笑んでみせた。
「でも貴女は、そんな自分を愛せないでいる」


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